上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

再びアクアマリンパーク

デザイナーズ大漁旗アクアマリンふくしまを出て「ら・ら・ミュウ」の駐車場に戻る為、再びアクアマリンパークをブラブラと歩いていくと、前の小道にはなにやら「絵のぼり」のようなものがずっと立っています。
広げてみると何と大漁旗でした。近くにデザイナーの紹介があります。


大漁旗デザイン展 招待作家部門
上嶋秀俊 教諭/美術家
1966年 北海道小樽市生まれ 東京造形大学卒業
2003 グループ展「Cafe Rhizome」(小樽)
2005 「エロティック作品展」(札幌)
2007 第90回白海会08・DG展(市立小樽美術館)
2008 上嶋秀俊絵画展「Sleep Swim Sea」(札幌)
2009 上嶋秀俊絵画展(小樽)
小名浜国際大漁旗デザイン展』(現地案内板より)

これは先の館長の小名浜国際環境芸術祭「魚の自画像展」と何か関係があるのでしょうか。
正式には「2009小名浜国際環境芸術祭」というもので、 「アクアマリンふくしま」主催で小名浜港を舞台に展開するアートイベントです。
これは平成15年小名浜で開催された環境芸術学会をきっかけに文化意識を高める活動としてスタートしたものだそうです。
今年のスケジュールは2009年9月12日(土)~11月15日(日)までで、ちょうど今日から始まったのですね。

プログラムは、
■魚の自画像展(アクアマリンふくしま2階スロープ)2009年9月12日(土)~11月15日(日)
■大漁旗デザイン展(アクアマリンふくしま 小名浜港屋外会場)2009年9月12日(土)~11月15日(日)

『主旨:
今日、蛋白源の確保のために、沿岸でいかにして持続可能な漁業を維持するかが大きな課題となっています。そのシンボルとして「大漁旗」をクローズアップし、漁業の町小名浜から大漁旗をテーマとしたデザイン展を開催することにより、「持続可能な資源の利用」という今日の漁業の重要なメッセージを発信します。そして勇壮な大漁旗のアート性を全国に、さらには世界に広めていきたいと考えます。
概要:
大漁旗をモチーフに小名浜発のアートコンペとして2007年よりスタートいたしました。「大漁旗」をアートやデザインの観点からとらえ、現代版の大漁旗として新しいジャンルを確立します。国内外から集まる作品を厳選なる審査のもと、グランプリを決定し、入賞した作品を実物大に製作して小名浜港に展示します。優雅に舞う現代版大漁旗をお楽しみ下さい。

国際大漁旗デザイン展~招待作家部門~
様々なジャンルで活躍しているアーティスト、デザイナーによるオリジナルデザインの大漁旗作品が小名浜港の風になびきます。
招待作家(順不同・敬称略)
高須賀昌志(美術家/埼玉大学教授)
橋本学(木造形家/新潟大学教授)
上嶋秀俊(画家/小樽市中学校教諭)
草野怜子(画家)
木村啓太(画家)
市川健治(イラストレーター)
岡優太郎(グラフィックデザイナー)
加藤君平(グラフィックデザイナー)
伊藤隆治(環境アートディレクター)
安部義孝(アクアマリンふくしま 館長)』(アクアマリンふくしまオフィシャルサイトより)

■海からの贈り物「シーボーンアート展」 9月19日(土)~11月15日(日)

『海辺の漂着物を利用したランプシェードなどのアート作品を展示します。また、ペットボトル約1000本を利用したシーラカンスのオブジェを製作します。
協力:NPO法人日本渚の美術協会』(アクアマリンふくしまオフィシャルサイトより)

■キッズアート展「アクアマリンふくしまに石の水族館をつくろう」 9月26日(土)~11月15日(日)

『水生生物をイメージしたストーンペイント作品を募集し、アクアマリンふくしまの入口前に展示します。』(アクアマリンふくしまオフィシャルサイトより)

■アクアマリンふくしま芸術の丘 9月26日(土)~11月15日(日)

『金属造形作家・日比淳史氏の作品(現在、当館の入り口に展示されているシーラカンス発見記念のシンボルモニュメント「進化の時空間」を含む4作品)を屋外の芝山に展示する。
○日比淳史について
現在まで多くの個展を開催し、テレビ番組オブジェクト制作など、多方面で作品を発表し活躍中。
日比淳史-HIBI,Kiyosi(金属造形家)
略歴
1965年 誕生
1990年 藤野金属賞受賞
1991年 東京芸術大学工芸科(鍛金)卒
       あかりのオブジェ展 審査員長賞受賞
1993年 東京芸術大学大学院(鍛金)終了』(アクアマリンふくしまオフィシャルサイトより)

というようにこれからも多彩なプログラムが組まれているようです。10月に来るとすべてを見ることができますね。
気持ちの良い場所で、これからは気候も良いので、文字通り環境の良い中でのイベントです。

ここからは最後に前回見られなかった「ヒストリカル・ビアパーク」に向かいます。
ちょうど遊覧船の発着場とそのターミナルビル(ら・ら・ミュウ)に囲まれた広場です。前々回行った後に知ったのですが、ここには船が埋められているとのことで、今回は是非見たいと思ってきてみました。

ヒストリカル・ビアパークヒストリカル・ビアパークこの楕円の半円に囲まれたレンガの部分が船の船体の一部だそうです。
【右の地図は現地案内板から】


『小名浜港は、延享4年(1747)に江戸幕府の代官所が置かれ、磐城各藩の納付米を江戸に積み出したことにより、港の基礎が築かれました。
本格的な港の整備は大正7年の漁港修築工事が始まりで、昭和2年には第2種重要港湾に指定され、昭和4年から昭和13年まで第1期港湾修築工事として港の整備が行なわれました。しかしながら、国の財政事情により計画の一部を縮小せざるを得ませんでした。更に、昭和16年から第2期港湾修築工事に着手しましたが、戦争の混乱と財政の悪化により工事を中断したため、防波堤や防砂堤施設は不完全で、風や波による災害が頻発しました。
戦後の混乱期を迎え、食糧や物資輸送ルート確保のための港の整備が要求され、小名浜港においても、漁獲物を揚げる漁港の整備と石炭エネルギー輸送のための、第3期港湾修築工事が昭和21年から昭和28年まで行なわれました。
当時の港の整備は、不完全だった防波堤や防砂堤を完成させるのが急務でしたが、財源が乏しくコンクリートや骨材などの建設資材も不足していたため、艦船を海底に沈めるという手法(沈船)による整備が計画されました。
昭和23年4月1~2日に、駆逐艦「澤風」が漁港市場前に、引き続き8月25日には駆逐艦「汐風」が波浪及び漂砂対策として現在地に沈められたのです。
昭和26年1月には、重要港湾の指定を受け、本格的な石炭輸送のための港湾整備が進められ、沈船(汐風)が岸壁の基礎として第2の役目を担うこととなり、昭和32年6月に待望の1号埠頭が完了したのです。
戦後日本の経済発展とともに、小名浜港は工業港として整備が進められ、取扱貨物量も驚異的な伸びをみせました。しかし、近年になって船舶の大型化や港湾機能・流通機能の変化に加え、市民に親しまれるウォーターフロントとしての港の役割が求められるようになり、整備の転換が図られることとなりました。
「沈船防波堤」となった駆逐艦「汐風」は、大正10年7月29日に舞鶴工廠で竣工して以来、戦後日本の再興そして高度成長を支える重要港湾の礎として、第2、第3の役割を果たしてくれました。
ここに、これまでの小名浜港の発展に貴重な役割を果たした、沈船防波堤の歴史を残すものとします。』(現地案内板より)

こういったストーリーは日本人にとっては意外と感傷的になったりするものです。それが例え船であっても犠牲的な行動は喝采されるものです。
恐らくそういった気持ちからこのような顕彰をしようと考えられたものでしょうね。

さて、ここで言っている沈船ですが、一般的に老朽化した船などを漁場とする場合に意図的に沈められるケースはありますが、大規模に意図的に行なわれた沈船の例としては、日露戦争の旅順港閉塞作戦が挙げられます。
旅順港閉塞作戦とは、1904(明治37)年2月からの日露戦争において、大日本帝国海軍が行ったロシア旅順艦隊の海上封鎖作戦です。
日露戦争における旅順港のロシア太平洋艦隊は日本にとって大きな脅威であり、これを撃滅することが重要な課題でした。
そのため日本海軍は洋上作戦を仕掛けたが、ロシア艦隊はバルチック艦隊の合流まで旅順港にじっと閉じこもっていたのです。業を煮やしたに日本海軍は陸上からの攻撃を試みたが、今だ203高地が落とせない為距離がありすぎる。 そこで考えたのが「閉じこもっているなら一層のこと出られないようにしてしまえ」という作戦、所謂、これが旅順港閉塞作戦なのです。
こうしておけばバルチック艦隊が合流しようにもできずに、海上は海軍がバルチック艦隊のみに注力すれば良く、旅順港は陸軍が陸から攻略するというわけです。方法は老朽船舶を旅順港口に沈めてしまう文字通りの沈船です。

閉塞作戦は三次に渡って実行されました。
第一次閉塞作戦は2月24日未明5隻の老朽船と77名の志願兵を集めて決行されましたが、旅順のロシア軍の激しい砲撃のため作戦は失敗しました。
第二次閉塞作戦は3月27日未明に4隻の閉塞船を投入して実行されましたが、ロシア側に察知されてやはり失敗しました。この作戦において閉塞船福井丸を指揮し戦死した広瀬武夫少佐と、行方不明となった杉野上等兵曹の美談が後にクローズアップされ、広瀬武夫少佐は後に軍神と呼ばれたそうです。
そして、第三次閉塞作戦は5月2日夜に実施されましたが、天候不順と陸上砲台からの迎撃で中止されました。
こうして旅順港閉塞作戦は失敗という結果となりました。
このとき使用された閉塞船は以下の通り21隻です。

■第一次閉塞作戦
天津丸:有馬良橘中佐 他16名、報国丸:広瀬武夫少佐 他15名、仁川丸:斎藤七五郎大尉 他15名、武揚丸:正木義太大尉 他13名、武州丸:島崎保三中尉 他13名 (小計5隻)
■第二次閉塞作戦
千代丸:有馬良橘中佐 他16名 、福井丸:広瀬武夫少佐 他16名 、弥彦丸:森初次中尉 他14名 、米山丸:正木義太大尉 他14名 (小計4隻)
■第三次閉塞作戦
新発田丸:遠矢勇之助大尉 他24名 、小倉丸:福田昌輝少佐 他20名 、朝顔丸:向菊太郎少佐 他17名 、三河丸:匝瑳胤次少佐 他17名 、遠江丸:本田親民少佐 他17名 、釜山丸:大角岑生大尉 他17名 、江戸丸:高柳直夫少佐 他17名 、長門丸:田中銃郎少佐 他21名 、小樽丸:野村勉少佐 他16名 、佐倉丸:白石葭江少佐 他19名 、相模丸:湯浅竹次郎少佐 他25名 、愛国丸:犬塚太郎大尉 他23名 (小計12隻)

結局この顛末は歴史の通り陸軍が203高地を落として旅順を陥落させ、海軍はバルチック艦隊を撃破し、その勢いで日露戦争を終結させたのです。
規模や目的が違うといっても、やはり「汐風」も歴史的に残されるべき貢献をしているのです。華やかさはないですが、小名浜港にとっては重要なモニュメントといえるでしょうね。
雨も強くなってきたので今日はこれにて帰宅することにしました。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。