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いわき湯本温泉散策 #1 ~温泉神社~

翌日の13日(日)は昨日とは打って変って上天気。少し暑いくらいの気温ですが散策にはちょうど良いかもしれません。
ということで、今日はいわき湯本温泉をブラブラと温泉街を散策します。

諏訪神社社号標と鳥居まず最初に訪れたのは文字通り湯本温泉のシンボル「温泉神社」です。
御斎所街道と温泉通りの三叉路の交差点に鳥居と参道があります。鳥居の左側には大きな社号標があり「延喜式内 県社温泉神社」と刻まれています。


”延喜式”は平安時代の神社格式を著したもので、これに記載された2861社は式内社と言って社格の一つとされ、当時朝廷から重要視された神社であることを示していて、”県社”とは近代社格制度(明治維新から第2次世界大戦前)の神社格式で、府社=県社=藩社>郷社>村社>無格社の順なので、この地域ではかなり格の高い神社であることを示しています。

湯本町道路元標鳥居の右側には「湯本町道路元標」が立っています。
やはり古くからあり、町の中心としての位置づけが伺えます。
その後ろには「温泉神社縁起」が書かれていますが、かなり文字が薄くよく読めませんでした。


さらに参道を進むと右側に由来書があります。

『当社は41代天武天皇2年(西暦674年)初代神主小子部宿弥左波古直足が宮仕いしてより1320年、56代清和天皇貞観5年(西暦863年)10月29日従5位下の神階を授かる、1130年前なり、それより42年後60代醍醐天皇延喜5年(西暦905年)延喜式神名帳に登載せらる。
1088年前なり、これ延喜式内社と言われる所なり此処より西方5キロメートル霊峰湯ノ岳(600メートル)を神体山としている。
鎮座地は三遷して慶安4年(1651年)今より342年前此の三函の丘に遷座して現在に至っている。
皇太子殿下御成婚
伊勢神宮61回正遷宮
祝賀年 平成5年84代神主直貞誌之』(参道横由来書より)

鳥居脇の縁起によると別名は佐波古神社とも言うそうで、俗称として湯神湯泉湯神社といわれているそうです。
少なくとも延喜5年(西暦905年)延喜式神名帳に登載とあるので、1100年は経ているのでしょう。

神徳として記載されている項目が少し面白い。
「温泉医薬」「救病済生」は理解できるとしても「寿命健康と拓土開発」「資源増産の福禄」とは一体何を意味するのでしょうか、温泉が一杯湧き出るよ、って事でしょうか・・・
まあ、御祭神が大巳貴命(大国主神)、 少彦名命(神農薬神)、 事代主命御神徳(恵美寿神)だからでしょうね。
そもそも温泉神社の御神体は湯本町の西方4km位にある湯の岳だそうです。したがってかつてこの神社は湯の岳の中腹にあり、その開山は平安時代の名僧「徳一」とも言われているそうです。やはりここも「徳一」でしたか…
この時観音堂を建立して「戎(悪を止め善を行う)・定(心を乱さない)・慧(真実を見極める)」の三箱を納め、湯の岳を三箱の山、麓の湯を三箱の湯と名づけたと言われているようです。
その後、室町時代初期1340(暦応3)年、湯本の観音山に移りましたが、江戸時代初期の1651(慶安4)年平藩藩主、内藤忠興によって観音山向かいの現在地に移されたそうです。
内藤家はこの地で6代120年続いたとあった件は前回訪れた【平城址】での歴史ですね。
いづれにしてもまさに湯本そのものの歴史といっても良い由緒をもった神社であることは間違いないようです。

水準点由来書の隣には「水準点」があります。
文字通り水準測量に用いる際に標高の基準となる点で、これは国土地理院が設置・管理しているものです。意外と始めて見ましたね。


さはこ詩碑そしてさらにその隣には「あかずして わかるる人の 住む里は さはこのみゆる 山のあなたか」という詠み人しらずの歌碑が立っていますが、これは997(長徳3)年、拾遺和歌集に掲載されたこの地(さはこ)を読んだ歌を記念して立てられたそうです。


神泉の碑境内に上がる石段の横には地元青年会が建てた「神泉の碑」があり、碑面に温泉が流され硫黄が固まっているのが温泉町らしい風情かもしれません。


保存樹木等指定標識石段の途中に「保存樹木等指定標識」というパネルのいついた御神木があります。


樹種名 ニワウルシ(シンジュ)
中国南部原産で明治時代に渡来したといわれる。英名ツリー・オブ・ヘブンから「神樹」と呼ばれ神社に植えられました。中国では養蚕に使うようにこの木の葉は蛾の幼虫が食べます。ウルシの葉に似ていますがニガキの仲間で土地を選ばずどこでも育ちます。高山樗牛は、この木にあやかって呼び名にしたと伝えられています。
樹高13.8m 幹囲 1.6m
指定 昭和55年9月1日 指定番号 75』(現地案内板より)

「ツリー・オブ・ヘブン」とはなんとも語呂の良い名前で、神社にはまさにぴったりの樹木かも知れませんが、生命力が強いのでアメリカでは野生化が問題視されている樹木でもあるようです。

温泉神社社殿石段をあがりきると広い境内の中央に社殿があり、まずは参拝です。


温泉神社本殿温泉神社本殿扁額本殿は1759(宝暦9)年の造営された入母屋、銅瓦棒葺き、一間社の建物で棟札8枚、扁額と共にいわき市指定有形文化財に指定されているようです。


神の磐座本殿の後ろの小高い裏山に大きな石がいくつか置かれています。これは温泉神社の御神体・湯の岳から運ばれた8つの大石、神を宿す「神の磐座」といわれるものだそうです。8つあったかどうかは不明ですが。


境内を巡ってみると実に多くのものがあります。
神楽殿摂末社ちょうど社殿の反対側「神楽殿」があり、さらにこの神社には摂末社が多いのも特徴かもしれません。


足尾神社、智々文神社、出雲神社、三輪神社、津島神社、八坂神社、歳徳社、福富久社、竃處社、そして常磐城稲荷神社です。いわき中の神々が集まってきたかのようで、確かに神徳は万事OKということでしょう。
また、石碑もかなり多いようです。内容が判明できないので良く分かりませんが、それだけ歴史ある湯本に所縁の深い神社といえるでしょう。

弓の扇また意味は判りませんが拝殿の前には弓矢でかたどった紅白の扇が掲げられていたり、掲揚塔は東京オリンピックの記念に作られたようですし、実に興味の尽きない神社です。


温泉のタンク温泉神社を出て参道に戻ると隣に温泉のタンクのようなものがありました。
ここはいわき市常磐支所の敷地で、タンクには「いわき市常磐湯本財産区」と書かれており、”湯本温泉の由来”「鶴の伝説」とかかれた鶴の絵が描かれています。


この耳慣れない「財産区」について調べてみました。
法的な規定としては、市町村合併の際に、もとの市町村が所有や管理していた土地や財産を新市町村に引き継がずに旧市町村の地域で管理、処分するために設置される行政組織のことを言う特別地方公共団体のことだそうです。
財産区の構成員は、区域内に住所を置くすべての住民で、財産区の財産の管理運用に当たる「議会」も設置でき、「財産区議会議員」は公職選挙法の規定が準用され、区域内に住む全区民の投票によって選ばれることになっています。
そして財産区の権限と能力は、所有する財産又は公の施設の管理及び処分又は廃止に限られ、市町村のように広い範囲で事務を処理することはできないようで、具体的には、市町村の行政区画である「大字」とか「町」とかいわれる集落が農業用溜池や地区の墓地等、その地域に限られた利用を目的にした非収益的性格の強い資産を所有してきているものをいいます。ということから、ここ湯本の場合はその財産が「温泉・湯」ということになりますね。

古くからの名湯として栄えた湯本も明治時代に入って石炭採掘が始まると坑内から温泉が多く出水しました。このことは地底の泉脈が壊されたことを意味していて、1902(明治35)年、温泉源が自噴しなくなりました。
これにより温泉を確保するため1913(大正2)年、「湯本財産区」が設置されたのです。 この当時、このあたりはまだ湯本村で、1923年に湯本村が町制施行し湯本町に移行したそうです。
こうした状況の中1919(大正8)年、源泉が枯渇しポンプ揚湯不能となったそうですが、いわゆる炭鉱会社との折衝などでは個人や仲間的組織では無理があるので、「湯本財産区」を設立したということでしょう。
そして1942(昭和17)年、炭鉱会社と湯本財産区での送湯契約により約30年ぶりに温泉の利用が再開され、さらに1976(昭和51)年、新源泉からの揚湯に成功したそうです。
その源泉が三函地区で、自噴しないため揚湯ポンプで汲み上げ、それを貯湯槽に貯め、そこから配湯されているようです。
その現在の揚湯、配湯業務を行っているのが第3セクターの湯本温泉株式会社で、資本は常磐興産(旧炭鉱)50%、いわき市 30%、湯本財産区 20%となっています。
また、配湯業務は湯本財産区からは旅館、家庭、施設へ、常磐興からはスパリゾート ハワイアンズ、その他温泉スタンドなどに配湯されているのです。
ということで、このタンクは貯湯槽だったのですが、ここにも意外な歴史が眠っていたようです。

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