見沼田圃 #2

貴重な古民家のみならず、竜神伝説の一端を知って次に向うのは「国昌寺」です。
「国昌寺」には貴重な文化財や先ほどの竜神伝説に纏わる伝承もあるようです。

国昌寺

民家園から北へ車で約15分くらいで「国昌寺」があります。
綺麗に整理された境内が美しい寺です。
国昌寺山門 境内に入るとその文化財の一つである「山門」が控えています。

『浦和市指定有形文化財(建造物) 国昌寺門 一棟
昭和52年3月30日指定
この門は、薬医門に属し、間口3.03メートル、奥行き1.98メートルで、屋根は切妻となっている。断面矩形の本柱と、断面方形の控柱が前後に並び、本柱と控柱は地覆と貫で繋ぐ。本柱上の冠木をのせ、控柱上は虹梁で繋いでいる。控柱から冠木上に梁を組み掛け、梁は前方に持ち出され、大斗肘木で妻虹梁と組み合わせた桁を受ける。
妻は太瓶束で棟木を受ける。冠木上には、左甚五郎作と伝えられる堂々とした竜の彫刻がおさめられ、また、妻の羽目板の内側には、唐獅子の線彫が見られるなど、装飾が豊富である。妻虹梁の絵様や太瓶束に取り付けた笈形などに活気ある手法がみられ、これらから、江戸時代中期の建立になると思われる。軸部の材の多くはケヤキを用いており、堅固な作りである。
なお、この門には「開かずの門」と「釘づけの竜」の伝説がある。
平成7年9月 浦和市教育委員会・国昌寺』(現地案内板説明文より)

こちらがその甚五郎作の竜の彫刻です。
国昌寺山門 釘つけの竜 所謂、江戸時代のブランド建造物ということで、価値も随分と違ったものなのでしょう。

それよりもここで早速先の竜神伝説が出てきました。2つの竜神伝説を調べます。

開かずの門
国昌寺の門の欄間には、木彫りの竜が彫られています。左甚五郎という男が見沼で暴れる竜を封じるために彫ったものです。この封じの竜が掲げられたあとは、竜はおとなしくなったそうです。
しかし、ある時葬列がこの門をくぐった際、棺から遺体が消えてしまいました。「竜が遺体を食べた」と大騒ぎになり、それ以来この寺は門を閉ざしてしまい、「開かずの門」と呼ばれるようになりました。現在も一定の日以外は、門は閉ざされたままです。』(見沼たんぼホームページより)

国昌寺山門 開かずの門 国昌寺では、正月三が日と龍神まつりの日は、参拝者のために山門の扉を開けているそうです。

そしてこの彫られた竜が「釘づけの竜」の伝説のようです。

それにしても中々立派な門ですが、一つ興味深いのがこの門につけられた紋です。 何処からどう見ても菊の御紋のように思えるのですが、皇室と何らかの関係があるのでしょうか。
現在の天皇・皇室では八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊が使われていて、俗に菊の御紋とも呼ばれています。
十六八重表菊
これは鎌倉時代に、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み自らの印として愛用したのが始まりで、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着した由来です。
そして現在は、国章に準じた扱いの紋として、この十六八重表菊と、五七桐花紋があります。
十六八重表菊 五七桐花紋

パスポート 因みにパスポートの紋章、国会議員のバッヂ、日本の勲章は十六八重表菊を更に図案化されたもので、日本の国章に準じた扱いを受け、法的には国旗に準じた扱いを受けるため、それに類似した商標等は登録できないそうです。

この山門は江戸時代のようですので、現在の法には抵触しませんが、当時はかえって使用できなかったのではないかと推測されるのですが、実は江戸時代は菊の御紋より徳川家の葵の御紋の方が重要視され、菊の御紋は一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具などが作られ、全国に広まっていたことから、この門にも菊花紋がついていても何ら不思議は無いようです。
それにしても国章がついた寺だから国昌寺・・・、そんなわけは無いでしょうね。

板石塔婆 山門を抜けると・・・、ではなく山門の脇を通り抜けると左側に2つ目の文化財「阿弥陀一尊種子板石塔婆」があります。

『歴史資料 阿弥陀一尊種子板石塔婆 一基
高さ1.90メートルのやや大型の板石塔婆で、緑泥片岩製である。
二条線の下に阿弥陀如来を表す種子「キリーク」を薬研彫りで雄渾に刻んでいる。下部に「月日」とあるが他の銘文は、何らかの事情で磨り消されている。
鎌倉時代も早い頃の造立と考えられる。
昭和43年3月31日指定
国昌寺・浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

こうしてみると改めて埼玉県に板石塔婆が多いことを実感させられます。
板石塔婆の隣に国昌寺について由来・説明があります。

国昌寺
所在地 さいたま市大字大崎
国昌寺は、曹洞宗の寺で大崎山といい、染谷(大宮市)常泉寺の末寺で、徳川家光から寺領10万石の朱印地が寄進されている。開山は心巌宗智で、中興開山は能書家としても著名な大雲文龍である。
山門は、江戸時代中期(宝暦頃)の建築で、市指定有形文化財である。欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられるもので、棺を担いでこの門をくぐり抜けると、龍に中身を喰われ軽くなるという伝説をもっている。また、この龍はもと見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘づけにして門におさめたという伝説もある。
境内には、二つの文化財がある。センダンバノボダイジュ(市指定天然記念物)と 阿弥陀一尊種子板石塔婆(市指定有形文化財)である。また、寺宝として大雲文龍書の大弁才尊天号の軸物(市指定有形文化財)がある。
大雲文龍は、名僧智識として、その名は朝廷にまで達し、特に書に秀でていたため、時の帝から三度も召されて、書を指南したと伝えられる。
昭和58年3月 さいたま市』(現地案内板説明文より)

確かに貴重な文化財と伝説に彩られた古刹です。かねがねこのような古刹をやっと今知ることができたことが実に残念です。
センダンバノボダイジュ その先の右側、境内の真ん中辺りに「センダンバノボダイジュ」があります。

『市指定天然記念物 センダンバノボダイジュ
指定年月日 昭和46年2月12日
幹まわり(地上1.2メートル)80cm、高さ7.2m、枝張り径6m
センダンバノボダイジュ(モクゲンジ)はムクロジ科の落葉亜高木です。葉がセンダンに似て、種子が数珠玉になるのでこの名があります。原産は中国・朝鮮そしてわが国では中国地方の海岸ですが、主として寺院に観賞用として植えられ、珍重されています。
この木は昭和30年頃ここに移植されたものですが、根つきもよく、樹勢はきわめて旺盛で、6月下旬から7月上旬にかけてみごとな黄色い小花を多数つけます。
昭和58年4月 国昌寺・浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

花の盛りは終わっているようですが、非常に形のよい樹木です。こうした機会が無ければきっと一生「センダンバノボダイジュ」をみることは無いでしょうね。

文鏡観音 「センダンバノボダイジュ」の前には文鏡観音があり、交通安全や家内安全などにご利益があるようです。

そしててその先に本堂が鎮座しています。
国昌寺本堂 古刹ながら本堂は再建されたのでしょう、かなり新しい感じですが、どっしりとした重みを感じることができる本堂です。

本堂に参拝して国昌寺の参詣を終わりますが、本堂の近くに妙な建物があります。
象像・・・!
中にあるのは白い象の像です。どのような意味での象なのかは分かりませんが、タイなどでは象は神の使いというので・・・。
いずれにしても奇妙な象像です。

国昌寺からの眺望 最後に国昌寺の駐車場から遠くさいたま新都心を見ることができます。

近代的な都市と見沼田圃と古刹。非常にバラエティにとんだ街なのです。

萬年寺

「国昌寺」の次に訪れるのは「萬年寺」です。「萬年寺」は井沢為永に所縁のある寺のようなので、見沼にとっては是非とも訪れなくてはならない場所のようです。
車を走らせていくと、ちょうど見沼田圃の中ほどを走ると、ちょうど先ほどのイメージである街中の田圃イメージの場所に出くわしました。

見沼田圃 見沼田圃 こちらはさいたま新都心をバックにした見沼田圃です。

見沼田圃 反対側にはホンのちょっとだけ見える埼玉スタジアムです。

見沼田圃 こうしてみると確かに首都圏最大級の緑地と言われることが理解できますね。

なかなか風情のある光景です。

見沼田圃のなかを行くと「萬年寺」の到着です。
萬年寺 寺号石と赤い山門が印象的です。山門前の案内板です。

『片柳歴史散策コース 万年寺と井沢弥惣兵衛
寺の開創は永正6年(1509)といわれ、天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を拝領した古刹です。
江戸時代初期の見沼溜井造成に際しては寺域が水没したため伽藍を移したと伝えられています。江戸時代中期、溜井の干拓及び見沼代用水の開削工事に際して工事を担当した井沢弥惣兵衛は詰所を当寺に設けたといいます。この井沢弥惣兵衛と見沼の竜神にまつわる伝説がたくさん残されています。見沼東縁代用水関係者は、文化14年(1817)に弥惣兵衛の頌徳碑を境内に建て、事績をしのんでいます。境内にはこのほか、瘤地蔵、庚申塔、当寺の中興開基となる初鹿野伝右衛門昌久の墓などがあります。幕末から明治にかけては寺子屋が開設され村の子弟の教育にあたりました。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課』(現地案内板説明文より)

と言う事でまずは、弥惣兵衛の頌徳碑を見学に境内に入ります。
頌徳碑 山門を抜けると参道のすぐ左手にその頌徳碑があります。

井澤弥惣兵衛為永と見沼代用水
この碑は、見沼代用水を開いた功労者・井澤弥惣兵衛をたたえたものです。
井澤弥惣兵衛は、江戸時代の寛文3年(1663)に紀伊国(和歌山県)溝口村(海南市)に生まれ、土木技術に才能を発揮し紀州藩主5代にわたり仕えました。
その後、八代将軍徳川吉宗に招かれ、幕府勘定方に着任し、享保12年(1727)から埼玉県に広がる見沼の開発に着手しました。見沼の開発は、利根川の水を下中条(行田市)から引き入れ、距離60Kmにおよぶ見沼代用水を掘り進め周辺に新たな水田を開くという大がかりのものでした。
着手してから半年という短期間で用水路を掘りあげたと伝えられています。なお、弥惣兵衛は見沼代用水の工事のため萬年寺境内に工事事務所を置いたといいます。また、見沼代用水と芝川を利用して江戸とを結ぶ水運の便をはかり、米をはじめとする物資の輸送を効果的に行えるようにしました。浦和市にある国指定史跡の閘門式運河・見沼通船堀が広く知られています。
この碑のほか利根川からの取水口近くに井沢祠、白岡町柴山常福寺には墓石があり、井澤弥惣兵衛の功績を現在に伝えています。現在でも見沼で工事を行なう際にはこの碑に参拝して工事の安全祈願をするといわれています。
なお、弥惣兵衛は元文3年(1738)に75歳で没し、江戸麹町(東京都千代田区麹町)の心法寺に葬られています。
平成8年2月吉祥 長昌山萬年寺』(現地案内板説明文より)

この工事事務所として井澤弥惣兵衛がこの萬年寺に詰めていた頃の伝説が、竜神灯といわれる竜神伝説です。

見沼の竜神
見沼代用水の工事をしていた井沢弥惣兵衛為永のもとに、美女に化けた竜神が現れ、「沼を残してほしい」と願いました。 干拓で住みかを無くす竜神のために弥惣兵衛為永は万年寺に神灯を掲げ、「竜神灯」と名付けてその霊をなぐさめました。 この神灯は毎夜、美女(竜神)自身によって灯されたと言われます。 』(見沼たんぼホームページより)

萬年寺本堂 井沢弥惣兵衛と竜神との伝説はまさに見沼らしい伝承でしょう。

往時の活況を偲びつつ本堂に参拝して「萬年寺」を後にしました。

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