大館城址

はじめに訪れたのは、先般【平城址】で記載したように、岩城氏全盛期の頃に立てられた城であった大館城(飯野平城)です。
ここも”いわき駅”からも近く車で15分程度でしょうか。ただし若干わかりにくく、立派な石柱が道路わきに立っているのですが、気がついた時には行き過ぎていたという場所です。

大館城址碑

大館城址道標道路沿いに「史跡 大館城址」と刻まれたたいそうきれいな石柱が左側に立っています。その角を奥に向かっていくのでしょう。
また、小さくてわかりにくいですが、道を隔てた反対側に「奉納 湯殿神社参道」と刻まれた石碑があります。 この石柱と石碑にはさまれた道が参道ということです。


「飯野平城 -大館-」碑まっすぐ進むと墓地に突き当たり、そこに「大館城址⇒」の道標があり、上りきったところに碑がありました。
「飯野平城 -大館-」と刻まれた大きな石碑です。


飯野平城 -大館- 現当主岩城隆宜 書
わが郷土は磐城の中央部に位置し、鎌倉時代の初めから好嶋荘に属し、政治・経済の中心地であった。室町時代、磐城地方は豪族たちが互いに力を競い合っていた。その中で、岩城隆忠は居城を長友(四ツ倉)から白土(平)に移し、統一支配を目指して長子親隆と共に、一方の雄岩崎氏(島倉城主)を滅ぼした。さらに親隆は北進して?葉軍(双葉郡南部)を治めた。
常隆は文明15年(1483)磐城・磐前両群の郡境にあたるこの地に飯野平城(大館)を築き居城を白土城から移した。城内には菩提寺として曹洞宗青雲院を、必勝と平和を願って真言宗長命寺を創建した。
同17年常隆は常陸国(茨城県)に進攻し、守護佐竹家を服従させて、常陸の北部(北茨城・高萩市・里美村)を領有した。次いで盛隆は永正7年(1510)白河郡の領主白川家を攻略した。ここに岩城氏は陸奥・下野・常陸の三国に強大な勢力図を築き、戦国大名の居城として「飯野平城」はその中心となった。同11年盛隆、由隆・政隆父子は、陸奥・関東第一の覇者たらんと下野国宇都宮に侵攻したが、勝機を逸した。以降、岩城氏は重隆・親隆・常隆・貞隆と続いた。
岩城氏はまた神仏を崇拝し、古典籍や和歌・連歌などの文芸を好み、猪苗代兼載や雪村等を招き、当地方の文化の振興につとめた。しかし、慶長3年(1600)の関が原の戦いで徳川方に加担しなかったため、岩城氏は同7年5月徳川家康に所領を没収された。同年11月に旧岩城領を与えられた鳥居忠政は新たに城の北東、物見ヶ岡(平)に居城を築いた。そのため飯野平城(大館)は廃された。
寛永2年(1625)法印宵浄は旧城郭内に月山寺を開き湯殿山権現を祀った。明治初年の神仏習合廃止によって、社号を湯殿山神社と改めた。
岩城氏は八代・120年にわたりこの地を居城とした。

岩城下総守常隆 永正7年(1510)没
岩城下総守盛隆 享禄3年(1530)没
岩城民部大輔由隆 天文11年(1542)没
岩城修理太夫政隆 天文4年(1535)没
岩城左京太夫重隆 永禄12年(1569)没
岩城左京太夫親隆 文禄3年(1594)没
岩城左京太夫常隆 天正18年(1590)没
岩城忠次郎貞隆 元和6年(1620)没

平成7年(1995)3月吉日
大館城跡「史碑」建設有志一同 撰文 佐藤孝徳  謹書 川島大桂』(現地碑文より)

どうもこの「史碑」のある広い場所は二の丸のような場所と言われているようです。

慰霊碑そして「史碑」の左側の坂を上っていくと、そこはかつての本丸といわれるところだそうで、この小高い旧本丸の中のほんの一段さらに高いところに現在は「慰霊碑」が建てられています。


ところどころに「蜂注意」の札があるので、さされてからでは洒落にもならず、そこそこで戻りました。
おそらく城好きの方ならここが郭とか土塁とか堀とかを見る楽しみがあるのかもしれませんね。

青雲院と湯殿山神社

湯殿山神社参道「史碑」の先に(本丸への坂の反対側)には、鳥居がたっています。ここが湯殿山神社の参道口となるのでしょうか。


石碑など前日の雨で道がややぬかるんでいますが、小道を行くと左側にさまざまな庚申塚や石塔、石祠が並んでいます。
一番左に「庚申塔」、その隣に「湯殿山」と彫られた石板、何やらの「石祠社」、そして「庚申塔」、はっきりわかりませんが「湯本山」と刻まれた石板、最後に「祠社」があります。


石碑などそれぞれの意味は良くわかりませんが、その隣の石塔には「寛政九丁巳二月吉日」と刻まれているので、やはり江戸年間に奉納されたものなのでしょうね。


稲荷社反対側には赤い鳥居があり、階段を上ると小さな社があります。
特に何も明記されてはいませんが、小さな狐の人形がたくさん置かれているので、おそらく稲荷社でしょうね。


湯殿山神社社殿拝殿でまずは参拝です。通常は無人なのでしょう、古さとあいまって何かパワーを感じ…る訳ないです。ただただ静寂と辛気臭さが漂っています。夕方から夜にかけてはぜったに来たくないですね、ここには。


湯殿山神社本殿本殿も歴史を感じさせますが、この社殿はどこかで建て直されたのでしょう、中途半端な古さがある感じですから。


湯殿山神社を後にして、参道を戻る途中に来たときには気がつかなかった鳥居があります。
脇には「祈 国威宜揚」「念 武運長久」と刻まれた石柱が残されています。戦前、戦中の必勝を祈願する神社としての湯殿山神社の顔があったのですね。

参道を戻って「大館城址⇒」の道標のところの墓地が「青雲院」のようです。

岩城氏の墓?墓地沿いの道を行くと途中、古そうな墓がありましたが、岩城氏と何か関係があるのでしょうか。
結構古そうな感じなので岩城氏の墓とか?…


靠虎山青雲院 開基・開山・歴佳大和尚碑墓地のとば口には大きな碑があり「靠虎山青雲院 開基・開山・歴佳大和尚碑」と刻まれています。 青雲院の歴代住職が刻まれているのですね。
最後が42世とありますので、現在は43代目ということでしょうか。さすがに岩城氏の菩提寺だけあって歴史ある寺ですね。


木造聖観音菩薩立像歴史ある寺だけに、ここには「木造聖観音菩薩立像」が文化財として登録されているようです。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『市指定有形文化財(彫刻) 木造聖観音菩薩立像 一躯
指定 平成元年十二月四日
所在地 いわき市好間町下好間字大館二八二
所有者 青雲院

平安時代後期 像高 八二・七㎝
観音堂の厨子に納められている木造聖観音菩薩立像は、単髻を結い、彫り出した山形宝冠をいただく。左手は屈臂して腹前で五指を曲げ未敷蓮華を持し、右手は胸前にかまえ第一指、第二指を捻じる。天衣・条帛をかけ裳をまとい、天衣は大腿部及び膝前をわたり両体側に垂下し、腰をやや左に捻じた姿勢をとり、右足をやや前に踏み出している。眼は彫眼、三道、天冠台を彫出する。また銅製の臂釧、腕釧をつけ、素地仕上げである。
頭体を通して一材で造られ、頭頂から両耳後と体側を通る線で前後に割矧ぐ。両肩先、銅製の宝冠及び胸飾りは後補と思われ、天衣と足先の一部を欠く。
また両眼、両頬、鼻先の一部が削り直され、そのため面貌の表現がやや損なわれている。技法と作風から在地で制作されたとみられ、造立年代は平安時代後期と考えられている。
また厨子内側背面に記された墨書銘により、元禄七年(一六九四)に没した磐城平藩内藤家の重臣、松賀忠右衛門の菩提のために元禄十三年(一○○)に青雲院に本像が寄進されたことがわかる。
なお腰を左に捻じ、右足を前に踏み出した姿勢をみせていることから、本像は当初単独の観音像ではなく、脇侍菩薩像として造立された可能性が指摘される。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

青雲院本堂その割にはこじんまりした本堂ですが、思いっきり犬に吠えられまくってしまいましたので、退散することにしました。


嘗ての岩城氏の繁栄の一端を見た思いのした大館城址でした。

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