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松ヶ岡公園 #1

公園案内板「大館城址」から車でいわき駅方面へ10分程度で「松ヶ岡公園」に到着です。駐車場のすぐ近くの案内板によると、こちらは第二公園側になるようです。
この公園は三崎公園/マリンタワー、勿来関文学歴史館、さはこの湯を管理・運営している(財)いわき市公園緑地観光公社が管理・運営している公園です。


『明治40年平町議会は、日露戦争記念行事として、茶畑、麦畑と竹やぶであった矢小路台(薬王寺台)を開き、防火用水をかねた大貯水池をつくり、これを中心として桜、梅、つつじを植えました。
その後、東京大塚にあった旧城主、安藤邸内の古つつじ千本を移植し これを中心として全国からつつじの名木3,000本を集め、つつじ園と桜の名所として今日にいたっています。
園内には児童遊園地があり、家族連れや行楽客で賑います。毎年開花期の4月には、恒例の桜まつりが行われます。
また、幕末の外交に老中として、活躍した平藩主安藤対馬守の銅像や天田愚庵邸があります。 』
((財)いわき市公園緑地観光公社オフィシャルサイトより)

歴史的遺物を中心に公園を造園することは良くありますが、遊具と歴史遺物が共存する公園というのは、珍しいケースかもしれませんえ。そういった意味ではより興味がわいてくるというものです。

天田愚庵邸

ひょうたん池駐車場の隣には「ひょうたん池」と呼ばれる庭園と四阿があり、実に落ち着いた好い風情をかもし出しています。
愚案亭前そしてその先に「天田愚庵邸」があり、「ひょうたん池」と相まってより和風で歴史的な雰囲気があります。


愚案略伝碑その「天田愚庵邸」の前の碑に愚庵の略歴が書かれています。


愚庵略伝
愚庵は安政元年7月20日平藩主安藤信正の家臣甘田平太夫の五男として平城下に生まれた。初めの名は甘田久五郎、後に天田五郎と改めた。15歳で戊辰の役に出陣中父母妹行方不明となり、その後その所在を探して全国を遍歴すること20年、その間山岡鉄舟の知遇を受け、また一時清水次郎長の養子となった。明治20年滴水禅師に依って得度し鉄眼と号し、その後京都清水に庵を結んで愚庵を名乗った。漢詩の外に万葉調の和歌を能くし、正岡子規に多くの影響をあたえた。
明治37年1月17日51歳をもって伏見桃山にその数奇な一生を終わった。
中柴光泰 撰、高萩尊風 書』(現地碑文より)

数奇な一生の特に全国遍歴の20年を少し紐解いてみます。
父母妹が行方不明となった時、久五郎(愚庵)は仙台に落ち延びていたそうです。その後、愚案は平に帰藩し謹慎後藩校・佑賢堂に入校しました。
1874(明治4)年、神田駿河台のニコライ神学校入学、1872年(明治5年)正院という当時最高官庁の役職にあった小池詳敬の食客となり、その紹介により山岡鉄舟の門下となりました。
これがその後の人生を左右する山岡鉄舟との出会いでした。
1874年(明治7年)小池に伴われ東海道・中国・九州歴訪の旅で、万葉歌人丸山作楽と出遭い、短歌と国学を学びます。さらに博多滞在中薩州人鮫島高朗を知り、その紹介により桐野利秋のもとに身を寄せることにもなりました。
1877年(明治10年)の西南の役後、司法学校生陸羯南、大岡育造らと交わりながら父母妹の行方を捜し、 そして1878年(明治11年)鉄舟の勧めで清水次郎長に見を寄せることとなったそうです。
しかし、1879年(明治12年)父母探しのため、鉄舟を保証人として写真師江崎礼二の門下生となり、旅回りの写真師として小田原で写真店を開業しました。
そして881年(明治14年)次郎長の懇請と鉄舟の勧めで次郎長(山本長五郎)の養子となり、山本五郎、鉄眉と号するようになったようです。
次郎長の事業不振などで、1884年(明治17年)その養子を辞し、旧姓天田に復すと共に鉄舟の世話で有栖川宮家に奉職。2年後同家を辞し、大阪内外新報社に入社しました。
その後、鉄舟の紹介で京都林丘寺の滴水禅師の許で日曜毎に参禅し、1887年(明治20年)得度を受け禅僧となり、鉄眼と称することになったのです。
ここまで見れば確かに数奇な人生でしょう。底辺に流れるのは父母探しでしょうが、鉄舟ありきでの父母探しとも言えるでしょうね。その結果が多くの知己を得たということでしょうか。
ちなみに1888年(明治21年)大恩人の鉄舟が他界した際には、追善大法会を京都相国寺で開いたそうです。

数々の碑数々の碑数々の碑いくつかの歌碑が立っています。
こう言った歌碑は、その世界の方は理解できるのでしょうが、素人としては是非歌の意味を記してくれるとありがたいのですがね。
やはり心情とか理解できませんから。


愚案像そして愚庵の銅像が建っています。


天田愚庵像
天田五郎は、明治20年出家、法名は鉄眼と称した。34歳であった。
明治25年春、京都・清水寺に登る産寧坂に庵を結び、庵室も自分も「愚庵」と称した。ここを正岡子規と高浜虚子が訪ねたのは、11月のことであった。
明治26年、元養父・清水次郎長の死去もあり、かねてからの念願であった父母菩提と衆生結縁のため、秋の彼岸入り日・9月20日に、西国三十三ヶ所巡礼の旅に出た。この立像は、その時の姿そのものである。道順は、先ず伊勢神宮と熊野三社に参詣、その後は番号順に三十三ヶ所の霊場を巡った。
12月21日・冬至の日、93日の旅を終え、無事帰庵した。里程約4百余里に及ぶ巡礼の旅であった。
「順礼日記」はこの時のもので、漢詩26篇、和歌33を含め名文で綴られ、「明治の奥の細道」と称賛されている。
(作者:日展会友 小滝勝平氏)』(現地案内板より)

そして愚庵邸についての説明です。

天田愚庵邸
所在地:いわき市平字古鍛冶町127
管理者:いわき市教育委員会
天田愚庵は安政元年(1854年)7月20日、磐城平藩主安藤信正の家臣甘田平太夫の五男として平城下に生まれた。幼名を久五郎といい、後に(明治4年)天田五郎と改めた。
明治元年(1868年)、15歳で戊辰の役に出陣中、父母妹が行方不明となる。以後20年間、肉親を捜して全国を歩った。その間、山岡鉄舟の知遇を受け、また一時、清水次郎長(山本長五郎)の養子となった。この時期「東海遊侠伝」を出版、その後の「次郎長もの」の種本となっている。
明治20年、五郎34歳のとき滴水禅師によって仏門に入り、鉄眼と号した。
明治25年、京都清水に庵を結んで「愚庵」を名乗った。漢詩において異彩を放ったばかりでなく、万葉調歌人としてすぐれ、正岡子規に大きな影響を与えた。
明治37年(1904年)1月17日、京都伏見桃山の庵で没した。享年51歳。その旧居は昭和41年秋、有志により伏見桃山からここに移築復元された。
平成元年11月 いわき市教育委員会』(現地案内板より)

略伝にもあったとおり、意外なのが清水次郎長が嘗て養父であったという事実です。
そもそも清水次郎長は任侠としのイメージが大半を占めているでしょう。もちろん地元では観光PR等もあり地元の名刺としての名声を挙げていますが…
それは、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が品川沖から脱走した際、咸臨丸の修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され交戦となり、旧幕府軍は全員死亡しました。
これを見た次郎長は遺体を回収し埋葬したのですが、これを気に入らない新政府軍は次郎長を咎めたのですが、死者に官軍も賊軍もないとして突っぱねたことが当時静岡藩大参事の山岡鉄舟の耳に入り感謝され、これが次郎長の山岡と榎本との交際の持つことができたきっかけであったそうです。
この山岡や榎本との交友が会ったことから、一介の任侠親分ではなく清水の大親分として大物扱いをされたのではないかと評価されているようです。
そういった関係から、山岡から頼まれた愚庵を養子に迎えたのでしょう。

愚案邸門建物の中に入ってみます。小さな門がありくぐり戸を開けて入るのですが、見事に頭を打ちました。
何故こんなに低いのでしょうか。


愚案邸それほど大きな建物ではありませんが、茅葺の屋根が庵としての風情を存分に発揮しています。


柿の木小さな庭にはまだ細い柿木が1本植えられています。


柿の木の由来
明治30年、京都・産寧坂の愚庵の庵に長いこと滞在した桂湖村が帰郷する時、園中の柿15顆と松茸を彼に託して、子規の病床に届けた。
その時、子規は俳句をものし、礼状と共に届けようとしたが、投函が遅れた。愚庵は、子規からの便りのないことを怪んで、湖村への便りに次の一首を加えた。

  「まさをかは まさきくてあるか かきのみの
            あまきともいはず しぶきともいはず」

湖村は、これを子規に示した。子規は早速愚庵宛に書簡を書いた。
この内容は、先ず愚庵の歌について、ひときわ目立っていることをうらやましく思うと評価し、6首の歌を書き送った。これは、子規の従来の歌とは明瞭に一線を画し得るもので、歌人の産声とも聞こえるものである。

  「みほとけに そなえし柿の あまりつらん
              我にぞたびし 十あまり五つ」

  「柿の実の あまきもありぬ かきのみの
             渋きもありぬ しぶきぞうまき」

2首のみをあげたが、子規の短歌への移行が明らかで、一つの契機と捉えることが出来る。
産寧坂・愚庵の柿の木は既にない。この木のいわれを絶やさぬため、実生して育てられたのがこの柿の木で、中柴邸(平・仲間町)より移植したものである。
これをご覧になり、愚庵と子規の関係や、子規が短歌革新を進めるに至った経緯を想起して頂ければ幸いであります。』(現地案内板より)

柿の木もそうですが、このあたりが子規に愚庵の影響を与えたエピソードなのかもしれませんね。
まったく恥ずかしながら「天田愚庵」を全く(名前すら)知りませんでしたが、実に興味深い歴史を知ることができました。

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