松ヶ岡公園 #2

「愚庵邸」をあとにして、ここから第1公園のほうに向かいます。第2公園からは松ヶ岡公園橋を渡っていきます。
ちょうど橋を渡り終わる頃から、公園より音楽が聞こえてきます。 子供たちの喜びそうな遊具施設がありました。

松ヶ岡公園遊戯エリア

忠魂碑遊戯施設の前に大きな忠魂碑があります。


松ヶ岡公園内忠魂碑修繕記念
忠魂碑とは国難に際し郷土や国のために礎となられた戦没英霊を顕彰するもので、平和と歴史を考える上でもきわめて貴重な文化財であります。
この松ヶ岡公園の忠魂碑は明治43年に建てられ、戊辰の役以降、日清・日露の両大戦および支那事変より大東亜の戦いに身命をささげられた旧平市出身の戦没英霊7521柱をお祀りしております。
福島県神道青年会いわき支部では、旧海軍記念日である5月27日に、現代の社会発展の礎となり子孫繁栄のため貴い命を賭して亡くなられた英霊にたいし敬仰の誠を捧げる慰霊祭を斎行しております。
本年は近代日本の大転換となった日露戦争終結より百年、大東亜の戦いの終結より60年の節目の年を迎え、世界の恒久の平和を祈り、さらには郷土をはじめわが国のさらなる興隆発展を願い、ここに左記の通り忠魂碑周辺の環境を整備し英霊顕彰の誠を捧げるものとします。
平成17年5月27日 福島県神道青年会いわき支部

1.忠魂碑玉垣修繕』(現地案内板より)

まさに子供たちの集まっているこの遊戯施設のまえで、この子供たちの平和な現在の礎を…ということでしょうかね。

皇紀2600年記念植樹忠魂碑の前には鉄パイプで囲まれた2本の樹木があります。
「皇紀2600年記念」と刻まれた石柱がありますが、1940年のことですね。記念に植樹されたということですかね。


日曜ながら午前中なので、それほど人出はありませんが当然ながらファミリーで来ている方が多いです。
この種の公園にありがちな(たとえば埼玉県の大宮公園など)、遊戯施設というには若干おこがましいような所謂子供だまし的な施設が多いのですが、ここは結構それなりに充実しているようです。

メリーゴーランド豆汽車スカイサイクルと回転ボート20人乗りのメリーゴーランドが1台、6人乗り6艘の回転ボート1台、2人乗り7両のスカイサイクル、6人乗り3両の豆汽車、そして第2公園にトンネルぐるりんという施設が1台あります。


遊園地というには規模が小さすぎますが、公園としてなら十分楽しめる設備でしょう。
利用料金も子供60円、大人120円ですからとってもリーズナブルです。

遊具貸し出しまた、毎週土・日はおもちゃ無料貸し出しだそうで、竹馬、一輪車、フラフープ、けん玉の4種類のおもちゃが用意されていました。


小学校低学年までなら十分遊べるのではないでしょうかね。意外に意外な施設でした。

安藤信正像

安藤信正像遊戯施設エリアの一角にかなり大きな銅像があります。
江戸時代の歴史的な人物「安藤信正」の像です。


安藤對馬守信正公銅像の記
安藤信正公は文政2年(1819)11月江戸で生まれた。
父は安藤家九代の信由、母は吉田藩主松平信明の女である。諱は初め信睦と称し、のち信行さらに信正、鶴翁と改めた。弘化4年(1847)8月、29歳のとき父の遺領を継ぎ磐城平藩主となった。早くより俊英の才を発揮し、翌5年には奏者番に、嘉永4年(1851)には寺社奉行に、安政5年(1858)には若年寄として幕政に参画した。万延元年(1860)42歳のとき老中となり外国御用掛りを勤めた。以来激動する日本の政治の中枢にあること2年、遣米使節・遣欧使節の派遣、条約締結、小笠原諸島の領有宣言、樺太国境決定の交渉、皇妹和宮の降嫁実現など、在任中に果たした業績は大きい。文久2年(1862)坂下門外で攘夷派の浪士に襲撃され、老中を退任した。隠居後の慶応4年(1868)5月、平城に拠り奥羽越列藩同盟に加わり西軍を迎え撃つも利なく、9月降伏の後東京に移る。明治4年(1871)10月、東京の屋敷で歿した。53歳であった。
この銅像は、平字八幡小路に居住した本多朝忠(1895~1986)が制作し、大正11年(1922)6月旧平藩士の集い「平安会」によって建立された。この像の建つ地は古来薬王寺台と呼ばれ、戊辰戦争では平藩の砲台が置かれ、西軍に抗戦した拠点として知られる。また、宝暦6年(1756)美濃国加納(現岐阜市)より磐城平に移住した安藤家家中の者が、はるか西方を望んで旧地を思い偲んだ「望郷の山」でもある。のち銅像は太平洋戦争の激化にともない金属供出のため昭和19年に撤去された。戦後、諸橋久太郎平市長を会長に安藤信正公銅像再建期成同盟会が結成され、現いわき市内を中心に行政及び一般さらに各学校の生徒たちから寄付を募り、昭和37年7月に再建された。
平成18年12月吉日 磐城平藩主安藤家入部 250年記念事業実行委員会建之』(現地案内板より)

超有名な「坂下門外の変」ですね。遡ること2年前の1860年の更に超有名な「桜田門外の変」がおきて、井伊直弼が暗殺されたわけですね。当時暗殺であろうが、病気であろうが、一時的にせよ当主が不在の場合はその家は断絶となるしきたりです。当然井伊家も暗殺などとは思っても見ないことなので跡継ぎがいません。
そこで考え出された苦肉の策が、直弼は生きていて怪我しただけということにして、その間に跡継ぎを定めてから死を発表するということで、お家断絶を免れたのですが、これを考えたのが時の老中、安藤信正と言われているようです。ある意味この人のこの策がなければ現在の「彦にゃん」は存在していなかったかもしれません。
そういった意味ですこぶる頭の切れる人だったらしく、公武合体などはその切り札的策だったのですが、それが返って尊攘派の反発を呼んでしまったため、この坂下門外の変が勃発したようです。
時代背景を考えれば遅かれ早かれテロはいつ起きてもおかしくはない時代で、あえて公武合体がそれを呼んでしまったのでしょうね。

そして文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、老中、安藤の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・川本杜太郎の6名が行列を襲撃しました。
最初に直訴を装って川本杜太郎が行列の前に飛び出し駕篭を銃撃しますが、弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込みました。警護の士が一時混乱状態に陥った隙をついて平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、安藤は背中に軽傷を負いましたが、かろうじて城内に逃げ込みました。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げる事なくいずれも闘死したのです。
これが「坂下門外の変」の全貌です。

命に別状のなかった老中・安藤でしたが、幕府の要人が再度白昼に襲撃されたことは、幕府の権威をさらに傷つけることになったという意味で、4月には老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられ、さらに所領の磐城平藩は2万石減封されたそうです。
ある意味「桜田門外の変」よりもインパクトは少なく、若干歴史上の貢献は井伊直弼よりは低く、更に戊辰戦争では眼の敵ともの扱いで、まさに踏んだり蹴ったりとはこのことかもしれませんが、ふさわしい場所に銅像が建立されたのは実に好都合と言うべきでしょうかね。
いわき市で「坂下門外の変」を思い出すとは思ってもみませんでした。

安藤信正像周辺のつつじちょうど安藤信正公の銅像の周辺が一面のつつじ園となっているようですが、当然ながら咲いているわけもありません。


この松ヶ岡公園は冒頭にもあったとおり「桜」と「つつじ」が有名なようです。花見には多くの人たちが集まるのでしょうね。
この後は古刹「専称寺」に向かいます。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks