専称寺

松ヶ岡公園からいわき駅前を抜けて県道229号線-甲塚古墳線を2~30分位進むと「専称寺」があります。
特に案内標識などはなく、最初は通り過ぎてしまいましたが、たまたま「専称寺前」というバス停を見つけたので、やっとのことで場所がわかりました。(それほど難しくはないのですが・・・)

専称寺参道・境域

専称寺参道入口バス停の横の舗装されていない小道が参道で、その入り口に「奥州総本山専称寺」と刻まれた石柱が立っています。


専称寺総門参道を50mほど歩くと古い山門があり「総門」と呼ぶそうです。
この「総門」は細部の意匠から江戸時代前期と推定される古建築物だそうで、切妻、瓦葺きの四脚門で本堂、庫裏などと古くから伽藍の一端を担っている事から平成3年に国指定重要文化財に指定されました。


専称寺総門実際に近づいてみると、申し訳ないのですが今にも崩れそうな門です。
全くメンテナンスがされていないような感じで、いろいろ事情はあるのでしょう。ですが、今まで倒れなったのですから、大丈夫なんでしょうね、きっと。


「総門」の隣には案内板があります。

『福島県指定史跡及び名勝 専称寺境域 昭和62年3月27日指定
所在地 いわき市平山崎字梅福山ほか
所有者 専称寺ほか二名

室町時代(16世紀) 面積 52.836㎡
梅福山報恩院専称寺は、応永2年(1395)良就上人十声大和尚が開創した浄土宗名越派の寺です。
名越派は、浄土宗の宗祖法然の門弟で鎮西派を開いた弁長の弟子良忠の門下の良弁(尊観)が立てた流派です。
北関東から奥羽に勢力を伸ばした名越派は、良山(石川郡の人)が山崎の矢ノ目に如来寺を開き、奥羽両国にわたる同派の基礎をすえ、良山の高弟良就が専称寺を開山しました。
六世良大の延徳年間(1489~92)専称寺は勅願所となり、以後良大の衣鉢を継いだ僧らが蝦夷から沖縄に及ぶ布教によって江戸時代までに建立した末寺は、三百とも五百ともいわれています。
江戸初期以来、幕府から寺領70石を受け、奥羽の浄土宗全寺院を支配する総録所を兼ね、如来寺を凌ぐ隆盛をみせていた専称寺は、万治4年(1661)に名越派奥州総本山の地位を確定しました。
現在の境域は縮小されているとはいえ、山号の由来する梅福山をはじめ、本来の境域の中枢部分を保持しており、寂光院跡、衆寮跡などを確かめることができます。江戸期の本堂と庫裡が残存することも、浄土宗檀林の姿を止めるものとして貴重です。昭和初年、衆寮跡の地に植栽された600本の白梅は、この境域にひとしおの風趣を添えています。
福島県教育委員会』(現地案内文より)

「浄土宗檀林」とは僧徒の学問修養の道場(所謂、学問所)で、万治4年には学僧が200人以上いたそうです。
寛文11年(1671)に本堂につづいて方丈、庫裡も再建され伽藍が整備されたそうで、それが今日にいたっているのですが、人の方はそうはいかず、明治維新の浄土宗派の混乱により、名越派が廃止され、明治35年(1902)六七世良勲による諸堂の修理や、門弟教育の努力も空しく、六八世良幽を最後に名越派が伝来・伝戒を行うことが停止され、衰退していくこととなったようです。

専称寺梅林「総門」をくぐると確かに一面梅林です。
梅福山報恩院専称寺と言うくらいなのできっと「梅林」は見事でしょうね。さすがに規模は違いますが【越生梅林】を思い出します。
残念ながら寂光院跡、衆寮跡というのがどこなのかがわからずじまいでした。是非教えていただきたいです。


手水舎梅林の中を上ると伽藍に上がる参道の階段が見えます。
階段の下には「手水舎」がありますが、「洗心」と刻まれた水鉢に龍が立っています。何の謂れがあるのかは判りませんが、結構迫力です。


中門と鐘楼堂「手水舎」の参道の反対側には「鐘楼」が立っています。
山の傾斜に沿って作られたような「鐘楼」は一般的に見かける鐘楼よりはるかに手の込んだ、立派な鐘楼です。


『市指定 専称寺鐘楼堂
所在地 いわき市平山崎字梅福山5
専称寺は梅福山報恩院専称寺と称し浄土宗の寺である。開山は寺伝によれば応永2年(1395)成蓮社良就十声上人の開基で延徳2年(1490)後土御門天皇の鎮護国家の勅願所の一つとされ奥州本山となり全国にその名が知られた。
専称寺鐘楼堂は寺所有古文書によれば安永7年(1778)の建立(鐘楼堂通肘木に安永8年の墨書銘あり)で棟梁は湯長谷村の永野藤亮である。
近年全体的に腐朽甚だしく不等沈下もあり崩壊寸前のため宮大工松本庸一氏によって昭和58年復元された。
この堂は高さ13.8メートルで段地を利用して建てられた懸造りの一種で袴腰付鐘楼堂であり江戸時代中期の作である。屋根は入母屋造り木端葺であったが明治末期に瓦葺にし、今回の復元工事によって木羽葺きの形が銅版葺きによって再現され全体的に均整のとれた優美な外観を呈している。
指定・昭和59年1月24日 いわき市教育委員会』(現地案内文より)

いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」の説明では、

『…斗は腰組共、和様三手先組で拳鼻付き、軒は二軒本繁垂木、斗間には蟇股が配されている。破風は千鳥破風で、その中央には鏑懸魚が付けられている。
軸組は直径二九㎝の朱塗りの円柱七本が建てられ、その上部を台輪・頭貫・長押でつなぎ、堅固な骨組になっている。窓は四周に格子戸が嵌め込まれ、高欄は高さ五三㎝の組高欄となっている。蟇股や拳鼻などの細部に一部禅宗様式も取り入れられているが、全体的に和様を主体とした建築様式である。
二階床は板張りで、中央九〇㎝角が吹抜けになっていて、そこに根太格子が取付けられている。さらに腰組より下部の軸組は、三〇㎝角の八本の柱で支えられ、一辺三・七mの正方形の空間を構成している。土台は段地部外側まではね出していて、これに斜めの受け梁が架け渡されたり、変形を防ぐために方杖(ほうづえ)などを用いたりするなど、細部に工夫された技法が施されている。また、この軸組を保護するために、外側に美しい曲線をもつ押縁下見板張りの袴腰が付けられ、優美な外観を呈している。(抜粋)』

鐘楼堂例によって30%くらいしか理解できませんが、言われてみれば美しい鐘楼です。
特に斜面に立っているのが美しくもあり迫力もかもし出しているよう感じます。実にバランスの妙とでも言うのでしょうかね。


鐘楼堂の横の階段の参道を上ると、そこには山門があります。ここから伽藍(指定では総門からということになっていますが)に入ります。

専称寺伽藍

山門階段を昇って山門の下にきました。
かなり新しい山門で「梅福山」の山号額がかかっています。赤を貴重としてポイント部分に白色を使ったシンプルな山門です。


雰囲気ある塀この山門の左右には伽藍を塀が囲んでいますが、この塀が実に歴史的な雰囲気(ぶっちゃけ古い!)を匂わしています。
時代劇にでも出てきそうな風情です。


シンメトリーの松山門を抜けて境内に入ると中央に芸術的(本当に理解しているわけではないのですが)な松があります。
微妙に横になった松の木はシンメトリー的なイメージで古さとは違う、鮮やかとでも言いましょうか、そんな雰囲気です。


本堂その松の先に本堂があります。


『国指定重要文化財 専称寺本堂 一棟  平成3年3月22日指定
所在地 いわき市平山崎字梅福山五
所有者 専称寺
形状 木造・入母屋造り・鉄板瓦葺(元茅葺き)・平入り・向拝付き
桁行 22.36メートル(11間) 梁行 18.04メートル(9間)

梅福山報恩院専称寺は、応永2年(1395)良就上人十声大和尚が開創した浄土宗名越派の寺です。
現存する本堂は、東斜面の丘腹に拓いた平地の中央奥に東面して建ち、向かって右に庫裏と離れ座敷(方丈)、左に開山堂を別棟で接続させています。一重の切石積基壇上に建つ11間に9間の身舎は比較的大きく、簡素ながら力強い外観を持っています。
堂内では、外陣に架ける大虹梁上の大瓶束をはじめ、内陣前通りの欄間彫刻、来迎柱上の組物などの細工はいずれも入念で、一部には丹塗りや極彩色が施されています。
この本堂は、「名越壇林総本山専称寺記録」(第60世良功記述、年代不詳)によると、寛文9年(1669)の火災により倒壊し、第16世大祖良厭上人により同11年(1671)に再建されたと伝えられています。
本堂の組物や装飾を観察すると地方色はまだ少なく、かつ江戸初期らしい華麗さを併せもっている状況から、寛文11年に再建されたのは間違いないものと考えられています。
福島県教育委員会』(現地案内板より)

切石積基壇”一重の切石積基壇”の基壇とは古代寺院建築で水はけをよくするために、地盤より一段上に構築して側面を石積し壇と見せた物で、特に床下を作らない場合に基壇を設けるそうです。


一般的には一重だそうですが、まれに鐘楼などに二重があるそうです。
基壇の積み方には最も格式の高い「壇上積み」から自然石を積み上げた「野面積み」の6つの型式があります。
その中で切石積基壇は花崗岩などの表面を仕上げた四角の切石を、規則正しく積み上げた基壇で、比較的多く存在しているそうです。
この基壇の上に建つ本堂の概観は確かに簡素ですがどっしりとした感じが伺えます。また、歴史の割には「総門」ほど老朽化をしているようには見えませんね。

本堂内部本堂内部本堂内部参拝をすましてから本堂の中を覗くと、内観に関してはかなり古さを感じさせ、扁額がより一層の歴史を漂わせているようです。


例によって建築様式、建築用語がよくわからないので、ここはさらっと見ておくに止めておくしかありませんが、再建された当時の美しさを想像することは容易そうですね。

庫裏一旦外に出て、その基壇にそった右側を見ると茅葺屋根の「庫裏」があります。


『国指定有形文化財(建造物) 専称寺庫裏 一棟
指定 平成十六年七月十六日
所在地 平山崎字梅福山五
所有者 専称寺

江戸時代 桁行 一七・一七m、梁間 七・六三m、床面積 一九三・六六㎡
庫裏と言われているこの建物は、本堂に向かって右側に位置し、廊下で本堂に接続している。火災による伽藍焼失後、専称寺第一九世良弘上人曇星の代に、方丈、庫裏、合わせて二一間の再建が行なわれた。また、明治四十一年から大正元年にかけて総修築が行われ、現在の形に修造されたと思われる。
この建物は、木造平家建の茅葺き寄棟造りの建物で、玄関・廊下・床の間・仏間位牌の間・奥行き半間に間口二間付の一二畳の仏間・落縁・土間で部屋割される。土間の上部に現在は中二階が作られているが、創建当時は物揚天井であったと考えられる。
基礎は沓柱建て、一部土台敷である。外壁は漆喰塗りで、腰に簓子下見板を貼る。前面に内法一・七二七m(五・七尺)の二筋鴨居が付き、高さ○・九六九m(三・二尺)の二枚引き違い硝子窓が付けられている。前面には近年復元修理された向唐破風平瓦葺きの朱塗り平入の玄関が付き、後側の下屋も同様に平瓦葺きである。
総体的にみると食堂的要素の強い建物であり、改修痕跡から数回にわたる修理が行われてきたことが分かり、生活環境の変化に伴い間取が改造された様子が伺える。江戸時代初期から中期に至る過渡期の、大規模な庫裏として重要な建物である。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

茅葺屋根と向唐破風平瓦葺きの朱塗り平入の玄関がアンバランスでもあるように感じますが、それもまた歴史の上での妙味とでも言うのでしょうか。 かつて200人以上の僧の壇林として、学習・修行の場が本堂を中心としたものなら、生活の場が「庫裏」だったのでしょう。
禅寺では、学僧を中心として住僧以下の僧侶や仏前に供える食事を調理する場所で僧堂と兼ねる場合、これを大庫裏(大庫院)と言い、これに対し、方丈建築の近傍に設けられるものを小庫裏(小庫院)と言い、住持の内侍や客院などの厨房を指すそうです。
そう考えるとここは大庫裏だったのでしょうね。

開山堂反対側の左手には同じ基壇の上に「開山堂」があります。いわゆる良就を祀った堂と考えれば良いのでしょうかね。
「開山堂」もなかなかの風情を持っていて、本堂との回廊の塀がまたなんともいえない雰囲気を出しています。


境内の碑と石塔この「開山堂」の更に左側にはいくつかの石塔、あるいは墓石がいくつか並んでいます。
中央には石碑が建てられていますが、何を意味するのか判読できませんが、寂光院跡、衆寮跡とかに何か関係するのでしょうかね。


文化財の数々

伽藍の中心となる建造物一渡り伽藍を散策しましたが、建物のほとんどが文化財それも重文であるとは、やはり歴史のなせる業とでもいうのでしょうか。


木造聖観音菩薩立像建造物以外にも文化財が多くあるようです。その一つが「木造聖観音菩薩立像」です。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『市指定有形文化財(彫刻) 木造聖観音菩薩立像 一躯
指定 平成元年十二月四日
所在地 いわき市平山崎字梅福山五
所有者 専称寺

室町時代初期 像高 六九・二㎝
専称寺書院に安置されている木造聖観音菩薩立像は、宝冠をいただき、天衣・条帛をかけ、裳をまとって立つ。左手は腹前に屈臂して未敷蓮華を持ち、右手は胸前にかまえ、掌を体側に向け、五指を伸ばす聖観音菩薩の通例の姿をみせている。
頭部は髻頂より両耳前を通る線で前後二材を矧ぎ合わせ、体部も体側を通る線で前後二材に矧ぎ、両肩、肘、手首、足首をそれぞれ矧ぎ寄せる寄木造りの構造で、玉眼を嵌入し、肉身部に漆箔が施されている。
台座軸棒には次のような墨書銘がある。

  夢相感得我開祖梅福山
  専稱寺開基最初祭鬼門
  勧請観世音菩薩丑寅間
  祈報恩院繁栄焉
   永享五癸丑年□理□(中)
                   謹而書之

この銘文によると、専称寺開祖良就上人が同寺を建立した時に、鬼門である丑寅の方角に観世音菩薩を勧請して、寺の繁栄を祈願したことを理中(三世良鑑上人)が夢相感得し、永享五年(一四三三)に本像を造立したことが知られる。
本像は全体に洗練された作風をみせ、中央の仏師の作と考えられ、室町時代初期の在銘像として貴重な作例のひとつに数えられる。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

形状の良し悪しは良くわかりませんが、やはり室町時代初期の作品ということが非常に興味深い文化財です。

専称寺文書また、歴史のある古寺ならではの文化財が「古文書」です。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『県指定重要文化財(古文書) 専称寺文書 一括 (附)文書箱授手印状箱
指定 平成十四年三月二十九日
所在地 いわき市立平字山崎字梅福山五
所有者 専称寺

室町時代~昭和時代
専称寺は梅福山報恩院と称し、かつては浄土宗鎮西義の一派である名越派の総本山として栄えた寺院である。名越派とは、浄土宗の開祖法然上人より四代目の良弁上人尊観が、鎌倉の名越谷の善導寺に在住したので、尊観の教えを名越派と称するようになった。
名越派の発展は尊観の孫弟子にあたる良山上人妙観が鎌倉末期に磐城に布教し、如来寺を開山、さらに上人の門弟の一人である良天が折木(広野町)に成徳寺を、同じく門弟の良就代(二有誠の門弟とも)が応永二年(一三九五)に専称寺を、また良天の弟子にあたる良栄が下野の大沢に圓通寺を各々開山したことによる。これら四ヶ寺を名越四本寺と称し、各々全国に布教し、特に津軽・南部・山形・仙台に広まった。
専称寺六代の良大の活躍にともない如来・成徳の両寺は衰退し、しだいに名越派は専称寺が中心となっていった。特に江戸時代に人り幕府は、万治四年(一六六一)に正式に名越派の檀林として、専称寺・圓通寺を認めたことにより、専称寺は実際には自分の末寺二一九寺のみを支配するのではなく、如来寺三一ヶ寺・成徳寺三五ヶ寺の末寺をも支配することになった。
こうした事実や歴史を踏まえて専称寺文書を見ることにより、東北の宗教史だけでなく、近世仏教史を垣間見る重要な史料であることがわかる。特に歴代住持の附法状(授手印状)は、先住が朱で手印を押し後住に渡すが、この状は名越の伝法・伝戒を正しく伝えたことを証する当寺最高の文書である。さらに、惣本山知恩院の徳誉・浩誉上人らの書状は、専称寺と知恩院との結びつきを知るものである。江戸時代名越の本山としての役割を知る上での増上芋の源誉上人の書状や、浄土宗法度・名越檀林定書など極めて重要なものばかりである。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

歴史のみだけでなく奥州における専称寺の権力もあって、より重要な文書があったのでしょう。改めて専称寺の歴史を見るとその支配力が如何に広大な範囲だったのかが驚きとともに実感してきます。
200人以上の学僧たちが日々研鑽を続け、奥州の頭脳集団として崇められたのかも知れませんね。キャンパスを歩く東大…東北大学のエリート達の様なもんでしょうか。

黒漆塗金蒔絵葵紋几帳このように政治的・宗教的に見るべきものがある専称寺の文化財ですが、別の一面もあるようで、「黒漆塗金蒔絵葵紋几帳」という調度品も文化財として指定されているようです。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『市指定有形文化財(工芸品) 黒漆塗金蒔絵葵紋几帳 一具
指定 平成四年三月二十七日
所在地 いわき市平山崎字梅福山五
所有者 専称寺

江戸時代 高さ 一五九・三㎝、幅 一九一・○㎝
この几帳は、祐天上人(一六三七~一七一八)に厚く帰依した五代将軍綱吉の養女竹姫(?~一七七二)が、江戸・目黒の祐天寺に寄進した宝物の中の一つである。その後この几帳は、祐天寺住職を隠居した上仁井田村(四倉町上仁井田)出身の祐海上人(六八一-一七六〇)によって延享四年(一七四七)に、柱隠しと共に故郷の専称寺に奉納された。その時の寄進状には水引と記されているが、几帳とも呼ぱれ室内の間仕切りなどに使われる、部屋を飾る調度品でもある衣桁と同じものである。
この几帳は鳥居状の衣桁架形を呈し、材料には檜を用い、上段桟・中桟・下桟・立桟・足台の部材の組み合わせで、黒漆塗りの金蒔絵に三葉葵紋五四個を散らしている。組み合わせ部分は銅板金具で巻き、金具は葵紋・唐草紋によって装飾され、地には魚子を打ち出している。現在でも漆塗や蒔絵は損傷もなく精巧さを保っており、いかにこの品が優れた技術で仕上げられているかを示すものである。
竹姫は清閑寺大納言熈定の女で、綱吉の養女となり、将軍に愛されて育ったが、婚約者が亡くなるなど不幸が重なったため、祐天上人に帰依したという。 この几帳は幕府御抱え職人による作品で、江戸時代の調度工芸の優品である。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

衣桁は基本的に着物を掛けておく家具のことですから、間仕切りに使われる几帳とは違うのではないかと素人は思ってしまいますが、衣桁自体が間仕切りに使われているのですかね。
いずれにしても、数奇な運命の几帳とでもいったらようでしょうかね。

鐘楼堂実にバラエティにとんだ文化財を持った専称寺ですが、最後に境内の塀から鐘楼堂に渡れますが、結構揺れる足場なので遠慮しておきました。
夜は怖いですねここは。


などと思いながら梅林を抜けて専称寺を後にしました。
あるネットサイトに重文に指定されたことを受けて、遠藤住職は「古い寺なので、復興のめどが立たずにいる。指定を受けることで、めどが立つようにもっていければ」と語っていました。
歴史や由緒だけではメシは食べられませんから、やはり神社仏閣は多角経営の時代なんでしょうね。そんなことを感じさせる専称寺でした。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks