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如来寺

専称寺の次は是非とも嘗ての壇林であった如来寺を訪ねないわけにはいかないでしょう。如来寺は専称寺から車で5.6分の同じ道沿いにありました。

如来寺楼門遠くからでも良く目立つ真っ赤な楼門がそびえています。またその隣には大きな石灯篭もありました。


如来寺由来
鎌倉時代の末頃真戒比立尼が鎌倉から193尊の阿弥陀如来を奉持して、この地山崎に居をさだめた。大国魂神社の山名行阿は真戒比立尼に帰依し寺を興した。元亨2年(1322)石川郡和泉(石川町)の僧で浄土宗名越派第三祖高蓮社良山上人妙観が当地方に布教に来て初めて名越の教え(一念業成)を説いた。山名行阿は深く師事し自ら建てた寺に招き開山の祖とした。この寺の院号は、先の真戒比立尼の真戒をとっている。
また、当寺は名越派の壇林寺として僧侶の教育の場としたため修行僧が各地に寺を開き奥州総本山として栄えた。こうして如来寺の壇林は第17世まで続き、次の代に専称寺に壇林をゆずり、故本山となった。徳川時代には歴代将軍より20石の御朱印寺領を受けていた。現本堂は江戸中期の造営とされている。(以下省略)』(現地石碑文より)

要するに専称寺が開かれるまでは壇林が置かれて名越派の中心的な寺院として、多くの優秀な人材を輩出した名刹だということです。

如来寺本堂楼門をくぐって正面には「本堂」があります。


江戸中期、寛延4年(1751)の造営だそうですが、その割には古さを感じさせない立派な本堂です。
参拝をしようと本堂の前に行くと、檀家信徒以外は立ち入り禁止と張り紙があり、観光気分ではいけないことを教えられた気がしました。結構寺社巡りなどが流行っているようですが、すべてがすべてマナーのよい人たちばかりではありませんから、管理される方も大変なんでしょうね。
確かさいたま市の【与野公園とバラ園】 では、与野公園のすぐ近くにある円乗寺はバラ祭り開催中はシャットアウトということで、入ることができませんでしたから。
どこもありがたいことではあるのでしょうが、痛し痒しといったところでしょうね。

この如来寺も専称寺と同じように嘗ては壇林が置かれていたこともあって文化財が多いようです。

如来寺蔵典籍一つに「如来寺蔵典籍」とい文化財があります。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『市指定有形文化財(典籍) 如来寺蔵典籍 一四一冊
指定 平成七年四月二十八日
所在地 いわき市平山崎字矢ノ目九二
所有者 如来寺

如来寺は浄土宗名越派三代良山上人妙観(一二九二~一三六一)によって、鎌倉末期ないし南北朝初頭に開山された。浄土宗名越派とは、浄土宗の開祖法然上人の孫弟子にあたる良忠上人の門弟良弁上人尊観が開いた一派で、一念業成を基本とし、さらに尊観の門人良慶上人明心が、三心具不生を付け加えて教義とする派である。良山の磐城布教により東北・北関東に広まり、北はアイヌ民族、南は琉球王国へと幅広く教線が伸びていった。寺院数は五百ヶ寺を越え、如来寺はその派の原点の寺院であった。

如来寺において良山は、各越派の基本教義に基づく多くの著作をなした。『浄土初学抄題額集』・『開題考文抄』・『果分述伝集』・『果分考文抄助証』・『初心示大端』・『四部口筆』・『選擇口筆』・『開題考文抄口筆』・『阿弥陀仏十抄成仏事』・『明中抄』・『師恩報謝論議事』・『弥陀授記事』などが主な著作である。こうした著作のほか、宗祖法然や良忠・良弁などの先師の著作を加えて「月形函」に秘蔵されてきたのが如来寺典籍の基本である。
残念なことに著者の自筆本ではなく、すべて室町時代初頭から江戸時代初期に至る三百年間の写本である。
しかし写本といっても内容はもちろんのこと重要なのはその奥書である。例えば『開題考文抄』の場合「干時応永五年戊寅(一三九八)七月十九日小楢葉村折木談所之書、筆者通慶覚天之生年卅五才」とあり折木の地名が見える。他に文明十年(一四七八)より数年間に渡り多数の書を写本した良寿、如来寺の良懿・良璋、専称寺の良拾、圓通寺の良順、沖縄へ渡った良定上人の自筆本もかなり多く、県内では他に見られない中世期の写本群である。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

写本といえども価値ある写本ということです。このあたりはやはり嘗ての壇林故だからでしょうかね。

十王図浄蓮社良清上人画像また、絵画においても「十王図」と「浄蓮社良清上人画像」の2点が文化財となっています。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『市指定有形文化財(絵画) 十王図 九幅
指定 平成十三年四月二十七日
所在地 いわき市平山崎字矢ノ目九二
所有者 如来寺

江戸時代初期 縦 一二九・六㎝、横 四四・六㎝
道服を着た十王と、罪を問われる亡者達を描いた本来一〇幅仕立ての十王図であるが、現状は九幅のみ遺されている。
各画幅に、斎日と十王の名を記した位牌形の名札が記載されておらず、また画面上に本地仏や賛も記されていない。各幅裏面には、如来寺四六世鈴木知周により、明治四十三年(一九一〇)に赤井村の鈴木峯次郎が表装したことを墨書で記している。
また、「如来寺史』によると天和元年(一六八一)に、内藤義概の命により、家老である松賀族之助をはじめとする家臣たちが、損傷した十王図を修復、寄進したことが知られる。それによると各幅ごとに家臣の名と年号が記されていたが、明治四十三年の修復時に、それらの銘記はすべて取り去られ残されていない。
各画幅のなかには三途の川を描いた場面(初江王)、善悪の秤を描いた場面(五官王)、業鏡を描いた場面(閻魔王)などが描かれる典型的な「地蔵十王経」に基づく十王図であるが、各冥界の王や眷属、さらに亡者の表現において、中国請来の陸信忠、金大受系列の十王図及び朝鮮渡来の十王図とは考えられず、国内においてさまざまな十王図を組み合わせ、解釈された十王図のひとつと考えられる。
制作時期については不明であるが、天和元年における修復が行われたことを考えると、江戸時代初期あるいは江戸時代以前の作とも推測される。特に鉄臼の中で亡者が獄卒に突き殺される表現がみられる画幅(五道転輪王)が、文禄三年(一五六〇)に刊行された「地獄十王経」にみられる挿図と近似しており、如来寺本の成立時期を示唆する資料のひとつとして注目される。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

『市指定有形文化財(絵画) 浄蓮社良清上人画像 一幅
指定 平成十三年四月二十七日
所在地 いわき市平山崎字矢ノ目九二
所有者 如来寺

江戸時代前期 縦 一二九・六㎝、横 四四・六㎝
この良清上人画像は、現在では描かれた絹地(本紙)のみが遺っている。かつては表装されていたと思われるが、その裏地が剥がされたものである。絹地には亀裂が走り、また絹地そのものの劣化が著しい。画面左上に「浄蓮社良清上人」と墨書され、肖像画の人物が如来寺二二世良清上人であることが記されている。
幸いにも後屏付き椅子に法被を掛け、払子を右手に持つ良清上人を描いた顔料及び金泥がよく残されており、良清上人その人の様子をよく伝えている。また画面と同一の絹地に一文字と中、風帯が描かれており、いわゆる描表具が施されている。この描表具は、県内の他の肖像画にほとんど例がなく、その意味でも貴重である。
『如来寺史』によると二二世浄蓮社良清上人は、専称寺一五世良静上人の門弟で、大念寺を開山し、その後相馬領内に移り、南屋形村(相馬郡鹿島町)の阿弥陀寺二〇世となっている。延宝八年(一六八○)如来寺住職を辞し、元禄十四年(一七〇一)に入寂している。
良清上人は、寛文七年(一六六七)に如来寺の縁起を作成したと寺史にあり、遺影とすれば元禄十四年以降となるが、延宝八年における如来寺住職隠退の時期の寿像とすれば、延宝の頃の作と考えられる。如来寺に遺された数少ない歴代住職の画像であり、絵画及び歴史資料として貴重である。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

絹本著色阿弥陀三尊像また、現在はいわき市所有ではある重文「絹本著色阿弥陀三尊像」も元は如来寺のものだったそうです。
《写真:(C)いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」》


『国指定重要文化財(絵画) 絹本著色阿弥陀三尊像 一幅
指定 大正四年三月二十六日
所在地 東京国立博物館寄託中
所有者 いわき市

鎌倉時代後期(一三世紀) 総縦 三二三.五㎝、総横 一六六.八㎝ 本地縦 二四三㎝、本地横 一四二㎝
本図は阿弥陀三尊の立像来迎図で、阿弥陀如来は画面の中央に少し横向きで踏割蓮台に立っている。その前方右の観世音菩薩は腰をかがめて蓮台をささげている。左の勢至菩薩も少し腰をかがめて合掌している。両菩薩は踏割蓮台に立ち、本尊とともに雲に乗って往生者の所へ降りて来る様子を示している。
三尊ともに皆金色像である。画面の虚空部は群青を塗り、三尊の肉身は金泥地に朱墨の肉線を描き起こし、口唇に朱、頭髪や眉には群青、衲衣は金泥地に截金文様を加えている。
脇侍の瓔烙は群青と緑青で玉飾りをあらわし、宝冠部は裏箔を押して墨線で細部を描く。踏割蓮台は緑青地で、その輪郭と蓮弁に截金を用いている。飛雲は胡粉地に墨線の縁どりを加えている。
本図は皆金色の薄い目の彩法で、各部に施される紗綾形や七宝をはじめとする文様の描写からみて、鎌倉時代後期の作と思われる。来迎図の中では異例の大幅で堂々たる風格を持ち、保存も良好である。
また絹地が一幅一鋪の雄大な絹幅であることなどからも資料的価値が注目される。本図は大国魂神社の神主であった山名行阿が如来寺に寄進し、伝来してきたものである。
また明治四十三年本図修理の際に、割軸中から次のような以前の修理の銘が発見された。

  応仁二年戊子八月十五日修複之俊雅
  細工師乗仙客僧
  天文六年辛亥十月晦日細工師京都人廣田与十郎法名全高
  奥州岩城矢野目如来寺十二代良璋本願敬白』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

こう言った文化財が好きな人にはたまらない、文化財ストリートかもしれませんね。

手水舎本堂の手前に手水舎がありますが、ここにも専称寺と同じ龍の蛇口です。
傍に石碑があったのですが、専称寺と如来寺の手水舎は同じ団体の寄贈でした。


境内の堂本堂の横には2つの堂が斜向かいに立っています。これらは古そうですが由来はわかりません


このあたりも嘗ての壇林を彷彿とさせるものでしょうかね。
いずれにせよ嘗ての壇林であった2つの寺を巡り、当時の息遣いを感じる思いでした。

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