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湯本周辺

昼もずいぶんと過ぎたので一旦自宅に戻り、昼食をとり一休みしてから、ぶらりと散歩に出ました。
かなり気温も高く汗ばむ陽気でしたので、午後からはあまり遠くには行かずに湯本周辺をのんびりと散策です。

温泉スタンド

自宅の近くに以前からあったことは気付いていたのですが、まじまじと見たことがなかったのでじっくりと観察してみました。

温泉スタンド歩いて1分ほどで「いわき湯本 温泉スタンド」と書かれた看板が立っています。
更に看板の上には「わが家で温泉」とも…


温泉スタンドの利用について
1.この温泉スタンドはカード式ですので専用カードをお買い求めの上、ご利用ください。
1.この温泉は、営業用を除き受給者自身の浴用に限り、その他の転用または、転売は一切禁じます。
1.スタンドの利用時間は、午前7時から午後8時までとします。
1.きまりを守って頂けない方は、利用をお断りいたします。
(中略)
お問い合わせは、いわき市常磐湯本財産区』(現地案内看板文より)

これが【いわき湯本温泉散策 #1 ~温泉神社~】のときに調べた湯本財産区の温泉スタンドのことだったのですね。
こんな身近にあったとは、灯台下暗しとはこのことでしょうね。

温泉スタンド温泉スタンド給油機が3台並んでおり、その先に貯湯槽が2基立てられています。当然車で運ばなければなりませんから、スペースを広く取ってあるのです。


温泉トラックまた、隣の駐車場には「いわき市福祉協議会」の温泉トラックがあります。お年寄りなどの家庭に届けるためでしょうか。いずれにしても気分はリッチですね。


ちなみにこれいくらだったのでしょうね。今度行ったときに調べてみましょう。

金比羅神社、摂末社

村社諏訪神社社号標ここからは約5,6分ですが車で「金比羅神社」にむかいました。
駐車場に車を止めて少し歩くと鳥居と「村社諏訪神社」と刻まれた社号標が立っています。


左右に分かれた階段金刀比羅神社社号標鳥居を抜けて参道を行くと右手に左右に分かれた階段と「金刀比羅神社」と刻まれた社号標が立っています。


このあたりは木がうっそうと茂っていますが、「保存樹林等指定標識」となっているようです。

保存樹林等指定標識
樹林名 カシ林
この森のアカガシ、シラカシ、タブ、クスノキは暖温帯の樹木で日本の北限地帯に生育する樹木です。阿武隈山地に多いシデ類が混ざっていて、いわき市が暖温帯と冷温帯の中間にあることを示します。スギは植えられたもので神木として尊敬されています。市街地に生育するこの森は防災防風防音上有用でこの地域気候緩和大気浄化に役立っています。
面積 約3,000㎡ 指定 昭和55年9月1日 指定番号 18』(現地案内板より)

神木のスギの木ちょうど階段の両側に太いスギの木が2本立っていますが、これなどが神木となっているのですね。


山神社・稲荷神社階段が左右2つに分かれている分岐点に小さな社があります。「山神社・稲荷神社」と呼ばれる神社です。


山神社・稲荷神社
御祭神 山神社:大山祇大神 稲荷神社:宇迦之御魂大神
由緒
昭和53年5月3日
小野田炭鉱の山神社と片倉製糸株式会社内の稲荷神社をこの地に遷座・合祀する。
御神徳
山神社:家内安全・開運・延命長寿 稲荷神社:五穀豊穣・商売繁盛』(現地案内板より)

どちらも斜陽産業なので、維持できなくなったということですね。

諏訪神社とりあえず右側の真っ直ぐな階段を上がると正面に「諏訪神社」の社殿があります。


諏訪神社
御祭神:建御名方大神 相殿神 八坂刀亮大神
例祭日:
春祭 5月4日(元は旧暦4月7日)
秋祭(新嘗祭)11月23日(元は旧暦11月23日)
(夏祭 7月27日 戦中に中止し現在に至る)
氏子地域:関船町の旧積村分・水野谷町・上湯長谷町・下湯長谷町
(湯長谷藩領の関村と天領の上船尾村が明治14年3月18日に合併し関船村となる)

神社に伝わる由緒
延暦20年(801)5月、征夷大将軍坂上田村麿が蝦夷征伐の際、陸奥国菊田郡昼野邑に諏訪大明神を勧請しその討平を祈願したのが始まり。その後、昼野館主大友七郎が、鎮護の神として尊崇し、昼野一郷の鎮守の杜となる。
延久年間(1069~1074)泉田邑に遷座され、泉田館主岡部氏の氏神として代々崇敬奉祀されることとなる。
文永年間(1264~1275)今度は湯長谷郷(現在の下湯長谷町梅の房=俗称諏訪跡)に遷座され、近郷村民皆鎮守の神と崇の奉り、年々の祭典や修繕は怠らず行われていた。
徳治年中(1306~1308)岩城氏岩城三郎隆久が、社殿を再建する。
延宝7年(1679)3月27日初代湯長谷藩主遠山主殿頭(内藤)政亮公が、守護神又鬼門除けの神として、日頃信仰せる関村の金比羅大権現宮(金刀比羅神社)の境内(現在地)に遷座する。
内藤家代々尊崇し、社殿の営繕は勿論、総て藩費で行われた。
明治2年3月、村社に列格する。
社殿は、湯長谷より遷座の折は、徳治年中岩城三郎隆久公が御造営した本殿のみであり、祭典執行上不便を来たすことから、氏子崇敬者の奉賛により、大正14年(1922)11月、現在ある拝殿幣殿及びご本殿の覆いが完成した。』(現地案内板より)

801年といえば平安時代初期ですから、じつに古い歴史を持った神社です。時代時代に忘れ去れることもなく、それ以上に崇敬された結果、引く手あまたの3度の遷座となったのでしょう。とにかく参拝です。

諏訪神社本殿旧金比羅大権現宮址地碑その鎌倉時代末期に再建された本殿に向かうと本殿は修繕中です。
反対側に向うと、そこには「旧金比羅大権現宮址地」と刻まれた石碑がありました。
江戸時代この地に遷座されたときには、ここが金比羅宮だったのですね。


磐城天満宮「諏訪神社」の右側には「磐城天満宮」があります。


磐城天満宮
御祭神:菅原道真公
由緒
平成10年10月
京都北野天満宮より御分霊を頂き、この金刀比羅神社跡地にお祀りする。
御神徳:学業成就・合格・諸芸上達』(現地案内板より)

今まで摂末社は何かの意味合いがあるようですが、この「磐城天満宮」についてはかなり新しいし、特にここに祀られる意味がわかりませんが、全くのあて推量で考えると、単にお参りの人を多く集めるための戦略…的な何か。
家内安全や五穀豊穣ではどちらかといえば年配者がお参りするのですが、学業成就となれば若い人も参拝に訪れるでしょうからね。そして受験生がやがて年を重ねて家内安全などでずっとこの地をお参りするという、まさにライフタイムバリューの考え方ではないですか。生涯顧客というマーケティングを実現するのは、菅原道真公は他の御祭神にはないパワーがあるという証かもしれませんね。してやったり…!?(参拝しましたが、これはきっと罰があたるな。)

ここからは再び諏訪神社の前を通って左手に進みます。

金毘羅大権現宮号標少し行くと「金比羅大権現宮」と刻まれた社号標と朱の鳥居が表れます。とすると、階段の下にあった「金刀比羅神社」の社号標は旧金比羅宮の時のものでしょうね、おそらく。


レプリカの掲額朱の鳥居の横に説明板がありますが、社殿の掲額は寛政12年に湯長谷藩主第9代、内藤政公が奉納したものだそうで、この鳥居の掲額はその複写だそうです。


ここからが金比羅神社の参道ということですね。

ゑびす神社少し先の右手に「ゑびす神社」があります。


ゑびす神社
御祭神:少彦名大神・事代主大神・大国主大神
由緒
平成10年10月
京都東山ゑびす神社より御分霊を頂き、この地にお祀りする。
御神徳:商売繁盛』(現地案内板より)

これも同じような…。この辺でやめておきましょう。ここからいよいよ金比羅宮です。

金比羅大権現宮

さざれ石境内の傍らに「さざれ石」が置かれています。そう、あの日本の国歌の「さざれ石」です。


さざれ石
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
この石は国歌「君が代」に詠われている「さざれ石」です。
学名を「石灰質角礫岩」といい、石灰岩が永い歳月をかけて雨水などで溶解され、その時生じた粘着力の強い乳状液が次第に大小の石を凝結して、自然に大きな巌をとなったものと考えられています。
岐阜県春日村 産出 平成13年12月3日』(現地案内板より)

珍しいものではあるのですが、ずいぶん前に日枝神社の「さざれ石」を見ていますので、それほどの新鮮さはありません。
結構多くの神社にあるのですかね。奇妙な石ではありますが。

社殿社殿境内の右側に社殿があります。かなり立派な社殿で内外ともに結構新しそうです。
まずは参拝しました。


寛政12年の掲額この社殿の掲額が先ほどの寛政12年の掲額でしょうね。


もともとこの金比羅神社は永正2年(1505)ですから室町時代に創建されたそうで、周辺の漁業関係者から信仰の対象となっていたのですが、戦国時代の戦火によって消失したそうです。
その後も海難事故などが続いたため、江戸時代に入って金比羅神社の総本宮である讃岐の金刀比羅宮に出向き安全祈願をしたところ、たちどころに事故が起きなくなりました。そうしたことから宝暦年間(1751~1764)に再びここに金毘羅神を勧請し社殿を造営したそうです。

この金比羅神社を含めて全国には多くの金比羅神社がありますが、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)、琴平神社(ことひらじんじゃ)、金比羅神社(こんぴらじんじゃ)はすべて香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮として、その主祭神である大物主神を祀る神社のことをいいます。中には「宮」と称するところもあるようです。

ここの由緒が今ひとつわからないので、本宮である金比羅宮の歴史を調べてみました。

最も古くは、天照大神の弟の大物主神が瀬戸内の海水が山麓を常に洗い、湾奥の立地のよい碇泊所であった琴平山(象頭山)に宮を造営し、表日本経営の本拠地として中国・四国・九州の統治をしたことから、その跡地に大物主神を祀り琴平神社と称したそうです。
中世以降になると、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする神仏習合思想、すなわち本地垂迹説によって仏教の金比羅(釈迦を助けた十二神将のひとりで、漢訳して官毘羅(グビラ)大将、金比羅童子とも言う)と習合して金比羅大権現となったのですが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって神仏習合の金毘羅大権現は廃止され、大物主神を主祭神とする神道の神社、いわゆる現在の金刀比羅宮となったそうです。そして現在日本全国に約600社あり、金刀比羅,金比羅,金毘羅,琴比羅,琴平など,さまざまな表記がなされています。
また、このような由緒から、海により関係の深い金比羅神社を海の守り神であるということから、江戸時代金比羅信仰が生まれ、広く漁業・船舶関係者の尊崇を集めたのだそうです。
そしてこの金比羅神社は香川県・琴平町の総本宮である金刀比羅宮、千葉県・いすみ市の金比羅神社とともに日本三大金毘羅宮の一つと数えられているそうです。

境内の井戸?境内のスギ広い境内には井戸だか釜だかわからないものがあり、またスギの大木が連なっていました。


踊り場のスギ階段を下りると、上がってきた階段と合流します。つまり最初に2本あった階段は社殿をぐるっと円を書くように一方通行で歩けるよう、後に作られたのですね。無理に作ったらしく踊り場からスギがたっています。


毎年1月の例祭はかなり賑わうそうで、湯本駅から神社まで500以上の露天が並ぶそうです。小名浜港を控えた土地柄だけに一層賑わうのでしょうね。したがって参拝客が一方通行で参拝できるように作られたのでしょうね、あの階段は。
是非とも来年の例祭にはこれるように考えましょう。今から楽しみです。

今回は非常に短い時間でしたが、今回はどちらかといえばディープな散策でした。次にくるときは是非とも紅葉の季節がいいですね…って、もうすぐです。

2009.10.17記

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