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見沼田圃 #3

「萬年寺」から一旦南下して「氷川女體神社」へ向います。
今まで各所で知った「武蔵一宮」「3つの女体神社」「竜神伝説」などなど、見沼を語る上でははずせない神社のようです。
まさに見沼とともにあるような「氷川女體神社」への興味は尽きません。

見沼氷川公園

到着してまず気付くのは四方緑に囲まれていることで、田圃の中でも一際、樹木や草花の豊富なエリアです。
それもそのはずで、この辺りは「氷川女體神社」と「見沼氷川公園」とが一体となった地域で、それらを統合してふるさとの森に指定されているからなのです。

浦和市氷川女体神社社叢ふるさとの森 昭和56年3月21日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する、緑です。
祭神として奇稲田姫命がまつられ、神社は崇神天皇の御代に造られたと伝えられています。
境内には、クス、シラカシ、モチ、ヒサカキなどが生育しています。
今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育ててくださるようお願いします。
昭和56年12月 埼玉県』(現地案内板説明文より)

この案内板があるところが神橋で、下を流れているのは当然見沼代用水路で、神橋を挟んで境内の反対側が「見沼氷川公園」で、その一角が「ふるさとの森」に指定されているエリアです。
神橋と見沼代用水路 見沼氷川公園
この「見沼氷川公園」内には案山子発祥の記念碑がたてられているそうです。勿論、さだまさしではなくあの、♪山田の中の一本足の案山子・・・の尋常小学校唱歌です。
この唱歌がこの見沼で作られたことから記念碑がたてられたそうです。
案内板 その「ふるさとの森」に指定されているエリアはスプーンのような妙な形になっており、まずはそこに行ってみることにします。

氷川女体神社磐船祭祀遺跡 道幅は約4、5メートルくらいでしょうか、柵が立っていて徒歩以外では入れないようになっています。

『浦和市指定史跡 氷川女体神社磐船祭祀遺跡
指定年月日 昭和54年3月28日
氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭でした。しかし、享保12年(1727)の見沼干拓によりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここにその祭祀を移して行うことになりました。それが磐船祭です。実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間ですが、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわめて重要なものです。この遺跡は保存状態も良く、また、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡としての価値が高いといえます。
面積 3971平方メートル
祭場(四本竹跡) 径30メートル
御幸道 長さ65メートル
なお、昭和57年度に、復原整備事業を実施しました。
昭和59年10月 氷川女体神社・浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

ここが「民家園」にあった四本竹の使われた「氷川女体神社磐船祭祀遺跡」ですね。
ここで行われた御船祭とは、身を潔めた神主達が神霊を神輿に遷し御座船で見沼を一里余り漕ぎ出し、四本竹と呼ばれた御旅所に至って神酒を奉げる、というものだそうです。

早速先に進みます。両側は樹木に覆われていますが、あえて樹木で覆っているといった感じです。
氷川女体神社磐船祭祀遺跡 途中、左手に小さな祠があります。

そしてその先に神橋があり、そこから先が丸い祭祀場となってて、その周りは水の張られた堀が囲っています。
氷川女体神社磐船祭祀遺跡 氷川女体神社磐船祭祀遺跡

氷川女体神社磐船祭祀遺跡 中央に4本の木が植えられていて、その木の内側にしめ縄で結ばれた4本の竹が立てられています。

氷川女体神社磐船祭祀遺跡 四本竹 まさしくこれが四本竹です。

なんとも表現する言葉が見つからないのですが、恐らく流行の言い方ではパワースポットというのでしょうが、残念ながらそのような気配を感じることはできませんでしたが、歴史を感じさせてくれることだけは確かなようです。

氷川女體神社

「氷川女体神社磐船祭祀遺跡」の反対側の石段の上が「氷川女體神社」の境内です。
氷川女体神社
ふるさとの森にも指定されていたとおり、神社境内はぐるっと樹木で覆われています。

『浦和市指定天然記念物 氷川女体神社社叢 昭和40年7月1日指定
氷川女体神社は武蔵国有数の古社で、大宮氷川神社とともに武蔵国一宮を称していました。かつての見沼に突き出た小舌状台地上に位置しており、見沼とは非常に関係の深い神社でした。
社叢は、クスノキ、タブノキ、シラカシ、モチノキ、サカキ、ヒサカキ、ネズミモチ、シロダモ、チョウジカズラ、ビナンカズラなどの自然林の常緑広葉樹を中心に構成されています。下草にもキチジョウソウなどの暖地性のものが見られ、境内は暖地性植物の群生地といえます。また、スギも樹齢300年を越える大木が見られます。
なお、この社叢は、県の「ふるさとの森」にも指定されています。
平成4年3月 浦和市教育委員会・氷川女体神社』(現地案内板説明文より)

各地にある社叢ですが、文字通り神社には付き物ですが、余り寺院の寺叢というのは聞いたことがありませんが、何故でしょうか。
寺院でも由緒・歴史のある寺院はたくさんあるのですが。

氷川女体神社境内氷川女体神社社叢 石段を登ると結構広い境内が現れます。

参道を進むと早速右側に文化財の説明があります。

氷川女体神社の文化財
氷川女体神社は、見沼低地を見おろす台地上にあリ、武蔵国一宮と称されてさた古社である。古くから支配者の尊崇があつく、中世を中心にそれらに関する文化財も多い。
鎌倉時代金工品の優品として三鱗文兵庫鎖太刀がある。帯執りが針金で編んだ鎮となっている太刀を兵庫鎖太刀と呼び、多く寺社奉納に使われた。この太刀も刀身は鉄の延板で奉納用として作られたことが知られる。全面に三鱗文が施されている。社伝では北条泰時の奉納と伝える。古社宝頬のうち飾鉾には正応6年(1293)、佐伯弘の刻銘がある。
紙本墨書大般若波羅蜜多経は、本来六百巻からなる経典であり、そのうち初めの四百巻は、正慶2年(元弘3年、1333)から暦応元年(1338)にかけて、憎性尊が河越氏一挨繁栄のために写経し、二百巻は、川越中院の僧らによって補写された。戦国時代に岩付城主太田氏一族繁栄のため中院の□芸がこれを真読しており、その識語は注目されている。なお、経櫃三合、請箱三十三口は付指定。
牡丹紋瓶子一対二口、十五世紀美濃地方の作とされ、高花文で、中国の染付〔青花)の文様をよく写している。御船祭祭其の一つ。神輿も御船祭に用いられたもので轅がない。
漆塗り、金銅金具付きである。桃山次代の作とされるすぐれた漆工芸品である。
古代ないし中世に賊する文化財として、古社宝中、古鈴三箇、鉄鏃三本、鳥・魚形祭具四躯、男神像一躯、二枚胴具足一具、鋳銅馬一躯などがある。
後北条氏の文書として大永4年(1524)の北条氏綱制札(三室之郷あて)と元亀3年(1572)の北条氏印判状(女体宮神主あて)がある。天正19年(1591)、徳川家康は、この神社に五十石の社領を寄進し、歴代将軍も継目安堵の朱印状を発した。
なお、本殿は、寛文6年(1666)に徳川家綱(四代将軍)が再興奉行として忍域主阿部忠秋が携わった。

(指定文化財一覧)
県指定有形文化財 工芸品 三鱗文兵庫鎖太刀 一口 昭和47・3・28 (国指定重要美術品) 昭和23・4・27認定)
県指定有形文化財 工芸品 氷川女体神社神輿 一基 昭和47・3・28
県指定有形文化財 工芸品 牡丹文瓶子 一対(二口) 昭和48・3・9
県指定有形文化財 典籍 紙本墨書大般若波羅蜜多経 539巻 昭和47・3・28
市指定有形文化財 建造物 氷川女体神社社殿 一棟 昭和51・3・30
市指定有形文化財 工芸品 氷川女体神社古社宝類 一括 昭和44・5・21
市指定有形文化財 書籍 神明宮扁額 他公建ち達書 一面 昭和63・3・28
市指定有形文化財 古文書 北条氏綱 制札(大永4年8月26日) 一通 北条氏印判状 一通  昭和36・3・31
市指定有形文化財 古文書 氷川女体神社社領寄進及び朱印状 十二通 昭和54・3・28
市指定無形民俗文化財 氷川女体神社の名越祓え 昭和60・3・28
市指定史跡 氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡 昭和54・3・29
市指定天然記念物 氷川女体神社社叢 昭和40・7・1
平成5年1月 埼玉県教育委員会・浦和市教育委員会・氷川女体神社』(現地案内板説明文より)

まさに文化財の宝庫とはこのことを言うのかもしれませんが、実際に見ることのできるものは4つしかありませんが、この案内板に写真が掲載されているので、これを拝見した代わりとしましょう。
いずれも県指定の文化財分です。
氷川女体神社文化財 右が三鱗文兵庫鎖太刀で左が氷川女体神社神輿です。

氷川女体神社文化財 こちらは右が牡丹文瓶子で左が紙本墨書大般若波羅蜜多経です。

さらのその右手には小振りの質素な社があります。
氷川女体神社竜神社

『この竜神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座します。
かつて広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である竜神様を祭る祭祠「御船祭」を執り行ってまいりました。享保12年(1727)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、「見沼田んぼ」となってからこのお祭りは「磐船祭」として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は14世紀から行われていたとも推定されます。
世界最古の閘門式運河ともいわれる見沼通船掘など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心としてさいたま市内に点在する数多くの竜神伝説もその一つと言えます。
見沼代用水と見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と見沼に関わる地域はほぼさいたま市全域に及んでいます。
さいたま竜神まつり会は「文化と歴史を活かした誇りのもてるまちづくり」を目的として平成13年(2001)5月に約50mの巨大な昇天竜を製作し「竜神まつり」を開催致しました。
さいたま竜神まつり会』(現地案内板説明文より)

なるほどこの社は竜神社というのですね。
氷川女体神社竜神伝説 案内板の写真によるとこれがその50mの昇天竜ですか。非常にカラフルな竜です。

となると、ここにも当然竜神伝説が残っているはずで、それは「蓮を作ってはいけない」という伝説でした。
先に見た「氷川女体神社磐船祭祀遺跡」の周りは堀に囲まれていましたが、そこに住む魚は皆片目なのだそうです。それはこの神社の祭神であるクシイナダヒメが、戦の際にハスの茎で目を突いてしまい、片目が見えなくなってしまったかなのだそうです。
そのためにこの見沼田圃では蓮の栽培をしないという風習ができたといわれているのです。また、この池の魚を取ると神罰が当たるというので誰も捕る人はいなかったということです。

参道に戻って参拝です。
氷川女体神社社殿
華美な造りではありませんが、やはり歴史に裏打ちされた荘厳さが感じられます。

三室氷川女體神社 さいたま市緑区宮本鎮座
当社は崇神天皇の御代に、出雲杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。
主祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穂津姫命を配祀している。
当社の御手洗瀬である見沼を囲み、大宮氷川神社(男體社)、大宮中川の中山神社(簸王子社)とともに、三社深い関係にあり「三室」を伝えてきた。
古代、女神を祀ることや、社殿が東方に向いているなど、その創立の古さと由緒を忍ばせている。
中世以来、武門の崇敬を集めており、これらにゆかりのある宝物も多い。徳川家康からは社領50石を寄進され、また徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。
古来からの御船遊神事は、見沼干拓後、磐船祭として行なわれ、その遺跡が現存している。
また、暖地性植物が繁茂する社叢は天然記念物であり、故郷の森にも指定されている。』(現地案内板説明文より)

崇神天皇時代であれば今から約2000年も前になりますが、実際には奈良時代(710から794)の建立と考えられているようです。氷川女體神社の「女體」は、文字通り御祭神である稲田姫命に由来しており、日本書紀のなかでは、稲田姫命は須佐之男命がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされています。
そして大宮氷川神社、中山神社の三社を合わせて武蔵国一宮と称されていたようで、その名残が扁額にある武蔵国一宮です。
氷川女体神社扁額
更にこの三社は一直線上に配置されていて、氷川神社から中山神社間が約3.7kmで、中山神社から氷川女体神社間が約3.0kmだそうで、ほぼ等しい間隔で配置され、更に標高も、氷川神社11m、中山神社9m、氷川女体神社10mとほぼ同じであることから、見沼を見下ろす台地上にあったと考えられ、見沼が氷川三社の成立に関わる重要な位置を占めていると考えられているそうです。
地図 《地図:さいたま市観光コンベンションビューローより》

非常に興味深い内容ですね。

社殿についての説明もあります。

『市指定有形文化財(建造物) 氷川女体神社社殿
昭和51年3月31日指定
この社殿は、本殿・幣殿・拝殿を直結した権現造りの形式をもっています。本殿は三間社流造りで全面に朱漆が塗られていした。また屋根はこけら葺きであったといわれます。これにより本殿は寛文7年(1667)に徳川家綱が再興したものであることが知られます。
拝殿は間口五間の荘重な建築であり、本殿と同時かあるいは元禄の修理のとき建てられたものとみられます。
氷川女体神社は徳川将軍家から50石の社領を受けていた神社で、社殿も規模・質ともに武蔵国一宮にふさわしい優れた建築といえます。
昭和53年9月 氷川女体神社・浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

若干内容が端折られているようですが、実際には寛文7年の銘棟札一枚があるそうで、現在は平成19年に県指定の有形文化財になっているそうです。
氷川女体神社本殿 本殿も質素ながら社叢とあいまって凛とした雰囲気をかもし出していました。

参拝を済ませた帰り際、社殿の左側に道標がありました。
道標

『武蔵国一宮 氷川女體神社の道標
もともと、赤山街道沿いの大間木水深(浦和)の地にあった、この石碑には、「武蔵国一宮」「女體宮道」とあって、赤山街道に面して建立されたものです。
また、当社から北西約400メートルの住宅地の中には、石造の鳥居がありますが、これは安政2年(1855)に、馬場方面から参詣する人たちの便を考えて、大門宿の石工に作られ、氏子たちが奉納したものです。
幕末の頃に相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど、当社への参詣客は非常に多く、篤い信仰を得ていたことを物語る貴重な資料となっています。』(現地案内板説明文より)

確かに「武蔵国一宮」「女體宮道」と刻まれているのが見て取れます。これも見沼の歴史の一旦なのでしょう。
以前【大宮氷川神社】には訪れましたが、現在の壮大な大宮氷川神社と趣は異なり、落ち着いた中にしっかりと歴史が息づいている、そんな感慨を持たせてくれる古社でした。
中山神社にも一度訪れたいものです。

さいたま市立浦和博物館

「氷川女體神社」を後にして最後に訪れたのが「さいたま市立浦和博物館」です。
さいたま市立浦和博物館
もともとこの博物館の歴史は古く昭和34年に当時浦和市仲町にあった玉蔵院の二十三夜堂を借用して開館された約50年の歴史を持つ博物館なのです。
その後、昭和42年には別所沼公園内に移転し、昭和47年に現在地で新たに建設着工・開館されたのでした。平成7年には鴻沼資料館を分館としましたが、平成13年合併により「さいたま市立浦和博物館」と名称変更し、鴻沼資料館を浦和くらしの博物館民家園に移管し現在に至っています。

見所は浦和宿絵図や馬場小室山遺跡人面画土器などの県指定の文化財や、見沼通船堀に関する閘門模型や器材などが展示されており、まさに浦和の歴史、民俗、美術が理解できる博物館なのです。
さいたま市立浦和博物館展示

さいたま市立浦和博物館展示 やはり中央には見沼通船堀に関するモノが展示されています。

ちょうど夏休みの最後の週とあって、学校の宿題でしょうか、調べものをしている親子が何組かいました。
館内は1階にメイン展示があり、ロフト的な2階にも展示品とバルコニーが付いています。

様々な展示品も貴重なのですが、一番興味深いものがこの建物自体なのです。

鳳翔閣 鳳翔閣 もともとこの建物は現在の埼玉大学教育学部の前身の一つであった埼玉師範学校の校舎を一部復元したものなのです。

当時の明治天皇行幸の際にこの埼玉師範学校の校舎を三条実美から名付けた鳳翔閣は1878年に竣工され、埼玉県師範学校や埼玉県女子師範学校が使用したのち、1925年に埼玉県立図書館として移築・使用されていたのですが、老朽化により1959年に解体されたのでした。
そこで、昭和47(1972)年に当時の浦和市立郷土博物館(現在のさいたま市立浦和博物館)が建造される際に、鳳翔閣の前面外観の一部、バルコニーのある部分を復元したという事なのです。
レッズエンブレム そして当時の鳳翔閣=埼玉師範学校は、埼玉サッカーの発祥の地であることから、町の歴史とサッカー発祥という背景から現在の浦和レッドダイヤモンズのチームエンブレムにも描かれているのです。

このように、展示品もさることながら建物自体が浦和の歴史そのものと言ってもよい建造物なのでした。

15年振りに訪れた東浦和界隈でしたが、当然変わってしまったところもあり、変わらずにあの当時のままであったところもあり、ただただ感慨深い面持ちで一杯です。
見沼通船堀や見沼田圃は25年前から知ってはいたものの、ついぞ当時は見ることさえしませんでした。
そんな思いをやっと25年後にして果たせたことにプチ感動するとともに、非常に貴重な思い出となりました。
また、機会があればもう少し見沼に触れてみたいと思います。

2010.9.23記

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