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草野心平 #1

次に向かったのが「背戸峨廊」の名づけ親である草野心平の生家、及び記念文学館です。
草野心平はいわき市が誇る詩人で、”蛙”の詩で有名なのですが、私自身名前だけは聞いたことがあるかな程度の知識しかありませんでした。
家内は一応いわき市育ちですから、学校で教えられるので勿論知っていました。
草野心平に限らず詩などというものには皆目接することも殆ど無く、どちらかといえばどうしても女々しいイメージが付きまといあまり好きな分野ではないのですね。
折角、夏井川渓谷の近くにあるので、とりあえず寄ってみよう程度の好奇心です。

草野心平生家

似顔絵の石碑県道41号線を南下すると、途中に「草野心平生家」の道標があるのでそれにしたがって向かいました。
生家の入口近くに「かえるの詩人 草野心平のふるさと」と刻まれた似顔絵の石碑が来客者を和ませてくれます。


生家こじんまりした生家ですが、建物も庭も綺麗に整備され実に気持ちが良いです。


「幼い日の思ひ出」詩碑庭の一角には「幼い日の思ひ出」と題された草野天平氏の詩が刻まれた詩碑があります。
天平氏は心平氏の弟で、ちなみに心平氏の兄の民平氏も皆、詩人です。


『竜のひげの茂みのなかは静かで  藍の実はひつそりとしてをりました  
五つ六つ掌にのせて えんがはで遊びました  ころころところがせば ころころところがつて  とまりました
また一つ ころころところがせば  ころころところがつて とまりました
冬の日は障子にあたり 睡くなつてゆきました 』

天平の生家でもあるこの旧家での、一人遊びの様子が情景として浮かび上がってきて、この生家にふさわしい詩として碑が建てられたようです。
かつてはちょうどこの碑のあたりに土蔵があったそうで、裕福だった当時が偲ばれます。

和風庭と生家綺麗な庭園をしばし散策すると案内板が立っています。


詩人 草野心平生家
「蛙の詩人」或いは「天の詩人」として親しまれる優れた詩人草野心平は、明治36年(1903)5月12日、この地に生まれる。小川尋常高等小学校(現小川小学校)、県立磐城中学校(現磐城高校)、慶応義塾普通部を経て、中国に渡り、広東の嶺南大学(現中山大学)に学ぶ。その後幾多の精進を重ね、詩人として数々の名誉ある賞を受賞するなど不滅の功績を残した。
また、宮沢賢治の人と作品を世に紹介した功績も高く評価されている。

昭和35(1960)年(57歳)川内村名誉村民
昭和59(1984)年(81歳)いわき市名誉市民
昭和62(1987)年(84歳)文化勲章受賞
昭和63(1988)年11月12日没(享年85歳)

墓地は隣接の常慶寺にあり、墓碑は直筆で「草野心平」とだけ記されている。
見学時間 午前9時~午後4時(11月~3月は午後3時)
休館日 月曜日(祝日の場合翌日)、12月29日~1月1日
いわき市教育委員会』(現地案内板より)

この生家がオープンしたのは2003年4月10日だったそうです。
オープニングセレモニーでは、当時のいわき市長はじめ、いわき市教育長、心平氏の長男草野雷氏などが参列されたそうで、この生家は雷氏から市に寄贈され、今後、教育文化事業団に管理運営を委託し、草野心平記念文学館が案内しているそうです。
ちなみにこの管理運営の委託については評価があり、いわき市のオフィシャルサイトに平成18年度の状況が公表されていました。

『施設名称 いわき市草野心平生家
評価(平成18年度の状況)
1.事業実施・サービス提供の状況(施設活用によるサービス提供について)
・生家ボランティアによる温かい接客、丁寧な案内が実施されており、生家ボランティアから得られる情報も地元ならではのものが多く、モニタリングの評価も高い。
2.施設の維持管理の状況(施設の保守管理、修繕等について)
・施設の維持管理は生家ボランティアを中心に指定管理者で対応している。
・施設内は清潔に保たれ、モニタリングの評価も高い。
3.サービス向上の取り組み(利用率・利用者数の状況、満足度向上に向けた取り組みについて)
・草野心平記念文学館と一体的にサービス向上に取り組んでおり、ホームページに催し物の案内をしている。
・ボランティアによる温かい接客は評価が高い。
4.経費縮減の取り組み(委託料の適正な執行、管理経費の縮減について)
・委託料の範囲内で適正な維持管理がなされている。
・生家ボランティアとの情報交換を積極的に行っている。
5.総合評価(指定管理者による施設管理についての総合評価) /> 適正な管理が行われている』(いわき市オフィシャルサイトより)

ということで、この当時は評価が高かったようですね。

見取り図それでは家の中に入ってみます。
いただいたパンフレットに見取り図があります。


一家団欒の囲炉裏玄関は土間になっていて、炊事などが出来る竈があります。
正面が囲炉裏となっていて、一家団欒の場でもあったのでしょうかね。


記念写真囲炉裏のある部屋の壁に一家の記念写真が飾られていました。


記念写真の間これを撮った場所が隣の部屋の神棚と仏壇の前の部屋の角で、15畳の和室です。


屋根裏土間からこの和室までは昔ながらの屋根で天井板がありません。


奥の間15畳の和室の先には更に8畳と6畳の和室があり、こちらは天井があります。


一番家族の多かった頃は、更にこの先に部屋があったそうですが、現在は取り壊されて(市管理以前のこと)残っていないそうです。
修復・修繕がされているので非常に綺麗な生家です。
ちょうど案内をしていただいた方が「草野」という方でしたので、「ご親戚?」と聞くと、そうではないようで、この近辺には「草野」性が非常に多いからだそうです。

小川の歌ちょうど土間から15畳の部屋の間の太い鴨居の心平氏の書かれた書が展示されています。
「小川の歌」と題された詩、なにやら独特の筆跡ですが、これは「竹筆」といわれる筆で書いたものだそうです。
実に面白い書体ですね。


また、この「小川の歌」は曲も付けられて地元では愛唱されたそうです。

小川の歌
1.阿武隈山脈  南方に みかげ二つ箭 そびえたつ ああ楕円の 起伏 ヤマメや藤や ひよどりの 美しきむらよ 小川
2.くだものは  たわわに実り 稲の青槍 天をさす ああ燦たる まひる シャベルや鎌や 唐鍬の 生産のむらよ 小川
3.草刈りの歌  流れくる 赤松の山 すすき原 ああ平和の しらべ  不正は常に いれられぬ 明朗のむらよ 小川』

底辺に根付いているのは「東北の長閑さ」だそうです。
”蛙の詩人”としての原風景と”平和の人”としての心情を理解していただければ幸い、とのことでした。

さて、最後に案内板にあった宮沢賢治との経緯を調べてみよう。
県立磐城中学校及び慶応義塾普通部の頃から詩を書き始め、すでに手作りの詩集も作成し、少なからず詩関連の仲間も出来かかっていた広東市の嶺南大学の学生であた頃に、いわき中学の後輩から宮沢賢治の詩集「春と修羅」が送られてきたそうです。
心平は一読し強い衝撃を受けて、嶺南大学在学中に出し始めていたガリ版刷りの同人誌「銅鑼」へ、宮沢賢治の参加を求めました。宮沢賢治はこれに応じ、同人誌「銅鑼」に全部で13編詩を発表したのが始まりだったようで、大正14年ごろのようです。

その後、大正15年、詩誌「詩神」では、こう述べています。

『現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。彼の存在は私に力を与える。(中略)。私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。
(中略)。今後彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしいよろこびである。』

また、昭和6年の「詩神」にはかなり長文の宮沢賢治論を発表しています。

『「宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである。」
「次々に生まれてくる世界の古典が<ここにも仲間がいる>と宮沢の芸術に胸をドキツカセルだろう風景は思っただけでも嬉しいことである。」 』

そして、賢治の死後まもない昭和8年「日本詩壇」に載った追悼文では次のように述べています。

『最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線の上の一つの類まれなる大光芒で宮沢賢治があることはもう断じて誰の異義もはさめない一つのガンとした現実である。』

これだけ心平は宮沢賢治を評価していたのですね。
宮沢賢治の年表では、大正13年「春と修羅」を自費出版しましたが、一部評価を得たものの世間一般には受け入れられず、大半の売れ残りを賢治自身が引き取り、岩波書店の学術書と交換してほしい旨の書簡も発見されているそうです。
しかし、賢治の存命中から没後にかけての心平の作品紹介は賢治にとってもきわめて大きな力となったことは間違いないようです。

蛙の折り紙帰り際、折り紙で折った手作りの蛙が山の様にあったので、4匹ほどいただきました。


ちょっと癒される折り紙ですね。ボランティアの評価が良いのも頷けます(物を貰ったから言うのでは無い、断じて…)ね。

常慶寺

心平生家の隣にあるというのですから、寄らないわけにはいかないでしょう常慶寺。実際には2.3軒隣でしたが。
ちょうど法事の最中で、納骨かもしれませんが多くの方が墓地で法事をされていました。

本堂天明飢饉の碑とりあえず本堂に向かうと「天明飢饉の碑」がありました。


『いわき市指定有形文化財(歴史資料)天明飢饉の碑
天明飢饉の碑は、天明の大飢饉に際し幕僚小名浜の代官だった蔭山外記が行った救済策に感謝して、天明6年(1786)5月に上小川村の領民が建立したものです。
石材は桜御影石で、碑に書かれている文は、京都の知積院の僧によるもので、中伊那(信州)の茂八が刻みました。
碑文からは、甚大な被害をもたらした飢饉の惨状と、それに対する蔭山外記の救済活動が読み取れます。
天明3年7月に浅間山が大噴火し灰を降らせ、諸国の天候の悪化をもたらしました。そのため穀物が育たず、金持ちであっても買い求める食糧がなくて飢え、領民の中には集団で米や穀物の貯蔵庫を襲う者まで現れました。道端には行き倒れの餓死者が放置され、飢えた鳥や獣がそれに群がる惨状でした。
こうした領内の状況に対して蔭山外記は天明3年の秋に村々へお触れを出し、穀物を他の領地へ持ち出すことや、酒造の禁止を命じ、蓄えのある領内の村や名主などから、援助米やお金を提供させました。
また、食料にできる草や木の葉の種類や飢饉食の作り方を教え、飢えから領民を救おうとしました。
この碑は、この地での天明の大飢饉の惨状を今に伝えるとともに、領民の救済にあたった蔭山外記の治積を伝える貴重な歴史資料です。
大きさ:高さ225cm 幅83cm 台座高56cm』(現地案内板より)

ちょうど天明3年のこの浅間山大噴火によって出来た溶岩跡が【草津温泉家族旅行】/でたずねた「鬼押し出し園」ですね。
江戸は勿論のことですが、いわきも地も大飢饉の影響があったとは全く知りませんでしたね。如何に大規模な飢饉だったかをうかがう事が出来ますね。

ここで心平氏のお墓を探すことになりますが、どうやら法事中なので寺の方に聞くわけにもいかないので、自力で探索することにしました。
結構広い墓地で、中央付近で法事をされているのでなかなか見つけることが出来ません。また、それ以上に見つけるのを難しくしているのが、何割を占めているのでしょうか「草野」性の墓地の多いこと…
3つ隣はすぐ「草野」といっても良いほど、「草野家」の墓が多いのです。しばらく探してみましたが、時間もないことなので今回はお参りせずに帰ることにしました。

またいつか機会があれば訪れてみたいです。

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