玉山古墳と薬王寺

国道6号線を一旦蟹洗温泉方面に戻り、そのまま先に進んで6号線を右折し県道41号線を進みます。 途中、常磐道四ツ倉IC方面の交差点までは良く通っていた道ですが、ここから西方に行くのは初めてです。
全くのどかな田園風景のなか車を進めます。

今日の2番目の目的地は「八莖寺」です。先の「波立寺」とともにいわき三大薬師の一つで、この41号線を途中で右折して山間を八莖町方面に向かいました。
しかし残念なことにこの日3つ目のアクシデントです。
2度あることは3度あるの通り、完全に山道に迷ってしまいました。そもそも車にナビも無いのに適当な地図1枚でふらっと廻っているのですから無理からぬことでしょう。
紅葉その辺は自業自得としても、戻れなくなるのは大きな問題です。尋ねようにも人も民家も無くひたすら感をたよりのドライブですから。
なんだかんだとあせりながら走らせていると、結局ひょいと41号線に出たのでとりあえずは一安心の態でした。途中の紅葉は綺麗でしたが。


どちらにしても詳細な地図も何もないので、仕方なく今回「八莖寺」は諦めることにし、41号線をそのまま進むとどうやら来た方角(常磐道への交差点方面)に向かって走っているようでした。
途中、案内板が立っていたところがあったのでどうせ暇だからと立ち寄ってみることにしました。

玉山古墳

玉山古墳「金光寺」という寺院の前にその案内板が立てられていました。


『福島県指定史跡 玉山古墳  県指定 昭和55年3月28日
玉山古墳は、金光寺裏山にある後円部を東に向けた前方後円墳です。墳丘上には葺石と思われる直径15~20cm大の河原石が散在しています。前方部南側付根と、北側先端の斜面から採取された土師器から、5世紀前半ごろに造営されたと推定され、市内最大の盟主的人物の墓と考えられます。
墳丘の全長は108~118mあります。東北地方で全長100m以上の前方後円墳は、会津坂下町の亀ヶ森古墳(国指定127m)、宮城県仙台市の遠見塚古墳(国指定・110m)などがあり玉山古墳は東北地方第3~4位の大古墳です。
付近には以前に小円墳が存在していたようですが、今ではほとんど残っていません。西方300mの大野中学校付近には、数基の円墳が残存する御城古墳群があり、埴輪が出土しています。いわき市教育委員会』(現地案内板より)

平成18年5月からのいわき市教育委員会及びいわき市教育文化事業団で行われた玉山古墳の調査報告によると、玉山古墳の正確な大きさが全長114m以上であるということが確定したそうです。
これにより東北地方では宮城県名取市の雷神山古墳(168m)、福島県会津坂下町の亀ヶ森古墳(127m)についで第3位ということが決定したそうです。
大きければ良いというわけでもないでしょうが、それなりに貴重ないわき市の財産です。
ただ、若干拍子抜けするところは、全国で見ると第1位の大阪府の大山古墳が486mで、同じ大阪府の誉田御廟山古墳が425mで第2位ですから、全国レベルでは桁違いということでしょうか、全国の壁は厚いようです。

金光寺「玉山古墳」はまさに金光寺の裏山なので、まずは金光寺に入らねばなりません。特に由緒などは知らべてもわからないので、ひたすら裏山を目指して入っていきました。
ところどころ紅葉が綺麗に咲いている後ろに本堂があります。


金光寺本堂弁天池参拝をして本堂の裏手に行くと「弁天池」なるものがあり弁財天が祀られていました。


玉山古墳玉山古墳?そして本堂の裏手から古墳を登る坂道があるので登ってみたところ、結局金光寺の墓地でした。
古墳の一部分をすでに墓地として所有していたのでしょうね。

結局、どのような構図なのか良く分からぬまま「玉山古墳」を後にしましたが、それらしい雰囲気があったので良しとしておきましょう。

薬王寺

延寿山薬王寺「玉山古墳」から県道41号線を再度西方向に進むと10分ほどで「薬王寺」に到着です。
参道の入口に「延寿山薬王寺」の寺号標が立っています。


板石塔婆参道を進むと参道の両脇には「板石塔婆」が順序良く並んでいますが、これはいわき市指定の史跡です。


『市指定史跡 板石塔婆 五八基
指定 平成五年三月二十六日  所在地 いわき市四倉町薬王寺字塙七四  所有者 薬王寺
市内で中世のいわゆる板石塔婆(板碑)が分布するのは、極めて限定された地域である。旧大野村を中心に南は鎌田、西は赤井、北は小川の地域で、特に薬王寺を中心に、その大半が集中している。
薬王寺境内の板石塔婆は、参道の両側に四五基が集中し、石段の左右、手洗場付近、本堂左の池の中島、竹林などに合計五八基が林立している。境内整備により、板碑を原位置から移動しているものも少なくない。
これらの板石塔婆は、尖頭で直方体をなす花崗岩系の自然石を用い、いわゆる青石塔婆のような薄い板石とは異なる、頚部に二条の凹線があり、塔身部に供養主尊の梵字の種子を刻し、その下部に造立趣旨や年紀を表し、下半を土中に埋めて建てている。
年紀の判明するものは二九基あり、弘安八年(一二八五)から永和四年(一三七八)までの約一世紀にわたって造立されている。関東の武蔵・上野地方で急激に増加する鎌倉、南北朝時代の時期と一致する。また、俗名・法名の具体例が一二基ある。
これらの板石塔婆群がどのような人々によって営まれていたかという問題は未解決であるが、中世磐城の仏教文化を考究する上からも、中世の石造文化財としても極めて重要である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

埼玉県には青石塔婆といわれるものが多く存在し、【黒浜沼】でみた通称、「寅子石」と呼ばれる板石塔婆は県内第2位の大きさでしたが、明らかにそれらとは異なる形状です。

板石塔婆梵字が刻まれているのでそれらしく見えますが、慣れるとただの景観と思われるほどです。
人工のものなのですが、何か自然に見える板石塔婆です。
それにしても58基とは壮観です。


山門参道は途中から階段になっていて、階段を登りきったところが山門です。
鎌倉時代の板石塔婆が残っている割には山門は新しく綺麗です。


この「薬王寺」は大同年間(806~810年)というので平安時代、八茎薬師の別当として徳一大師により開祖されたそうで、別当とは経営本部とか管理事務所とかの意味です。
同じ徳一大師により開祖された八茎薬師が現在のように八茎寺ではなく八茎岳薬師堂だったために、それを管理する寺院が必要とあって、もう少し便のよいところにと「薬王寺」を建立したといわれています。
「波立寺」も医王山波立寺と言うように、医王とか薬王という言葉は薬師如来をさしており、この「薬王寺」が八茎薬師の前立本尊の役割を担っていたのではないかと考えられているようです。
また、文安3(1446)年には当時いわき地方を治めていた岩城隆忠が、祈願寺として開山したとされ、真言宗の東北一の道場として多くの門弟を育成し、いわきの真言宗の基礎を築いたともいわれているようで、いずれにしても堂宇54坊を構える名刹だったようです。
しかし、明治元(1868)年の戊辰戦争でお堂や仏像、仏具の多くが灰になり、その後も昭和61年に火災で焼失しましたが、平成4年までに復興されたそうです。それで山門などは新しいのですね。

本堂山門の正面に本堂がありますが、やはり本堂もまだ新しそうです。


鐘楼右側には鐘楼がありますが、竹林を背景に風情を感じる光景です。


本堂で参拝しますが、現在の本尊は戊辰戦争で薬師如来が焼失してから文殊菩薩となったそうで、この文殊菩薩像は現在、国指定重要文化財となっています。

『 国指定重要文化財(彫刻) 木造文殊菩薩騎獅像 一躯
指定 明治三十九年四月十四日  所在地 いわき市四倉町薬王寺字塙七四  所有者 薬王寺
鎌倉時代(一三世紀):総高 一○八.八㎝、像高 四一.八㎝
薬王寺は磐城の古刹で、新義真言の道場として中世最も盛んであったが、明治元年の兵火にあい、堂宇・仏像・仏具等の多くが失われた。この像は、磐城平藩主・内藤義孝が元禄十六年(一七〇三)に、二○世日元法印のもとに寄進したものと伝えられている。
文殊菩薩は大智と大悲の力をそなえて、諸菩薩の最上位をしめ、清涼山に住み、仲間である諸菩薩一万人に説法したという。象に乗った普賢菩薩とともに、釈迦如来の脇侍を構成しているが、独立した一尊像として経蔵に安置されることが多く、本像も元々経蔵に安置されていた。
本来は右手に剣、左手に経巻を持っていたと思われるが、持物は失われ、獅子の背の蓮華座に趺坐している。なでつけるような髪型や衣服の形式は宋朝様式を表わし、やや写実的なスタイルは清潔ですっきりとした美しさを示している。大智を表現した理智的な尊顔は「文殊の知恵」の形容詞にもふさわしく、眼には玉眼が入っている。
筋肉の隆々たる四肢を台座に運び、左方斜に構える獅子の雄姿は口を開き力強く、もとは極彩色であったと思われるが、今は口の中に朱色を残すのみで、すべて剥げ落ちている。鎌倉時代末期の作と思われる。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

やはり歴史あり寺院であることからこういった文化財も多く現存しているようです。所謂国指定の重文は他に2つあります。
一つは「絹本著色弥勒菩薩像」と言われる像。

『国指定重要文化財(絵画) 絹本著色弥勒菩薩像 一幅
指定 明治三十九年四月十四日  所在地 いわき市四倉町薬王寺字塙七四  所有者 薬王寺
鎌倉時代後期(一三世紀): 縦 一五五㎝、横 五八.八㎝
弥勒菩薩は梵名を阿逸多菩薩といい、釈迦の滅後五六億七千万年に再ぴこの世界に出現して、華林園内の竜華樹の下で成道し、三会の説法をして、釈迦の救済に漏れた人々を済度するという未来仏である。
本図は弥勒菩薩独尊来迎図で、雲に乗って下降する立像を描いている。その姿は結髪して讐を高く結い、前立式の大きな宝冠をいただき、中に化仏をおく。
身には如来形のごとく袈裟・祇支・裳をまとい、また耳・瓔珞・腕釧・足釧で飾る。右手は軽く肘を曲げて垂下し、五指を伸ばし、掌を前にあらわす。
左手には蓮の茎をとり、頂上の蓮華の上には弥勒菩薩の標識である宝冠(五輪塔)をのせている。両足はやや開き、右足を半歩前に進め、踏割蓮台に立っている。蓮台の下には雲がうず巻き、長く尾を後方に引いて速度をあらわしている。
頭部の後方には円相の頭光と、二一本の光芒がはなたれている。衲衣には麻の葉と、截金の文様が施されている。肉身部から着衣の部分におかれた金箔や彩色はかなり剥落しており、面相のいたみは特に激しいが、その下から力強い墨の描線が見える。
仏体が弥勒であるために珍しい図相というべきであろうが、光芒の様子、着衣の衣文のさばき具合、蓮台や雲の描写はすでに定型化した来迎図の形式である。この図相や描写からみて、その成立は鎌倉時代後期と思われる。絵絹の仕立ては二幅一鋪である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

もう一つは「厨子入金銅宝篋印舎利塔」という工芸品です。

『国指定重要文化財(工芸品) 厨子入金銅宝篋印舎利塔 一基
指定 昭和三十六年六月三十日  所在地 いわき市四倉町薬王寺塙七四  所有者 薬王寺
鎌倉時代(一四世紀):厨子高 二二.八㎝、厨子幅 一五.六㎝ 塔高 一〇.五㎝
春日厨子の中にはめ板を立て、これに鏡を装填した金銅製宝篋印塔をおさめている。厨子は黒漆塗りで、扉の内側には金箔を押している。厨子内のはめ板も漆箔を施しており、下に銅製框座をおき、束を二本立て、格狭間を付ける。
宝篋印塔は塔身に大きく円相を彫り、覆輪を付け、水晶を薄く研いでガラス状にして装填し、内に透し彫りの梵字を配している。この「梵字」は胎蔵界大日如来をあらわす。
塔の台は二段式で下段には大きく格狭間を造り、水晶板をはめて、その中に舎利と木造の小地蔵立像を入れる。塔の屋蓋は軒がやや反り返り、上に四段の階を設け、馬耳型の方立てを立てる。その上にさらに請花・相輪・宝珠等を配している。屋蓋と方立てには唐草文様を浮き彫りにし、塔身・台座には魚子を打っている。また塔の最下部には反花蓮弁を付けている。
この宝篋印塔を装着する鏡には菊花双鳥文鏡を用い、紐の孔の方向と一致させて上下に二つの孔を設け、ここに宝篋印塔の柄をはめ、上から下へ串状の銅線を通して固定している。鏡は鎌倉時代の和鏡で、宝篋印塔は鎌倉時代後期の作と考えられる。
薬王寺は中世に一時衰えたことがあったが、室町時代初期に岩城隆忠は、真言宗の意教流願行方を学んだ鏡祐を下総国(八日市場市)から招き、文安三年(一四四六)に同寺を再興した。鏡祐が布教に下るとき、師僧より授与されたのがこの厨子入金銅宝篋印舎利塔で、それ以来代々の住職の晋山式に伝授されている宝器である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

これらの重文のほかにも多くの文化財を所有しています。
県指定文化財工芸品:刺繍阿弥陀三尊種子懸幅
市指定文化財絵画:絹本著色真言八祖像、絹本著色涅槃図(附)図涅槃幀讃井序
市指定文化財書跡:高月山阿遮院祠堂金之記、奥州磐城薬王寺来由記
市指定文化財書跡:摩訶般若波羅蜜多心経、正誉本古写経手鑑
市指定文化財典籍:延寿護法録
市指定文化財古文書:薬王寺文書
宝物殿2度の大過にもかかわらず現存しているのですから、これも仏の加護かもしれません。
現在は本堂の裏手の宝物殿のような処に保存されているのでしょう。
いずれは秘仏となるのでしょうかね。


清瀧大権現清瀧大権現本堂の左手奥には神橋のある祠があります。ちょうど紅葉と朱(ちょっとボケてはいるが)色の橋が綺麗です。
この祠には「清瀧大権現」と書かれています。この「清瀧権現」とは、京都の真言宗醍醐派総本山、醍醐寺の守護女神だそうなので、真言宗と言うこともあって勧請されたのでしょうかね。
女神だけあって周りが美しくされているのでしょう。


意味不明の塔や地蔵等意味不明の塔や地蔵等境内には意味不明の塔や地蔵等などがあります。これも歴史ある寺院故のものなのでしょうか。


このように歴史ある「薬王寺」を見てくるとやはり「八莖寺」には是非とも訪れてみたくなりますね。
次は何としても行ってみたいものです。

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