中釜戸と能満寺

温泉で疲れを癒して土曜日も終わり、翌日の11月29日、日曜日も朝から天気も良く気持ちのよい日を迎えました。
この日は午前中に買い物をするので、湯本周辺の近場を散策する予定です。
目指す場所はこの時期しか見ることの出来ない「中釜戸のシダレモミジ」の紅葉です。サイト情報ではちょうど見頃とのことなのでグットタイミングです。
写真では見た「シダレモミジ」が実際にはどんなのもなのなのか興味津々です。
爺は朝目がさめるのが早いの通り、6時には目が覚めていたので早めに朝食を取り朝8時には出発しました。家内といえば「寒いから行かない」ときっぱり。
ということで今日も一人で出かけました。

中釜戸のシダレモミジ

中釜戸へは県道240号線、通称、釜戸小名浜線を利用し20分程度で到着しました。さすがに国指定の天然記念物ですから、きちんと案内標識が出ているので道に迷うことはありません。もっともここは特に単純なルートなのでそう迷うことはないでしょう、とかなり前時代的なことを言ってしまいました。
なんせナビの付いていない車ですので。

長閑な中釜戸方面県道240号線を左折する案内標識があったので、その手前から中釜戸を見渡すと、やはりここも長閑な景色です。
ちょうど背後の林が紅葉しているようで、それとなく晩秋を感じさせる風情です。


天然記念物 中釜戸のシダレモミヂ県道を左折して小道を進むと「天然記念物 中釜戸のシダレモミヂ」と刻まれた石碑が立っていますが、”モミジ”の「ジ」が「ヂ」になっているのがなかなかの歴史と重みをを演出しているようです。
そのその後ろにはまだ8:30少し前ですが、露天の屋台が準備を始めていました。1店だけでしたが、さすが観光拠点です。


特に駐車場がないのでここは無理やり路上駐車です。すでに2.3台止められていますが、道が狭いので結構路上駐車もしんどいです。

天然記念物 中釜戸のシダレモミヂ屋台前を通って近づくとすでに何組かの人がしきりに写真を撮っています。まあ、この時期だけですから逃せないのも無理は無いでしょう。


天然記念物 中釜戸のシダレモミヂ写真を取っている人の邪魔にならないように近づき「シダレモミヂ」と対面です。
確かに美しいともいえるでしょうが、形や色から受ける感じは、どちらかといえば荘厳といったほうが良いかもしれません。


しばし見とれながら写真を撮ってみました。私の場合は所謂記録用の写真ですからコンパクトデジカメ、他の方は一眼レフタイプのようなのでアマチュアといっても一応アート対象でしょうから、私とはレベルが違います。
近くに案内板がありました。

『国指定天然記念物 中釜戸のシダレモミジ
このシダレモミジは、2本ともに樹幹がねじれ曲がって、各所にコブをつくり、樹冠は傘状に広がっています。傘の広がりは東西約10m・南北約2mほどで、大株の樹高6,8m・根周り2,75m・胸高直径1,1mです。
樹種はイロハカエデで、樹幹のねじれ曲がった姿はカエデ本来の習性ではない畸形木で、大変珍しいものです。
イロハカエデは、樹高15mになる高木で、4~5月に開花し、10月に結実します。
分布は日本南部から台湾・中国東部・朝鮮南部に及び、日本では東北地方南部以西がおもな地域です。いわき市内では阿武隈山地の高所に少なく、平地丘陵地に分布しています。』(現地案内板より)

「イロハカエデ」とは始めて聞く名前ですが、一般的に言われる「カエデ」とはカエデ類約150種の総称で、ここでいう「カエデ」が一般的に「イロハカエデ」のことだそうです。
この「イロハカエデ」の特徴は葉が手のひらのように5~7つに深く裂け、その避けた部分に不規則なギザギザがあって長くのびているという、所謂「カエデ」そのものです。
この「カエデ」は葉の形を「カエルの手」にたとえたもので、「イロハ」はこの裂けた片をイロハニホと数える子供の遊びから由来しているそうです。そして、「カエデ」の通り名を「モミジ」と呼ぶように「イロハカエデ」は紅葉のチャンピオンと呼ばれているようです。
文化財の説明には、

『自然落下した種子からは正常形と枝垂れ形が生ずるが、枝垂れの個体が少ないという。従って枝垂れ形質は、遺伝的に固定したものではなく、突然変異によって生じた奇形木と考えられ、植物形態学的、遺伝学的資料として貴重である。植栽自生の区別はできず、樹齢も不明である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より抜粋)

と書かれており、基本的に種としては極々一般的な「イロハカエデ」が天然記念物となったということでしょう。

天然記念物 中釜戸のシダレモミヂより近づいてみると、幹のねじれやコブもそうですが色的にも白骨直前の腕や足を見ているようで、不気味な一面も感じてしまいます。


観音堂観音堂観音堂その隣には「施無畏」と書かれた額のついた堂があります。


我々が寺などでよく聞く言葉に「布施」、…「お布施」といわれる言葉があります。この「布施」とは慈悲の心を持って、他人に財物を施すことです。
この「布施」には三種類あって、1つが「財施」といわれる、金銭や衣料食料などの財を施すもの。2つめが「法施」という仏の教えをとくこと。そして3つめが「無畏施」(「施無畏」は恐らく古典でしょうから、現代語で「無畏施」となるのでしょう、多分)というものです。
この「無畏施」とは災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を取り除くこと、とあります。つまり何者をも畏れない力を与えるという意味ですが、これが転じて「無畏施」=「施無畏」は観世音菩薩の異名となったそうです。

観音堂とシダレモミジこの観音堂とシダレモミジの因果関係はわかりませんが、まあ、観音堂のそばに「イロハカエデ」を植えたという意味だけかもしれません。
ただ、この観音堂が「シダレモミジ」をより風情あるものとしての演出になっているようにも(意図的ではなく)思えます。


最後に今年機会が無く来年見てみようと早くも計画を立てている方にいわき市からのご案内。

中釜戸のシダレモミジ 鑑賞時のお願い
国指定の天然記念物「中釜戸のシダレモミジ」が、まもなく見頃を迎えるシーズンとなりました(筆者注:今年の案内のため)。
鑑賞に際して、みなさまへお願いとご注意がございます。ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
【お願い】
・シダレモミジは樹齢も定かではないほどの老木です。根元付近には立ち入らないよう、ご注意をお願いいたします。
・当地は住宅街にあり、道路も非常に狭いところです。付近の住民の方の通行の妨げになりますので、路上駐車をなさいませんようお願いいたします。なお徒歩5分ほどのところに無料駐車場がございますので、そちらをご利用下さい。
・観光バスでお越しの場合は、「中釜戸集会所」にお停め下さい。(無料)
・付近には売店やトイレはございません。
・昼過ぎには山の陰となりますので、鑑賞には午前中がお勧めです。』(いわき市オフィシャルサイトより)

若干写真などでみるイメージとは違いますが、それだけのことのある「シダレモミジ」は季節が合えば一度見ておいても良いでしょうね。

能満寺

時刻はまだ9:00少し前だったので、帰宅の通り道に近い「能満寺」に寄って見ることにしました。 ここは以前から知っていたのですが、あまりにも近いので、いつか…と思いつつ来る機会が無かったところです。
実際、自宅から車で10分程度の距離です。

能満寺道路のT字路のまん前に「能満寺」と刻まれた寺号標と階段になった参道があり、階段の上には古い山門があります。
寺号標は新しいですが、ちょっと古びた山門が歴史の古さを感じさせてくれます。


馬頭観世音また、寺号標の左隣に「馬頭観世音」と刻まれた石碑が並んでいます。この「能満寺」辺りがかつての交通の要所でもあったのでしょうか。


能満寺境内の桜山門を抜けると境内です。
中央にあるのは桜の木でしょうか。4月になると正に華やいだ風情に変わるのでしょう。


袋中上人伝様々な石碑などがある中で、右手に一際大きな石碑があります。


袋中上人伝
1552年幼名を徳寿丸と伝え能満寺門前の土合(地名)にて誕生、幼名を岩ヶ岡、御代家にて過ごし、七才の時、能満寺第二世住職叔父存洞上人のもとで得度(坊さんになるための儀式)す。
1603年、53歳にして琉球現在の沖縄に渡る。時の国王である尚寧王の帰依を受け多くの人々に念仏を布教し、エイサー念仏踊りの始祖といわれ、沖縄の文化・経済などに貢献す。
後、京都檀王法林寺を開山するなど沖縄と日本を結ぶ、いわきが生んだ一代の高僧である。
延徳2年(1639年)86歳にて入寂
瑞應山 能満寺』(境内案内板より)

このエイサーとは沖縄県でお盆の時期に踊られる伝統芸能で、祖先の霊を送迎するため、若者達が歌と囃子に合わせて踊りながら地区を練り歩く行事で、現在では踊りを鑑賞するイベント等も開催されているそうです。
このエイサーの原型を伝えたのが「袋中上人」であったということです。

この「袋中上人」がいかにして琉球で布教をするようになったかを、サイト【おきぽた】から抜粋してみます。

『浄土宗の僧侶であった袋中上人は、福島県岩城市で生まれ若い頃から多くの著書を残す教養の深い僧侶でした。自身の寺を開いた後も中国(明)への留学のため、九州平戸(長崎)へ向かいました。貿易船に乗って出国する予定でした。しかし、当時、豊臣秀吉の朝鮮出兵による日中間の国交を閉ざされ入国を許可されませんでした。アジアを転々とし渡明を試みたものの幾度も失敗し、最後にたどり着いたのが、明との親交の深かった琉球です。やっとのことで琉球にたどり着いたものの、当時の国際情勢は、上人の渡明を許可しませんでした。やむを得ず、上人は琉球にとどまることとなったのです。
1603年から約3年間の琉球滞在中に、上人は浄土宗の布教に熱心に努められたそうです。当時の琉球国王尚寧王は、上人に深く帰依し、上人のために桂林寺(現那覇松山公園周辺)を建立しました。上人は、そこから毎日首里城まで歩いて、国王に会いに行っていたとされています。尚寧王のみでなく、さつまいもや砂糖精製技術の普及・和紙や漆器など工芸品や発展などに貢献し、琉球の恩人と呼ばれた儀間真常も、上人に深く帰依し指定関係を結んだと言われています。
自然崇拝が根強い琉球に、『誰でも特別な修行なしに、ただ念仏をひたすらに唱えることによって救われる』という教えを説き、従来の難解な仏教に比べて上人の教えは簡易に表現されたため、庶民にまで広がりました。また、上人が踊った故郷福島の『じゃんがら念仏踊り』が、琉球の人々によって、三線と琉球民謡のリズムに仏教の言葉がのせられました。これが、今あるエイサーのはじまりだとされています。』(沖縄ポータルサイト”おきぼた”より抜粋)

この説明を見ると何故琉球だったのかが理解できとともに、「エイサー」の源流が「じゃんがら」だったという実に興味深い歴史が見えてきます。
この「じゃんがら念仏踊り」とは福島県いわき市に伝わる郷土芸能で、鉦、太鼓を打ち鳴らしながら新盆を迎えた家を供養して回る踊念仏の一種で、市内では単に「じゃんがら」と呼ばれ親しまれていて、現在いわき市の無形民俗文化財に指定されているものです。
その起源・由来は、江戸前期の浄土宗の高僧祐天上人(現在のいわき市四倉出身)が、信仰心の薄いこの地方の村人達への念仏の普及のため、「南無阿弥陀仏」の称名を歌の節にあわせて踊りとともに唱えさせたのが一般的な始まりといわれていますが、これにはそれを裏付ける資料が無いため伝承の域をでなかったようです。
しかし、近年の研究で磐城平藩の郡奉行で小川江筋の開削者である沢村勘兵衛勝為の一周忌で、農民達が「じゃんがら念仏踊り」を踊ったのが有力視されているようで、その根拠として、旧平藩家老職・穂高家に伝わる『御内用故実書』によれば「利安寺(澤村勘兵衛が開基した寺)よりほうさい念仏始まる・・・じゃぐわらじゃぐわらと鉦をたたき立、念仏をかまびすしく唱え候は岩城の名物也、此古実なり」とあり、また『小川江筋由緒書』には、讒訴により切腹させられた澤村勘兵衛の一周忌(1656年、明暦2年)に10ヶ村余の農民が供養のため念仏興行をしたとの記述もあるからだそうです。
更に、この中に記載されている「ほうさい念仏」とは、江戸時代初期に茨城県の泡斉というお坊さんが寺院修理のために江戸へ行く途中、花笠をかぶり太鼓を肩にかけ、鉦を手にし、念仏をとなえ歩いたものが「泡斉念仏踊り」といわれ、この泡斉念仏に、いわきの民謡を取り入れ、荒々しいと評判の強かったものを独自に念仏踊りに再編して行ったものが、現在の「じゃんがら念仏踊り」ということだそうです。

このように茨城県の「泡斉念仏踊り」がいわき市に伝わり「じゃんがら念仏踊り」となり、それが琉球に伝わって「エイサー念仏踊り」となったというじつに興味深い歴史があるのです。
となるとちょっと奇妙な事実が浮かびます。
「泡斉念仏踊り」の起源は江戸時代初期で、いわきに伝わって始まったとされる沢村勘兵衛勝為の一周忌は、明暦2年(1656年)7月の半ばにいわきの上平窪にあった利安寺で行われています。
一方、袋中上人が琉球に渡り滞在していたのは「1603年から約3年間」といわれているので、この時点でいわき市には「じゃんがら念仏踊り」はまだなく、袋中上人は「じゃんがら念仏踊り」を知る由もなり、「エイサー念仏踊り」の由来が「じゃんがら念仏踊り」であるとは言いがたいことになるわけです。
ストーリー的には面白いのでしょうが、やはり若干無理があるでしょうね。

因みにその「エイサー」のルーツはと調べてみても良く分かりませんが、根本的に「念仏踊り」を知ればおおよその想像がつくような気がします。
「念仏踊り」の起源は、菅原道真が886年~889年の4年間、讃岐の国司を勤めた時に行った「雨乞いの踊り」とされていて、「念仏踊り」となったのは1207年に法然上人が宗教上の争いから讃岐に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせた事によるものだそうです。
現在でも香川県綾歌郡綾川町滝宮では8月25日に「滝宮の念仏踊」が行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されているそうなので、ここから全国に様々な形式で伝わったということでしょうから、大なり小なり当時としては形式は似ているもの、その後、エンターテイメント性が加味され各地方で特色ある「念仏踊り」となったのでしょう。
勿論、「エイサー念仏踊り」としての由来に「袋中上人」が大きく係わっていることは間違いありませんがね。

伽藍の中門伽藍の中門のまえに案内板があります。


『国指定重要文化財 木心乾漆虚空蔵菩薩坐像
昭和31年6月28日 指定 文化財保護委員会 告示第32号
この仏像は総高四尺五寸(1m33cm)あり、本仏身は二尺五分(63cm)です。
木心乾漆佛というのは奈良朝時代(西暦645~800年頃)だけに行われた手法で木心に木屑抹香等を混合し漆で肉を付け乾固め表情衣紋を彫刻する技法であります。
昭和10年5月10日国の重要美術品に指定され昭和31年6月28日に国の重要文化財に指定替えになったものです。
この種大きさの乾漆は我が国では3体だけで奈良の東大寺(弥勒菩薩)、薬師寺の(薬師如来)、いわき市能満寺(虚空蔵菩薩)ですが、基は東大寺に有ったものと伝えられます。
ややつり上がった慈眼直線にのびた高い鼻稜豊かな頬で唇が小さく引締った女性的な古代微笑は経説にある釈迦の蓮華微笑を偲ばせる優雅な中にも光顔巍々として威神極まりない尊厳さを見せる技法は奈良朝時代の仏教文化の芸術特徴を巧みに表現した仏像で関東以北に唯一つの文化財であり貴重な存在です。以上
調和51年1月吉祥日 いわき市教育委員会 文化財保護委員会 宗教法人能満寺』(境内案内板より)

この乾漆造には上記の木心乾漆造のほかに、脱活乾漆造による仏像があるようです。
脱活乾漆造はもともと仏像をつくる際の土台を木で骨組みを作り、その上に漆をぬっていき、完成後中の骨組みを取り出す、所謂中空の像であり、一方の木心乾漆造は文字通り木の像の上に漆をぬるだけなので、中空ではないという違いがあるそうです。
だからどうしたということではないのですが、結局、漆が高価なので平安時代以降は作られなくなったという打算的な理由もあって、数が少ないことが特徴なのかもしれません。
かつてこの木心乾漆虚空蔵菩薩坐像は秘仏として60年に一度しか拝観できなかったようですが、平成以降は年一回例大祭日に拝観できるようになったそうです。
まあ、なにか機会があれば拝観してみたいものです。例大祭は毎年4月です。

能満地蔵尊伽藍にある中門を抜け左側に「能満地蔵尊」があります。随分立派な地蔵尊です


鐘楼また、右側には「鐘楼」があり紅葉がなんとも美しい景観をなしています。


本堂正面に本堂があり、本堂だけの印象からは歴史あるといった感じではありませんが、時の領主岩城親隆創建で、開山は文明元(1469)年ですから由緒ある寺院であることは間違いないでしょう。


レンガ造りの建造物参拝を済ませて本堂の周りを見ると、やはり様々な石碑やレンガ造りの建造物などがあり、それとなく意味ありげですがほとんど不明ではありましたが、その歴史的な香りだけ身近に感じて「能満寺」を後にしました。


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