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甲塚から新舞子へ

「白鳥の里 ふれあいの広場」を後にして国道399号線に戻り、途中から常磐線を高架で超え国道6号線に合流して一路四ツ倉方面へ。
6号線の途中から常磐バイパスを通り暫く行くと「甲塚古墳」があります。ここは国指定の史跡ということなので、もともと散策予定にしていたところです。
標識もあり近くに来ると、田んぼの中にポツンと小高い小さな丘があるので一目でそれと理解できました。
しかし、あまりに田んぼの中なので、車では近づけませんし、車道はかなり道幅が狭くいくら農村地帯といえども暢気に駐車できる気分でもなく、ちょっと困った場所の史跡です。

甲塚古墳

駐車することができず困ったままで古墳を通り過ぎていくと、「大国魂神社」の駐車場が目に留まりました。 何台か止まっていた事もあり、申し訳ない気持ちをもちつつ(…?)、駐車させていただき歩くこととしました。
歩くといってもありがたいことに、見える位置ですからほんのわずかな距離ですが、田んぼの真ん中に史跡とは妙な雰囲気です。

田圃の中の古墳駐車場を出てみるとこんな位置に古墳が小さく見えます。


田圃の中の古墳暫く車道沿いに歩くとちょうど古墳へ通じるメインストリート(というと大げさですが、他の畦道よりはずっと幅が広い畦道)があり、突き当たりに見える磯野波平の頭のような小高い丘が目指す「甲塚古墳」です。


甲塚古墳甲塚古墳近づいてみてもそれほど大きな古墳ではありません。
古墳の前には国指定史跡を表す案内標識と石碑が立っています。


『国指定史跡 甲塚古墳
甲塚古墳は、夏井川河口に近い平地につくられた、墳丘直径37m・高さ8.2mの古墳です。
これまでのところ、この古墳については、まだ考古学的な調査が行われていないので、古墳の形状や内部構造、つくられた年代などは明らかになっていませんが、甲塚古墳と立地条件などの類似する、いわき市内の古墳、例えば、金冠塚古墳(錦町)、五里内古墳(平荒川)などは横穴式石室をもち、それらは古墳時代後期の六世紀後半から七世紀前半ごろにつくられたものであると推定されており、このような点から甲塚古墳も、それらと同じ時期につくられたものではないかと考えられています。
国道6号常磐バイパスの工事に伴う発掘調査によって、甲塚古墳の周辺の遺跡からは多くの古墳跡や建物跡などの遺構、土師器・円筒埴輪・木器・木簡などの遺物が出土しています。
また、甲塚古墳の西南の丘陵の上には、延喜式内社大国魂神社が鎮座しており、かつて密度の濃い歴史的な環境が育まれていたことを窺い知ることができます。
指定:大正12年3月7日 所在地:いわき市平荒田目字甲塚43 所有者:大国魂神社
いわき市教育委員会』(現地案内板より)

近くで見ても威圧されるような感じではなくあくまでモッコリと存在しています。
何となく昇れるような道筋があるので(と勝手に判断)昇ってみました。特に良いのですよね、昇っても!?
枯れ草があるために意外と滑りやすくて、若干注意が必要でしたが、まあ、落ちてもたいした高さではないので怪我をすることはないでしょう。
たかだか8m程度と思っていましたが、周囲に何も無いことでかなり良い景色です。

松の木の根元まずは、頂上にある極々一般的な松の木の根元。これが何だといわれても松の木としか言いようがありません。
でも、何故松の木なのでしょうかね。6世紀から松の木があったわけではないでしょうから、途中自然に芽が出たか、誰かが植えたのでしょうか、何か、妙な光景です。


大国魂神社社叢石碑に刻まれていた西南の方角にあるのが「大国魂神社」だと思いますが、社叢に覆われて神社自体は眺めることができません。
古墳自体の所有者が「大国魂神社」ですからかつては相当な社領を誇っていたものと想像します。


常磐バイパス方面反対側の東北方面には常磐バイパスを見ることができます。
実に四方八方眺めの良いところです。


本来なら太古の歴史ロマンに浸るといったところでしょうが、さすがに田んぼの真ん中故の寒さで、ここらあたりで退散することにしました。

大国魂神社

再び田んぼの畦道を歩いて駐車場に戻りましたが、「甲塚古墳」の所有者である「大国魂神社」にお参りすることにしました。
勝手に駐車場に止めさせていただいた都合もありますので。

大鳥居と参道駐車場の横に比較的最近建立された立派な鳥居があり、ここからが参道となっているようです。


神橋参道を進むと一般道があり、道を越えるとすぐ神橋が架かっています。


後に知ったのですが、この神橋の下を流れているのが「愛谷江筋」と呼ばれる用水路だそうで、「大国魂神社」”石室記”に『延宝7年春ここまで開削した』との記事があることから、三森治右衛門という人が延宝2年~7年頃に開削した用水路だそうです。
この三森治右衛門という人は、そもそも「小川江筋」(…思ったとおり出てきました)を開削した澤村勘兵衛を手伝い、勘兵衛亡き後「小川江筋」を完成させた人で、そのノウハウをもって「愛谷江筋」を開削した郷土の偉人なのです。後に三森治右衛門光豊命として「大国魂神社」の隣にある「水守神社」に祀られていることからもうかがい知ることができます。
帰りがけに「水守神社」の社号標を見ましたが、そうとは知らず残念ながら素通りしてしまいました。また、機会があれば寄ってみたいものです。

県社大国魂神社神橋を渡ったところに「県社大国魂神社」と社号標が立っています。
特に縁起・由来書きが無いので別のサイトから抜粋させていただきます。


大国魂神社・沿革
養老2(718)年、朝廷は石城国を置きました。現在の浜通り地方全体が一国となりました。
石城国の中心地域は、いわき市の豊間、高久、夏井であったのです。この地域はそれ以前から文化が栄え、中田横穴、八幡横穴、天冠男子像埴輪、夏井廃寺塔跡、根岸遺跡、そして、当社飛地境内の甲塚古墳などが知られています。
古代の人々は、美わしい国土に宿る霊力を国魂神として讃え、お祀りしていました。石城国造建許呂命(いわきのくにのみやつこたけころおのみこと)の一族によって、奉斎されたのが大國魂神社であります。
甲塚はこの国造の墳丘であるといわれます。
石城国はやがて陸奥国に編入され、この地域は岩城郡に属することになりました。醍醐天皇の御代に撰修された延喜式神名帳には、岩城郡七座として、大國魂、二俣、温泉、佐麻久嶺、住吉、鹿嶋、子鍬倉の各神社名を記しております(927年)。岩城郡の郡司が奉斎する神社として、大國魂神社は、崇敬されていたのです。
鎌倉時代になると、地頭岩城氏の一族国魂氏(国魂村地頭)が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主山名氏が、平窪、矢野目、国魂三村を領有し、「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。
室町時代には、領主岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には平藩主による修復が重ねられました。
当時、神主、下社家、巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。幕末の元治2(1865)年には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治12(1879)年、郷社に加列し、大正12(1923)年に県社に加列されました。

大国魂神社の主な社宝
国魂文書一巻(県指定重要文化財)
国魂石室記一軸
石室出土品鬼角、管玉
神輿二基(平藩主内藤家、安藤家寄進)
勅宣正一位大國魂大明神一幅、関係文書
内藤政栄公(俳号露沾)献詠和歌、俳諧
神社明細帳一冊(宝暦6年)
豊間浜関係文書二通(天明5年)
棟札、木簡二十八枚 』(ウェブサイト、Spiritual Value from Japanより抜粋)

参考:【Spiritual Value from Japan】http://www.jp-spiritual.com/index.htm

やはり古くから由緒ある神社として崇敬されていたのでしょう。そしてそれゆえに甲塚古墳も大国魂神社の社領であったということでしょう。
神橋神橋の隣には大木があります。


御神木大杉落雷記
拝啓 過般当社境内の神木目通廻り三丈の大杉に落雷火災を起し候際は早速御鄭重なる御見舞を辱うし御芳情難有謝上候。時を移さず村内消防夫及び平町自動車喞筒の応援を求め徹宵消化に努め其の勇敢なる青年は率先十数丈の頂上に擧じ登り水力を此處に導き火力漸く衰えるを見るや上下数個の洞穴に泥土を塗り固め以って通風を遮断し茲大略鎮火せるものと認め居候處更に昨廿九日午後に至り又又再燃せるを氏子消防夫青年等の努力を以って茲に完全に消化致候。
発火以来実に七日間千餘年の神木各位の盡力により幸い蘇生するを得ば神處を慰め奉るを得るべくと氏子一同と悦び居る次第に候。
右概況を記して謹みて御礼申上候 敬具 昭和8年9月30日 県社大国魂神社社司 山名隆文、 県社大国魂神社社掌 山名隆貞
平成17年6月12日 樹魂祭10周年記念』(現地案内板より)

要するに御神木であるこの大杉に落雷し火災が起こったのですが、当時の氏子や消防士、青年団などのおかげで全焼を免れ、この大杉も生き延びることができたことを感謝しお礼いたしますと、かつて御礼した内容を記念碑として樹魂祭10周年記念に大杉の横に立てたということです。
なかなか感動的なのですが、この大杉の裏側に隠された(別に隠してはいないのですが)、第2の御神体のことは気がつきませんでした。後に知った超ド級の御神体については【劇場国家にっぽん】という議員のサイトで見ることができます。

石碑群参道を先に進むと二の鳥居があり、その右手には何やら大きな石碑が幾つか立っています。
まあ、これだけ由緒ある神社ですから色々あるのでしょうが、解読することは不可能でした。解読する気もありませんが。


二の鳥居二の鳥居の先の階段をあがった先に社殿があります。


大国魂神社社殿それほど大きな社殿ではありませんが、どっしりとした重みのありそうな社殿です。これも歴史のなせる業というものでしょう。
参拝をしてから境内を散策します。


神楽殿右手に朱の手摺が印象的な神楽殿があります。
神楽殿の奥では何やら飾りつけが行われていましたが、新年を迎える準備でしょうか。


石碑神楽殿の更に右手に何やら石碑と立て看板があります。


甲塚八方睨みの松
国指定史蹟甲塚の頂にそびえたっていた老松「八方睨みの松」は昭和53年2月20日厳粛な鎮魂の祭儀裡に倒れ伏した。その雄姿は再びこの世に現出すべくもないが実生の若松を墳丘に植え継ぐことができた。
大いなる樹魂を留め残さんとして関係者一同力を尽くし心を合わせ早春の畦道をひき来たり神苑にこの遺木を安置した。
天の哭 地の哭 東風生るる 樹魂 (菅村 山名隆之)
なお、ここにある黒松は滝内三夫殿が30年前に八方睨みの松葉の差し穂から育てて奉納されたものである。
平成17年6月12日
樹魂祭10周年記念』(境内案内板より)

現在の八方睨みの松昭和30年代の八方睨みの松言葉は悪いですが嵐のさった後の残骸のようなこの松が、かつての「八方睨みの松」なのですね。
かつての雄姿が先のSpiritual Value from Japanサイトにありましたので、無断ながら掲載させていただきました。
(問題あればご連絡下さい)


現在の2代目よりもずっと立派な松ですが、いずれ2代目もこのような立派な松になるのでしょうね。

黒松そしてその老木の前にある松が奉納された黒松です。
記載されているとおり老木は戻りませんが、そのDNAを受け継いだ松が甲塚墳丘とこの境内に根付いていることにプチ感動です。
参道の大杉や八方睨みの松など確かにご神木といったような木が多いのも樹魂祭が行われた所以なのでしょう。

境内の奥には本殿があります。
本殿本殿
この本殿は1679(延宝7)年に造営され、神社の本殿建築としては比較的珍しい入母屋造の本殿で、現在はいわき市指定有形文化財に指定されています。
ごてごてした彫刻などはあまりなくスッキリした本殿ですが、やはり歴史的な重みを感じさせてくれそうな雰囲気です。
奉寶物殿本殿をグルッと廻って反対側(境内の左手)に出ると「奉寶物殿」があります。
ここにこの神社の社宝が置かれているのでしょうか?
数多い社宝のうち2つほど調べてみました。


『県指定重要文化財(書跡) 国魂文書(二三通) 一巻
指定 昭和三十年二月四日  所在地 いわき市平菅波字宮前二六  所有者 山名隆弘
鎌倉時代~南北朝時代(一三~一四世紀)  縦 三一・八㎝、全長 一〇m
国魂文書は、延喜式内社の大国魂神社に伝来する文書群で、巻子装一巻からなっている。
これを巻子装としたのは磐城平藩主・内藤義孝で、元禄十二年(一六九九)三月十五日の奥書がある。
岩城一族である国魂村地頭国魂氏に関する文書で、南北朝中期以後、同社の神主となった山名氏に伝えられ、現在に至っている。二三通(外に系図一通)のうち、二通が鎌倉期のものである以外は、すべて南北朝期の文書である。
正応五年(一二九二)の国魂経隆遺領配分状案は、地頭職の構造および作人の存在形態を示す貴重な文書である。北畠顕家の花押のある下文、足利尊氏の袖判のある吉良貞家奉書のほかに、下知状・打渡状・軍忠状・着到状・禁制・吹挙状等がある。年号は正応・正安・建武・延元・暦応・康永・貞和・観応・文和・康安・貞治等の南北朝を中心とした文書で、磐城はもとより日本史の解明に貴重な存在となっている。
訴訟の資料として作られた系図は、岩城氏の系図の基本をなすものと考えられるもので重要である。伊賀氏の「飯野家文書」(国指定)とともに、磐城における中世文書の双壁をなしている。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

また、いわき市オフィシャルサイトによれば「国魂石室記一軸、石室出土品鬼角、管玉」もまた貴重なもののようです。

国魂石室記並びに出土品・箱
国魂石室記は全長238・7センチ、高さ18・2センチの巻子装。元禄9(1696)年に、磐城平藩主内藤義孝の命で中野李慶が大国魂神社の創建や、神主山名氏、鬼椿(おにつばき)などの言い伝えについて書いた。 この中には、延宝7(1679)年、好間江開削の際、塚に植えられていた鬼椿を掘り返すと、石室を見つけ、「角」や「管」を発見したことが記録されている。元禄5年に行われた水戸光圀の「那須侍塚古墳」の発掘調査が、日本の考古学史上、重要な出来事と位置付けられているが、延宝7年の発掘はさらに13年さかのぼるものであり、その状況を記録したものとして、出土遺品とともに資料的価値が高い。』(いわき市オフィシャルサイトより)

このようにこの「大国魂神社」は神社古代から中世、そして近代から現代まで面々と続いているのです。先の甲塚古墳にも記載されていた通り、「甲塚古墳」と「大国魂神社」を合わせてみると確かに”密度の濃い歴史的な環境”ということが理解できる気がします。
そんな歴史に触れられたのも良い経験でした。
そうそう、第二のご神体、是非とも次回はライブで見たいものです。

新舞子ビーチ

大分日も落ちてきて時刻はもうPM4:00少し前で、大分気温も下がってきて寒さが身にしみつき始めてくる時間です。
「大国魂神社」を出て常磐バイパスをから6号線を戻ろうかと思っていましたが、ちょうど夕日が綺麗そうだったので、そのまま東に向かい海岸へ出ることにしました。
一旦県道15号線を南下し、途中左折して海岸沿いの県道382号線を北上します。

この県道382号線の海岸線は「いわき七浜」と呼ばれるところで、全長60Kmにわたる「勿来」「小名浜」「永崎」「豊間」「薄磯」「久之浜」「四倉」の7つの海岸の「四倉海岸」に位置しているところです。
「勿来海岸」には勿来海水浴場、「小名浜海岸」には小名浜海水浴場、「永崎海岸」は永崎海水浴場、「豊間海岸」には合磯海水浴場と豊間海水浴場が、「薄磯海岸」には薄磯海水浴場、「久之浜海岸」に久之浜海水浴場、波立海水浴場、そして「四倉海岸」に新舞子ビーチ海水浴場、四倉海水浴場の7海岸10ビーチが存在しているのです。
そしてその中でもこの「新舞子ビーチ海水浴場」は、県内初の人工海水浴場として平成7年にオープンしたものだそうで、ちょうど豊間から四倉まで海岸沿いに走る新舞子浜の松林の中にあって南国ムードを漂わせていることから、毎年比較的若い層が集まるビーチで人気も高いようです。

その松林を暫く走ると左手に「新舞子浜公園」があります。

新舞子公園新舞子公園ちょっと降りてみると、すぐ橋があってその下に大きな池があります。
正面の白い建物は意外や立派なトイレです。


新舞子公園献身護空碑橋を渡って先に進むと左側に記念碑のようなものがあります。「献身護空」の碑だそうです。
説明ではもともとこの碑が海岸沿いに設置されていて台座の侵食が激しいためにここに移されたと記載されています。建立者が「いわき少飛会」で「献身護空」、更に昭和49年9月20日の航空記念日に建立されているので、よほど飛行機に関連のある記念碑なのでしょう、きっと。


新舞子公園更に先に進むとまた橋がありこちらの橋の下はどうやら川が流れているようです。


全体には松林に囲まれたような公園で、恐らくビーチの一環として作られたものでしょう。
春や秋に散策するには良いかもしれません。

ここから県道に戻ってホンの少し進むと今度は右手に「新舞子ビーチ」駐車場がありました。
駐車場をおりて海岸を眺めるともうだいぶ陽が落ちてきていることがわかります。

新舞子ビーチ駐車場から波打ち際まで歩道が整備されていますので、ここを歩いて波打ち際へ向かってみます。
ここら辺りが人工ビーチたる所以でしょうか。


新舞子ビーチのモザイク途中、このようなモザイク絵が作られています。ビーチの雰囲気を盛り上げるために一役買っていそうです。


波打ち際の近くに来ると星型のオブジェでしょうか、2個立っています。星の中には星座のマークが刻まれているようです。
新舞子ビーチの星座オブジェ
夕焼けをバックにしばしスピリチュアルな気分を…(ということにはならないようです)

新舞子ビーチ2個の星座オブジェの中央に人魚のモザイク絵があります。子供たちには喜ばれそうです。


更に先の波打ち際には4つの星座オブジェが円を描いて置かれています。
新舞子ビーチの4つの星座オブジェ
そしてその周りには柵があり、4つのオブジェの中央部分にはモザイク絵がありますが、大部分が砂に埋もれているようです。
新舞子ビーチのモザイク冬はメンテナンスをしないのでしょうね。


ここから先は広い太平洋です。海と空の薄いブルーが冬の海岸を演出しているようです。
新舞子ビーチ
「誰もいない海」なのですが、さすがに太平洋側の海岸はあまり寂しさや厳しさを感じません。あくまで夏の喧騒の残り香とでも言うのでしょうか、まさに静と動の違いだけです。
かつて富山県に12月に行ったときには、確かに海岸線を見ていると誰でもが自殺したくなるような錯覚を覚えるくらい、悲しく暗い海岸でした。
それに比べると冬にもかかわらず実に開放的でロマンティックがとまらない(…古っ!!)風情です。
しばし風景を楽しんでみました。

新舞子ビーチ遠く水平線には真っ白い船体の船がぼんやり見えますが、飛鳥とかいった豪華客船でしょうか?


南の海岸線沿いに見える灯台は塩屋崎灯台でしょうか? 
新舞子ビーチ
大分夕日で空も色が変わっています。

海とは反対側の松林を見れば今にも日が暮れようとしている最後の輝きを見ることができました。
新舞子ビーチ
実に良いタイミングで色々見ることができたようです。とはいってもご老体には厳しい寒さが襲ってきているので、これにて新舞子ビーチを後にすることとしましたが、久しぶりの開放感に随分と癒されました。
ここから県道382号線を北上すると、国道6号線に合流しスタートの「蟹洗温泉」に到着します。
ゆっくりと温泉に浸かって寒さと空腹感を満たしたのはいうまでもありません。極楽、極楽。

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