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鹿又川渓谷と東松院

例によっていわき市四ツ倉の蟹洗温泉へ家内と義理の母を連れて行き、蟹洗温泉を出発したのがAM11:30頃でした。
今までは四ツ倉を初めとして、久之浜大久、平、好間、常磐、小名浜、小川の各地区を巡ってきましたが、今回はいわき市の中でも最も北にある川前町を散策することにしました。四ツ倉からは北西方向で阿武隈高原にかなり近いエリアなので山間の地といえるでしょう。
車では小川地区エリアを夏井川渓谷沿いを更に進んだエリアです。
秋に訪れた夏井川渓谷とは違った風景を見ることができるのではないかと期待しています。

鹿又川渓谷

今回は四ツ倉から県道41号線をひたすら走ります。 小川町の白鳥飛来地ではすでに白鳥の姿を見ることができないのが、春を感じさせます。
更に進むと昨年紅葉の美しかった(若干早かったですが)夏井川渓谷の錦展望台に到着です。当然ながらこの夏井川渓谷(江田駅~川前駅)は「いわき百景」の〝観光地〟で選定されています。
夏井川渓谷夏井川渓谷確かに季節は冬から春に移り変わろうとしている自然の息吹はわかるのですが、やはり春の景色は春にならないと見られないもので(当たり前か…)、春の途中といえども景色はやはり冬なのです。
《右側の写真は昨年秋の景色》


錦駐車場夏井川渓谷冬でも雪などの白一色というのはそれなりにまた美しく感動も呼ぶのですが、一般的な冬の景色は無色です。したがって、この錦駐車場からの景色も一部常緑樹があるものの全体的には無色で、今日は若干の寒々しさを感じるだけの夏井川渓谷でした。
《右側の写真は昨年秋の景色》

本来、この夏井川渓谷での春はアカヤシオという岩ツツジが咲き、ピンク色に染まる景色は大変美しいのだそうですが、まだ早かったようで残念ではありました。また、次の機会に楽しみは取っておきましょう。

ここから先に進むのは今回が初めてです。
夏井川沿いに進みながら、「ゆうゆうあぶくまライン」の愛称を持つ磐越東線と並行、時には交差しながら山深く入り込んでいきます。
県道を進むと右側に「鹿又川渓谷 1km」という大きな案内看板があったので右折して進んでみました。鹿又川渓谷も「いわき百景」の〝観光地〟で選定されており、景観が素晴らしいようです。
しかし、そんな期待をあざ笑うかのように、この辺りから妙に天候が悪化し、どんよりした天気になってきました。天気予報では関東地方、東北地方ともに晴天のはずですが、やはり山間の町は気象が違うのでしょうか。

天候の悪さと木の茂りによって何となく居心地の悪い渓谷を眺めなければならないようで、あまりウキウキした気分にはなれずに渓谷沿いを進みます。
しばらくすると広いスペースの場所に出たのでとりあえず車を止めて周辺を歩いてみました。
鹿又川渓谷鹿又川渓谷というくらいなので川に沿った長いエリアが見所となるのでしょうが、夏井川渓谷のような見所スポットが無いので景観スポットがよくわかりませんが、このあたりが鹿又川渓谷なのでしょう


鹿又川渓谷とりあえずこの場所を散策すると、一角に句碑がありました。

『滝の水いよいよ白きもみぢかな 香雪、滝ところどころ 紅葉いそぎけり 君仙子』と刻まれています。
いわき市総合観光案内所によると、この句碑は鹿又川渓谷観光開発促進会という団体によって、地域の観光開発のために昭和48年に建立されたものだそうです。 ここに詠われた君仙子とは、本名豊田秀雄という戦前は教師、村助役を勤め、戦後は教育委員会委員長や文化財保護調査員などで功績を残した南相馬市生まれの方です。俳句に親しんで自らも句会を主宰し、福島民報者などの選者としても知られた方のようです。 もう一人の香雪とは永山香雪という方だそうですがプロフィールは判りませんでしたが、いずれにせよこの鹿又川渓谷の景観を良く表していると選ばれたのでしょう。

その鹿又川渓谷の景観は、青森県十和田の奥入瀬に似た穏やかな清流と透き通った水面に映える季節の色彩を楽しめるということで有名なようですが、夏井川渓谷の影に隠れていることも否めず、そのような意味で観光アピールのために句碑建立といっても過言ではないようです。
しかし、この句からも判るとおり、やはりここを訪れるには秋の紅葉シーズンが一番のようです。冬は水量も少ないようですし…。
一休みのつもりでしばし佇み(というか鉛色の空の下で渓流散策をする気には到底なりませんから…)、もとに戻ることにしました。

東松院

鹿又川渓谷から県道41号線に戻り途中県道359線で右折して再び北上します。
東松院山門しばらく進むと右側に「東松院」という寺院に到着です。新しいながらも茅葺の山門が人目を引き、山間の寺院に相応しい風情を感じることができます。

残念なことに「東松院」についたときにはパラパラと小雨が落ちてきました。折角の散策ですが、こればかりはしかたありませんね。ですが、この「東松院」も「いわき百景」〝神社・仏閣〟で選定されていて、雨の中の仏閣もまた風情かもしれません。

東松院参道石段山門を抜けると参道である長い階段があります。


東松院本堂階段を上がった先には比較的大きな本堂がありますので、まずは参拝を済ませます。


境内はそれほど広くはありませんが、本堂の左手のほうに更なる階段があるので行ってみました。
木漏れ日の階段階段の前には「木漏れ日の階段」と書かれた立て札があります。この石造りの階段が「木漏れ日の階段」なのでしょう。あいにくの天気で木漏れ日どころか、まったく日は出ておりませんが…。


空へ至る階段導かれるように階段を上がると、途中から木でできた階段に変わりそこには「空へ至る階段」と命名されていました。
だんだんとスピリチュアルになってくくるのでしょうか…。ネーミングが怪しくなってきます。


空かんのん 樅の木テラス空に行ってみようとばかり更に上ると、一般的な階段でいうところの踊り場があり、そこには「空かんのん 樅の木テラス」と書かれた立て札がありました。

空かんのん空かんのんこのテラスと呼ばれる中央には何やら現代的な彫刻が置かれています。
これが「空かんのん」なのでしょうか。

調べてみたら確かにこれが「空かんのん」と名付けられた観音像だそうです。翁ひろみという彫刻家が製作されたそうで、所謂、一般的な観音像とは違い柔和な中にも幼児的でありながら妖艶さを併せもった実に個性的な観音像です。なかなか珍しいものかもしれません。
ここまでの階段は、この「空かんのん」へ至る階段ということで「空へ…」なのですね。理解理解。
樅の木テラスまた、樅の木テラスといわれるように、この踊り場部分では、円周の4分の1の大きさのベンチが3段重ねでこの「空かんのん」を取り巻いていて、まさに円形劇場のような雰囲気もまた、観音像と共に一つの空間をかたどっているようです。


しかし階段はまだ終わりではないようです。
天へ至る階段「空へ至る階段」の次は何となく想像がつくような…、そう、「天へ至る階段」です。やはりスピリチュアル方面に一直線でしょうか?

友の径「空へ…」と同じような木の階段をあがると、途中から急に階段が無くなり上り坂に変ります。 そこには「友の径」と書かれた立て札があります。何となくハートウォーミングに変りつつある小道です。

フルナの樅そして上り詰めるとそこには「フルナの樅」と書かれた立て札がありますが、いよいよ訳がわからなくなりつつあります。


ということで、「フルナ」とは一体何かを調べてみました。
あくまで推測ですが、「フルナ」とは釈迦の十大弟子の一人であるプルーナマイトラーヤニープトラのことではないかと考えられます。略して「ブルーナ」で漢字訳で「富樓那」(フルナ)の文字があてられたらしいのです。
この釈迦の弟子「フルナ」は〝説法第一〟といわれる人で、教えを説くのが上手かったようですが、その樅の木ですから…、どのように解釈したらよいのでしょうかね。
それにしてもこの「フルナの樅」はかなり大きいですね。このスペースでは写真のフレームに入りきらない大きさです。しばしカメラアングル探しに勤しんで先に進むことにしましたが、どうやら天空の散策はこの「フルナの樅」で終わりのようです。
フルナの樅川前町の光景しばし「フルナの樅」と川前町を臨む光景を見てその場を離れました。

下りの小道にも「友の径」がもう一つあり、その坂道を下って本堂に戻りましたが、境内に先ほどの樅についての説明がありました。

『いわき市指定天然記念物 東松院のモミ群
モミは、阿武隈山地のブナ帯下部に普通に見られますが、当地には、約30本ものモミの巨木があり、これだけの巨木のモミ群は珍しいものです。
中でも「夫婦樅」と呼ばれているものは稀有な巨木であり、雄モミは樹齢約600年、胸高直径170cm・樹高37m・雌モミは直径85cm・樹高26mあり根部でつながっています。
モミ林は、暖帯と温帯の間に成立する中間帯植生の一つとする説もあり、大切に保護したい林です。
指定:平成3年3月28日
所在地:いわき市川前町下桶売字久保田
所有者:東松院
いわき市教育委員会』(現地案内板説明文より)

「フルナの樅」というのは「夫婦樅」のことでしょうか? あまり語呂は違うような気がしますが…、確かに巨木ではありました。
もう一度戻るのもさすがに面倒なので、結局訳がわからないまま東松院を後にしましたが、久々サンダーバードの秘密基地のような寺院にめぐり合いました。
ここを「いわき百景」に応募、及び選定された方々に天晴を差し上げたいくらい興味深い寺院でした。

雨降松

雨降松「東松院」から再び県道359線を北上すると、道の右側に何やら案内板があります。


桶売・地名の起源
光仁天皇の宝亀11年(780年)藤原継縄卿を征東大使として陸奥に遣わされしとき桶ノ臣という従卒あり。その恋人瓜姫は、はるばる京都から後を追ってこの地(桶売)まで尋ね来る。ときに、桶ノ臣らすでに北国遠く進み行きしを聞きて、かよわき女子の後を追う気力も絶えてここに死す。
よって桶ノ臣の桶と、瓜姫の瓜とを結び合わせ以降この地を桶瓜(売)と称したという。

雨降石(松・池)の由来
往古、法陵権現(熊倉神社)白牛に誇りこの地(上桶売字敏歩田)に来たりて神足を洗え宮地に入ろうとしたるに白牛は化して、みかげ石となる。その石を牛石と呼ぶ。ほとりに松の木があった。それを雨降り松と呼ぶ。
この地に入り悪戯をなせば肺然として雨降ると。いまの松は何代目かのものであり、また神足を洗えし池を雨降り池ともいう。
一説に、文政年間、鍋田昌山著「岩城名勝略記」に、人若しこの石に触れるれば如何なる晴天にも降雨俄かに来る、と記載あり。
往昔、恋人を慕う瓜姫、その恋人(桶ノ臣)に逢われず死して石と化したるなりと伝う。
逢わぬうらみか桶瓜姫の 石となっても降らす雨。 橘月』(現地案内板説明文より)

若干語呂合わせ的ではあるのですが、地名の由来、起源というのは何処でもこのようなものでしょう。
雨降石については「岩城名勝略記」にこのようにも記載されていそうです。
『人、もし、この石に触るれば、百日雨降り、百日干す』
つまり、この石に人が触れると100日間雨が降り、また、100日の間雨が降らないという伝説らしいです。
そして雨が降り止まない場合には、藁、または萱にて人形をつくり、体の両方から竹槍を刺して、小白井から上桶売、上桶売から下桶売、下桶売から川前と順次人形を村送りして、川前より小川町境の夏井川にその人形を流すと必ず晴天になったという伝承による風習があったそうですが、明治以降廃れたようです。
何代目かの松雨降松碑雨降石・池の碑ということで、ここには何代目かの松と、雨降松の碑、そして雨降石・池の石碑が揃っています。

川前町としては貴重な文化財(実際に指定されているわけではありませんが)ともいえるでしょう。

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