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恵日寺と諏訪神社

次に散策するのが四ツ倉地区です。いわばホームグランドみたいなものですが、まだまだ散策すべき場所は一杯あるようです。
まずは歴史に彩られた四ツ倉の社寺を巡ります。

恵日寺

昨年の11月に【いわき散策記 vol.5】で訪れた「玉山古墳」と「薬王寺」の中間あたりに古刹の「恵日寺」があると知り、今回訪れることにしました。
四ツ倉の蟹洗温泉からは20分くらいで到着です。
この寺が有名なのは左甚五郎が作ったといわれる茅葺の山門があること、太平洋戦争の時サイパン島で玉砕した磐城中学校(現在の磐城高校)出身の海軍大将・高木武雄の墓があること、更に滝夜叉姫の供養碑があることだそうです。

早速、その左甚五郎作の山門が出迎えています。
恵日寺山門の前には滝夜叉姫終焉の地と書かれた柱と、恵日寺について書かれた案内板があります。


恵日寺
大同元年(806)年徳一大師が奥州へ来たとき、和州岡本の宮にならってお堂を建て直し仏教を広める拠点として再興し、天慶3年、平将門の三女滝夜叉姫が恵日寺に逃れ地蔵菩薩を信仰し、名を如蔵尼と改め一族の冥福を祈り、この地を終焉の地としました。』(現地案内板説明文より)

平将門は歴史界のスーパースターですが、その三女となるときっと知る人ぞ知る的な人なのでしょう、私は全く知りませんでしたから。ということでもう少しプロフィールを掘り下げてみます。
滝夜叉姫は平将門の娘とされる伝説上の妖術使いで、本来の名前は五月姫というそうです。天慶の乱で平将門は討たれ、一族郎党滅ぼされるが生き残った五月姫は怨念を募らせ、貴船神社に丑三つ時に参り、満願に貴船神社の荒御霊の声が聞こえ妖術を受けたといわれています。
その後、滝夜叉姫と名乗った五月姫は下総の国へ戻り、相馬の城にて、夜叉丸、蜘蛛丸ら手下を集め朝廷転覆の反乱を起こしたのですが、滝夜叉姫成敗の勅命を受けた大宅中将光圀と激闘の末、陰陽の術を持って滝夜叉姫は成敗されたそうです。そして死の間際、滝夜叉姫は改心し平将門のもとに昇天したというプロフィールがどうやら一般的に伝承されているようです。

一方、如蔵尼という名のプロフィールを調べると実に興味深い伝承がうかがえます。
平将門の三女は非常に心優しい徳の高い女性で詩歌管弦に通じ、清らかで美しい姫君であったそうです。そしてたくさんの男性から求婚されたにもかかわらず結婚もせず独身を通したのでした。
そんな日々の中で父、将門が討たれ一族郎党追討の難を避けるため恵日寺に庵を結んで信仰の日々を送っていましたが、ある日病にかかりはかなく世を去っていきました。
死後、冥途の閻魔庁にいき、その場所で多くの罪人達が生前の悪行のために罰を受けて苦しんでいるのを見て恐ろしい思いをしたのですが、その中に錫杖を持った僧を見つけ経文を唱えると、地蔵菩薩であるその僧は姫の生前に罪のないことを見抜き、閻魔大王に姫を現世に戻すよう命じたのでした。
閻魔大王の了承を得て姫は俗界に戻ることとなり、その際、地蔵菩薩は姫に経文と極楽往生するための要句を教えてくれたそうです。
蘇生した姫は出家して如蔵尼と名乗り、ひたすら地蔵菩薩を信仰し80余歳で大往生を遂げたといわれています。

これは恵日寺に伝わる如蔵尼伝説からのプロフィールですが、この恵日寺とは同じ福島県でも耶麻郡磐梯町にある恵日寺のことで、こちらの恵日寺も807年徳一大師によって開かれ、こちらの恵日寺の山門は平将門の寄進といわれているそうです。

180度違うプロフィールと2つの恵日寺では、結局、両恵日寺の伝承では、如蔵尼の在俗中の名前を瀧夜叉として、この妖術使いの滝夜叉姫と心優しい如蔵尼は同一人物で、磐梯町の恵日寺では如蔵尼の墓碑と滝夜叉の墓碑があり、いわき市の恵日寺には滝夜叉の墓と称する土盛りと墓碑が残っているということで八方丸く収まっているようです。
元祖と本家の醜い争いが無いだけ良しとしますが、何となく釈然としないのは一般ピープルでしょう。そこでもう一度そのプロフィールのバックボーンを調べると何となく納得できるような解釈が浮かび上がってきました。
そもそも滝夜叉姫の伝説はどうやら物語として伝わっているものらしいことが分りました。
滝夜叉姫は江戸時代、歌川国芳の錦絵に描かれたり小説や戯曲に多く登場しており、特に有名なのが1806年、山東京伝作の書いた「善知鳥安方忠義伝」という物語のようです。
これは平将門没後の後日談として、将門の子良将と滝夜叉姫が妖術をもって父の医師を果たそうと暗躍する物語読本で、3編15巻にまとめられているのです。そして将門の三女が滝夜叉姫と初出したのもこの読本だそうです。
そしてこの山東京伝作の「善知鳥安方忠義伝」を宝田寿助が脚色した「善知鳥相馬旧殿安方忠義伝」が歌舞伎として上演され、読本と歌舞伎によって滝夜叉の性格が確立したそうです。
このように将門の遺児たちが親の無念を晴らさんとして立ちあがる、という伝説が史実を離れて民間に生まれたのは極々当然のことですので、あくまで滝夜叉姫はフィクションの世界と割り切った方が理解しやすいといえます。
そして、そのモデルが伝承の如蔵尼で、明らかに超人的な性格に書き換えられた(如蔵尼の伝説も若干その帰来はあるのですが)と考えるべきでしょうね。
ある意味ではフィクションとノンフィクション(伝承をノンフィクションと位置づけるかどうかは別として)の二つのプロフィールを持った滝夜叉姫ということと勝手に理解しておきましょう。

滝夜叉姫については以上ですが、前述した如蔵尼伝説はあくまで磐梯町の恵日寺の伝承なので、一応いわき市の恵日寺周辺の伝承も掲載しておきましょう、片手落ちにならないように。
こちらの伝承は、まさに滝夜叉と如蔵尼をミックスしたような伝承です。

『滝夜叉姫は父の影響で、波乱万丈の人生を送った人である。いわゆる「承平・天慶の乱」(931~940)を起こした、平将門の三女として生まれた。父将門は剛勇の野生児であった。領地の問題で、叔父たち一門の不当な圧迫を受け耐えられず、叔父・平国香と戦い、国香を戦死させてしまった。その後、将門は下総国猿島に御所を立て、関八州を我が物にして、自ら「新星」と称した人物である。朝廷は見過ごすわけにはいかず、4000人の兵を差し向け、関東一円で激しい戦いが繰り広げられた。利根川を挟んでの戦いで、将門は流れ矢が当たって戦死してしまった。将門の館に火が放たれて、真っ赤な炎に包まれ焼け落ちる中、滝姫と兄の良門はひそかに逃げ出した。地蔵菩薩像を背負った滝姫と良門は、相馬に落ち延びた。そして、故郷を追われ両親を殺された滝姫は、恨みと憎しみから、鬼神のごとき女夜叉に変貌していったという。時が過ぎて、兄と妹は旗を揚げたが、勝ち目はなく良門は戦死。白馬に乗った滝姫が、逃げ延びた先が四倉町玉山の恵日寺だったのである。
滝夜叉姫は寺の傍らに庵を結び、長い髪を剃り落とし、尼になった。
仏門に入った姫は仏につかえ、特に肌身はなさず持ってきた地蔵菩薩を深く信仰した。また、寺の裏にある井戸水に自分の顔を映して、明鏡止水の心境になっていたという。後に地元の人々は、この井戸を「滝夜叉姫の鏡井戸」といい、また滝夜叉姫を「地蔵の尼君」とか「地蔵尼」と呼んで敬うようになったと伝えられている。地蔵尼は80歳を過ぎてなくなった。』(「いわきふるさと散歩」より)

どうですか、とっても玉虫色…、見事なソフトランディングです。これを今回のプロフィールの結論としましょう。

恵日寺山門こうして滝夜叉姫を理解したところで、次なるはその左甚五郎作の山門に近づいてみます。

左甚五郎といえば伝説の大工で、日光東照宮の眠り猫で一躍有名人となった人です。実在していたとか、していないとかいわれていますが、まあ、どちらでも構いません、私的には。
意外と埼玉県に甚五郎作の作品は多く、秩父神社の「つなぎの龍」や妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市)、国昌寺(さいたま市)、安楽寺(比企郡吉見町)などがあるそうです。
その甚五郎作の茅葺の山門が…、と見れば瓦葺の山門でした。建て直されたのでしょうかね。
瓦屋根以外は結構古そうで、それなりに凝った技術が見られますが、それが甚五郎作といえるのかどうか良く分りません。
恵日寺山門山門の天井には龍の絵が描かれていますが、完全に後付でしょう。


山門の側に記念碑が建てられています。この山門の屋根を葺き替えた記念の碑です。

『恵日寺開創1300年 大門屋根社寺瓦葺替改修復記念碑
当山は奈良時代和銅2年(709)三論宗の慈慧法師聖徳太子の教法を広める為奈良より下向し、此の地に堂宇を建て慈豊山慧日寺と号し開創され平安時代大同元年(806)徳一大師奥州に仏教布教の拠点として中興される。
天慶3年(940)平将門公三女瀧姫(瀧夜叉姫)当山に逃れ、仏門に帰依し如蔵尼と改め地蔵菩薩を信仰され終焉の地となる。以来明徳年間隆恵比丘尼まで尼寺として栄え、明徳3年(1392)鎌倉観修寺の甚恵上人隆恵比丘尼より寺の由緒を諭され喜悦を開き、中興第一世の祖となり、山号を甚光山と改め法燈高く岡本談林となり明治維新まで多くの学僧を輩出した。
室町時代岩城公の庇護篤く、天文3年(1534)相馬顕胤が岩城重隆を攻めた折、岩城公の依頼により当山住職仲裁和睦をなす。江戸時代に移り磐城平藩主の祈願寺となり、元和5年(1619)城主内藤政長公領内の材木・人馬・入用に任せ、本堂・庫裏・諸仏堂造営寄進され、七堂伽藍の甍が並び門葉集合して寺門の隆盛を極めたと伝えられる。今に残るこの岡本の大門は当時内藤公が寄進され左甚五郎の作と伝えられ地域の人々から現在も大門と呼称され親しまれている。
字・名の大門前は当山の大門を指しているのである。
慶安3年(1650)幕府より御朱印25石を賜り末寺63ヶ寺を擁した格式高い大本寺であったが明治維新後俄かに零落、しかしながら明治6年(1873)6月15日玉山小学校恵日寺に開校される。
昭和20年(1945)7月28日戦災に遭遇し大伽藍・庫裏・宝物殿・書仏像惜しくも一瞬にして灰燼に帰す。僅かに戦災より免れた大門のみが蒼古として昔日の面影を残し当山の威容を保っている。
時代の変遷時流の推移量り難く、寺門の隆衰また逃れられず、開創以来1200有余年の夢、煙と共に眠りの中に没せり、法燈衰微の一途を辿りしも昭和38年(1963)本堂再建し萬古の眠りを覚ます、法燈恵命を点じて寺の興隆を見るに至る。更に檀信徒の総力を得て先師祖先を祀る位牌堂の建設を始め諸事業を起こし境内の整備調い、平成6年(1994)福島88ヶ所霊場第76番札所となる。
平成13年(2001)大門屋根社寺瓦葺改修復工事に着手、順調に進捗し同年11月3日上棟落成慶讃大法会を修す。
時恰も当山は平成21年(2009)開創1300年にあたる記念すべき年を目前にして戦災以来の浄業完成されたことは、檀家一同の喜びであり、仰ぎ願わくは本尊に誓願し郷土の平穏と当山の興隆発展檀信徒の諸願成就されんことを祈念し、ここに当山の沿革と大門の由来を記し永く後世に伝えんとする所以である。
平成15年11月3日』(現地記念碑碑文より)

開創1300年といえば平城京遷都、あの〝せんと君〟の奈良と同じということで、瀧夜叉姫だけでなく寺院自体も紆余曲折ながらトンでもな歴史を誇っていたのです。そしてその象徴が山門ならぬ「大門」ということで、貴重な建造物であることを認識させられました。
「大門」を抜けて参道の石段を上がると本堂のある境内です。
恵日寺瀧夜叉姫の供養碑石段を上がりきったすぐ左手に石碑があります。
はっきりと刻まれた文字を読むことができませんが、下の方には供養塔と刻まれているのが見て取れますので、これが瀧夜叉姫の供養碑かもしれませんね、文字が見えにくいというのもそれっぽいですし。


反対側には歌碑が2つあります。
恵日寺歌碑左側には「如蔵尼瀧姫」と刻まれており、「興津城にかわる社や 国神の 永遠にまもらめ 天地の和を」とあり、右側には 「如蔵尼小野小町」と刻まれていて、「山里の五十路の坂を 越えぬれ 刈穂の庵は こころなこみ」とあります。

どういった意味合いで作られたのか、そしてどういった意味の歌なのか、さっぱりわかりませんが、古刹ゆえの歌碑なのでしょう。

恵日寺本堂正面に本堂があります。昭和38年の再建ですから本堂としてはかなり新しいほうでしょう。

ここには県指定の文化財である「木造阿弥陀如来立像」が安置されているそうです。
これは寄木作りの漆箔像で、火焔様の舟形光背を負っているのですが、光背の一部は破損しているそうです。文永元年(一二六四)に作られた仏像で在銘では、いわき市内最古の仏像なのだそうです。
正一位岡本稲荷大明神本堂の左側には「正一位岡本稲荷大明神」の掲額がある鳥居がいくつも並んでいます。

正一位岡本稲荷大明神鳥居の先には何もなくそこから石段をあがった上に社らしきものがありますが、これが本殿なのでしょうか。
良くわからぬものばかりです。


こうして滝夜叉姫終焉の恵日寺の境内の散策を終え、最後の目的である滝夜叉姫の墓が裏山にあるとのことでしたが、特に裏山に通じるような道が境内からはありません。
仕方がないので、一旦山門に戻り付近にいらした農作業をされていた方に訪ねると、どうやら恵日寺の前の道を左に少し進み住宅の路地を左に登っていけばあるとのことなので、その通り進んでみました。
玉山百貨店玉山百貨店途中、非常に興味深いお店を見つけました。恐らく日本で一番小さいデパートではないでしょうか、この「玉山百貨店」は。
デパートながら土曜日はお休みみたいで、実に面白い百貨店です。

住宅地の中の坂道を登ると途中に左折の小道があり、境内につながっているようでした。結局境内からも行けるようですが、この道は気がつきませんでした。
細い泥の坂を上っていくと舗装された小道に出ます。あたりを見渡してもそれらしい墓が見つかりませんので、ちょうど通りすがりの郵便屋さんに聞いたところ、ここから更に東に進むようです。

滝夜叉姫の墓言われたとおりに進むと左側にありました、滝夜叉姫の墓です。

滝夜叉姫の墓は生垣に囲まれ、中央に煉瓦のような小道があり整然としています。
後ろの右側にはシダレザクラが、そして左側には名前がわからないのですがピンクのサクラのような木が植えられています。シダレザクラはもう終ってしまっていましたが、左側のサクラのような木は満開で実に綺麗に咲いています。
滝夜叉姫の墓その手前には小道に覆いかぶさるように奇妙な形の松が植えられています。

滝夜叉姫の墓そしてその先の中央に土饅頭の形になっているのが滝夜叉姫の墓です。

土饅頭の前には線香受けが、そして左側には「瀧夜叉姫の墓 法名 如蔵尼」と刻まれている石碑があります。
そして土饅頭の後ろ側には「嗚呼瀧夜叉姫之墓」と刻まれた石柱が建てられています。
線香の跡や、花が添えられた跡があり、綺麗に清掃・整理されているので、近所の方たちが常にお参りしているのではないでしょうかね。
質素だけれど華麗、まさに滝夜叉姫に相応しい墓ではないでしょうか。

春のサクラの名所のようですが、滝夜叉姫伝説と共に非常に興味深い恵日寺でした。
流石に「いわき100選」だけの理由がわかります。

諏訪神社

恵日寺から6号線に戻る途中に「諏訪神社」があります。
この神社へは20数年前に1、2度訪れたことがあります。何が有名といえば毎年5月4日の例大祭に出る神輿で、町内を練り歩いたあと四ツ倉海岸で海中渡御するのが毎年TVで放映されるほど(勿論地元局)有名なのです。
一部には女神輿が…、という噂も聞くのですが、全く否定はできません。
とにかく1度は見ることができましたが、何せ毎年例大祭がGW中なので、結局2度しか見ていないということになるのです。
今年もちょうど3日前に終ってしまったのに、何を今更となるでしょうが、今回はこの神社が「浦島太郎の誕生地」であると聞いていたので、寄ってみようと思い立ったわけです。

諏訪神社早速到着すると道路わきに鳥居があり、そこから参道が続いています。
参道の先に石段があり、かすかに古の記憶が甦りますが、それ以上の記憶は甦りません。

諏訪神社御神庫境内に上がると左手に御神庫があり、ここに件の諏訪神社神輿を始め、安波大杉神社神輿、出羽神社神輿の3基の神輿が納められています。但しこの御神庫及び神輿3基は昭和57年に焼失し造営、及び新調修復されているようです。


諏訪神社社殿諏訪神社本殿そして正面が社殿です。
諏訪神社のオフィシャルサイトのよれば天長3(826)年、田戸修理太夫の居館内の田戸村白山中腹に本殿を創建し勧請されたようです。そして文明元(1469)年、田戸村白山から現在の地に社殿を移動し遷座し、その跡地である田戸村白山には白山神社が祭られ、5月4日の例大祭には3年に一度神輿が田戸地区に渡御されるのが、その名残のようです。
その後、江戸時代に本殿は改築され、昭和33年には本殿が総改築され新しく造営されています。
堂々とした雰囲気が歴史の重みを伝えているかのようです。

さてここで当初の興味でした「浦島太郎の誕生地」について調べてみます。
この「浦島太郎」伝説は全国に40ヶ所以上あるそうです。しかもそのうち10数ヶ所は証拠が存在すると主張しているのですから、なんとも単に童話ではすまない雰囲気です。
そもそも「浦島太郎」伝説は「古事記」や「日本書紀」に「ヒコホホデミノミコトが海宮に行った」という神話が竜宮浄土の始まりだったようで、 それに動物報恩(○○の恩返し)と不老不死への憧れが積み重なったパラダイスが龍宮城だったということです。
そしてこの四ツ倉にも「浦島太郎」伝説が残っていたのです。

現在、岡山大学の付属図書館に「池田家文庫」なる古文書が残されています。これは旧岡山藩主であった池田家が所蔵していた古文書や絵図などの藩政資料コレクションで、重文の「信長記」なども含まれていうるそうです。
この池田家の宗家が池田輝政でその父が織田信長の重臣・池田恒興なのです。
そしてこのコレクションの中に芳賀次郎兵衛という人の書いた古文書があります。芳賀次郎兵衛という人は寛永19(1642)年に禄高300石で大目付に任命された人だったそうです。
そしてその古文書に四ツ倉の「浦島太郎伝説」が書かれているのだそうです。

『下仁井田は、昔物語の浦島太郎(仁井田重兵衛)の誕生地という。今の諏訪神社の鎮座しているところが、その屋敷なり。ある日、村人達が亀を捕まえていじめているところに太郎が通りかかり、金を与え、酒を求めてきて、村人や亀に飲ませ放せり。ある日、太郎が釣りをせんものと、小船にて沖へ漕ぎ出づるや、沖合い遥か彼方より、竜宮浄土の乙姫が亀に打ち乗り、迎えに来たとのこと。太郎は迎えるがままに、竜宮に至るや、美なること、金城というか、たとえようもなし。助けられし恩人とて、鄭重なる饗宴を受け、面白飽くことなく、遂に帰るを忘れ、2,3年と思いしが、300年余の年月にて、俄に故郷恋しく辞し去る。亀はご恩に報いるとて、太郎を甲羅に乗せ送られたり。故郷に帰るや家は朽ち果て跡形もなく、あまりの心細さに、開けてはならぬと教え授けられた玉手箱を開きたれば、みるみるうちに老い果てたりと』(「いわきふるさと散歩」より)

この仁井田重兵衛の住まいが、現在の諏訪神社であったとされているのです。
もともと諏訪神社は1469年に現在地へ遷座したのですから、少なくとも浦島太郎はそれ以前にここに生まれ、住んでいたということになるのですね。
現在でも海が近いのですから、当時ここで漁を行っていても何ら不思議はありません。
こうしてこの諏訪神社が「浦島太郎の誕生地」として知られるようになったそうです。 そういった意味もあって神輿が海中渡御する…、という訳では無いでしょうね。

境内をグルッと巡ってみます。
この諏訪神社には実に境内社や石碑が多いです。

諏訪神社石碑境内の一番右側には「廿三夜記念碑」や「庚申塔」などが並んでいます。

出羽神社その左側にあるのが「出羽神社」で、延宝2(1674)年勧請とあるので、境内社自体がかなりの歴史を持っているといえます。

足尾神社その隣が「足尾神社」で、足尾銅山の足尾と何か関係があるのかと思えば全く違い、足の無病息災と旅立ちの安全守護を祈念して建立されたという、そのまんまの神社です。

船玉神社そしてその左手に「船玉神社」があります。前に「安波大杉神社」と書かれた木柱があるのですが、これは合祀されたそうで、文字通り船の安全運航の守護神として建立されたそうです。

金刀比羅神社更にその左側に「金刀比羅神社」があります。
創建は不明ですが数百年の歴史を持つ社のようで、もともとは四倉公園にあったのですが老朽化により平成6(1994)年この境内内に移されたそうです。

金刀比羅神社その後の平成17年、その四倉公園に安置されていた「伝・鯨の骨」といわれるナガスクジラのあごの骨が、この「金刀比羅神社」の脇に移設・安置されているのです。

これがあごの骨とすると全体では一体どれだけの大きさなのでしょうかね。
館下稲荷大明神社殿を挟んで左側にあるのが「館下稲荷大明神」です。

ご存知商売繁盛の神様でマルチに展開するには「稲荷社」と「天神社」があるとお参りの方が絶えないとか…。
そしてその前には様々な石碑が立ち並んでいます。これら一つ一つに歴史があるのでしょうね。

「浦島太郎の誕生地」である「諏訪神社」はそれ自体でも由緒ある歴史を持つ神社でした。

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