愛宕花園神社

6月というと自然にとっては季節的に中途半端な季節です。当然しばらくするとうっとうしい梅雨が始まるのですが、入梅までの短い期間で自然を楽しむのは結構難しいもののようです。
特に花を愛でるのは実に難しい時期です(冬なら初めから諦められるのですが)。紫陽花には少し早いですが、この時期はなんといってもあやめ・菖蒲の時期です。
過去に何度か見学に行きましたが、華麗というよりは風流な趣のあるのが特徴でしょう。そんなあやめ・菖蒲を探してみたのですが、残念ながら季節的にも地域的にも今回十分楽しむことはできませんでした。
したがって今回の散策は図らずも神社仏閣めぐりの様相となったのでしたが、なかなか興味深い社寺にめぐり合うことができたのはラッキーでした。 まずは肩慣らし的に今回の散策に出かける直前に知った文化財を訪ねてみました。

旧四倉銀行

まさに灯台下暗しとはこのことでしょう。
四倉町のかつてのメインストリートといっても過言ではないところに「旧四倉銀行」と呼ばれる文化財があります。
前回【いわき散策記vol.8】で訪れた「諏訪神社」から歩いても5分ほどの場所で、かつて家内の実家からも5分ほどの場所です。
私自体その建物の前は何度も通り過ぎていて存在自体は知っていたのですが、文化財に登録されたことは全く知りませんでした。 ということで今回平地区を巡る前にまずはこの「旧四倉銀行」を訪れてみたのです。
旧四倉銀行旧銀行といってもそれほど大きな建物ではないのですが、綺麗に整備されてあたかも白亜の殿堂といった面持を感じます。

登録内容を確認します。

『登録有形文化財(建造物)名称:旧四倉銀行
種別1:産業3次 種別2:建築物 年代:大正15/平成15改修 構造及び形式等:鉄筋コンクリート造2階建、建築面積130㎡、塔屋付
登録番号:07-0083
登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの
解説文:間口9.9m、奥行15m規模の、鉄筋コンクリート造2階建で、通りに西面して建つ。正面のペディメントやエントランスの両脇のドリス式円柱、四倉の「Y」をモチーフとした瀟洒なレリーフなど、意欲的な意匠がみられる。四倉町のランドマークとして親しまれる。』(文化庁データベースより)

確かにドリス式円柱などは現在の建造物には見られないものでしょうね、バブルでもない限り。
この四倉銀行は大正5年に四倉港築港第一期工事の始まりに伴い、漁業振興の金融機関として設立されたそうです。その10年後の大正15年に38,000円の建築費で建設されたのがこの建物です。
外観の意匠は先の解説文の通りですが、内装も白大理石の受付カウンターや漆喰の壁にレリーフ、そして階段の手摺などには彫刻・照明が施されていて大正ロマンそのままの雰囲気が漂っているそうです。
その後、四倉銀行は昭和4年の金融恐慌で経営が悪化し閉鎖され、平商工信用組合の事務所に貸し出されたり、頭取だった吉田氏の家系で医院を開業したり、学習塾に使用されたりもしたそうです。
そしてその後家庭の事情もあり取り壊しを検討したそうですが、建築士のアドバイスで登録文化財の申請を行ったそうです。

この国の登録文化財制度は実に都合の良い制度で、登録されると税制面の優遇や使用に関しての方法などなかなかメリットの多いシステムのようです。
登録されるための条件は、原則として建設後50年を経過していて、1.国土の歴史的景観に寄与しているもの、2.造形の規範となっているもの、3.再現することが容易でないもの、のうちの一つに該当すれば登録されるそうです。
そして、文化財として登録された後も外部を大きく変えなければ、内部は改装して、例えばホテル、レストラン、資料館などに利用することもできる、というありがたいシステムなのです。
例えば埼玉県川越市にある「手打ちそば百丈」というのも登録文化財だそうで、そういわれてみれば現在この「旧四倉銀行」は理髪店として使用されているようです。

お店になっているので、内部に入って見学することもできるのでしょうが、気の小さい私としては見学だけでは気が引けるので、外観だけ眺めさせてもらいました。登録文化財の中での散髪はやはり他と違って何やら気持ちよいのでしょうかね。
ちなみにいわき市では「旧四倉銀行」以外に、「旧三凾座」「松本家住宅茶室」「柏原家住宅土蔵」「木田家住宅主屋」が登録されているようです。

愛宕花園神社

ここから今回のメインである平地区の散策に出かけます。
平地区はいわき市の中の中心地で、いわき市役所はもとよりいわき駅、いわき中央警察署、いわき市立美術館、福島県立磐城高等学校などなどいわき市の政治・経済の中心地となっているところです。
そもそもは平安時代末期から戦国時代まで岩城氏の本拠地として、そして江戸時代には磐城平藩の城下町として栄えたことから今に至っているのです。
「平」の由来の一つとして、岩城則道が本拠地を構えた時に、妻の徳姫がかつて居住していた平泉に因んで、中心部を「平」と称して、郊外を「白水」と称したのが由来とも言われているそうです。
何はともあれ、少なくても平安時代から栄えていた平ですから、その歴史に裏打ちされた神社仏閣も多いものと推測されるのです。 そしてその一つとして最初に訪れたのが「愛宕花園神社」です。
国道6号線から一本横にそれたところで、いわき駅から北に一駅進んだ草野駅の近くです。草野駅から更に一駅進むと四倉駅ですから、凡その立地が理解できるでしょう。

到着すると道路わきに立派な朱の鳥居があり、その横に由緒が記載されています。


愛宕花園神社
御祭神:珂遇突智命(火伏せの神)、瓊々杵命・木花開耶姫命(二神ご夫婦、安産・子育・夫婦和合神)
由緒:
愛宕神社は康平年間の創立で文禄元年常州車城主好間隆家公が当所にご所替えの折御朱印五石を添え花園神社を合祀した。
馬場先の木造大鳥居は宝暦4年に造られ平城主井上河内守のご寄進など代々領主の崇敬が厚かった。
現神殿は大正15年造営で昭和12年県社昇格「いわき7県社」に列した。
境内には天和3年平城主三代内藤義概公が祭りに招かれて詠んだ句碑があり、その「花園際」は現在「子育詣」として賑わいを見せている。
平成17年10月1日』(現地案内板説明文より)

康平年間とは1058年~1065年までを言うので、まさしく平安時代の創建ということで、1000年近くの歴史をもつ由緒ある神社といえるでしょう。そして花園神社が合祀されたのが文禄元年ですから、1592年安土・桃山時代のころです。
馬場先の木造大鳥居がこの朱の鳥居のことでしょう。これも宝暦4年ですから1754年、江戸時代中期といったところでしょうが、以外と綺麗に修理されています。遠目からではそれほど古いようには見えません。

愛宕花園神社大鳥居を抜けて参道を進んで石段を幾つか登ったところに今度は石の鳥居があり、こちらの由緒はわかりませんが、所謂第二の鳥居です。

愛宕花園神社そして先に進むと正面と斜め左に石段があります。

花園山神照寺正面の石段の両脇には「花園山神照寺」と刻まれた寺号標がたっています。

第三の鳥居そして斜め左側の石段の先には石の鳥居があり、これは第三の鳥居ということでしょうから、花園神社の参道はこちらの斜め左の階段ということです。


まずは斜め左の階段をあがって「花園神社」に詣でます。
神楽殿参道を上りきったところに比較的大きな建物があるのですが、どうやら「神楽殿」のようです。

一般的に見慣れた神楽殿とは違い真ん中に通路があり、右側が舞殿で、左側は観覧席になっているという江戸時代の形式の神楽殿だそうです。
花園神社境内神楽殿を抜けると今までの天気がうそのように、さも日の光を閉ざしたような鬱蒼とした世界が広がります。

花園神社境内花園神社境内神社境内がスダジイ林につつまれていて、シイやカシの樹木が保存樹木として指定されています。
また、一方には樹高12mのヒイラギもあり、これも保存樹木となっているようです。

このように老木・大木に囲まれた境内はまさに神域の様相を一層色濃く呈しているのです。

そのスダジイ林の参道を進むと社務所の前に先ほどの説明文にあった内藤義概公の句碑がありました。


内藤風虎の句碑
碑文:
岩城花園祭の日とてかの地にまかりて、
「阿すよりや 秋の波那ぞの まつり客」風虎
建立者 土筆会 建立年月日 昭和27年10月23日
註:風虎は、平城主内藤家第三代義泰公の俳名で、市内で風虎の句碑はおそらくこれが唯一のものであろう。
幼名頼長、長じて義概、後に義泰(1619~1685年)』(現地案内板説明文より)

この地を収めた岩城家や、岩城家滅亡後の江戸時代の歴代藩主である、鳥居、内藤、井上、安藤の各家の歴史については 【いわき散策記 vol.1】で調べたのですが、ここではその内藤義概について調べてみました。
先ほどからの説明にもあるとおり陸奥磐城平藩・内藤家の第三代藩主である内藤義概は、領内に防風林を植樹したり仏閣や社寺の再建に励んだりとそこそこ善政を布いていたすぐれた藩主である一方、和歌の方面でもかなりの実力を持ち合わせていたようです。 しかし晩年はその和歌・俳句に耽溺したため藩政を省みなくなり、藩政の実権を家老の松賀氏に譲ってしまったのです。
これがこの世のならいで世継ぎ騒動となり、すったもんだの挙句、義概の三男・義孝が後を継いで落ち着いたようですが、名藩主とはなれなかったようです。
まあ、それでも藩主は藩主ですし、和歌・俳句に秀でた藩主ですから、当時の花園祭の歌は大変ありがたく貴重なものだったのでしょう、おそらく。

句碑の先に社殿が鎮座しています。

本殿素朴ながら堂々たる重みのある拝殿で参拝してから、本殿にまわります。

説明にもあるとおり社殿は大正15年に再建され、本殿は変則三間社流造りだそうなのですが、どの辺りが変則なのかは良く分かりませんが、それなりの趣はあるようです。
神社の歴史と境内の林に圧倒される思いで「愛宕花園神社」を後にすることとなりましたが、いわき市内でもそれほどメジャーとは思えない神社ですが、一見の価値は十分ありそうです。

花園山神照寺

参道を戻りながら折角なので、隣にある「花園山神照寺」に詣でてみました。
階段を上がるとそこには「花園神社」とは違うさえぎるもののない、広い境内があります。
花園山神照寺比較的大きな中央正面に本堂があり、本堂の裏手に花園神社から続いているのであろう樹林を見てとることができます。

花園山神照寺また、本堂の前には形の良いまっすぐに伸びた松が植えられています。

自力で立っていられない長さのようで、腕木で支えられていますが、結構な樹齢なのでしょう、なかなか見ごたえのある松です。
庚申塔や観音堂庚申塔や観音堂境内の左側には庚申塔や観音堂らしきものが立っています。

名墳一鍬塚そしてその手前、ちょうど花園神社の階段の参道横に「名墳一鍬塚」なる石碑が立っています。

この石碑は何の変哲もない石碑なのですが、かなりディープなエピソードを持った石碑なのです。

応永年間というから1394年~1427年の室町時代中期のころでしょう。
当時この地を支配していた岩城朝義は、薬王寺の僧・隆忠和尚を罪もなく権力をもって排除し、親交のある某僧を薬王寺の住職としたそうです。薬王寺を追われた隆忠和尚はやむなく末寺であった「花園山神照寺」に隠退したのでした。
そんなある年、薬王寺に雷が落ちことごとく伽藍が焼失したのを聞き嘆き悲しんだ隆忠和尚は、「死後生まれ変わって城主になり、薬王寺を再興するのだ」と決意し、自ら道端に穴を掘り生きながらその中へ入り、鉦をたたきながら読経して通りかかる人に土をかけてもらったそうです。そして、この隆忠和尚が土中で鳴らした鉦の音は、七日七晩聞こえたといわれています。
時は流れて件の岩城朝義の孫の清胤にはなかなか嫡男ができませんでしたが、八茎の薬師如来に祈願していた奥方はある晩夢を見たそうです。 手に金輪を持った僧が現れ「われ、今、汝の胎に身を寄せたい。しかし、奥方の腹は穢れている。われ、その穢れをいとわず口から入っていく」とお告げがあったそうです。そしてこのとき奥方は懐妊し、やがて男の子が生まれたのでした。
しかし、その子は数年間右手の指が開かなかったのでした。そして7年目に初めて開いた掌にはなんと「隆忠」と書かれていたのです。
隆忠和尚の生まれ変わりと気がついた清胤は、薬師丸と付けられていた名前を隆忠と変え、後に隆忠公は文安3(1446)年、隆忠和尚の念願を叶え、薬王寺を再建したという伝説なのです。

この薬王寺へは【いわき散策記 vol.5】で訪れていて、確かにそのときの散策記では文安3年に岩城隆忠によって再興されたと期しましたが、このようなエピソードがあったことは知りませんでした。また奥方が祈願した八茎の薬師如来は【いわき散策記 vol.6 】で訪れましたが、確かにご利益のありそうな古刹です。
まあ、それにしても壮絶な生き様と、4代目になってやっと念願の叶った永い永い執念に脱帽です。
伝説といってしまえばそれまでですが、人知れず存在している石碑にこのようなエピソードが隠されていたことにただただ驚くばかりでした。

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