出羽神社

「愛宕花園神社」を後にして、次に訪れるのは車で15分ほどのところにある「出羽神社」です。
この「出羽神社」には人知れずある義民の墓があるとのことなので今回の散策となったのです。
一揆などの話題にはそう華々しいものは殆ど無く、どちらかといえばネガティブな話題なのですが、やはり歴史を知るにはこう言ったところも訪れることも必定なのでしょう。
どんなエピソードが隠されているのか興味深いものです。

出羽神社境内

出羽神社路地に沿ったところに突如石造りの鳥居が現れます。鳥居の横には社号標が立てられています。黒光りした社号標が一種独特の雰囲気をかもし出しています。

出羽神社鳥居を抜けて参道を進むと、先ほどの「愛宕花園神社」と反対に木造の二の鳥居が現れます。

出羽神社太鼓橋そして二の鳥居の先に進むと朱塗りの太鼓橋が架かっています。

出羽神社太鼓橋の小川江筋下を流れているのは小川江筋だそうで【いわき散策記 vol.6】で訪れた夏井川沿岸の大堰神社が小川江筋の起点であることを知りましたが、その小川江筋がこのようなところで再会できるとはプチ感動です。

太鼓橋を渡るとその先には随分と高い階段が連なっています。兎にも角にも上がらなければ始まらないのですから、エッチラホッチラ石段をのぼります。
出羽神社境内上がったところが境内で、左側に社務所、そして正面に屋根の色が鮮やかな社殿が見て取れます。

出羽神社神楽殿また、右側には立派な神楽殿が彩を添えています。

出羽神社ご神木参道を進んで社務所を過ぎるとその横にご神木なる木が植えられています。


『御神木「相生の柏槙」
1つの根元から2本の幹が相接して生まれ育つ、非常に珍しい樹形である柏槙の姿は、夫婦が寄り添い深い契りで結ばれ共に長生きする様を象徴する。
御神木「夫婦柏槙」とも言われております。
種目…柏槙(ビャクシン)、ヒノキ科の常緑針葉樹、雌雄異株、四月開花、果実は翌秋に黒紫色に熟す。』(現地案内板説明文より)

ビャクシンという樹木は名前も聞くのも初めてですが、日本ではイブキという名の種がポピュラーな樹木のようです。
出羽神社ご神木老木になると幹がねじれる性質を持っているようですが、こう言った樹形はやはり珍しいのでしょうね。

ちなみにこの樹木は梨やりんごの病害となる赤星病の中間宿主となるので、果樹園の付近には植栽しないのが望ましいそうです。
片寄五郎義忠公と内藤政栄公(露沾)の碑ここから社殿までの間に数段の石段があり、その石段を上がった左手に2つの石碑があります。


『片寄五郎義忠公 和歌 徳治年間(1306~1307)
爰にまた 移すも清し 駒清水 汲みてたのみし 神の恵みを
内藤政栄公(露沾) 和歌・俳諧 享保2年(1717)
羽黒山 御影も清き みそぎこそ 茅の輪をこゆる 代々の川波
清祓 千代をむすばん 駒清水』(現地案内板説明文より)

右が片寄五郎義忠公で、左が内藤政栄公(露沾)の碑です。
現地の案内板ではなんとも内容が理解できなかったので、これについて調べたところこの和歌自体が民話となっているようです。
この出羽神社の裏手に井戸があるそうで(残念ながら見逃してしまいました)、その井戸を駒清水と呼んでいるそうなのです。そしてその駒清水なる井戸に言い伝えがあるのです。
南北朝時代に下片寄りの城主である片寄五郎義忠は西郷の城主と中神谷金沢で合戦となったのですが、雌雄を決することができない上に、酷暑のなか人馬共に枯渇して大層困ったそうです。
そしてついに義忠の乗る馬が進まなくなったため、義忠が「この戦に勝てたなら神社を修理して永く信仰します」と祈願したところ、岩間から清水が湧き出し、その水を飲んで人馬共に活力を取り戻し強敵に勝つことができた、という伝説を詠んだ歌なのだそうです。
全国各地でこのような言い伝えを聞くことができますが、意外と神さまも打算的だったりするものです…。

そして後年、磐城平藩の内藤政栄(露沾)がこの地を訪れて詠んだ歌が上記の2編だったようです。
内藤政栄(露沾)については、前回訪れた【いわき散策記 vol.8】の久之浜海岸に石碑がありました。当然磐城平藩ではVIPですから、詠んだ歌もVIP級なのです。

右側には「出羽神社」の由来書があります。

出羽神社
御祭神:大物忌神を主神とし、月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山の大神を奉斎。
御由緒:俵藤太(藤原秀郷)十世の孫出羽国熱海城主佐藤信濃守信貫公が、証言元年(1207)7月、当地の座主館に来住して出羽国一之宮鳥海山大物忌神社ならびに出羽三山神社の神々を奉斎し、羽黒権現を勧請。
神階・社格:享保3年(1718)2月3日、神祇道管領より正一位羽黒大権現の神階を受け明治12年(1879)10月4日村社に列し大正12年(1923)7月7日郷社に列格。
末社:八坂神社 御祭神・素戔嗚尊 文永4年(1267)勧請
摂社:三山権現社(塚王神社とも称す) 御祭神・出羽三山の大神 永正10年(1513)ごろ勧請。』(現地案内板説明文より)

1207年ですから鎌倉時代の創建ということとなる、由緒ある神社といえそうです。
出羽神社拝殿まずは参拝と社殿に進むと、拝殿の屋根が見事なコバルトブルー色です。屋根は最近葺きかえられたばかりなのでしょうか、実に綺麗です。

いわきの海と空をイメージした…、な、訳はありませんが木造部分の古さとのアンバランス差がこの時期だけの見所かもしれません。時間と同時に屋根も色あせてくる(それはそれでまた味のあるとこではあるのですが)でしょうから。
出羽神社本殿そして裏に廻って本殿を見学します。
何と何と本殿の屋根は茅葺です。この本殿はいわき市の指定文化財となっているようですから、やはりこの茅葺がポイントなのでしょう。

出羽神社社殿拝殿の銅板葺屋根と本殿の茅葺屋根のコントラストが、華麗さと荘厳さを醸し出している絶妙なバランスといっても良いかもしれません。

これだけでも何となく来た甲斐があった(って、信仰心は何処へ行ってしまったのか)というものです。

参拝を済ませて境内を散策します。
八坂神社社殿の右隣には摂社の八坂神社がありますが、この八坂神社の屋根も茅葺の社です。

更なる風情を醸し出していますが、やはり神社には茅葺が実に似合うものです。

三山権現社!?八坂神社の隣には良く分らない塚のようなものがあります。

境内にはそのほかに摂社はないようなのでこれが「三山権現社」なのでしょうか。それとも、傍らに「淡島大明神」と刻まれた石碑がありますので「淡島神社」なのでしょうか。
今年の正月に【2010年、初春風情】で訪れた浅草寺の境内にあった淡島堂の淡島明神は、女性の守り神だということでしたが、果たしてこの塚が「淡島大明神」を祀ったものなのか、それとも他には見当たらない「三山権現社」なのかは結局判らずじまいということになります。
しかし、見方を変えて社殿(本殿)の歴史を振り返ってみるとそこに多少なるとものヒントが隠されているようです。
つまり古の神社ではもともと神は山や森などにいると考えられていたため、社殿というものは存在しなかったのです。そして神は特殊な形をした特定の岩や木に来臨すると考えられ、神への祭祀はその特定な岩や木の場所で行われたそうです。そしてその祭場が磐境・磐座などと呼ばれるもので、これが古代の祭祀形体だったようです。
したがって本殿も拝殿もなく山や木そのものを祀る神社があり、現在では富士山信仰の元宮である山宮浅間神社などに祭祀遺跡として残されているそうです。
そのような意味から推測するとイメージ的にはの出羽三山の大神を祀る「三山権現社」と考えると何となくしっくりするような気がします。そのように結論付けると「淡島神社」はどうなるのでしょうかね。ま、その辺の推測は置いておきましょう。

神庫そしてその「三山権現社」からずっと右側に神庫のようなものがあります。


『市指定有形文化財(工芸品)猿楽面・猿田彦面
出羽神社に伝わる猿楽面(4面)と猿田彦面(1面)は、室町時代と江戸時代後期に製作された工芸品です。
猿楽面には猿閉歯見、安達女、茗荷大悪尉、阿屋加志の4面があり、出羽神社に伝えられている文書の中に見える「神楽田」「神楽免」などと考え合わせると、中世のころから出羽神社の祭礼のさいに神楽舞が奉納されていたことを推しはかることができます。
一方の猿田彦面は、享保4年(1719)3月、平藩主内藤下野守政樹によって奉納されたもので、面の作者は出目洞白です。洞白は能面師の名門である大野出目家の養子となり、出目家の四代目を継いだ泉出身の水野谷加兵衛です。
これら5面の作品は、保存状態も良く、当時の工芸技術の水準を知るうえで、また、いわきゆかりの工芸品として貴重なものです。』(現地案内板説明文より)

実際に写真とかがないと良く分からないのですが、「猿閉歯見」というのは鬼神系の面、「安達女」は鬼女の面、「阿屋加志」は能の妖気を現す男面で、「茗荷大悪尉」は神や怨霊等に用いられる老翁面で、この中では「茗荷大悪尉」だけが江戸時代に作られたもののようです。
というのも享保10年(1725)に盗賊が押し入り「茗荷大悪尉」と「猿田彦」面が盗まれたので、出目洞白にその模刻を作らせ奉納させたため「茗荷大悪尉」だけが江戸時代製作となったのです。
貴重な工芸品であると共に歴史をも語っているのです。

義民の碑

境内を一通り散策したのですが、どうも冒頭の義民の墓がありません。もちろん神社ですから現在では墓はないのですが、神仏分離以前は神社境内に寺があっても不思議ではない時代でしたから、境内付近にあることは十分ありえることです。
碑への小道ということでもう一度境内を探索してみると、「三山権現社」と「神庫」の間辺りに崖を下りる小道があります。

15基の石塔その道を階段7.8段分くらい降りてみると、崖に張り付く様に15基の石塔が並んでいるではありませんか。こんなところにあるとは確かに境内からは見えなくなっていますので、気がつきにくいところです。

武左衛門の墓そして、その中の「剱譽法刄信士」と刻まれた石塔が冒頭の元文義民のリーダーの一人だった中神谷の百姓(佐藤)武左衛門の墓だそうで、それは元文3年(1738)年におきた百姓一揆の話となるのです。


『平藩の領内は稲の不作が続き、加えて洪水の大被害で農民は疲弊しきっていた。ところが一部の商人は特権をほしいままにして富を肥やしていたが、時の藩主内藤氏は財政が逼迫していた。そんな時、幕府から日光渡良瀬川改修手伝金・日光参宮修繕費二万四千両を課せられ、それに平藩江戸藩邸の火災による失費などで、藩財政は窮乏していたのである。そこですべての領民から税金をとることになった。町人には御用金を申しつけて厳しく取り立て、水飲み百姓にも高率の年貢をかけ、本百姓には米百石につき一両の税金をかけたのである。現代の消費税以上の、過酷なものだったに違いない。不作で米が獲れない状況の時に、課税したのだから百姓たちが蜂起したのも当然だった。苛政は虎よりも猛し、であったのである。我慢の限界を越していた各村の百姓たちに、檄を飛ばしたのが中神谷の百姓武左衛門である。武左衛門たちは十八ヶ条の要求を掲げて、元文3年9月18日朝、決起して立ち上がった。村ごとに標記をかかげ、それぞれクワ・カマ・オノ・カケヤなどを持った農民たちは、途中割元や商家の家を打ち壊し、郡方の元締め田町会所を打ち破り、土蔵の帳面などはすべて焼き払ってしまった。藩の武士達の屋敷も壊し、城下は一揆勢の占拠状態となったのである。後に、責任者だった武左衛門は逮捕されて、元文4年8月、平鎌田の川原で「打ち首獄門7日さらし」の刑に処せられたのである。
百姓一揆と義民の話を知る人は少ない。』(「いわきふるさと散歩」より)

このような百姓一揆や反乱等は、当時日常茶飯事的に全国で勃発していたのではないかと思えます。
勿論、百姓一揆などの是非を問うわけではなく、純粋にこの石碑一つに郷土の歴史が詰まっていることを知って欲しい気持ちがあふれています。 今後も学校の歴史では百姓一揆について教えられるでしょうが、きっと自分の身近(郷土)でもそんなことがあったことは、殆どの人が知らないままになっていくのでしょう。
そんな未来への警鐘としたエピソードといったら言い過ぎでしょうか…。

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