龍門寺と佐麻久嶺神社

若干アカデミックな気分に浸った後は、国道6号線経由で県道26号線沿いの「龍門寺」を目指します。 「龍門寺」は岩城氏の菩提寺として名高い名刹です。
かなり立派な寺院を思わず想像してしまいますが、いかがでしょうか…。

龍門寺

県道26号線をUターンする格好で右折し、やや急坂を上っていくと到着です。
墓地のすぐ側に駐車場があるのでまずは車を駐車して境内に向かいます。墓地を見ると何処までが墓地だかわからないような広さを持った墓地で「龍門寺」の大きさがうかがえます。
参道にたどり着くとそこに由来書きがあります。

禅勝山龍門寺の歴史
1.龍門寺は岩城の国主岩城家の菩提寺で、初代朝義氏公が施主で建造に着手して間もなく亡くなり、二代目で常朝公が意志を継ぎましたが工事半ばで死亡、三代目清胤公が完成させて応永17年頃(1409年)に清岑珠鷹禅師を開山主に迎え開創されたといわれている。
寛保元年(1741年)に本堂が焼けて第29世周山和尚の時、二度目の火災で七堂伽藍が焼け、同和尚は10年かけて復興しています。桜門(山門)は安永4年(1775年)9月に再建されました。
慶長7年(1602年)岩城貞隆の時、徳川方に領地を没収されて龍門寺も衰退しますが、その後徳川幕府から御朱印70石の寺領を受けました。
元和年間(1615年~1623年)に岩城義隆は出羽国亀田(秋田県)にお国替えになり、磐城の龍門寺から住職を招いて、亀田に龍門寺を開いて新しい菩提寺になりました。
明治維新の廃仏毀釈により後は痛みましたが、昭和21年に第50世の薄明和尚が曹洞宗管長の拝命により龍門寺に招かれて復興されています。そして、第51世明法和尚代の昭和59年に檀信徒のご協力により庫裏、慈光殿(檀信徒会館)、水屋をつくり伽藍を整備いたしました。平成9年には山門茅葺を葺き替えを行いました。
1.本堂右手の奥に岩城公九代の墓所があります。
1.墓所の左手に御開山さまの座禅石があります。
1.山門の額は足利尊氏公の四男基氏六代の後胤の書。
平成15年10月19日』(現地石碑碑文より)

岩城氏については【いわき散策記 vol.1】の「平城址」や【いわき散策記 vol.3】の「大館城址」で調べましたからある程度理解しているつもりでしたが、肝心の菩提寺がこの「龍門寺」だったということは知りませんでしたね。
龍門寺楼門参道には楼門が聳えています。


なんと言っても茅葺の屋根が印象的で「出羽神社」に続いて茅葺2連荘です。小さな茅葺の場合は素朴で、大きな茅葺の場合は荘厳なイメージで、どちらも歴史あふれる雰囲気を感じ取ることができます。
楼門の両脇にはお馴染み「阿吽」のいたってオーソドックスな金剛力士像が安置されています。
そして軒の深さや柱などの太さ、そして過度の装飾を排除した単純化ながら重厚感を感じる造りです。
龍門寺楼門掲額そして先ほどの案内にあった額がこれです。

やはりかなり歴史的なものと見え、楼門の造りと共に更なる重厚感を感じ取れます。実に年代物の美しさといったところでしょうか。
この辺りが市指定の有形文化財たる所以で、かつ「いわき百景」に選ばれているのも頷けます。

楼門を抜けると正面に本堂があります。
龍門寺本堂意外なことにこの本堂はシンメトリーではなく本堂入口が向かって左側にオフセットされていて、それに伴って参道もあえて左に緩くカーブをしているのです。

一般的なイメージではまっすぐ伸びた参道が極々我々が見受ける境内で、境内の広さや立地で90度曲がってしまっているなどの境内はありますが、あえて曲げているのは何か信仰的なものなのか、或いはデザイン的なものなのか、それとも…。
いずれにしても楼門の荘厳さと対照的な華麗さを演出しているかのようです。
龍門寺本堂の額参拝に近づいてみると本堂の額の文字もなかなか面白く、タイポグラフィ的なデザイン性を感じます。

寺院の場合はどちらかというと没個性的になりがちの本堂ですが、大きく意匠を踏み外すことはない中で、きらっとした個性を発揮しているように思えるのですが考えすぎでしょうか。

参拝を済ませてから説明にあった岩城公九代の墓所へ行ってみましたが、本堂の右手は庫裏がつながっていて奥へいけません。一旦本堂に入ってから行くのかもしれませんが、勝手に入るわけにもいかず、とりあえず左手から廻りこめるかどうか試してみました。
本堂の左側には大きな貯水槽があり、その先にはなにやら5つの石碑が並んでいます。
龍門寺境内の井戸と石碑傍らに案内板があるのですが、殆ど字が読めず●●水とか●●美水とか書かれているので何か水に関係あるのかと思えば石碑の前に丸い井戸らしきものがあるではないですか。

勿論、意味は全くわかりませんが、きっと何かこの井戸の水が弘法水のようにありがたいものなのか、などと思いつつ先に進みました。

しかし、後に調べてみればこの井戸にはいわきの民話が隠されていました。
昔、龍門寺に偉い僧がおり、修業にも絶え大変徳を積んだ僧でしたが、碁打ちが大好きという一つだけ欠点を持っていたそうです。
そう、碁自体は何も悪いことはないのですが、碁打ちを始めると時間も修業も忘れてしまうほど、打ち込んでしまうのでした。
そんな碁好きな僧には、やはり碁好きな善七という檀家がいて、常に二人で碁を打っていたそうです。
いつもは二人とも同じくらいの実力から中々勝負が付かなかったのですが、ある日の勝負では一方的に善七が勝ち、実に嬉しそうにその日は帰っていったそうです。
そんな善七に対して僧は悔しさで心は一杯になったそうです。しかしそこはやはり徳の高い僧ですから、いつもより大きな声で読経することにより憎しみの心に打ち勝ったのでした。
そして翌日の朝、雪の積もっているなか、水を汲みに井戸に向かうとそこには昨日帰った善七の足跡が残っていました。その足跡を見て一旦は収まった憎しみの心が再び湧き上がり、思わず汲んでいる井戸のつるべを力いっぱい引こうとしたとたん足を滑らせて深い井戸に落ちてしまったのです。 しばらくして落ちた水音がしたと思ったあとから、本来は狭い井戸の中にいるはずなのが、急に広い場所に移ったような気がしたそうです。そして雪が降っているにも関わらず水は温かく、周りも明るく広々しています。更に自分の周りでは大きなウナギやコイが泳ぎまわっています。
一体どうしたことかと辺りを見渡すと、一瞬目もくらむような光が射した後には美しい弁財天が立っていたそうです。 そして弁財天が言うには、人を憎むという悪の心が起きたため井戸に落ちた。本来ならそのまま死んでしまうのだが、生きていたときの徳により僧の身体を白蛇にかえて生きながられてやろうとすることだったのです。
そしてその弁財天のいる沼が賢沼だったそうです、その後白蛇に姿を変えた僧は、弁財天に仕えながら龍門寺の井戸と賢沼の間を行ったり来たりしているのだといわれているのでした。

賢沼とは【いわき散策記 vol.1】で訪れた沼之内弁財天にある沼です。ウナギが天然記念物となっているところで、確かに伝説めいた話しがたくさんあるような、妖気(といったら大げさでしょうが…)を感じるような沼だったことは確かです。
まあ、当然人を憎むな、憎しみを持つな、という教えの民話でしょうが、なかなかダイナミックな話しです。
賢沼も底なし沼といわれているくらいですから、ありえない話しではないかもしれません、確認する術はありませんが…。

ちょっと興味深い井戸を見た後は当初の通り本堂の裏手をグルッと廻って…、って、廻れませんね。本堂の後ろはすぐ崖になっていて通れそうもありません。
しかし、井戸の後ろ側には数段高くなって石柱で囲われている一角があるので、そちらに進んでみました。
龍門寺5つの石碑の左側に階段があるので上がってみると、右手になにやらいくつもの墓が並んでいます。

龍門寺特別な一角にある墓なのでこれが、と思いましたが、それにしてはそれほど管理されていないので、やはり違うようです。

幾つか墓石を見て刻まれた名前を勝手に判読すると、どうやら代々の住職のお墓のような感じです。まあ、ありえないことはないでしょうから一応そうゆうことにしておきましょう。
龍門寺そして左側には大きな石と地蔵が囲われていた一角があるので、これが坐禅石…、いずれにしても案内にあった場所とは全く反対側ですから、これも違うのでしょう。


この後、所謂墓地内を探索してみましたが、岩城公九代の墓所と思われる場所は結局見つかりませんでした。
まあ、またいづれ情報を集めてから出直しするとしても、それ以上に貴重な建造物や興味深い話しなど収集できた有意義な散策でした。

佐麻久嶺神社

「龍門寺」をでて次に向かったのが「佐麻久嶺神社」です。
一旦6号バイパスに出て四ツ倉方面に少し戻ったところで、車で10~15分くらいでしょうか。あまりメジャーな神社ではないのですが、やはり由緒ある神社なので今回の散策地にしたのです。

佐麻久嶺神社社叢石垣によって道路からは一段高くなった境内に赤い鳥居と社号標が立っています。

そしてその鳥居の後は樹林で覆われています。かたわらに「市指定天然記念物 佐麻久嶺神社社叢の暖地植生」と書かれた標柱が立っています。
この社叢は常緑広葉樹で覆われていて、針葉樹や落葉樹も混じっている貴重な林であるばかりでなく、自然植生の残存林分であることが更に貴重なのだそうです。
平たく言えばとくに植林されたわけではなく太古の昔から自然に茂っていた林であるということなのです。これを暖地植生というようです。したがってこの林は昔はもっと広大に茂っていて土地開発によって宅地化されたところの林がなくなり、現在残っているのがこの「佐麻久嶺神社」の社叢だけであることが貴重というわけなのです。
以前【いわき散策記 vol.5】で訪れた波立海岸にも「波立海岸の樹叢」として天然記念物に指定されていました。「波立海岸の樹叢」もここと同じようにほぼ自然な状態で残された樹叢ですが、ほぼ北限であることと典型的な海洋型樹叢ということで、「波立海岸の樹叢」は福島県指定となっているのですが、貴重な資源であることには変らないでしょう。

佐麻久嶺神社御神木大杉鳥居を抜けて社叢のなかに突き抜けてく参道を進むと、正面にスギの巨木が表れます。

しめ縄を張ってあるので御神木なのでしょうが、消えかかった案内板には辛うじて「御神木大杉は樹齢千年を…市内一の杉です。樹高21メートル…」程度を読み取ることができます。
いずれにしても、時代の変遷と風雪に耐えて御神木としての役割を果たそうとしているかのようです。
その左手には御宝蔵と記念碑が建っています。

『記念碑 総鎮守延喜式内 佐麻久嶺神社
五十猛命をまつる慶雲元年4月(西暦704年)勧請で神名帳磐城七社の一つである。
御父神、素戔嗚尊と共に日本の国土に木草の種子を蒔き田畑、山岳等造化に功績を残された神である。
当神社の旧屋根は急勾配の茅葺で千木がそびえる特徴のある社殿であった。昭和50年10月ふき替え、改修された。
また、当神社には、旧飯野村出身の戦没者115柱の英霊を祀る忠魂の碑が建てられている。
おりしも平成13年は西暦2001年、平成16年は勧請されてから1300年、記念すべき年とうけとめ、ここに村田義民氏のご好意により神輿一基、御宝蔵(みこし庫)一棟、石造りコマ犬一対を含めた記念碑を建立するものである。
平成13年1月1日』(現地記念碑碑文より)

佐麻久嶺神社忠魂碑この碑の後ろ側に忠魂碑が確かに立っています。

比較するのも無意味なことですが、やはり比較したくなる平城京遷都が今年1300年ですから、この神社の歴史に驚かされます。
一応ご神木の杉が樹齢1000年ですから、当時からこの社叢があったのでしょうね。

由緒の中にある神名帳磐城七社とは延喜式内に記載されていた神社がいわきには7社あったということで、これら7社はかなり古い歴史を持っているのです。
いわき散策記 vol.6】で訪れた「大国魂神社」の由緒にも「…醍醐天皇の御代に撰修された延喜式神名帳には、岩城郡七座として、大國魂、二俣、温泉、佐麻久嶺、住吉、鹿嶋、子鍬倉の各神社名を記しております(927年)。…」と記載されています(すっかりその中に佐麻久嶺神社が入っていたことはすっかり忘れていましたが)。
しかし、【いわき散策記 vol.2】での「温泉神社」では単に「…延喜5年(西暦905年)延喜式神名帳に登載せらる。」とあり、ちょうど「大国魂神社」へ行った翌日に 【いわき散策記 vol.6】で訪れた「住吉神社」では、あろうことか「延喜式内東北一社」と言い切っています。
「大国魂神社」はともかく、それぞれの神社は延喜式内ではここだけ、とでもいいたいのでしょうかね。こうなるとまだ訪れていない二俣、鹿嶋、子鍬倉の各神社も訪れてみたくなるのが人情ってものでしょうね。
いずれにせよ「社叢」だけだと思っていた「佐麻久嶺神社」の新たな魅力を発見しました。

ここからやっと社殿に向かいます。
社殿の方向は鬱蒼とした社叢に覆われ、社殿の辺りだけ日が射している様は、あたかも神域の風情を増長しているかのようです。
佐麻久嶺神社社殿佐麻久嶺神社本殿社殿に近づいてみると、こちら側は境内の裏手から入ってきたことが判りました。

佐麻久嶺神社神楽殿手前には神楽殿もあります。

社殿も神楽殿も非常に綺麗で真新しく感じ、かなり最近建て直されたのではないかと推測します。何はともあれ参拝を済ませました。
佐麻久嶺神社正面の参道境内はそれほど広くないようで、社殿の正面に対して長い階段があり、こちらが正面の参道となるようです。

この石段の参道もまた社叢に覆われていて、とっても厳かです。
佐麻久嶺神社御神木また、社殿の左側には社叢が続いていて、その中に何本かやはりしめ縄のされた御神木がありました。

社叢そのものが神社の歴史でもあるという磐城七社という由緒ある「佐麻久嶺神社」を知ることができました。

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