上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

史跡・七本松

社寺と海岸巡りで終始した昨日から一夜明けた6月6日の日曜日は、今日もまた朝から非常に天気が良いようです。
今回は二人の娘も同行しており、特に次女は殆ど最近はいわきに来ていないので、今日は小名浜のら・ら・ミュウやアクアマリンふくしまを巡る予定となっています。
いつものように早起きなオジサンは、家族が目覚めるまでの時間で散策をしてこようと、いつものように朝早く出かけてみました。
それほど遠くまで足を伸ばすことはできないので、比較的近場の散策に限られますが、道もすいていることから幾つかの見所は廻れることでしょう。
今日もまた新しい発見がを求めて散策します。

下船尾から見た湯の岳

まずは行きがけの駄賃とばかりに「いわき100景」にある〝下船尾から見た湯の岳〟を見ることにします。
百景の説明にこうあります。

『標高594メートルの湯ノ岳は、阿武隈山地の最南端に 位置し、「湯の岳パノラマライン」とよばれるドライブコ ースがあり、ロマンチックな夜景が楽しめるデートコー スとして人気があります。常磐ハイウェイを走る車から もそのおおらかな山容を見ることができますが、特に下 船尾からの眺望は素晴らし く、山すそを左右いっぱい に拡げ、まさにいわきの名 山のひとつにふさわしい、 雄大な姿をみせてくれます。 市内の小・中・高校の校歌 にもよく歌われています。 』(IWAKIふるさと誘致センターサイトより)

何はともあれその下船尾に行ってみることにします。一番判りやすい下船尾は県道14号線いわき石川バイパスを東方面に進み国道6号線に合流する交差点が「下船尾」です。
自宅からはホンの10分ほどです。交差点で止めるわけにも行かないので左折して陸前浜街道を北上し最初の交差点を左折してみました。
下船尾から見た湯の岳ここからだと確かに稜線を眺めることはできるのですが、工場が邪魔してあまり美しくありません。

どちらにしてももう少し高いところから撮影しなければ無理だと考え、いわき石川バイパスの橋の上なら眺望が良いのではないかと戻ってみることにしました。
下船尾から見た湯の岳交通量の少ない朝だったので橋の上に無理やり止めて車の中から写してみました。

橋の欄干が入ってしまうのではっきりとは全貌を映し出すことはできませんでしたが、反対車線からならもっと綺麗に写せるのではないかと思いますが、今日はこの辺にしておきます。
また、次回チャレンジしてみたいと思います。

それにしてもこの湯の岳が学校の校歌に歌われているとは、やはりこの地域のシンボルとして存在しているのでしょう。 使用している学校をザッと洗い出してみました。
白水小学校、内郷第一中学校、湯本第一小学校、湯本第二小学校、湯本高等学校、平第五小学校、内郷第二中学校、宮小学校の8校に湯の岳の名前が入っていました。
ちなみに湯本高等学校の作曲は山田耕筰氏で、宮小学校の校歌はあの草野心平氏が作詞していますが、なんとも贅沢な校歌です。

史跡七本松

下船尾から陸前浜街道を東進し、県道26号線の鹿島街道を北上し途中右折した先の鹿島公民館が次なる目的地です。
史跡七本松鹿島公民館の入口横にその松が並んでいます。

史跡七本松中央には石碑があります。


史跡七本松移転之碑 七本松は昔時、坂上田村麻呂将軍東夷征伐の途上、三叉路の要路なる所以を以て、七本の松を植樹されたるものと伝えられている。樹齢1000年を数える名樹たり。その後、戊辰の役には東軍亦ここに占拠して対戦せり、という。当時までは丈余の回りを有する老松五本の生木せるを見たが、その後落雷に侵害され、又老樹自然に枯死せるもの交交至り昨11年まで僅かに一樹残りて、その影を偲ばせたるも、いまや全くその跡を絶ち、只呼称のみにとどむるは甚だ遺憾に絶えず。ここに本村住民の篤志に呼びかけこの形跡を永遠に遺すものなり。
昭和13年6月1碑 鹿島村長志賀直哉 述 吉田正義書』(現地碑文より)

坂上田村麻呂の伝承はともかくとして、今から100年以上前の慶応4(1868)年の戊辰戦争において、薩摩・佐土原・大村藩の兵士達が、北茨城市の平潟港に上陸したのが6月16日でした。
翌日、仙台・磐城平・泉藩兵250名が平潟奪回に向かったのですが、西軍の軍事力で敗戦となってしまいました。当時この七本松のあった場所の道路は狭く、両側から高く険しい山が迫っていたこともあって天然の要害地でした。
平潟奪回に失敗した連合東軍は、この七本松の要害地に西軍が押し寄せてくるであろうと、この地に大砲陣地を築き仙台・平藩兵150人を待機させたのでした。
7月10日、これを知った薩摩藩兵は小名浜を繰り出し、御代村(現在の鹿島町御代)から街道正面を進撃してきました。そして薩摩藩兵は3班に別れ、この要害地の右手の山を迂回する隊、田圃の畦道を隠れながら進む隊、そして台場の後方から攻める隊でした。
三方から攻められた仙台・平藩兵は激しく防戦したそうですが、敗色濃厚となって壊走したそうです。 これに勢いづいた薩摩藩兵は台場を取り壊し、その後磐城平城総攻撃に転じるという起点となった場所だったのでした。
そして現在、このような歴史を見続けてきた七本松はもう無いということです。

結局、七本松は昭和10年までに強風に倒れ、昭和11年に更に一本が倒れたそうです。これが昨11年間まで僅かに…の件です。そして翌12年には最後の一本も大風で倒れてしまい、ついに七本松は一本も無くなってしまったわけです。
この状況を憂いた時の志賀村長(それにしても全くの同姓同名には驚きますね)が、この七本松を後世に残したいと植樹したものなのです。
史跡七本松そして昭和50年には常磐江名港線が史跡の中央を通ることになったため、西に50メートル離れた現在地に移されたのでした。

現在の松は歴史に関係する松ではありませんが、そういった歴史があったことを思い出させてくれる重要な七本松ということです。

御代の大仏

先の戊辰戦争の際に薩摩兵が進軍してきたであろう鹿島街道を小名浜方面に向かって南下します。
車で10分程度で街道の右手に赤い屋根の「光西寺」に到着です。

光西寺楼門駐車場に車を止めると目の前に楼門があります。

光西寺楼門近づいてみると楼門の周りにパイプ柵で囲われ立ち入り禁止となっています。
老朽化のためなのか、はたまた別の意味なのかわかりませんが、とにかく楼門を通ってはいけないようです。

光西寺楼門ともかく一番近づけるところまで行ってみると、左右の格子の部分に夥しい数のわらじがぶら下がっており、大分風雨にさらされているようでかなりくたびれた感じです。

これは毎年1月24日の地蔵講でわらじを奉納する習わしによるものだそうです。
わらじ信仰というものは、足の具合が悪くならないように足の健康を願って奉納するものです。毎年、新しく作ったわらじの片足分だけ持ってきてこの楼門の格子に掛け、昨年の分とあわせて一足にするのです。そして帰り際に古いわらじの片足分だけを持ち帰り、自宅の玄関脇に下げて置くとわらじが厄除けの働きをして、一家揃って無病息災になるといわれているものです。

一般的に寺院などで見かけるわらじは大わらじが多いようです。
2010年、初春風情】で訪れた「浅草寺」では仁王様用のわらじとして奉納され、寺を守る意味を持っているようです。また【名栗湖と鳥居観音】で訪れた「子の権現」は足腰の神さまとして信仰され、鉄の大わらじや鉄の大下駄などが奉納されていましたが、こちらの光西寺はもっと庶民に近い形のわらじ信仰のような気がします。
いづれにしてもこの楼門がもし老朽化だとすれば早く修復しないといけないのでしょうが、そのためには檀信徒の方々が…。第三者が言うほど簡単ではないのですね、社寺の修復というものは。早く修復されることを願ってやみません。

楼門をよけて奥へ進むと同じ赤い屋根の建物が表れます。 光西寺本堂(地蔵堂)光西寺庫裏手前にあるのが本堂(地蔵堂)で奥が庫裏のようです。

建立されたのは文禄4(1595)年で、400年以上の歴史を持っています。初め天初和尚という僧が開山したようですがさびれて、その後禅法律師和尚が磐城平藩主・内藤政樹に訴えて再興したと伝えられているそうです。
本堂と楼門はその時建立されたものなので、重厚感あふれる造りとなっているのです。
御代の大仏そしてその本堂の斜め右側にあるのが「御代の大仏」です。


『市指定有形文化財(彫刻) 銅造阿弥陀如来坐像
臨済宗妙心寺派に属するここ光西寺の銅造阿弥陀如来坐像は、地域の人々から「御代の大仏」とも呼ばれ古くから親しまれています。仏像は、高さ2.76m、また台座の部分を含めると3.63mにも達する大きさです。
尊顔は少し面長で、鼻筋が通り、目にはかすかな笑みをたたえています。
台座の蓮弁には、仏像の由来や製作年、製作者、寄進者の名などを記した銘文が刻まれています。
同寺の中興、禅法上座は仏像の造立を発願し、宝暦2(1752)に全国をまわって喜拾を呼びかけましたが、同10年、志なかばにしてこの世を去ってしまいました。その後、明和2(1765)年より、喜拾が再開され、江戸日本橋の豪商、村田治右衛門、上野国伊勢崎の竹内荘兵衛などの尽力により、同4年に仏像は完成しました。
仏像の製作者は江戸神田の御鋳物師木村将監安忠です。
しかし、残念なことに仏像が完成されても、すぐにはこの地に建立されず、数年間も打ち捨てられていましたが、安永5年(1776)小名浜中島の金城六平大が願主となり、地元御代村はじめ小名浜代官所の役人や小名浜の豪商であった小野四郎右衛門、立花四郎右衛門など多くの人々の協力によって現在の地に安置されました。
基壇の工事は小名浜中町の石工長瀬丈右衛門の手によって行われ、また天保12年(1841)11月には平の儀右衛門などにより基壇の修復工事が施されました。
この仏像は蓮弁に刻まれた銘文によって製作された年月などはわかりますが、このように今日に至るまでの経緯が明らかにわかる仏像はほかにあまり例がなくその意味でも大変貴重な文化財となっています。
指定 昭和43年12月27日 所在地 いわき市嘉島町御代字寺ノ入44 所有者 宗教法人光西寺
いわき市教育委員会』(現地案内板説明文より)

そもそも日本における大仏とは律令制における朝廷の権威を知らしめるために造立されたのが始まりのようで、以降、現代に至ってもその本質は変っていないように思えます。
一般的に大仏といえば奈良と鎌倉の大仏を思い浮かべる人が多いでしょう。鎌倉の大仏の製造年等は不明ですが、奈良の大仏は752年とかなり古いものなのです。
御代の大仏そして奈良の大仏が16mで、鎌倉の大仏が13.35mということで、歴史、大きさ共に比較にならない大仏ではありますが、やはりこのような歴史の見える大仏というのも確かに貴重なのかもしれません。


御代の大仏そして何よりも小ぶりだといって尊厳が失われているわけではなく、身の丈にあった荘厳さと優しさできっと信徒達を見守ってきたことなのでしょう。

これも大いなる歴史遺産であるところに「いわき100景」としての選定理由があるのでしょうね。

住吉磨崖仏

今回の散策の最後は小名浜住吉にある「遍照院」です。「光西寺」からはほぼ西に向かって湯本の方に戻る形になります。 この「遍照院」も「いわき100景」に選出されており、特に磨崖仏が見られることで知られているようです。
国道から入り組んだ路地(この辺りはナビによって随分と楽になりました)を抜けると「遍照院」に到着です。
遍照院駐車場横には古そうな楼門が建っています。

が、よくよく見れば一部分新しい材木で補強しているようです。こちらも老朽化のために修繕中なのでしょうか。
遍照院しかしながら楼門の下は通行可のようなので楼門の下に入ると、ポッコリ天井に穴があいており、その天井はまた新しい材木で作られています。

どうやら改修のためでしょうが、きっとここから銅鐘を入れて吊り下げるのでしょう。どことなくユーモラスな格好です。

遍照院楼門を抜けると山門があります。

山門自体は比較的古いものかもしれませんが、ここもまた両側の塀を新しくしているようです。
ちょうど「光西寺」の進化系といったところでしょうか。

玉川尋常高等小学校開校の跡山門をくぐると右側に石碑があります。石碑には「玉川尋常高等小学校開校の跡」と刻まれています。

この「遍照院」は今からおよそ1200年昔の延暦年間(781~805)に磐城判官だった平政氏(安寿と厨子王の祖父)の菩提寺として開基されたと伝えられ、裏山に平政氏の館があったとも言われているところだそうです。
その後、僧徒の修業道場となり全盛期は七堂伽藍を有する巨刹だったそうです。江戸時代になってからは「手習い指南所」として使用され、明治6年に「鉄心学校」として開校したそうです。
隣接する現在の小名浜第三小学校これが現在「遍照寺」に隣接する現在の小名浜第三小学校の発祥となるのだそうですが、小名浜第三小学校の歴史を見ると良く理解できます。


明治6年8月10日、創立。鉄心学校と称する
明治9年8月20日、住吉小学校と改称する
明治19年12月、住吉尋常小学校と称する
大正22年12月28日、高等科を併設し、玉川尋常小学校と称する
昭和16年8月16日、小名浜町と合併し、小名浜第三国民学校と称する
昭和22年4月1日、小学校令施行に伴い、小名浜第三小学校と称する
昭和29年3月31日、町村合併に伴い、小名浜町は磐城市立小名浜第三小学校と称する
昭和41年10月1日、市町村合併に伴い、いわき市立小名浜第三小学校と称する
といった具合に何と135年の歴史を持つ小学校なのです。
それだけでもOBとすれば十分誇れる事実でしょう。

遍照院本堂ここからは本堂で参拝します。

立派な本堂でこちらも比較的新しいのでしょうか、随分と綺麗な建物です。
本堂から左手の墓地の方に向かうと案内板が立っています。

『市指定史跡 住吉磨崖仏
住吉磨崖仏は、遍照院裏山の西崖面に構えた龕の中に厚肉彫で彫り出されています。龕は全部で6ケ所ありますが、向かって右から数えて、第1号龕は当初からのものではありません。全体的に風化や剥離が激しく、像容を残すのは中央の2つの龕だけになっています。
第3号龕には、住吉磨崖仏の中では最も大きい如来の座像(高さ144cm)がほぼ丸彫りに近い形で彫り出されています。螺髪や豊満な顔の表情など頭部は良く残っていますが、膝前や手首先が剥離や風化しており、印相(手の組み方)は不明です。
第4号龕には、弥陀定印(印相の一種)を結ぶ阿弥陀三尊像が彫り出されています。第3号龕の如来座像と同様に丸みを帯びた頭部、厚みのある体部を特色とします。向かって右側の脇侍は崩壊していますが、左側の脇侍は像容から勢至菩薩像であると考えられます。第5号龕、第6号龕については風化が激しいため仏像の名称などは不明です。
住吉磨崖仏の制作年代については、遍照印の寛文 8年(1668)の由来書に、同寺が文安元年(1444)鏡澄法印によって中興開山される以前に寺院があり、その遺跡のみが残っていたと記されていることや、満月のような丸みを帯びた顔や体部が、かなり古風な様式であることがわかるだけで、詳細については不明です。
住吉磨崖物は凝灰岩に仏像を掘りだしているため風化が進んでいますが、その堂々とした像容は、当地方に残る数少ない磨崖物の代表として注目されます。
指定 昭和61年3月28日 所在地 いわき市小名浜住吉字搦62番地の1 所有者 永崎 亮賢
いわき市教育委員会』(現地案内板説明文より)

「龕」とは、石窟や家屋の壁面に、仏像・仏具を納めるために設けたくぼみのことで、英語では今では隙間と言う意味で一般的に使用されているニッチです。
この遍照院裏山の西崖面にはこの「龕」が6つあるということでしょう。早速崖沿いを歩いて見ます。といっても崖の下はずっと墓地になっています。
住吉磨崖仏墓地の間の階段を上がっていくと「龕」らしきものがありますが、ここには何もありません。ここが第1号龕なのでしょうか。

住吉磨崖仏隣にも「龕」らしきものがありますが、ここも何も無いようです。第2号龕でしょうかね。

一旦下まで戻ってまた崖沿いを歩いて見ます。
住吉磨崖仏すると崖の中腹に「龕」とその中に彫られた仏像を見ることができます。これが第3号龕なのでしょうか。

いずれにしても樹木で崖中が覆われていますので、見つけるのは極めて難しい状況でしょう。
やはり史跡を散策するのは本来冬が一番良いと思うのですが、一概にそうとも言えないつらさもあるし…。
この「龕」にも墓地の間の小道で比較的近くまでいけるようです。
住吉磨崖仏後ろの「龕」と同じ模様(地層)であることが掘り出している証です。そう考えると結構考え深いものがありますね。

良く見るとこの石仏の右下の方に別の石仏がもう一体ある感じですが、どんなものでしょう。もしかしたらここは第4号龕の三尊像!? すると第3号龕は何処…、となってしまいますね。
いずれにしてもこれ以外の「龕」は全く判らないので、なんとも言いようがないのですが、それでも磨崖仏の一端にでも触れられただけでも貴重な経験と思えます。

時間はAM8:00少し前です。近所の方たちが朝っぱらからなんだ、とでも言いたげに見られているので、そろそろ引き上げることにしますが、 磨崖仏自体初めて見ましたのでそれだけでもちょっとした感動を覚えました。
館であり、信仰の場であり、教育の場であった「遍照寺」ではかなり貴重な知識を得られた気がします。
今回の散策は殆ど社寺と海でしたが、それでも有意義なひと時が過ごせたようです。
次回はまた来月7月の初旬ですが、今度は何処を散策しましょうかね。

PS・この後、一旦自宅に戻り朝食の後、今日は小名浜のら・ら・ミュウとアクアマリンふくしまを訪れました。今回は殆どいわきには来ていない次女が一緒のため、せめて小名浜のメジャーな場所くらいということで行くことになったのです。
取り立てて記することもないので、今回は以上で終りますが、ちょうど小名浜港ではクラシックカーの展示とビッグバンドジャズの生演奏が行われておりウズウズしていたのですが、結局寄ることができずに帰宅することとなりました。
まあ、たまには家族サービスをしなければなりませんね、次女の口癖が「家の家族には思い出が少ない」ですので…。

2010.6.19記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。