常磐の伝承と民話

一夜明けた7月4日の日曜日。アメリカの独立記念日とは全く関係ないながら、多少天気も好転してきた朝6:00。
毎度のことのように朝の散歩ならぬ朝のドライブに出かけます。
昨日は「愛谷江筋」巡りという初めてのコンセプトを持った散策で、今日の朝のドライブも今回はかなり綿密な予定を立てたテーマ散策です。題して「常磐地区の伝承と民話を訪ねる」といった仰々しいタイトルを付けたのですが、早い話時間がないので、常磐地区をグルッと廻ってみようということです。
それでも結構ボリュームのある散策だと思います。いざスタートです。

河童伝説

自宅を出て【いわき散策記 vol.5】で訪れた能満寺をスルーして先に進むこと5分で、小さな橋があります。
河童伝説河童伝説この橋を左折してしばらく進み、途中畦道を右折した田んぼの際にその「河童伝説」があります。


『藤の花は、五月に咲くのが通常です。それなのに長孫の川土手には、節でもない真夏の土用に、真っ白い藤の花を見ることがしばしばあったそうです。
これは、河童に恩返しだといわれています。
村人は河童が生け捕りにされたと聞いた長老が、「今までのこの岩崎川で、河童が悪さをしたのを見たことも聞いたこともない、可哀相だから助けてあげなさい。」
と言い、それを聞いた河童は、右の小指を切って次ぎの様に書いたのでした。
まだ人を殺したことはありません。しかし、私は、天王様に人間の生き胆を奉納しなければなりません。その時は、夏の土用の頃、川土手に白い藤の花を咲かせます。その花を見た年は川に近寄らないで下さい。必ず約束は守ります。命を助けていただき、ありがとうございました。
その何年か後の夏の土用、川土手に白い藤の花が咲きました。
人々は、河童の花が咲いたと、下の堰での水遊びを戒めました。おかげで川での厄も起こらずに済んだのだそうです。
現在では、河川工事に伴い藤の姿が消え去ってしまい、この言い伝えを残すのみとなりました。
常磐地区まちづくり懇談会』(現地案内板説明文より)

河童伝説岩崎川なかなかさらっと書かれている割には物騒な話しです。

しかしながら天王様への奉納は行わなければならないのですから、白い藤の花の意味を知らない人が生贄になっているわけで、結局、自分の身だけ守れれば良いのか、と言ったクレームをつける文化人を気取った人がいるかもしれません。
河童伝説まあ、あくまで伝説ですから、それでよいのでしょうが、どうにも良くわからないのが何故河童は〝そこ〟を握る必要があるのかが理解しかねるところです。

一人で見るうちは良いですが、家族で来たらどう説明すれば良いのでしょうかね。
河童伝説しかもカギの掛かった祠のようなものは一体何なのでしょうか。

謎の残る「河童伝説」でした。

駒ヶ沢地蔵尊

「河童伝説」の地から以前【いわき散策記 vol.7】で訪れた「湯長谷九十九折り街道」の〝駒止ノ滝〟の近くに「駒ヶ沢地蔵尊」があるということなので行ってみました。
駒ヶ沢地蔵尊細い路地を入ったところにありますが、道沿いに標識がなければ殆ど気付かれない地蔵尊でしょう。


『駒ヶ沢地蔵尊 通称袈裟がけ地蔵
昔、この地蔵堂に夜な夜な怪しい者があらわれ、通る者を悩まして悪い噂が広がり殿様の耳まで入るようになった。
ある晩、内藤候より怪物退治の命を受けた染山某という剣のたつ武士が、この怪しき者を見とどけようと地蔵堂へ来てあたりを窺うとはからずも怪物があらわれ、染山氏へ挑んできた。氏は、ござんなれと腰の一刀を抜く手も見せず、怪しき者を袈裟がけに切り倒し、この場を去り、殿へ、その旨を報告した。夜明け早々染山氏外二名は、その場を検分するとアラ不思議や1メートル50センチの石の地蔵は袈裟がけに切り倒されていた。
その後、かの妖怪はピタリと現れなくなった。この地蔵は何時の日よりか、駒ヶ沢の地蔵というより白鳥の袈裟がけ地蔵様と呼ばれ有名になった。
平成15年3月吉日 常磐地区まちづくり懇談会 白鳥高砂会』(現地案内板説明文より)

駒ヶ沢地蔵尊路地の奥まったところに地蔵堂があり袈裟がけ地蔵が鎮座しています。何となくあじさいが寂しげなのは何故でしょう。

駒ヶ沢地蔵尊近づいてみると喪黒福三のようなふくよかながら、眼光鋭い地蔵です。

駒ヶ沢地蔵尊そしてブログサイトにあったように前掛けを捲ってみると無残というか見事な袈裟切りになっています。

若干演出のしすぎとも思えますが、観光資源と考えればそれもありです。しかし、それならそれで「めくってみてください」的なアナウンスがあってもいいのでしょうが…。
積極的なのか消極的なのか良く分からない地蔵堂でした。

雨降り地蔵

〝袈裟がけ〟のあとは〝雨降り〟です。
駒ヶ沢地蔵尊から一旦県道14号線にでて、そのまま北上しスパリゾートハワイアンの手前にある「建徳寺」に向かいます。 建徳寺ナビどおりに進むといきなり墓地の間から本堂前の境内に到着です。

まずは本堂で参拝しますが、こちらの由緒・縁起は全くわかりませんでした。
建徳寺そしてその「雨降り地蔵」のある山門へ向かう途中に「藤原小学校発祥の地」碑がたっていますが、残念ながら藤原小学校についても何も判らない状況です。
石碑があるのですからそれなりの歴史があってしかるべきとも思っているのですが…。

建徳寺ケヤキさらにこのあたりのケヤキが保存樹木となっているようです。

それはそれとして目的の「雨降り地蔵」へ向かいます。

この「雨降り地蔵」は約270年前の享保18(1733)年に、この寺の住職・肇林和尚が建立したもののようで、昔、日照りで田畑の作物が枯れそうな時に、この地蔵に〝三日の内〟とか〝五日の内〟に雨が降るようにと願をかけたという言い伝えがあり、昭和50(1975)年の夏の日照りの際に土地の人々が集まりこの「雨降り地蔵」に日を決めて願いをしたところ、満願の日の夜に雨が降ってきたという事実があるそうです。
地元の人々は「雨降り地蔵」のご利益と考えていますが、昭和50年頃には当然週間、月間の天気はほぼわかっていますから、若干子供だまし的ではあるのですが、ここは一つご利益を純粋に信じておきましょう。
建徳寺山門建徳寺山門とはいうものの、その山門の横には左側から「石碑」「石像」「水子地蔵」が並んでいます。

建徳寺雨降り地蔵?「水子地蔵」はそれとはっきり判るので除外しますが、地蔵といわれるとどうも真ん中の2対の石像がその「雨降り地蔵」ではないかと考えられます。

建徳寺雨降り地蔵?しかしながら左側の石碑のほうが真ん中の石像より囲い柵が厳重なのですね。

建徳寺雨降り地蔵?そこで左側の「石碑」を見るとその碑面には「南無地蔵菩薩」と刻まれており、更にその横に小さく「享保18年11月」と刻まれているのが何となくわかります。

となると「雨降り地蔵」はその警備の厳重さと日付によってこの「石碑」の〝ような〟ものが「雨降り地蔵」なのでしょうね。
もう少し地蔵っぽいのかと思っていたので、ちょっと驚きでした。

帰りがけに墓地内を通ると、若干旧聞ではあるのですが一時マスコミで良く報道されていた名前に興味を惹かれました。
箱崎晋一郎氏の墓所それは演歌歌手・箱崎晋一郎氏の墓所です。

特に演歌は殆ど聴きませんが、名前くらいは知っているのでそれなりに有名な方ですよね。43歳で亡くなられたそうですので、随分と悲しみも深かったのでしょう。
箱崎晋一郎氏の墓所の碑文それはそれですが、実はこの墓所にはもう一つサプライズがあって、この墓所にある碑文を書いたのが、あの「川内康範」氏なのだそうです。
そう川内氏もお亡くなりになりましたが、森進一との確執は記憶に新しいところです。

立て札その川内氏が書いた碑文ということでちょっとした驚きもあるのですが、それよりもそのことをわざわざ立て札にして案内しているところにもちょっと驚きです。

建徳寺なのか、箱崎家なのか、或いは川内家なのか判りませんが、ここまではちょっとやりすぎではないでしょうか…。でも演歌歌手として陽のあたる場所を歩き続けたいとの思いから、あの世でも注目を浴びせてあげようとしているとすれば、せつない話しですね。
逆に気持ちが沈んで「建徳寺」を後にしました。

烏舘不動尊

「建徳寺」を出て県道14号線を、そのまま湯本市街地(温泉街)へ向かって進み、財団法人ときわ会常磐病院(旧いわき市立常磐病院)の先を左折して、しばらくくねくねと進むと「烏舘不動尊」の標識があらわれ、そこからまっすぐ住宅街の細い路地を進むと、いきなり参道となります。
烏舘不動明王参道入口いきなり「烏舘不動明王参道入口」の標柱が唐突に現れます。

当然ここからは車は乗り入れられないので、車を置いておかなければならないのですが、この場所自体どうも地元の方の家の土地のようなので駐車ができないのですが、ちょうどこの家のかたがいらっしゃったので失礼を承知の上で駐車のお許しをお願いしたところ、快く認めていただけたので厚かましくも駐車させていただきました。

参道を歩いて進むと天気もそれほど悪くはないのですが、鬱蒼とした静けさと薄暗さが包みます。
烏舘不動明王参道しかしながら参道脇のアジサイが綺麗なので、かろうじて平静を保てますが、かなりスピリチュアル的な場所です。

烏舘不動明王参道右手には十二層塔が建立されていてアジサイ散策だけではない参道を思い出させているようです。

烏舘不動明王参道烏舘不動明王参道脇の道標階段状の参道をしばらく進むと「史跡 烏舘跡と天狗岩」との道標があります。

そこには補足として〝天狗岩には樹齢1500年以上といわれる椎の木がある。下る時も必ず同じ道を通ってください。足元に十分注意してビニールテープを目当てにして登ってください。〟
樹齢1500年は見てみたいものですが、どうにもこうにもデンジャラスな薫りがプンプンするようなので、ここは当然やめておきます。 ビニールテープもはなから見えませんし…。
烏舘不動明王参道脇の石仏またそこからしばらく進むと右手にいくつもの石仏が安置されています。この辺りに来るとスピリチュアル度90%です。

やがて本堂付近に到着のようです。
烏舘不動尊の潔斎境内の左手には「潔斎」と書かれた一般的に言うところの手水舎があり、取り合えず清めます。

また、右手側には由来書きがあります。

烏舘と不動明王の由来
いわき市常磐上湯長谷町に、烏舘という集落がある。
烏舘館主は、平氏、源氏、北條氏、足利氏と時代の変るに従い、館主は変わり、いつの頃か定かではないが、源頼朝か奥州平泉の藤原氏攻めの途中ともいわれておるが、時の館主、二階堂又五郎慧琳入道は、遠近に強将として知られた武将であったが、烏舘が敵に襲われ籠城することとなってしまった。
強将の下に弱卒なく敵は攻めあぐみ、兵員の消耗を避けるために兵糧攻めの持久戦となった。その時は例年になく日照りが続き、食料は勿論のこと、飲料水の欠乏は困窮を極めていたが、烏舘の将兵は、空腹と渇きをものともせず包囲軍相手に戦ったが、遂に数日分の米を残して飲料水は尽きてしまった。館主二階堂入道は、武将を集め作戦を練った。武将の一人が「敵にまだ城中には飲料水があると見せるために、樋を作り米を流して、あたかも水であるかのように見せて、敵の戦意を砕き、そのすきに舘東南八町まち(現在の手這い坂、釜の前)の陣地を突破しては」との献策を採用することとなった。翌日、この流し米を遥見した包囲軍は、館にはまだまだ沢山の兵糧、飲料水の備蓄があると唯唖然としているうち、どこからともなく黒い羽を拡げながら沢山の烏が集まり、樋を流れる米を食い始めた。水を米と見破られた二階堂入道は、峰づたいに逃げる途中、敵の弓矢に射られ、捕らえられ、首を狩られて沢に転がり落ちた。この坂を首切り坂といい、この沢を釜の前の人たちは入道坂と言い伝えている。二階堂入道が天狗岩の下にあったという井戸に、金の矮鶏(ちゃぼ)一対を捨てて逃げたという言い伝えもある。
(烏舘の地名の由来-われらが郷土・磐崎より引用)

鎌倉期の東鑑によれば、和銅7年(715年)3月、相模国(現静岡県)等六カ国の富民1000戸を陸奥に移すとあり、養老2年(718年)5月、能登、安房、石城、石背の四国を置くとあり、烏舘は、その平(ひら)城勢力の最東端に位置していたようである。初代館主は、稲村弥次郎定友といい、相模の国から移封された。その時、館主の奥方が、現在の不動明王を祀るお堂の側に滔滔と落ちていた滝の奥に小さな祠をつくり、相模の国から持ってきた卵形の石を捧げ、これを不動明王として信仰したものだと伝えられている。
(不動明王の由来-われらが郷土・磐崎より引用)

この石は、先祖代々、不動明王を氏神として祭司してきた、祭主野木家によって保存され、信仰されて現在に至っている。
昔から不動明王を、目の神様として信仰する人々が多い。それは、昔、ある人が眼病を患い、失明すると医者から見離され「口よせ」をしてもらったところ、「烏舘の不動明王に参詣し、滝の水で目を洗い信仰せよ」とのお告げを受け、参詣し、不動の滝の水で目を清めたところ、不治と言われた眼病が治ったとの言い伝えがある。
又、不動の剣で患部をなでると、その病気が治るともいわれている。
御縁日は、旧暦の正月、5月、9月の28日で、奥州いわき長谷寺の住職が来堂し、祈祷されている。
平成4年6月吉日 祭主 野木友弘 書』(現地石碑碑文より)

話しの途中でオチが見えてしまっている帰来はあるのですが、地名由来としては面白いほうではないでしょうか。
また、不動明王についてはこの後、地震より祠共々この石は巨石の下敷きとなったそうですが、石炭採掘の発破の利用により、埋もれていた卵形の石は発掘されたそうです。
ただしその祠の前にあった滝も崩れて今はないようです。

烏舘不動尊まずはその不動尊にお参りです。

本尊を見ることはできませんが、こちらの本尊は石をくりぬいた石仏で、祭礼時には見ることができるそうです。
烏舘不動尊裏本堂の裏手は今だ地震等で崩れるそうですが、小さな仏像が安置されています。

烏舘不動尊奉納剣烏舘不動尊奉納剣本堂の左側には大きな剣が置かれていて、その下には〝奉納剣〟として多くの剣が奉納されています。

これは不動明王がその手に持つとされる剣として有名な「降魔の利剣」を現しているようです。これは悪魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る〝三鈷剣〟のことをいうそうです。
剣を奉納するのは珍しいのでしょうかね、私は知りませんでしたが。

烏舘不動尊吉祥水更にその左手には「吉祥水」といわれる名水が湧いています。

これは先に述べた地震で無くなってしまった滝跡から湧く「烏舘の水」と呼ばれ、いわきの名水50選に選ばれ、碑文にもあったように目に効く水として遠方からも汲みに来るようです。
目に効くとあっては見逃すわけにはいきませんが、汲むものも持っていないので、とりあえずここで飲めるだけ飲んでおきました。

今流行の言葉でいえばパワースポットということになるのでしょう。
歴史、由緒、そして環境を兼ね合わせると確かに研ぎ澄まされた気のようなものを感じた気にさせてくれる不動尊でした。
烏舘不動尊参道前のニワトリ?帰り際、参道の入口に黒いニワトリのような生き物が飼われているよなので、矮鶏…、と思いましたが、さすがに矮鶏は天然記念物なのでありえないでしょうね。

駐車させていただいた家の方にお礼を言って立ち去りましたが、あの鶏の名を聞いておけばよかったのでしょうが、やはり唯のニワトリなのでしょうかね。

子種神社

「烏舘不動尊」からそのまま東に向かい常磐線を越えて最後の目的地である「子種神社」に向かいます。
子種神社ここも住宅地の中にあって若干わかりにくいのですが、到着してみると比較的広い境内にポツンと社殿が建っています。


子種神社(子胤山往社)
湯本村台の主である小種五郎隆顕と妻花形姫には未だ子宝に恵まれないため、子安山住神を湯本台に勧請して祀った。するとたちまち清泉が湧き出した。
毎朝日の出を待ってこの清泉飲用したところ姫は懐妊し、男児を無事出産した。子種神社の由来である。
この神社の麓の井戸は、昔から「子種の井戸」と呼ばれ、神泉として湯本村の人々から崇められてきた。子供が欲しい女性が早朝子種神社にお参りすると子供が授かり、更に妊婦がこの井戸水を飲むと安産であったといわれる。
井戸水を汲みに行った帰り、途中で最初に男性に逢うと男の子が生まれ、女性に逢えば、女の子が生まれた。そのため、男の子が欲しい人が女性に逢いそうになると、湯本川の八仙橋のたもとの作業小屋に隠れて遣り過ごしたとのことである。
斎主は、江戸期までは湯本村下町(現温泉通り)の藻谷家が務めたが明治維新後には、温泉神社佐波古家が勤めることとなった。
その後、明治36年旧7月10日に湯本村有志が社を建立し、祭典を行ったが、以来今日まで東町青年修養会によって、この祭典が催されてきている。
平成15年3月吉日 常磐地区まちづくり懇談会』(現地案内板説明文より)

特に興味深いことは余り無いのですが、そのものズバリの「子種…」とはまさに子宝に恵まれない人にとっては、藁にもすがるといったところでしょうか。
子種神社参道そういえば「井戸」あったのでしょうかね。見てくるのを忘れました。

こうして今日朝の散策ドライブは終了です。2時間足らずで見てきたので本当に一端だけの知識でしたが、それなりに興味深い場所であることは間違いないようです。
それにしても伝承や民話はいつ聞いても毒々しいものが多いですね。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks