安寿姫・厨子王の母子像

午後からは帰りがてらに久しぶりに勿来に寄ることになりました。
勿来は初めて散策と称して「勿来の関」を訪れた以来ですから、ほぼ1年ぶりです。やはり勿来といえば「勿来の関」が全国的にもメジャーで歴史あふれる町というのが相応しいでしょう。
今回はPM2:00近くからですからそれ程散策を楽しむ余裕はありませんが、久しぶりの勿来を堪能できればと思います。

安寿の里

金山公園国道6号線と並行する県道20号線を南下すると、右手に「金山公園」があります。その一角に「安寿と厨子王像」があるというので行ってみることにしました。

公園といってもかなり広大な敷地を持つようで、園内にはグランド、テニスコートのほか遊具などもあってかなり多目的な公園です。 奥に進むと比較的大きな建物があり〝勿来勤労者青少年ホーム〟というものだそうです。
もともとこの〝金山地区〟は大正初期までは無人の原野で終戦後戦災者・引揚者救済のため住宅開発を行った地区だそうです。そのため急激な膨張で無秩序な宅地造成で様々な不備、そして防犯・安全上の様々な問題を抱えるエリアとなったようです。
そこで昭和40年「金山自治会」が発足し、現在約1400戸が加入するいわき市内でも有数の自治会へ発展しているのです。

金山自治会の努力により生活道路も整い、防犯・安全対策も図られた後は、地域の子供たちの育成が課題となってきました。
そこで目をつけたのが「安寿と厨子王」の伝説で、親子愛・師弟愛といった思考を継承していくべきと昭和48(1973)年、「安寿姫・厨子王丸遺跡顕彰会」を発足させ、昭和49(1974)年、金山町の丘に「安寿姫・厨子王の母子像」というブロンズ像を建立したのだそうです。
しかし、時がたつにつれそのブロンズ像も忘れられた存在となったため、再び初期の目的を完遂するために平成11(1999)年、自治会内に〝金山の昔を伝える会〟を発足させて活動を開始したのでした。
そしてその活動の計画は、安寿と厨子王ゆかりの地としての史的調査・研究を始め、母子像周辺の整備、全国のゆかりの地との交流、「金山の歴史」の刊行など遠大な計画でした。
その中でも「安寿と厨子王の里づくり」と銘打った計画に対しては行政も共感し、支援に乗り出すようになってきた結果、母子橡の脇にゆかりの説明とゆかりの地分布図を書いた大きな案内板の設置をはじめ、物語説明板、母子像までの案内標識などが設置されたそうです。
以前、私もそう思っていたのですが、ちょっとした石碑や史跡などに案内板がないため設置してくれればわかりやすいなどと思っているのですが、実際にホンの小さな案内板を立てるにもかなりの金額が掛かるのです。雨風で倒れたりして危険が伴ってはいけないので、それだけ基礎をしっかりしなければならなかったりし、小さな案内板でもすぐ何十万、何百万かかってしまいます。
山道の道標を立てるのと訳が違うのです。
そう考えると、地元の人たちはそこに案内板があったほうが良いのは判っていながら、個人や小さな団体ではどうすることもできないのが実情のようで、このような市の協賛を得られるのは非常に幸運であると共に、それだけ努力しなければならないという証なのです。
そして更にゆかりの地との交流や出版なども地道に活動が続けられているそうです。

安寿と厨子王の里それでは実際にその「安寿と厨子王の里づくり」のブロンズ像を見ることにします。

正面右側に「安寿姫・厨子王の母子像」、その左側に「顕彰碑」があります。そして左サイドにゆかりの地の大きな案内看板、そして右サイドにはパンフレットなどが置かれていて、大変整備されていることが見て取れます。
安寿姫・厨子王の母子像メインである「安寿姫・厨子王の母子像」は立派な台座の上に建立されています。

台座台座には〝愛〟という一文字が刻まれていますが、意外と曰くつきのものだそうです。

この〝愛〟の字は元・福島県知事の木村守江氏の揮毫なのだそうです。しかし、後にその木村知事が汚職で逮捕・失職したため、この〝愛〟の一文字はセメントモルタルで埋められたそうです。
しかし、人の噂も…、のごとく木村知事の汚職が風化すると共に、いつしかセメントモルタルは削られ、元の〝愛〟の字がよみがえったのだそうです。いつの時代も政治の影は付きまとっているのですね。
次はその「金山自治会」の努力の甲斐である「顕彰碑」を見てみます。

安壽姫厨子王遺蹟顕彰碑
今から約1000年の昔、平政氏は奥州の賊徒を平定した功によって、朝廷からこの岩城の地を賜わり、岩城判官と号して住吉御所に住んで当地方を治めました。
尚滝尻御所は出城だったと見られます。
政氏はこの地に着任すると間もなくその昔、東北地方平定に来られた日本武尊が、東北鎮護を祈願して建立したと傳えられている鳥見社(この金山台地にあった)が荒れ果てているのを再興したり、付近の浜から砂鉄を運ばせて、良質の粘土の出るこの金山台地で砂鉄工業を興したりして政治に励みました。
その後、政氏は朝廷への勤めに怠りがあったといふことで筑紫の國に流されましたが、幸ひ判官職はその子政道が継ぐことを許されました。
政道も父の志を継いで政治に努力しましたが、その内に政治にゆるみが出たりそれまで領地の一部であった信夫地方を失ったりすることになり、一族に不和が生じました。
そして長和5年という年の春、小山田の櫻狩りの帰り道、この金山の丘で逆臣の手にかかり一命を落としたのであります。
当時政道には万壽という13才になる女の子と千勝という11才の男の子がありました。
これが安壽姫と厨子王なのであります。
父政道の死後、奥方や安壽姫厨子王母子の身の上にも危険が迫りましたので、奥方は忠臣の大村次郎、召使の小笹を伴ってある夜住吉御所を脱出し、奥方の実家のある信夫を指して逃げたのでありますが、途中追手との戦で大村次郎は戦死しました。
野に臥し山に寝て主従4名はようやく信夫に着いたのでありますが、そこにも長くは居られません。
それに主従4名には岩城家再興という仕事があるのです。
京都にのぼることにした4名は、また長い苦労の末に越後の直江の浜に着いたのでありますが、ここで、山椒大夫の手下の者に見つかり、母と小笹とは佐渡への舟に乗せられ(小笹は投身自殺)、安壽姫と厨子王とは別の舟に乗せられて山椒大夫の家に連れて行かれ、あの有名な山椒大夫物語でよく知られている苦しい生活が約3年の間続いたのであります。
そして姉安壽姫の強い勧めで厨子王はただひとり、山椒大夫の屋敷を抜け出して念願の京都に出たのでありますが、幸いに偉い坊さんや立派な人にめぐりあい、数年の後には朝廷に仕える身となり大炊介に任ぜられ、名前も平政隆と命名されました。
厨子王18才の年であります。政隆は父を討った逆臣の追討を朝廷に願いましたところ、お許が出たばかりでなく兵3000をも戴きました。
その兵を引き連れて遥々都からこの菊多の郷に参った政隆は、遂に逆臣たちを塩谷城(今の出羽神社附近)で討ち平げ、少年の日の思い出も残る鳥見野に参り、その南方の台地に祭壇を設けて、父や姉に戦勝を報告し併せて将兵の労をねぎらってから京都に帰りました。
政隆はその後丹後の守に任ぜられ、人買いを禁止し、奴隷を開放したりして政治に励む一方、佐渡に渡って盲になって苦しんでいた母を探し出して京につれもどり孝養を盡しましたが、老後はまた岩城にもどり平和な生活を送りました。
昭和49年5月建
安壽姫厨子王遺蹟顕彰会長 成清マサコ いわき市文化財調査員 岡田實 撰
同市 勿来町 赤津一 書 同市 植田町 有限会社森石材 刻』(現地顕彰碑碑文より)

安寿と厨子王の物語は1000年も前の話なのですね。
ここまで来て大きな問題に気がつきました。そう、私はこの「安寿と厨子王」の話を全く知らなかったのですね、名前だけ知っていはいましたが…。
ということで顕彰碑を読んでもさっぱり判らないので、パンフレットにある物語を読んでみます。

安寿と厨子王の物語
この母子像はあの有名な森鴎外の小説「山椒大夫」にでてくる姉の安寿(万寿)と弟の厨子王(千勝)、そしてお母さんの旅の姿です。
今から約1000年の昔、いわき地方を良くしようとする仕事についていたお父さんの平政道は、小山田(今の山田町)の桜を見物に行った帰り姥ヶ岳(近くの水道バックのところ)でおそわれ命を落しました。次の年、母と子は家来の大村次郎と召使の小笹をともなってお母さんの実家のある信夫(今の福島市)に逃れましたが、途中大村次郎は追っ手と戦い戦死してしまいました。主従の一行はお父さんが殺されたことを訴えるためにさらに都(今の京都)へ向かいました。ところが途中越後の国(今の新潟)で悪者にだまされて母と子は別々の船に乗せられ、安寿と厨子王は丹後の国の山椒大夫という人買に売られ、お母さんは佐渡へ売られてしまいました。召使の小笹は船から身を投げ自殺しました。安寿と厨子王のつらい生活が3年ほど続きました。
水がぬるみ草が萌える季節がやってきました。ある日、安寿は自分の身を捨てて厨子王を山椒大夫のところから逃れさせました。
やがて立派に成人し朝廷に仕える身となった厨子王は、人買いを禁止してよい政治を行ない、父の仇を出羽神社付近(東田町)で討ちました。そして盲目になったお母さんと佐渡で再会をはたしました。
いわき市のこの金山町の周辺には安寿と厨子王にまつわるゆかりの地が沢山あります。親子、姉弟のかたく結ばれた愛情を物語るこの母子像の姿は、永くのちの世まで伝えてゆきたいものです。
平成12年 金山の昔を伝える会』(「安寿の里」パンフレットより)

物語の内容は凡そ判りましたが、この伝説と森鴎外の小説の成り立ちを調べてみると、もともとこの「安寿と厨子王の物語」は中世の時代に存在していたようです。
それは説経節と呼ばれるもので、その原形となる説教が仏教や教養を説いて衆生を導く唱導から派生し、鎌倉時代から室町時代にかけて発生した芸能で、これが更に浄瑠璃的性質を帯びてきたものだそうなのです。
その説教節の一つに「山荘(さんせい)太夫」があり、これは当時説教節の中でも特に「五説経」と呼ばれた有名な説教節の一つなのだそうです。
そして森鴎外がこの「山荘(さんせい)太夫」を原話として書かれた小説が「山椒大夫」なのです。
大正4(1915)年、鴎外53歳のときに〝中央公論〟に掲載されたのですが、鴎外は小説化にあたり、安寿の拷問や山椒太夫の処刑などの原話では聴かせどころとの残酷な場面をカットしたそうです。
ちなみに原話での安寿の拷問は、額に焼きごてを当てられた、とか火責め水責めで苛み殺された、などです。また、山椒太夫も鋸引きで処刑されたと言われているようです。おそらくもっと生々しい描写だったのかもしれませんが…。

このようしてみると、もともと「安寿と厨子王」の伝説があり、それを小説化したので全国的にメジャーな伝説となり、その伝説を町興しに利用するという、何となく逆輸入的な成り立ちです。
となると伝説は鴎外により全くのフィクションではなく、もしかしたらノンフィクションなのかもしれないということになりますね。
物的証拠が無い分、史跡としての成立は難しいでしょうが、確かに〝ゆかりの地〟としては十分魅力的な場所かもしれません。
そしてこの金山公園以外のゆかりの地が大きな看板に表されています。

ゆかりの地解説
小山田・千本桜:厨子王の父・平政道が政道に反対するけらいの勧めで桜見物をしたところ。
塩谷城:東田の出羽神社に続く台地で、厨子王が地方を治めるための国司となってから、亡き父(政道)の敵 村岡重頼を殺したところ。
菖蒲沢:しょうぶ苑の反対側にあり、厨子王が夫反対するけらい達と戦った所。昔は勝負沢といった。
金山原・金具坂:平政氏が岩城判官(今の警察署長のような人)としてこの地に赴任して以来、砂鉄による製鉄工業を開発した遺蹟の地名金山町の旧6号線沿い。
舞台:厨子王が亡き父に反対するけらいを討った後、父政道、安寿の追悼を行ない、一緒に戦った兵士の労をねぎらった所。
姥ヶ岳:逆臣村岡の家来がこの麓にひそみ、政道の桜見物の帰りを襲った所。植田東中学校の東200mの小高い丘の、金山配水池がある所。
愛宕神社跡地:安和元年(968年)の春、政氏が鳥見野台地(金山の昔の名)に、長い間すたれていた社を再建。日本武尊をまつった神社。
太刀洗川:金山町北端を東流する渚川上流の昔の名前で、早稲田バス乗り場の南側を流れている。政道を惨殺した逆臣達が血刀を洗った所。旧6号線の下を横切っている。
のめし沢:政道の遺骸を捨てた所。
滝尻城:泉城ともいう。今の泉の諏訪神社の所にあった。岩城判官政氏(厨子王の父政道の親)が住んでいた城。後に住吉城へ移る。
姫塚:厨子王が姉・安寿姫の遺品を埋めた塚と言われている。
住吉神社:岩城判官家崇拝の神社で、社殿の裏には「星見の井戸」という一対の井戸があり昼間でも星の影が写るという。
住吉山・遍照院:岩城判官の先祖の墓がある香華院である。政氏の守護仏地蔵尊、奥室守護観音像が保存されている。小名浜三小のうしろにある。
住吉館跡:住吉城または玉川城ともいう。住吉保育所の裏にあり、岩城判官平政氏が滝尻城から移り住んだ城。
小浜町・愛宕神社:「鏡ヶ丘由来記」を伝えた政氏ゆかりの神社で、金山から移った。
小浜町・那智神社:岩城判官の守護神であった神社。』(現地案内板説明文より)

現在では毎年「ゆかりの地ウオーキング」というのが開催されていて、現在では200人以上の参加者があり盛況のようです。
もう少し近ければこう言ったイベントにも参加できるのですがね。
兎にも角にも初めて「安寿と厨子王」についての物語を知った有意義な散策でした。
これにて「安寿の里」を離れようとしたところ、顕彰碑とゆかりの地の看板の間にもう一つ小さな案内板がありました。

安寿と厨子王の別れ
寛仁4年(1020)安寿と厨子王が別れる時、「説経節」によると、柏の葉に谷川の水を汲み、水杯を交わして別れたと書かれており、京都の由良地区には、国分寺近くにある「かくれ谷」で、「ギボウシ(ギボシ)」の葉に谷の水を汲み、水杯を交わして別れたという伝説が残っている。柏はブナ科の落葉高木ですが、奈良時代以降、祖先を祀る時や飲食物を盛る時に用いられた。柏もちにも使われていますね。
ギボウシ(ギボシ)はユリ科の植物で、京都の由良では、安寿と厨子王は、「トクダマギボウシ」を用いたと言われている。ここに植えられているのはその仲間のギボウシである。』(現地案内板説明文より)

ギボウシ確かにこじんまりと「ギボウシ」が植えられています。

しかしこの「ギボウシ」の響きはどこかで聞いたことがあると思えば、この「ギボウシ」のつぼみや若い花序が〝擬宝珠〟に似ていることから付けられた名でした。
〝擬宝珠〟とは橋や神社、寺院の階段などにある飾りのことで、爆風スランプの〝大きな玉ねぎの下で〟で一躍有名になった武道館の玉ねぎのことが擬宝珠といえば分りやすいでしょう。
この「ギボウシ」はもともと日本古来の植物ですが、シーボルトなどによりヨーロッパに渡り、爆発的な人気を得て日本に帰ってきた帰化植物だそうです。ここにも逆輸入車があったのですね。
現在では「ギボウシ」のコンテストもひらかれているそうですから、かなりポピュラーな植物といえるのでしょう。私は初めて知りましたが…。 こんなところにも意外な歴史があるのですね。
ちょっと銅像だけ眺めて…、などと軽いノリで来てはみましたが、実に奥深い歴史、事象をもったことを知って感動的な「安寿の里」でした。「安寿と厨子王」侮れません。
ここからは「御宝殿 熊野神社」に向かいます。

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