御宝殿 熊野神社

時間もすでにPM3:00近くなり当然今日埼玉に帰りますので、余りのんびりしてもいられないため、「熊野神社」に寄って今日は帰ることにしました。
「安寿と厨子王」像のある金山町からは県道20号線を植田駅方面へ向かいます。
途中、左側に大きな紅白の煙突が見えます。どうやら火力発電所のようで、折角なので寄り道することにしました。
滅多に見られるものでもないでしょうから。とはいっても中を見学できるわけではないでしょうから、ちょっと外観だけでも…。

常磐共同火力勿来発電所

近づくにつれて煙突の大きさが徐々にはっきりしてきます。
常磐共同火力勿来発電所ちょうど発電所の裏側のようで、何もない場所に広大な敷地の城郭の佇まいです。

常磐共同火力勿来発電所フェンス沿いに走ると幾つかの煙突をみることができ、裏門でしょうかゲートの先に幾つものトラスに囲われた通路が延びています。

建造物自体は実に無機質なのですが、歴史や沿革はなかなかホットなものがあるようです。

この辺りの住居表示は佐糖町で、江戸時代は寒村で、その後も大した発展もできずに広大な荒れ地と僅かながらの田と漁での暮らしが残っていただけの場所だったそうです。
昭和30年代、朝鮮戦争がおわり特需景気が落ち込むと共に、石炭が石油に取って代わるエネルギー転換の時代で、石炭の寿命もそう長くない頃でした。
そこで考えられたのが一般に使用されない低カロリーの低品位石炭を発電用燃料として活用する方法で、石炭利用と発電の一石二鳥のアイディアなのです。
こうして昭和30年12月、東北電力・東京電力・常磐炭鉱の共同出資により「常磐共同火力株式会社勿来発電所」が設立されたのでした。そして建設場所の条件として、広大な敷地があり、冷却水が得られ、石炭運搬に便利という3つの観点からこの地が選ばれたのだそうです。
サイトのデータによると、昭和32年11月に1・2号機が完成し営業を開始、そして昭和45年には1~7号機出力合計72万キロワットに及び全国一の石炭専焼発電所に発展しました。
しかし相次ぐ炭鉱閉山により燃料転換が必要となり、昭和46~48年にかけてボイラー燃料転換工事により、石炭重油混焼火力発電所に転換したのでした。
昭和58年に8,9号機を増設し、老朽化した1~5号機を昭和62年までに廃止し、6~9号機出力合計162.5万キロワットとなっているそうです。
そしてここで生まれた電力は、東北・東京電力の送電線で、福島県と茨城県の家庭や工場に送られ利用されているとのことです。

現在全国には火力発電所が82箇所あるそうです。当然各電力会社が経営しているわけですが、電力会社以外の企業が経営している火力発電所もあります。
例えば「JR東日本川崎火力発電所」(JR東日本)、「神鋼神戸発電所」(神戸製鋼所)、 「新日鐵室蘭発電所」(新日本製鐵)、川崎天然ガス発電所(新日本石油、東京瓦斯)などがあるそうです。
また、かつては送電技術などが発達していなく、公害などがあまり気にされなかった時代には「浅草火力発電所」なる発電所があったそうです。
これは東京電燈という企業が浅草に1897年(明治30年)に開設した発電所で、関東大震災によって廃止されたのでした。
当時から老朽化で立替が検討されていたそうですが、大震災により断念し、代わって建設されたのが〝お化け煙突〟でランドマークともなった千住火力発電所だったそうです。
火力発電所の歴史の中にも興味深いことはたくさんあるようです。

常磐共同火力勿来発電所次は正面に向かってみます。

確かに広大な敷地であることが良く分かります。
常磐共同火力勿来発電所また、こう言った道を挟んで架けられたパイプラインなどは、何となくくすぐられるのですよね、秘密基地のようで…。

常磐共同火力勿来発電所一番高い銀色の集合煙突は200メートルあるそうで、煙害などを考えてこれだけ高くなったのかも知れませんが、勿来発電所のシンボルでもあるようです。

できることなら中を見学したかったところですが(入れないこともありますが、もし見学できても家内はいかないでしょうね、きっと。男のロマンが分りませんから…)、外から眺めただけでも十分堪能したような気分になってしまうのは、理工系の性でしょうか。

因みに1979年の第3回国際エネルギー機関(IEA)閣僚理事会での宣言の一つに石油火力発電所の新設禁止が盛りこまれたため、日本では原則石油火力発電所を新設することが出来なくなったそうです。
そして、現在建設される火力発電所は、石炭や 天然ガス、あるいはそれらの混合等となっていて、それ以前に建設されていた石油火力発電所も、石炭または天然ガス火力発電への転換が促進されているようです。
エネルギー転換の図られた勿来発電所ですが、皮肉なことにまた石炭への転換を図らなければならないところですが、ベースは石炭用となっているのでそう問題はないようです。しかし、もう一つ皮肉なことにはもともと常磐の炭鉱の石炭を利用することからはじまった発電所ですが、現在使用している石炭は海外炭だそうです。
こんなところにも歴史の面白さが内在しているようです。

御宝殿 熊野神社

勿来発電所からは今回最後の目的地「御宝殿・熊野神社」に向かいます。
今回この熊野神社に行くにあたって神社を最初に決めた時に「御宝殿」とあったので、他の熊野神社とは違う何か特別なトレジャーな神社なのかと一時期待したのですが、何のことは無い「御宝殿」とは地名だったのですね。
いわゆる大宮氷川神社と赤坂日川神社と同じことということでちょっと意気消沈です。
余りにも曰くありげな地名でしたから。

熊野神社さてその「熊野神社」に到着すると鳥居の先に実に長い参道が迎えてくれました。
長い参道の両脇には大木がズラッと並んでいて壮観、荘厳で来るものを圧倒します。

参道の途中に一般道が横切っていてその交差するところに標柱があります。
その標柱には「市指定天然記念物 熊野神社の大ケヤキ」と刻まれているのですが、それらしい大木がありません。
その近くには比較的新しい石碑が建てられています。

『当社の大欅は推定樹齢800年、その風雪に耐え、昭和42年いわき市天然記念物に指定された威容は、国重要無形民俗文化財「御宝殿熊野神社稚児田楽風流」と共に、郷土の憧憬の的、氏子崇敬者の象徴であった。
昭和50年8月2日未明不幸にも火災に遭い、樹勢とみに衰え遂に蘇生の途なく、氏子の議により、昭和51年10月15日伐採す。
時恰も社殿の基礎は腐朽甚だしく、改修急を要する状態にあり、仍てその財源を社殿の造営並びに境内整備事業にあてる。
茲に碑を刻みて永く後世に伝う。
昭和53年4月吉日 熊野神社』(現地石碑碑文より)

なるほど「大ケヤキ」はすでになくなっているのですね。
そしてそれを〝売った〟お金で社殿を建て替えたということですか。枯れてしまえば記念物は解除されるのでしょうね、当然。
財源にすることは別に構わないでしょうが、できれば社殿の一部にそのケヤキの建材を使うといったことはできなかったのでしょうかね。
かつて東京・永田町にあった「キャピトル東急ホテル(旧・東京ヒルトンホテル)」(現在建て替え中で2010年10月オープン)内にレストラン「欅」と中華料理「星ヶ岡」というレストランがありました。 これはかつてこのホテルのあった地に北大路魯山人の「星岡茶寮」があったことから、中華料理は「星ヶ岡」、そしてその「星岡茶寮」の建物の建材の欅からレストラン「欅」と命名し、実際の欅の建材が1本使用されていました。
折角の天然記念物ですから一部残しても良かったのではないのかなと残念に思えますが、いかがなものなんでしょうね。そんな余裕もないほど社殿の改修が急を要したのでしょうかね。
石碑を建てて顕彰するのも結構ですが、歴史そのものを少しでも残すのも後世への重要な事かもしれませんね。

熊野神社ここから社殿まではまだちょっとありますが、ぼんやりと社殿を見ることができます。
参道を進みますと途中に由緒書きがあります。


由来記
所在地:福島県いわき市錦町御宝殿81番地 TEL/FAX 0246-62-2207
御祭神:伊弉冉尊・事解男命・速玉之男命
境内敷地:1,831坪(6,053㎡)
沿革:大同2年(807年)紀州熊野の新宮より別当日下大膳が御分霊を当初は長子の地に奉斎し、その後、弘仁元年(810)現在の大島に勧請したと伝えられる。
しかも霊験あらたかなるところから、菊田庄司が刀剣を鋳造して奉献され、以来、御宝刀殿大権現として尊崇され、更に文禄5年4月23碑、常陸城々主佐竹又七郎より、黒印220石を旧菊田郷の総鎮守として今尚敬神の念を篤くし多数の参拝者を迎えている。(後略)』 (現地案内板由来記より)

刀剣の奉献から御宝刀殿…、御宝殿となったのですか。なにかセレブな地名です。
そして、この熊野神社で最も有名なのが国重要無形民俗文化財に指定されている「御宝殿の稚児田楽・風流」です。
これは毎年7月31日と8月1日の御宝殿熊野神社の祭礼に行われ、神事と民俗芸能が一体となり古式にのっとり厳かに行われる行事で、 大きく分けると所謂、三本立ての行事で、農作物の豊凶を占う鉾立の神事、豊作祈願の稚児田楽、豊年感謝の風流の3つです。
●鉾立の神事
鉾に兎と烏がそれぞれ描かれた孟宗竹を持ち、150メートルの参道の前方より社殿前へ先を競って立てるのだそうです。
農事の豊凶を占う年占いの神事で、早く立った方が豊作または豊漁になるということです。
〝兎〟さんチームは「五穀豊穣」を意味し、山方とし、〝烏〟さんチームは「浜大漁」を意味し、海方とするそうです。
●稚児田楽
田植えから収穫に至る農耕神事を儀礼化したもので、五穀豊穣を祈る行事です。基本は古典楽器の〝びんざさら〟を用いた神事で、この〝びんざさら〟はそのの摺り音がざらっざらっと聞こえるため、〝ざらっこ〟とも呼ばれます。
内容は、烏と兎を描いた露払いを持った2名と、びんざらを持った6名のざらっこ、合わせて8名が向き合って舞います。
種目は、その場で四方に向きをかえる「総めぐり」、対角線上のふたりが順に位置を交換する「親と子の取替え」、一列または二列になる「一列組打ち」と「二列組打ち」、ふたりずつ順に退場する「親は親、子は子」の5種類があるそうです。
囃子方は笛と太鼓で、この囃子方の太鼓の胴打ち「カッカ」、真打ちの「ドン」と、笛のリズムで動くため、「カッカドン」ともいわれるようです。
これは2日間で7回演舞される、全国的にも珍しい稚児による田楽なのだそうです。
●風流
長子地区氏子によって受け継がれ、子孫繁栄・豊作祈願・天下泰平を念じて演じられるもので、「獅子舞」と呼び、鷺舞・龍舞・鹿舞・獅子舞の4種からなり、参道の高い櫓の上で演じられ、いずれの舞も四方をめぐりながら3回飛び上がり、3回回ることが基本となるそうです。
実際に見ないと判りにくいのですが、いずれにしてもこう言った三部作で稚児が演じるということで、非常に珍しくまた貴重な神事なのです。
今年は無理ですが、是非来年機会を作ってみたいものです。

熊野神社参道を進んでやっと社殿に到着で、まずは参拝を済ませます。

熊野神社それほど荘厳といったような大きさは感じられませんが、歴史の重みをもった重厚感のある社殿です。

熊野神社拝殿は入母屋、銅板葺き、本殿は春日造り、銅瓦棒葺き、一間社だそうで、今までに見てきた社殿の中では実に高貴な薫りがします。

春日造りは派手さなないのですが、凛とした雰囲気を感じるのは私だけなのでしょうか。
熊野神社イチョウ境内の右手には摂末社の間にやはり大きな「イチョウ」の木があり、これは保存樹木となっています。

巨木に囲まれた歴史ある神社で珍しい神事があるという大変興味深い神社でした。

今回はある程度事前の計画によって散策しましたが、逆に時間が気になってくるところがありました。
きっちりコースを廻るのも良いが、ふらふら寄り道しながらもまた結構な散策です。まあ、どちらも興味深い散策であることは間違いないのですから。
次回の散策はどうしましょうかね。

2010.7.23記

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