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桶川市歴史民俗資料館

「べに花ふるさと館」を後にして、今回のイベントではもう1ヶ所紅花畑が在るようなので、そちらに向かってみますが、その前に折角紅花商人の話を知ったので、紅花商人が寄進した石燈籠を見ることにしました。
現在でも「稲荷神社」にあるということなので、まずは「稲荷神社」に向かうことにしました。

稲荷神社

住宅街の中にあるようで、細い路地をくねくねと抜けると結構広い境内に到着です。
稲荷神社石造と木造の鳥居が参道入口に並んで立っています。


稲荷神社と文化財
この地は、昔、芝川の水源地帯であり、高崎線の線路近くにあった湧水が中山道を横切って、この付近を流れていたと言う。境内は約4000平方メートル。
建物は本殿、幣殿、社務所、手水舎、神楽殿、合祀した社、倉庫などからなる。氏子は旧町内(寿、東、南、西、北、末広、泉、若宮鴨川)の人々に広がり、町の鎮守様として祀られている。
●祭神:宇迦之御魂命(素戔鳴命の子で、稲をはじめ五穀の豊作をつかさどる神)
●沿革:創建は長承3年(1134)とも嘉禄年間(1225~7)ともいう。元禄6年(1693)桶川宿の鎮守となり、明治6年(1873)郷社となる。
●祭礼:
元旦祭・除夜の鐘とともに初詣で賑わう
初午祭・例大祭で、3月の最初の午の日に行う
祈年祭・初午の翌日にその年の五穀豊穣を祈願する
七五三・11月15日、7才、5才、3才の子供の無事成長を祈願する
新嘗祭・12月7日 その年の豊作を感謝する。昔は星祭と称し、翌年、厄年に当たる氏子に人形を出した。

紅花商人の石灯籠
拝殿の前面に立ち並ぶ灯籠で、安政4年(1857)、桶川宿を拠点に活躍した紅花商人24名が寄進したもの。
当時、桶川地方は、口紅や食紅の原料となる紅花をさかんに栽培しており、その紅花は、「桶川臙脂」として全国的に知られていた。市指定文化財(歴史資料)

力石
「大盤石」と刻まれた力石は、拝殿に向かって右手前にある。長さ1.25メートル、下幅0.75メートルあり、重量はおよそ700キログラムと推定される。表面に嘉永5年(1852)2月、三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたと刻まれている。併せて、世話人の名前12名と石主・石工の名前も刻まれている。力石とは、一般の祭礼などに若者が、力比べに持ち上げる石をいう。
市指定文化財(民俗資料)
昭和63年3月 桶川市教育委員会』(現地案内板説明文より)

早速、拝殿に向かって参道を進みます。
左側に神楽殿や摂・末社があります。
稲荷神社大盤石稲荷神社大盤石右側に「大盤石」と書かれた掲額のある屋根に覆われた力石があります。

ここでの説明はかなり興味深い説明です。

『石をかたどった左の絵図に描かれた文字はこの大盤石の表に刻まれた文字の模写です。
これが嘉永5年2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこの石を持ち上げた所以です。
「大盤石」とは力石の中でも特別に大きい石を指します。大盤石は全国でも4ヶ所にしかなにといわれています。 この石の重量は610キログラムあり、重量は日本一と評されています。越谷市の高崎力先生及び四日市大学の高島慎助先生の長年にわたる調査により判明したのです。
三ノ宮卯之助は文化4年(1807年)武州岩槻領三野宮村に生まれました。その頃江戸では祭りや見せ物において力自慢の人が大いにその特技をもって大衆にもてはやされ、「力石」を持ち上げることが興行とされるような時代でした。
卯之助は成長して江戸一番の力持ちと評判になり、地元岩槻、越谷をはじめ各地のイベントに招かれたものと思われます。現在卯之助の名を刻んだ「力石」は全国で32個確認されています。天保4年(1833年)には深川八幡宮にて、当時の将軍家ご上覧の一大興行が催されたといわれています。
卯之助は45歳の時にこの力石を、この桶川にて持ち上げたといわれています。当時は各大名が競って藩の威信をかけて行ったといわれています。しかし卯之助は48歳にて不慮の死をとげ、惜しまれつつこの世を去りました。
当時の興行に使われた、チラシ、ポスターの類には人物が仰向けに寝て、両足で小船を持ち上げ、その船に米俵を背負った馬とその馬を引く人物の図柄がしるされています。
ちなみにこの「力石」もこの〝足指し〟という方法で持ち上げたものと推定されます。』(現地案内板説明文より)

力石に関しては、【東鷲宮百観音温泉】にあった重量など詳細のわからない力石や、【2010年、初春風情】/で訪れた浅草寺新奥山にあった力石が、熊次郎というものが持ち上げた百貫(約375キロ)の力石を見ましたが、610キロとははるかに大きく「大盤石」とはまさにこのことをいうのでしょう。
稲荷神社大盤石石主はじめ世話人がズラッと並んでいますが、今で言うところの〝タニマチ〟なのでしょうね。
《Ph:現地案内板より》

稲荷神社大盤石また、チラシやポスターは今で言えばエンターテイメントでしょうが、見せ物といったほうがイメージが合うようです。各地で引っ張りだこ的なスターだったのでしょう。
《Ph:現地案内板より》

いずれにしても娯楽の少ない時代でも力持ちや、強い力士などはもてはやされたのでしょうね、イケメンなどといわれて…。

「大盤石」をみてから再び参道に戻り社殿に向かいます。
稲荷神社石灯籠拝殿の手前には石灯籠が左右1対ずつ2列並んでいますが、奥側の高いほうの石灯籠がその紅花商人によって寄進された石灯籠のようです。

稲荷神社石灯籠稲荷神社石灯籠灯籠には「紅花商人中」と刻まれていて、その下に24名の名前が刻まれているようです。

いかに紅花で栄華を極めたかを物語るものでしょう。
これも桶川市ならではの貴重な文化財です。

拝殿で参拝をして帰ろうと参道を戻った時、左側に大きな木があったので向かって見ました。
稲荷神社すると何と幹の中に祠があるではないですか。

狐が祀られているので小稲荷社でしょうか、実に珍しくユーモラスな祠です。
意外と見所の多い稲荷神社でした。

べに花摘み取り園

「稲荷神社」を後にして次に向かったのが川田谷というところにある「べに花摘み取り園」です。
「べに花ふるさと館」が桶川市の東側の加納地区にあり、中央の高崎線を挟んで桶川市の西側に位置しているのが川田谷地区です。 そこには実際にべに花を摘み取ることができるべに花畑があるのです。
べに花摘み取り園ここは桶川市のべに花生産組合が運営しているようで、入園料が100円で摘み取ったべに花1本につき50円の販売となり、中央のテントには組合員の方が何人か待機しています。

べに花摘み取り園何組かのファミリーがべに花をつんでます。

特にべに花を栽培する予定もないので、私たちは鑑賞だけです。
べに花摘み取り園このべに花畑もかなり広く、勿論、観賞用(摘み取りは商用ですがあくまで観光目的としてでしょう)に造られたべに花畑となれば、やはり多くの方の努力の賜物なのでしょう。

現在の桶川市におけるべに花畑は、先の加納地区とこの川田谷地区の2ヶ所のようです。
今後、少しずつでも栽培面積がふえていくのでしょうね。

桶川市歴史民俗資料館

実際に随分とべに花を見てきましたが、べに花畑はこれで終了のようなので、最後にこの川田谷地区にある「桶川市歴史民俗資料館」を訪ねました。
川田谷生涯学習センター実際には「川田谷生涯学習センター」内に設置されていますが、つくづく上尾市にこう言った歴史館がないのが残念です。

桶川市歴史民俗資料館立派な建物に入ると、エントランスの一角に「桶川市歴史民俗資料館」があります。

展示コーナーは大きく3つに分けられるようです。桶川市にある古墳及びその出土品関連のコーナー、桶川とべに花について、そして桶川宿に関するコーナーです。

早速入館してみます。
上野国の宿場町資料館のアプローチでは企画展として「上野国の宿場町」と題された切り絵が展示されています。

なかなか切り絵というのも迫力があるものです。
縄文の森の中で展示室の正面には「縄文の森の中で」と題された縄文時代のジオラマと土器が置かれており、さも歴史民俗への誘いといった雰囲気です。

常設展示左手奥には国指定重要文化財である熊野神社古墳の出土品(レプリカ)、及び川田谷遺跡関連の出土品が展示されており、いずれも貴重な品々のようです。


その右手側にはべに花に関する展示があります。
桶川宿商家店先絵馬これは「桶川宿商家店先絵馬」という市指定の文化財です。

この絵馬は文久3年(1863)に上州館林の米屋勝右衛門と近江商人の小泉栄助・利七から、桶川宿の商人、小高家の屋敷神に奉納されたものです。
更に興味深いのは、上尾市の須田家文書(嘉永5年5月「紅花勘定張」)には紅花の商標が書き連ねており、この絵馬の中に書かれている紅花の商標を探すと、確かに須田家文書にあり「日の出」という商標が見つかるそうです。 探した方も根気強い方ですね。
日記帳当時の「日記帳」もあります。

先の須田家にあったものですが、主人が書いたものではなく番頭のような使用人が書いたものを、明治20年にまとめたものです。
これには「紅花の栽培方法・買い付けの地域・取り扱っていた商人・相場・輸送方法等」が記載されていて、幕末の上尾桶川地域の商人を知るうえで大変貴重なもののようです。
紅店看板隣の不思議な小旗は、当時紅を取り扱っていた店が店頭に掲げていた「紅店看板」と呼ばれたものを再現したものだそうです。


紅花そのモノについても貴重な資料があるようです。
本草図譜草木育種「本草図譜」と「草木育種」という本です。

どちらも岩崎常正という人が書いたもののようで、「本草図譜」は日本で最初の本格的な彩色植物図鑑で文政11(1828)年に刊行されました。紅花を始め2000種類の植物の写生画が掲載されているそうです。また、「草木育種」は植物とともにその栽培方法が紹介されています。
桶川の紅は染料としては勿論、口紅などにも加工され、当時としては大変高価な紅だったそうです。
紅猪口しんきそうその口紅の器である「紅猪口」と「今様美人拾二景」という美人画の「しんきそう」という口紅を差した美人画も展示されています。

紅花屏風更に隣には「紅花屏風」が展示されています。

京都の絵師・横山崋山が文政6年に描いた作品で、これを描くにあたり崋山は各地の紅花の生産地を巡り、実情を知ったうえで描かれたものだそうです。
べに花一つでも様々な貴重な資料が残されているのです。

手前のコーナーにはべに花の加工などについての展示があります。
栽培や製造工程まずは基本的な桶川における紅花栽培について説明があります。


桶川での紅花栽培
桶川周辺での紅花栽培は、天明・寛政年間(1781~1801)に、江戸の小間物問屋であった柳屋五郎三郎が召使である太助と半兵衛を羽州最上につかわし、紅花の種をもとめさせ、上村(上尾市)の七五郎に蒔き付けさせたのがその始まりとされています。
上村の七五郎によって蒔き付けられた紅花は、やがて中山道筋(上尾宿・大宮宿・浦和宿)を中心にして広がっていきました。
武州で生産された紅花は、中山道筋の平場で生産されたものは「早庭(場)もの」と呼ばれ、川越・坂戸などの入間・高麗郡の地方で生産されたものは「西山もの」と呼ばれていました。』(資料館案内パネルより)

思っていたよりも広範囲で紅花は栽培されていたことが良く理解できます。それこそ当時は一大ブームだったのでしょう。
栽培や製造工程これらの栽培や製造工程が展示されています。

また、紅花の色についても説明があります。

紅花の彩り
紅花は、その開花時に鮮やかな黄色の花をつけます。花は、日を経るごとに、赤くその姿を変えていきます。このことは、紅花の花には、「黄」と「赤」の2つの色が含まれていることを示しています。
赤 色素:カーサミン、性質:アルカリ液によって抽出、酸を加えて中和発色植物繊維に定着
黄 色素:サフロールイエロー、性質:水溶性、動物繊維に定着
古代、シルクロードを経て東アジアにもたらされた紅花は、優れた染色適応性を持つ「絹」と出会い、ハレの日の衣装を彩る染料として珍重されてきました。
今、自然の恵みを再評価する気運の高まりの中で、染色家に注目された紅花は、「赤」「黄」とともに三原色を構成する藍の「青」を加え、新たな彩の表情を私たちに見せてくれます。』(資料館案内パネルより)

染色生地ということで「赤」と「黄」に染められた生地が展示されています。

色サンプルまた、その生地の種類によっても染められる色が変ってくる色サンプルもあります。

基本的に「植物性の繊維」と「動物性の繊維」の違いで、上から順に「絹」「麻」「毛」「木綿」です。
紅花染色製品そして最後に紅花の染色で作られた製品が展示されています。

紅花といってもやはり奥深い歴史や知識、技術がありものです。そのような貴重なモノを長く残すためにも紅花を無くしてはいけないのかもしれません。
桶川宿ジオラマ桶川宿ジオラマ紅花コーナーの隣には当時の桶川宿を再現したジオラマと松山(現在の東松山市)への道標が展示されています。

当時の桶川宿も紅花の商売などでにぎわっていたようで、これなども桶川の紅花の歴史そのものなのでしょう。
紅花の一端を見聞きして、当時の盛況ぶりに思いを馳せると共に現代における紅花の意味をちょっと理解できたようで、とっても有意義な散策でした。
比較的近くの方なら一度訪れてみるのも悪くないと思います。

2010.7.8記

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