龍勢祭り

順調に駆け抜けた関越道を降りると、見事なまでに晴れ渡ってきました。朝の小雨がうその様な天晴れです。
何故これほどまでに天気が変わるのかは、私の日頃の行いが良いからではないことだけは断言できます。となるときっと運の強い人か、晴男がどこかに存在するのでしょう。
これだけの晴天になると気持ち悪いくらいです。そして朝方まで雨模様だったことが相して、人出も若干少ないようで、聞いていたような祭り付近の渋滞も全くありませんでした。
とにかくも天気も気分も上々と言ったところです。

龍勢祭り

吉田周辺に到着してまずは駐車です。さすがに多くの観光客が見込まれているだけあって、臨時駐車場もたくさん用意されているようです。
何となく標識の通りに進んでいくと第3臨時駐車場というところに到着です。秩父市街とは違い自然の溢れる地域ですので、駐車場も吉田川沿いの河川敷の駐車場です。
臨時駐車場 小川というには大きく、河川というには小さい川ですが、水が綺麗なのが秩父を象徴しているようです。
このような駐車場でも自然を楽しめるのですね。

ここからまずは、今回の「龍勢祭り」の例大祭の神社である「椋神社」に向います。駐車場から神社への近道とやらを進みますが、かなりきつい上り坂の上に朝までの雨でドロドロにぬかるんでいるといった有様で、ほうほうの体でたどり着きました。
「椋神社」に参拝と思っていたのですが、先ほどから聞こえていた轟音が私を呼んでいるようで、何はともあれ「龍勢祭り」を見ることにしました。

龍勢祭りの会場には有料で見学できるエリアがあり、桟敷席となっているようです。すでに多くのギャラリーが詰め掛けてはいますが、その有料桟敷席は結構空きがあるようです。これは恐らく昨日から今日の朝にかけての雨によって出足が遅い、あるいは止めた人が多かったなのではないでしょうかね。
最初から龍勢祭りを最後まで見るつもりがなかったので、桟敷席の予約はしませんでしたので立ち見でみることになります。
龍勢祭り会場 フェンスの向こう側が立ち入り禁止エリアで、山の麓に見える櫓が「龍勢」の打ち上げ台ということです。

「龍勢祭り」はAM9:00から開始されていて、もうすでに何本かの龍勢が打ち上げられた後で、おおよそ15分おきに1台づつ打ち上げられるようです。
ちょうど我々が到着したときには6番目の「和田若連」と書かれた幟がある団体の打ち上げが始まるようです。

ここでいただいたオフィシャルパンフレットの起源と由来を読んでみます。

吉田龍勢の起源と由来
椋神社縁起「椋五所大明神由来」(1725)によると、「日本武尊が奉持した鉾より発した光のさまを尊び、後世氏子民が光を飛ばす行事として、往古より神社前方の吉田川原で大火を焚きその燃えさしを力の限り投げて、その光でご神意をなぐさめ奉った。火薬が発明されるや、これを用いて火花を飛ばし現在の龍勢のもととなった。夜間見るときは星のごとく、よって流星と書き、昼間見るときは雲中に龍の翔るがごとく、よって龍勢とも書く。
現在の龍勢は松材を真二つに割って中をくり抜きこれに竹の箍をかけて火薬筒とする。この筒に硝石、炭、硫黄を原料にして黒色火薬を作り、きめ棒をかけやで打って詰め、最後に筒の底に錐で穴をもみ噴射口を開け、背負い物と共に矢柄(長い竹竿)に組み付けて完成する。背負い物には、唐傘、のろせ、煙火、吊るし傘などがあり上りつめた龍勢から放たれてひらひらと落ちながら秋空をいろどる。これらの製法は各集落に近年まで伝わり、現在では火薬製造の資格を得た27の流派がこれを受け継いでいる。
昭和39年:吉田町(現秩父市吉田)民俗資料指定
昭和62年:全国市町村日本一事典選定
平成5年:サントリー地域文化賞受賞
平成9年:埼玉県無形民俗文化財指定
平成12年:埼玉100選選定』(「龍勢祭り」オフィシャルパンフレットより)

真偽はともかくも神話の時代まで遡る起源ですから、由緒ある祭りといえるでしょう。
日本で始めて火薬が伝わったのは、1543年種子島に漂着したポルトガル人によって伝来した鉄砲と共に伝わったのでした。最も日本で最初に火薬に遭遇したのは13世紀後半の元寇においてですから、鉄砲伝来以前に朝鮮から火薬の伝来があったのかもしれません。
いづれにしても伝統ある祭りなのですが、このような龍勢=ロケットのような祭りは全国にあるのでしょうか。
判る範囲では、静岡県の草薙神社の「草薙大龍勢」、六社神社の「朝比奈大龍勢」、そして滋賀県の米原市の「流星打ち上げ」、同じく滋賀県甲賀市の龍法師瀬古の薬師堂「瀬古の流星」の四つしかないようなので、全国的にも珍しい祭りといえそうです。

いよいよ龍勢の発射が近づいてきたようです。
口上櫓 まずは和田若連の紹介から始まりますが、正式には和田耕地若連というそうで、和田耕地という恐らく嘗ての地番表記だったのではないかと思われる地域の方の集まりで、その耕地を背負って立つ若者達の集まりから和田耕地若連といい、現在会員数35名の集団です。

先ほどの説明にあった27の流派で言うと光和雲流という流派で、昔ながらの伝統を引き継ぎながら製造にこだわり続けているのだそうです。
そしてこの紹介が終ると、ロケット台から白い旗が振られます。
龍勢発射台の櫓のオンベイ 正式にはオンベイといわれる幣束を振っているそうで、所謂神社などで振るあの段々の形のアレです。恐らく準備OKの合図なのでしょう。

そのオンベイの合図で口上が始まりです。当然「椋神社」の祭礼としての龍勢ですからこのあたりは流石に儀式で、「東西、東西・・・」から口上が始まり、「・・・椋の神社にご奉納」で口上が終ると、いよいよ龍勢に点火されます。
龍勢点火 しばらく狼煙のような煙が龍勢の櫓から沸きあがります。
まさにシャトル打ち上げの寸前の点火と一緒・・・のわけはありませんが、一気に期待が膨らみます。

5秒、否、1、2秒後に轟音と共に龍勢が発射されました。
龍勢発射 白い煙の筋を残しながら龍勢は一気に空へと登ります。まさに龍の如き天を駆け巡る・・・、と思わず言ってしまいそうな迫力と美しさを感じます。

何メートルくらい上がったのでしょうか、頂点で2段ロケットがあたかも点火したように、パラシュートが切り離されます。
これが背負い物なのでしょう。
龍勢背負いモノ 最初に見えた赤っぽいものは唐傘という覆いのようなもので、銀色のものがパラシュートのようです。

龍勢パラシュート パラシュートの下には何やら緑色の紐のようなものが垂れ下がっていて、ひらひらと舞い落ちる様は中々優雅なものです。

これで一連の龍勢の奉納が終了しますが、すでに発射台の櫓では次の龍勢が用意されているようです。
龍勢の準備

また、フェンス前の道路ではその次の龍勢でしょうか、担がれて発射台に向っています。こうして次から次と龍勢が奉納されていくのです。
龍勢の運搬

実に今日ほど天気になって良かったと思わざる日もそうないでしょう。

といっているうちに次の龍勢の発射が近づいてきたようです。
島田企業口上 次の奉納者は島田企業という今回初めて参加した(有)島田企業だそうで、流派は開祖昇雲流です。

オンベイ 同じ手順を踏んで発射台からの合図の後、龍勢が発射されます。

龍勢発射 龍勢パラシュート まっすぐな軌跡を残しながら空高く上り、青いパラシュートが舞い降りてきました。

近くで見ていた人曰く、結構発射に失敗するのも多いそうですが、ちょうど見た2発は成功だったようです。
龍勢の醍醐味をあっさりと堪能してしまいました。

椋神社

龍勢を楽しんだので、ここは何はおいても「椋神社」に参拝しないわけにはいかないでしょう。
椋神社の境内にはたくさんの屋台が並んでおいしそうな匂いが立ち込めています。
境内の屋台 空は快晴ですが、ドロドロにぬかるんだ道だけが朝までの雨を思い出させます。

時間も早いので屋台での買い食いをじっと我慢して境内に入ると、さすがに祭りとあって大勢の参拝客でごった返しています。
屋台を抜けると神楽殿です。
神楽殿での神楽 ちょうど井上神楽なる舞が奉納されているところです。
内容は良く判りませんが、何でも200年近い歴史をもっている保存会だそうです。

神楽殿の先が参道です。

古そうな木製の鳥居の先の参道に大きな幟が2本立っていて、祭りの高揚感を醸し出しています。
椋神社鳥居 椋神社の幟

龍勢の社 参道を挟んで神楽殿と反対側には古い社があり、龍勢が掲げられていて、他に多くの奉納額などがありますから、龍勢に関係する社なのでしょうか。

参道を進んで拝殿でまずは参拝です。
椋神社拝殿

拝殿での祝詞 拝殿の中には氏子の方たちでしょうか、大勢上がられていて祝詞をうけているようです。

拝殿は渋い紅色で、そこはかとない華麗さと歴史の重みを知る荘厳さを兼ね備えています。
根本的に秩父の社寺は歴史がありますからね。

そこで、この「椋神社」の由緒を確認しておきます。

延喜式内椋神社由緒
日本武尊当地赤柴にて道に迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根方の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる。これにより大勝を得られたので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創とする。鉾より光の出たところを光明馬(あかしば)という。
和銅3年:芦田宿禰守社殿を造営したのが始まりという。
貞観13年:従五位を賜る。
延喜年間:延喜式神明帳に秩父郡二座、秩父神社・椋神社(国幣小社)と誌される。
天正3年:戦国時代の兵火を受けて焼失した社殿を鉢形城主北条氏邦によって再建。祭具、木魚二本と共に氏邦着用の筋兜を奉納される。
慶長9年:江戸城築城の用材として境内の欅の大木36本を送る。椋神社神主、神田明神の鍵番を徳川家康に仰せつかる。
明治6年:椋神社、村社に列せられる。
明治9年:吉田東、西、阿熊学校を統合し境内に校舎建設、椋宮学校とする。
明治15年:椋神社、県社に昇格する。
明治17年:秩父事件勃発、椋神社に困民党集結す。』(「龍勢祭り」オフィシャルパンフレットより)

こちらも神話の世界は別としても延喜式内ですから、由緒正しきことは間違いないところですが、以前、【鉢形城跡と寄居北條まつり】で訪れた北条氏邦に縁があるとは、何ともプチ感動的でもあります。
その筋兜とは、鉢の縦筋33本の間に、金銀の象嵌で30番神が刻まれている芸術的価値の高いもので、県指定の有形文化財となっているそうです。
また、本殿は元亀年間(1570年頃)の武田軍の侵攻で焼失したのですが、天正3(1575)年北条氏邦によって再建され、その後寛永4(1627)年の江戸時代に修復されたものだそうです。
椋神社本殿 綺麗な彩色と高い技術が窺えるようで、市指定の文化財となっています。

実際には木々に覆われていてよく見ることができませんが・・・。

社殿の隣には「八幡神社旧本殿」なる建物があります。
旧八幡神社本殿 旧本殿を更に屋根で覆っている建物です。

この八幡神社とは、治承4(1180)年に畠山重忠が鶴窪八幡宮を祀ったのが始まりとされていて、延宝年間(1673年頃)に造られたといわれている社殿は、大正初年まで現在の吉田小学校校庭(ちょうど今日駐車した駐車場の吉田川を挟んだ先の辺り)にあったそうです。そして大正7年に椋神社に合祀されてこの境内に移築されたのです。こちらも市指定の文化財のです。
旧八幡神社本殿の彫刻 彫刻がかなり施されていて、往時を偲ばせるような彩色の名残が若干残っています。
復元すれば相当も見ごたえのあるものとなるでしょうね。

因みにこの八幡神社の拝殿は、現在椋神社の拝殿として使われているそうです。
改めてみれば椋神社の拝殿にも同じ彫刻が施されているのが判ります。

ちょうど龍勢が打ち上げられたときで、椋神社の境内からも打ち上げが見られました。
椋神社からの龍勢 椋神社から見る龍勢が正調の見方かもしれませんね。

参拝も済ませて参道に戻る途中の境内の脇に何と懐かしのエイトマンの人形が鎮座しています。
奉納エイタマン

恐らく40代後半から50代以上でないと知らないキャラで、桑田次郎の漫画というよりは丸美屋のふりかけ、のりたまのキャラといった方が有名でしょうか、いずれにしても何で今時とも思える大胆な人形です。
「奉納 平成22年 走れエイタマン 桜井小坂下耕地」とありますので、龍勢祭りの奉納品なのですね。当然エイタマンとなっているのは著作権の問題を意識したからでしょう。
ちょっと懐かしのキャラでした。

こうして椋神社の参拝は済ませましたが、本書の説明にもある通り、この椋神社は龍勢祭りとともに秩父事件としての側面をもっています。
そこで、その秩父事件に関連するものがあるらしいので、場所を訪ねて移動します。境内の一角にそれはありました。
「秩父事件蜂起集結の地」と刻まれた碑とともに、案内板が掲げられています。
「秩父事件蜂起集結の地」標柱

案内板は秩父事件関係略図とあり、当時の事件の経過が絵と地図で説明されています。

ブロンズ像 更にその隣にはブロンズ像と石碑が立てられています。

秩父事件百年の碑
秩父困民党三千余名の農民が武州秩父郡下吉田村椋神社の境内に武装蜂起したのは、明治17年(1884年)11月1日のことである。
その要求は負債据置年賦償還、村費軽減、小学校休校、雑収税減免の他徴兵令改正等であった。困民党は自らの体勢を軍隊組織に編成し、私利、私恨、女犯への軍律は特に厳しかった。
困民党軍は2日大宮郷に進出、革命本部を設け秩父盆地一帯を掌中におさめた。驚いた政府は急遽憲兵鎮台兵を派兵、その襲撃の中で困民党軍は9日信州八ケ岳山麓で潰滅するまで、果敢なたたかいを展開したのである。
このたたかいの中で農民の意識はさらに昂揚し、圧制を変じて良政に改め自由の世界を出現させる信念は、益々強化されていった。自由民権期の変革思想が大地で斧や鍬を振るう人々を、必死の行動にかりたてるエネルギーとなったのである。
秩父事件より100年、自由と民主主義が愈々重きをなす今日、私たちは、この運動の源流としての秩父事件を切に思う。
茲に、父組たちの鎮魂と共に事績を顕らかにしその遺産を継承すべく記念碑を建て、自由への狼火が、わが秩父谷にあげられた証としたい。
  昭和59 (1984) 年11月1日
秩父事件百周年吉田町記念事業推進委員会・秩父事件顕彰運動実行委員会 』(現地石碑碑文より)

秩父事件を詳しくは知りませんが、単なる農民一揆ではなく自由民権運動と結びついたことから歴史における重要な出来事となったように思えます。
現在では120年以上経過しているので、当然リアル世代はいないわけですから、徐々にこのような顕彰碑などが、その時代の証人となっていくのでしょう。
「龍勢祭り」を堪能し「椋神社」の参拝を済ませて、次は道の駅に向います。

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