浦和北公園

ちょっとした興奮と、久しぶりに使った頭を休めるために、美術館の裏手にある公園を散歩します。
さすがにこの公園は広く、洋風公園と和風公園の二つもあることが非常にうらやましい公園です。

カイノキ

直ぐ目の前に池を中心とした和風の庭園がしつらえてあります。
水と石と木々の緑、そして黄色の花がアクセントとなった落ち着いた庭園です。
和風公園 和風公園 和風公園
この花は黄菖蒲だそうで、5月上旬から中旬に咲くアヤメ科の花で、非常に目立つ黄色の花が特徴なのだそうです。そろそろアヤメの季節なんですねえ。
西の方角に、丁度美術館の裏手にあたるところですが、「楷楓亭」と名付けられた建物があります。
楷楓亭
これは60歳以上であれば無料で使用できる談話室で、将棋や囲碁の同好会などに利用できるのだそうです。
更にその西方にはテニスコートがあるのですが、その手前に大きな樹木があります。
カイノキ

浦和市指定天然記念物 カイノキ
指定年月日:昭和48年4月11日
目通り幹まわり:1.69メートル、根まわり1.85メートル、高さ約16メートル、枝張り北へ8.3メートル、東へ10.0メートル、南へ8.6メートル、西へ9.7メートル
カイノキ(楷樹)は、中国原産のウルシ科の落葉高木で、雌雄異株の樹木である。この木は、大正14年に旧制浦和高校の漢文科の教授が中国出向のとき、曲阜の孔子廟を訪れ、墓上を覆っている大楷樹の種子を数個拾い、帰国後、播種、育苗し、記念に生物教室に寄贈し、教室前の植物園内に植え、以降大切に育ててきたものです。現在、なお、順調な発育を続けています。
わが国ににカイノキが入ったのは、白沢保美林学博士が大正4年に、中国出張の折、孔子廟で拾った種子を持ち帰り、播種、育苗し、儒教にゆかりのある場所に配布したのが最初で、それらは、岡山県の閑谷学校(特別史跡)などに現存していますが、わが国ではごく稀にしか見ることができない珍しい樹木です。
この土地は、大正10年に浦和高等学校(旧制)が置かれたところであり、このカイノキは、同校の歴史を語る記念樹としても貴重な樹木といえます。
昭和63年2月 浦和市教育委員会
(現地案内板より)

栃木県南部のグルメと歴史散策】で、足利学校を訪れた際に楷樹がありましたが、そこでは“ナンバンハゼ”と呼んでいました。
更に亀戸天神では、白沢博士が育てた苗は、湯島聖堂3本(雄)、足利学校1本、閑谷学校2本(雌)、多久聖廟1本(雄)という儒教に関係する施設に寄贈されたのは最初であることを知りました。
最初の木ではないにしても貴重な樹木であることには変らないわけです。
カイノキ
身近にあったことに少々驚いていますが、旧制浦和高校が大正7(1919)年創立ですから、ほぼ学校と同じ歴史を歩んできたといっても過言ではないでしょう。

彫刻「道標」

カイノキの隣には男性の銅像が立っています。
彫刻「道標」
よくよく見れば学生のようで、これもまた旧制浦和高校を偲んで建立された「道標」という彫刻で、美術館前の屋外彫刻にあった鴉と鳩の作者と同じ柳原義達の作品です。

建立趣意
この地はわれらの魂のふるさと、旧制浦和高等学校のあったところである。
同校50周年の記念日にあたり、われらの青春多感の三星霜を追懐し、はるかなる未来に向って、心からの賛歌を捧げ、このモニュメントをつくる。
昭和47年11月12日 旧制浦和高等学校同窓会
(現地趣意書より)

よほど良い時代だったことが偲ばれる趣意ですが、彫刻の前にも碑文が刻まれています。

われ等青春の三年を ここ この土地で送る 三年の日日は決して長い期間ではない
しかし生涯とし難い三年であったことは間違いない
遊びもした 学びもした また考えもした
その時の思索 その時はぐくみ 築いた志 それは今日も渝わらない
いま追懐するのは あの三年 そしてこの土地
最早往時の姿は消え失せている 歴史とはそんなものかもしれないが 心に刻んだ歴史は消えるものではない
思い出すよすがに碑を建てて青春の歴史の記念にしたい
(現地彫刻碑文より)

このサイトのコピーにしたいくらいの名碑文です。
最後の“記念”という漢字には「かたみ」というルビが振られている所が一ひねりといった感じです。
この碑文は小説家で評論家、そして初代文化庁長官を務めた「今 日出海」によるもので、当然、旧制浦和高校卒業生です。ピンと来ない方も多いと思いますが、三人兄弟の末っ子で、長兄が小説家で天台宗僧侶の“今東光”といえば何となくわかる方もいるでしょう。
さてこの彫刻は旧制浦和高校生の姿を現しているのですが、高ゲタ、マント姿というのは、この当時の学生のトレンドファッションで“バンカラ”というファッションです。
彫刻「道標」
もう現在“バンカラ”という言葉自体聞くことも殆どなくなりましたが、個人的には最後に聞いた“バンカラ”とうワードは、ムッシュかまやつが歌ったあの「我が良き友よ」だったと記憶しています。
この“バンカラ”とは、明治期にあって当時西洋風の身なりや生活様式を真似た“ハイカラ”をもじったワードなのです。粗野や野蛮をハイカラに対するアンチテーゼとして創出されたもので、一般的には言動が荒々しいさま、また、あえてそのように振舞う人のことをいうのだそうです。それゆえにこの彫刻もかなりの迫力を持っているということになるのです。
美術館の屋外彫刻の中にも鴉と鳩の彫刻が同窓会より寄贈されていましたが、カイノキ、そしてバンカラ学生の彫刻と、この地に寄せる卒業生達の熱い心を感じずにはいられませんでした。

旧制浦和高等学校跡

ここからは日本庭園を再び通って東方向から北浦和駅方向に戻りますが、公園の出口付近に閑静な和風建造物が立っています。
和風公園 浦和伝統文化館 恭慶館
「浦和伝統文化館 恭慶館」といい、さいたま市文化振興事業団が運営している施設のひとつで、茶室や和室があり市民が利用できるのだそうです。
したがって建物自体は特に歴史があるものではないのですが、その名称にちょっとした由来があるようです。
この公園から1kmほど南下した現在さいたま市立仲町公民館がある場所に、かつて1916(大正5)年に100畳の和室を持つ旧浦和市公会堂があったのです。そして、この公会堂の愛称を当時の資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一が「恭慶館」と命名したのだそうです。 そこで、今はなき旧浦和市公会堂の愛称「恭慶館」をこの施設に遺し、伝統文化館として親しまれるよう名称を引き継いだのだそうです。
浦和伝統文化館 恭慶館 浦和伝統文化館 恭慶館
落ち着いた佇まいが、和風公園と相まって一段と“和”のよさを醸し出しています。

そしてこの先にこの公園の門があるのですが、その門も和風でなかなか凝った演出です。
浦和北公園
ここから公園を出て北浦和駅に戻りますが、よくよく見ればこの門には「浦和北公園」と記載されています。
確か最初に北浦和駅から入ったときは「北浦和公園」となっていたのですが、要するにどちらでも良いということなのでしょうか。 確認してみると、実は全く違う公園だったようです。
そもそも入園したところの案内板にあったのですが、美術館から下が「北浦和公園」で、上が「浦和北公園」となっています。要するに洋風庭園が北浦和で、和風庭園が浦和北ということです。
で、何が違うかといえば「北浦和公園」が埼玉県立公園で、「浦和北公園」がさいたま市立公園ということで、管轄が違うということなのです。
理由はわかりませんが、かつてこの地にあった旧制浦和高等学校が昭和24年埼玉大学設置により、旧制浦和高校は文理学部に包括されたのです。その後、昭和44(1969)年に現在の下大久保キャンパスに移転したため、跡地に(旧浦和)市立浦和北公園が老人を対象とした“老人公園”として昭和47年に開園し、翌々年の昭和49年に埼玉県立北浦和公園が開園したのです。
どのような理由で、県と市で分け合ったのかは判りませんが、市立の“和”が先にあったことから、県立の“洋”となったのかもしれません。
いずれにしても、老人用だからこそ楷楓亭や恭慶館をはじめ、“和”のテイストの公園となったのでしょう。 ややこしいながらも、何となくスッキリしたような感じです。
ここから北上して最初の北浦和駅入口交差点に戻りますが、10mも進んだところに先ほどの浦和北公園の和風門とは違った趣の門があります。
旧制浦和高等学校正門

旧制浦和高等学校正門
旧制浦和高等学校は大正10年11月8日第20番目の官立高等学校として創設され、昭和22年4月の学制改革により昭和25年3月最後の卒業生(第26回生)を送り出して閉校、その光輝ある28年間の歴史の幕を降ろした。
その間5,418名の卒業生を世に送ったが、それら有為の青年は学術、文化、政治、経済などの各分野のリーダーとして活躍し戦後日本の復興と繁栄に貢献してきた。
埼玉県並びに浦和市は同校の跡地を公園として整備し、県民の憩の場として提供したこの門は旧制浦和高等学校の正門で同校の姿を今に伝える唯一の構造物である。
昭和62年11月15日 旧制浦和高等学校同窓会
(現地案内板より)

意外と小さい門ですが、歴史と誇りに満ちた正門ということでしょう。
旧制浦和高等学校正門
やはり、この公園は旧制浦高の熱い血が、いまだにたぎっているのかもしれません。

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