FC2ブログ


小塚原と呼ばれた地

JR日暮里駅から常磐線に乗り換えて2駅で「南千住駅」に到着です。
南千住駅 南千住駅
意外と質素な駅で、駅ビルといったものもなく、駅前ロータリーもそれほど賑々しくはありません。
早速、ここからはまず「小塚原刑場跡」を中心としたエリアに向います。

泪橋

駅前の道を南下するのですが、既に目的地の一つである「回向院」を見ることができます。
回向院方面
ここでは、道路を渡らずにそのまま左折し、「南千住駅前歩道橋」を渡ります。
南千住歩道橋
わざわざここに来るのは、この歩道橋からの眺めがビューポイントといわれているからです。
JR貨物隅田川駅
ここは「JR貨物隅田川駅」のある貨物線ヤードなのですが、見事な引込み線に文字通り引き込まれそうな光景にプチ感動すら覚えます。
最も男のロマンを感じられない方は「だから何~」のご評価をいただけること請け合いです。
感じる人だけ感じましょう(汗)

歩道橋を渡りきって更に先に進みます。
泪橋方面
ちょっと雰囲気の良さそうな店を過ぎて右手に『思川と涙橋』案内板があります。
街の風景 『思川と涙橋』
案内板には江戸名所図会の「思河橋場渡」の挿絵が掲出されています。
江戸名所図会
殆ど見える状態では無いので特にカラー版で見ると、恐らく手前に左右に流れているのが隅田川で、そこから中央に上下に流れているのが思川だと思われます。
とすると挿絵の上の方向が小塚原ということになるのでしょうか。 いずれにしても江戸時代には悲しい歴史を背負った川だったということでしょう。
そしてこの先に見える交差点が「泪橋」です。
泪橋交差点 泪橋交差点
左右に走っているのが明治通りで、角にはちょっとキッチュな建物があり、通りの先にはスカイツリーを見ることもできます。
ちょうどこの明治通りが区境で、ここから南側が台東区になります。

由来にもあった「泪橋」ですが、昭和30~50年世代にとってはやはり漫画「あしたのジョー」の強烈なイメージが残っているのではないでしょうか。
漫画では泪橋の下に丹下段平がジムを構えていたという設定で、史実とは違い実際に川が流れその上に橋が架かっている光景が表されていました。
「あしたのジョー」のセットの写真 《実写版「あしたのジョー」のセットの写真:(C)したまち雑学散歩道》
このようなイメージは皆無ですが、何となくあってもおかしくないと考えられるのが、この「泪橋」が“ドヤ街”というイメージをも持っていることも否定できないでしょう。

“ドヤ”とは「宿(ヤド)」の逆さ言葉で、日雇い労働者が多く住む街で、簡易宿泊所が多く立ち並んでいたことからこう呼ばれたのです。 もともとこのあたりは日光街道の最初の宿場・千住宿のはずれで、江戸時代から食事を提供しない木賃宿が集る地域であったのが、明治初期になり吉原遊郭の客を送迎する車夫などが利用し、戦前は多くの貧困者や労働者が居住し、戦後になると東京都により被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意されたという歴史を持っています。
このテント村が本建築の簡易宿泊施設と変化し、昭和30年~40年の高度成長時代となると労働需要の高まりとともに、大阪のあいりん地区とともに日本有数のドヤ街となっていったのです。 1961年には簡易旅館が約300軒、労働者約20,000人が集まっていたということですから、その光景は一種独特なものがあったのでしょう。かつては「山谷」という地名でしたが、現在の住居表示では消滅しています。
このようなネガティブなイメージが付きまとっていた“山谷”のドヤ街ですが、決してスラム街では無く、日雇い労働者のドヤに占められていたわけでもなく、中産階級の住宅も存在していた普通の街であることも大きな特徴で、単に“ドヤ街”=スラム・貧困という街ではない事を知っておかないといけないでしょう、誤解のない様に。
このあたりをまた、丹念に散策するとまた興味深い光景に出会えるのでしょうが、ここは時間の都合で元に戻ります。

こちらのサイトでその現在の状況が垣間見られます。
参考:【東京DEEP案内】-ドヤ街「山谷」の歩き方- http://tokyodeep.info/2010/11/17/162031.html
南千住の一端を垣間見て、最初の歴史と文化に触れられました。

延命寺

再び南千住駅前歩道橋を渡って戻るのですが、途中にはこんな喫茶店もありました。
街の風景 今やスタバやドトールなどのカフェが主流ですが、昭和の50年代くらいまではこの「純喫茶」というネーミングが町中溢れていました。これも昭和の遺産かもしれません。

歩道橋を渡った左手が「延命寺」です。
延命寺
山門からすでに現代的な寺院であるのが見て取れますが、本堂もまた近代的な建造物になっています。
延命寺
そして本堂に横にあるのが文化財の「首切地蔵」といわれる大きな地蔵尊が・・・、無く、むなしく文化財の存在を示す『小塚原刑場跡』の案内板だけが遺されていました。
延命寺首切地蔵 『小塚原刑場跡』
ここが小塚原の刑場跡で、それを弔うために「首切地蔵」が建立されたようですが、それにしてもストレートなネーミングです。
しかし、現在は空席ということで、前にある『「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い』の案内板を確認します。
『「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い』 『「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い』
「何と言うことでしょう~」と思わずサザエさんの声で言ってしまうような事態です。 で、その当時の写真が同じように掲出されています。
延命地蔵尊
な、なるほど体がずれているではないですか。これでは“首切り”ではなく“腹切り”になってしまっています。
ではその現在のお姿といえばこちらで、確かに、ひ、左手が切断されています。
延命地蔵尊
3.11の爪痕は現在東京でも残っているということで、本来鎮座していれば高さ約4メートルの地蔵尊です。
「延命地蔵尊」であったことからこの寺院が延命寺と名付けられたそうで、元々は先のJR貨物隅田川駅の貨物ヤードの南側にあったそうですが、鉄道敷設工事の際に移されたそうです。
早く復旧されて、江戸時代の弔いとともに、3.11で被害にあわれた方々の冥福も祈ってくれることを願います。

回向院

延命寺から1、2分も北上すると「回向院」があります。
回向院 回向院回向院
ここも近代的な寺院となっていますが、案内板『回向院』によれば、その歴史はやはり小塚原刑場に由来していることがわかります。
『回向院』
境内に入るとまず現れたのが、案内板にあった「解体新書」の扉と、『蘭学を生んだ解体の記念に』にという碑文です。
解体新書 解体新書 『蘭学を生んだ解体の記念に』
「腑分け」とは現在で言うところの解剖ですが、杉田玄白や前野良沢が執刀したわけではなく、実際に腑分けをしたのは穢多の虎松(差別用語ですが史実として使用しています)が行っていたのだそうです。
これは幕府からの禁止令というよりは死体に対する“穢れ”の思想からとも言われているようで、初めて知った興味深い事象です。

更に境内の奥に入ると墓地が2つに分かれています。
歴史コーナー
何と左側が一般の方の墓地で、右側が歴史的に有名な人の墓地エリアとなっていて、ただの見物に来た人は右側だけですよ、ということのようです。
ここには『小塚原刑場址』についての説明があります。
『小塚原刑場址』
ここで改めて小塚原刑場とその周辺の関連性を確認しておきます。

小塚原刑場は江戸時代から明治初期まで存在した処刑場で、江戸時代にはそれぞれ江戸の入口に存在していた「大和田刑場」(八王子)と「鈴ヶ森刑場」(品川区)とともに江戸3大刑場といわれていたところです。
1651(慶安4)年に創設され、死体は丁寧に埋葬されずに申し訳程度に土を被せるくらいだったそうなので、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったそうです。そのためこのあたりは「骨(コツ)が原」とも呼ばれていたのです。
そしてこの案内板にある様に刑死者を埋葬する墓地として1667(寛文7)年に常行堂が創建され、それが現在の南千住回向院となったのです。しかし、その後常磐線建設の際に線路が敷地中央を通過したため分断され、その際、線路の南側は延命地蔵尊に因んで延命寺として独立したことから刑場跡は延命寺寺域となり死者を弔い、重要な処刑者達の墓が回向院に残っているということになったのです。
“泪橋”で最後の別れをして、現在の“延命寺”である小塚原刑場で処刑され、“回向院”に埋葬・供養されるという、まさに3つがワンセットとして小塚原刑場の名残を留めているのです。

そしてその有名人の墓所がこちらで、案内板に記載された方の墓石です。
歴史墓地

磯部浅一・妻、登美子の墓 磯部浅一・妻、登美子の墓
磯部浅一は日本の陸軍軍人で陸軍一等主計になったのですが、後の二・二六事件に関与して1937(昭和12)年銃殺に処された軍人です。特に獄中で執筆した「獄中日記」が有名で、当時の昭和天皇に言及している文もあるそうで、後の三島由紀夫にも影響を与えたそうです。
因みにこの二・二六事件の慰霊碑が渋谷区宇田川町にあるのですが、これは青年将校・民間人17名の処刑場が旧東京陸軍刑務所だったことから、その敷地跡地に建立されたものです。
そして17名の遺体はそれぞれ郷里に引き取られたのですが、磯部浅一だけは本人の遺志によりここ回向院に葬られたのだそうです。何か思うところがあったのでしょうかね。

相馬大作供養碑 相馬大作供養碑
「相馬大作」とは、1821(文政4)年に参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた弘前藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件の首謀者である下斗米秀之進のことです。
暗殺に失敗したことから、別名「相馬大作」として江戸に逃亡し、密告により捕らえられ小塚原刑場で処刑されたのだそうです。

高橋お伝の墓 高橋お伝の墓
この高橋お伝については【「谷中七福神」彷徨】の谷中霊園にその碑がありましたので、その存在は既に知っていました。
日本三大毒婦とまで言われたお伝は、明治12年、市ヶ谷監獄にて死刑執行されたのですが、どのような経緯でここ回向院に埋葬されたのかは不明です。

鼠小僧の墓 鼠小僧の墓
言わずと知れた「鼠小僧次郎吉」の墓です。江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、処刑は小塚原刑場で行われました。
なお、本来の墓は両国の回向院にあるのだそうですが、この南千住回向院をはじめ愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも義賊に恩義を受けた人々が建てたと伝えられる墓があるのだそうです。

高橋お伝と鼠小僧の墓は、実際には4つの墓石が一体となっている中にあり、一番右手には妙な形の墓石があります。
ヒール4人組
腕の喜三郎の墓 これは「腕の喜三郎の墓」で、腕の喜三郎は江戸時代の侠客だったそうです。
寛文年間の頃、野出の喜三郎と称する五人力の侠客がケンカをし、相手を相当痛めつけたのですが、自分も片腕を切り落とさんばかりに切られたのに悠然と帰宅し、片腕が見苦しいからといって子分に鋸で切り落とさせたという伝説の持ち主で、“野出”から“腕”に改名し世間に知られるようになったそうです。

イメージ的に世間ではヒールといった達の墓のようですが、そうなるともう一つの墓石にも興味が引かれます。
片岡直次郎 最後の墓石は「片岡直次郎」という人の墓で、俗名直侍と刻まれています。
この片岡直次郎は江戸後期の小悪党で、通称を直侍といったのだそうです。河内山宗俊と共に悪事を働き入獄したのですが1824(文政7)年追放となるも、再びゆすりたかりを行ったため召し捕られ、江戸千住小塚原で処刑されたのです。そして墓は買いなじみの遊女三千歳が死骸を引き取って回向院に埋葬したのだそうです。

このようにヒール4人組という感じですが、よくよく調べてみると面白い関連があったのです。
それは死後の扱いにあるのです。
高橋お伝は、河竹黙阿弥作『綴合於伝仮名書』による歌舞伎として人気を博し、鼠小僧もまた二代目河竹新七(黙阿弥)作の『鼠小紋東君新形』(通称『鼠小僧』)の歌舞伎で人気を取ったのです。 更に、腕の喜三郎もまた河竹黙阿弥作『茲江戸小腕達引』として歌舞伎化され、片岡直次郎も河竹黙阿弥作『天衣紛上野初花』として歌舞伎上演されているのです。
要するに悪役なれど小悪党・小悪魔的な存在で、どことなく憎めないヒール、まさに“ブッチャー”(!?)的存在の方々なのです。 それ故に一括りにしてあるのかもしれません。
因みに作者の河竹黙阿弥については、【〝墨田区梅見街歩きツアー〟彷徨】で詳しく調べましたので、そちらを参照してください。

奥には「橋本左内の墓」があります。
橋本左内の墓 橋本左内の墓
立派な堂宇のある墓です。
こちらも説明することもないくらい著名で、幕末期の武士で開国派として危険視され、安政の大獄により小塚原刑場で斬首となったのです。
手前にある大きな記念碑は「景岳橋本君碑」といわれるもので、墓所とともに荒川区登録有形文化財となっています。
景岳橋本君碑

墓地の左手に進むと「頼三樹三郎の墓」があります。
頼三樹三郎の墓
著名な幕末期の儒学者で、父はあの「日本外史」で有名な儒学者・頼山陽です。こちらも安政の大獄で処刑された一人です。

そしてこの墓所最大のスターがこちらの「吉田松陰の墓」です。
吉田松陰の墓 吉田松陰の墓
まさに明治維新の精神的指導者といって良いほどの著名人です。当然、安政の大獄で処刑されてこの地に葬られたのですが、1863(文久3)年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改葬され、明治期にその地に松蔭神社が建立され現在に至っているわけなのです。要するに仏から神となったわけです。
したがって、現在の回向院の墓地は当時の墓石が残っているだけという文化財なのです。

帰りがけに、来たときには気が付かなかった地蔵尊が山門の横にありました。
吉展地蔵尊
「吉展地蔵尊」というもので、1963年に起きた戦後の代表的な誘拐事件である通称「吉展ちゃん事件」の犠牲者、村越吉展ちゃんを供養するために建てられた地蔵尊です。
これについてはまた後ほど紐解くことにしましょう。
このように様々な歴史を彩った人たちが眠っている歴史・文化を知ることのできる回向院なのです。

関連記事
スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks