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江戸の遊郭に思いを馳せる

回向院を後にして、ここからは常磐線に沿って西に向います。
途中交差点の角に「麻布十番総本店直系 浪花家 たいやき・小倉アイス」という看板を見つけましたが、まだ朝も早いことから開いているわけはありません。
麻布十番総本店直系 浪花家 たいやき・小倉アイス 麻布十番総本店直系 浪花家 たいやき・小倉アイス
ちょっとそそられましたがね。

浄閑寺

この交差点を右折して進むと左手に「浄閑寺」があります。
門前に『投込寺(浄閑寺)』の案内板があります。
浄閑寺 『投込寺(浄閑寺)』
由来にある通り、この過去帳は区指定の文化財になっていて、18歳~20代前半の遊女の名前が約20,000人記載されていたそうですから、大地震の被害の大きさもさることながら、その遊女の数もすごいものです。
小塚原刑場とはまた違った意味のディープさがあるようです。

境内に入ると左手にいくつかの石碑があるのですが、その中の一つに「新比翼塚」と刻まれた石碑があります。
新比翼塚
比翼塚とは、そもそも愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚のことで、有名な比翼塚の一つに目黒不動尊の比翼塚があります。
江戸時代の初め鳥取藩士の平井権八が、父親の同僚の本庄助太夫を殺害して江戸に逃亡し、吉原の遊女・小紫となじみとなり、金欲しさに浅草日本堤で辻斬り殺人強盗を繰り返したのです。
月日がたち、この権八も目黒不動尊の住職により改心させられ、自分の罪を悔い改め自首し鈴ヶ森で処刑されました。 権八が葬られた後、吉原から抜け出た小紫は権八の墓前で後追い心中をしたことから、これを哀れと思った人々によって目黒不動尊に比翼塚が建てられたのです。
この比翼塚に対して建てられたものであるから「新比翼塚」なのだそうです。
つまり、この新比翼塚は、吉原の遊女・盛紫と警視庁巡査として西南戦争で戦った経歴の内務省役人・谷豊栄が明治18年に起した二人の心中事件を祀った比翼塚で、江戸時代と比較するため“新”をつけたものだそうです。この時の心中も相手が役人ということもあって、大衆紙に連載されたり、芝居になったりして大きな話題となったのだそうで、これに共鳴したファンが建てた塚であろうといわれているのですが、建て主は不明だそうです。
このような男女の機微、そして吉原の遊女に関連する「比翼塚」が、荷風がこの寺を訪れるようになったきっかけとも言われているのです。

正面が本堂でかなり立派な建造物です。
本堂
本堂の横が墓地になっていて、その中央辺りに「首洗い井戸」なる古井戸らしきものがあります。
首洗い井戸
単なる伝説の井戸ということになるのですが、意外と先の比翼塚につながる井戸だったのです。
ちょっとした遺恨で本庄助太夫を切った先の比翼塚の主人公・平井権八(歌舞伎では白井権八)が鳥取藩から江戸に逃亡した後、本庄助太夫の遺子である助七・助八兄弟は権八の後を追って江戸に出て、箕輪(三ノ輪)に家を借り権八を探すのでした。しかし、1660(万治3)年、逆に権八に知れてしまい、兄助七は吉原田圃で殺されてしまいます。弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを、無残にも権八に襲われ討ち果たされてしまたっという、これもなかなか悲しい話なのです。
まあ、江戸時代の仇討ちは合法ではありながら、意外と返り討ちにあうのも結構多かったことのようなので、ありえない話ではないのですが、妙なところで話がつながっていたものです。

墓地内を移動します。
ちょうど本堂の裏手にあたるあたりに「新吉原総霊塔」がありました。
新吉原総霊塔 新吉原総霊塔
そもそも何故ここが“投込寺”といわれることになったのかといえば、ズバリ・・・、吉原から近かったからです。
浄閑寺草創2年後の1657(明暦3)年に江戸府内の大半を焼き尽くした有名な明暦の大火があり、この大火後、幕府は大規模な区画整理を行い、その際、従来日本橋葭町(現在の人形町の北側)にあった公認遊郭を、浅草田圃に移して新吉原と称したのです。これが新吉原の始まりで、浄閑寺の近くとなった理由でもあるのです。
当時の絵図でその距離感がわかります。
地図
このような理由から、後に遊女を供養した“投込寺”と呼ばれ、“新吉原”と名の付いた慰霊塔が建立されたのです。
その川柳が台座に刻まれているのです。
川柳
新吉原の開業から廃業まで、江戸から昭和までの新吉原をずっと支えてきたのが浄閑寺だったといえるかもしれません。

新吉原総霊塔の反対側に「荷風花畳型筆塚」があります。
荷風花畳型筆塚 荷風花畳型筆塚
あくまで記念碑でお墓ではありません。
先の比翼塚をきっかけに、遊女等の姿、生き方に魅せられた永井荷風は、たびたびこの寺を訪れていることを、死の前日まで書き綴った日記『断腸亭日乗』に記載しています。
特にその中でも昭和12年6月22日に「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」と記しているそうです。残念ながらその願いは叶わず【雑司ヶ谷七福神 彷徨】で訪れた雑司ヶ谷霊園に眠っているのです。

荷風の筆塚の隣には「ひまわり塚」が立っており、『ひまわり地蔵尊』の案内板があります。
ひまわり塚 ひまわり地蔵尊 『ひまわり地蔵尊』
かつての「ひまわり娘」のように明るく楽しげに微笑んでいる地蔵尊が印象的なのですが、物悲しく見えてしまうのはその由来ゆえでしょうかね。

そしてもう一つ遊女に関連した墓石がこちらの「若柴之墓」です。
若柴之墓
若柴という遊女は5日後に待望であった年期明けを控えて、所帯を持つことになっていたのですが、たまたま酔っ払い客の凶刃にあって殺されてしまったのです。それを哀れんで建立されたのがこの墓所で、現在でも新吉原総霊塔とともに、花が手向けられているのだそうです。
この墓の裏には次のような文が刻まれているのだそうです。

若柴塚記
女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。若柴は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老桜に身を沈む。桜内一の遊妓にて姿も人も優にやさしく全盛双びなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにもまた悼ましし。そが亡骸をこの地に埋む。法名紫雲清蓮真女といふ。ここに有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み若柴塚と名づけ永く後世を弔ふことと為しぬ。噫。
明治三十六年十月十一日 七七正当之日
(現地墓石文より)

このことも荷風の『断腸亭日乗』には「・・・門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若柴之墓あり。碑背の文に曰ふ。・・・」と記載されているのだそうです。
まさに新吉原の歴史と荷風の足跡を知ることのできる浄閑寺なのでした。

浄閑寺門前の先に『音無川と日本堤』という案内板があります。
『音無川と日本堤』
まさに、この日本堤が新吉原から浄閑寺へ遊女たちの遺体が運ばれていた経路なのです。
そして安藤広重の「日本堤」がこちらです。
安藤広重の「日本堤」
江戸の風情が溢れているといっても過言ではない風景です。
その日本堤の名残がこの三叉路の右側の通りのようですが、いまはその日本堤が無い変わりに、正面に新たなランドマークのスカイツリーを見ることができます。
現在の「日本堤」跡
時代が変わっても風情はいつの時代でも、その時代にあった景観を映し出してくれるようです。

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コメント

  1. keny72 | -

    興味深いです^^

    浄閑寺にようなお寺があるんですね。興味深いです。遊女というだけで蔑まされそうなものですが・・・

    南千住方面は滅多に行くことがないので、無理やりそちら方面の仕事を作ろうかなwww

    ( 10:36 )

  2. 薄荷脳70 | -

    Re: ありがとうございます

    keny72さんコメントありがとうございます。
    遊郭のあった各地に、これに近い寺院はあるのかもしれませんね。
    是非機会を作られて行かれて見てください・・・といっても確かに仕事中は難しいですよね^^

    ( 03:35 )

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