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都電のある風景と江戸の古刹

ここからは明治通りと交差する日光街道バイパスを北上します。
途中、このようなキャッチコピーのあるモデルルームがあるのももまた土地柄でしょう。
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でも、3年後に前にマンションができて見えなくなったらどうするのでしょうかね。

都電荒川線 三ノ輪橋駅

しばらく日光街道沿いを歩くと突然左手に妙な建物が現れます。
梅沢写真会館
「梅沢写真会館」というようで、その右手に怪しげな入口が見えます。
都電三ノ輪橋入口
ここが都電三ノ輪橋入口のようです。
写真会館というわりには。レトロでそれなりの陣容なので調べてみれば、この建物は元々都電荒川線の前身である「王子電気軌道」のオフィスがあったビルで、昭和2年に建設されたままの佇まいなのだそうです。
それ故に妙な感じがあったのですね。

怪しげな入口に行く前に『宗屋敷跡』の案内板があったことに気が付きました。
『宗屋敷跡』
このあたりは大名屋敷が多くあったところのようで、この日光街道を南下した大関横丁の交差点も黒羽藩主大関能登守の下屋敷があったことに由来しているそうです。
また、宗屋敷の西側に伊勢亀山藩主石川日向守屋敷、大関横丁の更に南に伊予国新谷藩主の加藤下屋敷、そして宗屋敷の東側に旗本3000石池田播磨守下屋敷があったのです。
したがって、小塚原や日本堤とはまた違った、いわば山の手エリアなのです。

怪しげな入口を抜けると、バラのアーチに彩られた「都電荒川線・三ノ輪橋」駅となります。
「都電荒川線・三ノ輪橋」駅 「都電荒川線・三ノ輪橋」駅
ここは都電荒川線の始発・終点地で、先にあったように王子電気軌道の駅として開業したのが始まりです。
駅の歴史を簡単に記載します。

1913年(大正2年)4月1日 - 王子電気軌道の駅として開業。
1942年(昭和17年)2月1日 - 王子電気軌道が東京市に買収され、既存の東京市電三ノ輪橋駅の一部になる。
1943年(昭和18年)10月1日 - 東京都制の施行に伴い、都電の駅となる。
1978年(昭和53年) - ワンマン運転に伴う改修工事を実施。これにより、従来対向式ホーム2本だった構造が、1本の線路の両側に乗降を分離したホームを備える形となる。同時にホームのかさ上げを実施。
1997年(平成9年) - 関東の駅百選に認定。認定理由は「春には見事なバラが咲き揃う都内唯一の都電が走る停留場」。
2007年(平成19年)5月26日 - 9000形の営業運転開始にあわせて全面リニューアルを行い、レトロ風の外観になる

面白いのはこの写真で見えるとおり、現在都電が停車しているホームが降車ホームで、左側のホームが乗車ホームで、降車と乗車ホームが少しばかり離れているという構図なのです。
「都電荒川線・三ノ輪橋」駅 「都電荒川線・三ノ輪橋」駅 「都電荒川線・三ノ輪橋」駅
駅も車体もカラフルで、とにかく都内で唯一残された都電ですから、これからもずっと残っていて欲しいものです。

ここからは一旦日光街道に戻り北上するので駅前にある「ジョイフル三ノ輪」商店街を抜けていきますが、今時では珍しい活気のある商店街です。
ジョイフル三ノ輪
商店街の店ではないのですが、こんなお店にもちょっとそそられますね。
店
恐らく開いていたら絶対買っていたでしょう。

公春院

ここからは日光街道を北上し、寺院3連発を巡ります。
最初の寺院が「公春院」で、門前に『公春院の松』という案内板です。
公春院 『公春院の松』
間口が狭いのが下町風情でしょうか。門扉の葵紋が証拠の松のおかげなのかもしれません。
葵紋
そして参道を進むと境内はぐっと広くなっています。
この佇まいは中々のもので、証拠の松が無くても次世代の松が育ち始めているようです。
本堂 手水舎
右手にあるのがその手水舎ですが、まあ、偶然撮っていたいたということで・・・
因みにこの公春院は鬼平犯科帳に登場しています。
盗賊を発見した鬼平の息子辰蔵が、「それから日本橋をわたり、神田から上野へ、車坂をぬけて、下谷の通り新町にある公春院という寺の近くの小ぢんまりとした家へ入りました。そこに住んでいることはたしかです。」と鬼平に報告しているのです。
やはり鬼平の舞台にはうってつけの風情なのでしょう。

風情といえば公春院を後にして再び日光街道を北上すると、何とも香ばしい良い香りに出会います。
どうです、うなぎの蒲焼です。今時炭火でしかも露店で焼いているなど実に風情ある光景でしょう。
うなぎ うなぎ
今年は特にシラスウバギの不漁でウナギが高騰しているようですが、なんとか庶民でも食べられるようにはしてもらいたいものです。
もうすぐ源内先生の名キャッチコピーの丑の日がやってくるのですから。

真正寺

ウナギの蒲焼の香りに後引かれながら、次に訪れたのが「真正寺」です。ここにも『真正寺門前町』の案内板です。
真正寺 『真正寺門前町』
こちらもまた山門の間口は狭いのですが、境内は結構広いです。
真正寺
それにしても唯一の門前町というのも珍しいかもしれませんね。やはり浅草から移転してきたというところがミソでしょうか。

円通寺

日光街道寺院巡り3連発の最後が「円通寺」です。
ここの山門はかなり広く、右手に『百観音円通寺は東都の古刹にして』という縁起が記載されています。
円通寺 『百観音円通寺は東都の古刹にして』
という事で、かなり歴史的な見所が満載の寺院のようですが、特に「小塚原」の由来となったことは興味深いですね。
早速、境内を進みますと、左手に門のようなものが立っています。
黒門
これが「黒門」なのでしょう。 確かによくよく見れば銃弾の址を沢山見ることができます。
黒門
この銃弾跡が「上野戦争」と呼ばれている戦いの傷跡なのです。

1868年7月4日、大村益次郎が指揮する政府軍が寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、総攻撃を行うも午前中は彰義隊の抵抗で政府軍は撃退されました。 しかし、正午からのアームストロング砲による砲撃が効きはじめ、午後には政府軍は優勢に戦闘を進め、1日で彰義隊を撃破し寛永寺も壊滅的な打撃を受けたのです。
これが上野戦争の経過ですが、その上野戦争の模様を描いた絵と戦争後の寛永寺一帯の写真が残されています。
上野戦争 上野戦争痕
いずれも壮絶な戦いだったことがうかがえるものです。
そもそも彰義隊は、はじめ徳川慶喜の復権や助命について話し合うために、一橋家縁の者達が集ったのがきっかけなのです。そしてその後、一橋家に仕える幕臣・渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)が将軍(慶喜)警護を主張し、自分と意志を同じくする幕臣などを集めて結成したのが彰義隊なのです。
しかし、慶喜が江戸から水戸に移ることにより、警護の意味が無くなり彰義隊に内部対立が起き、渋沢は副頭取の天野八郎と対立し彰義隊を脱退したのです。
脱退した渋沢成一郎は埼玉県飯能市に移り振武軍を結成し「飯能戦争」を起こしたのです。そのあたりは【高山不動尊の火渡り式】で訪れた顔振峠で調べたものです。
悲しいことではあるのでしょうが、ある意味新しい時代を作るためには止むを得ない犠牲といるのかも知れません。

黒門の先には多くの墓碑とともに『彰義隊士の墓』の案内板があります。
彰義隊士の墓 『彰義隊士の墓』
その「彰義隊士の墓」が右側で遺骸266体が埋葬されているのだそうです。また左側には「死節之墓」があります。
彰義隊士の墓と死節之墓
これは彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていた墓碑なのですが、円通寺に移築することによって彰義隊と合わせて公に供養できるようになったそうです。
当時は表立って供養できなかったものが、この円通寺だけは賊軍の汚名もなく静に眠ることができるのでしょう。

正面にあるのが本堂で、屋根の上には黄金の聖観世音菩薩像が街を見下ろしています。
本堂 聖観世音菩薩像
かつて円通寺には秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったのですが、安政の大地震(1855年)で倒壊し、現在残っているのは33体だけだということで、失った百観音の代わりのシンボルとして親しまれているそうです。
若干のキッチュ感は否めませんが、小塚原の刑場、投げ込み寺の浄閑寺といった人々の生き死にに絡む街を静に見守っているのかもしれません。

そしてこの円通寺の裏手にある墓所は、回向院で見た“吉展地蔵尊”があった吉展ちゃんの遺体が発見された場所だったのです。
その誘拐事件のあらましです。
1963年3月31日、東京都台東区入谷町で当時4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、身代金を要求する“戦後最大の誘拐”といわれる「吉展ちゃん誘拐事件」が発生し、2年後の1965年7月に犯人逮捕にいたり、犯人の小原保の秘密の暴露により円通寺の墓所から遺体が発見され事件は落着となったのです。 なぜこの事件が“戦後最大の誘拐”と呼ばれるようになったといえば、この事件から被害者、その家族に対する被害拡大防止とプライバシー保護のために誘拐事件においては報道協定を結ぶ慣例が生まれ、また報道協定解除後の公開捜査においてテレビを始めとしたメディアを本格的に使用することによって、国民的関心を集めたことによるものだからなのです。犯人が身代金奪取に成功したことや、迷宮入り寸前だったことなどもその関心ごととなったのでしょう。またこの事件をきっかけにNTT(当時の日本電信電話公社)が警視庁の要請により逆探知に協力するようになった事件でもあったのです。
当時、小学生だった私も確かにリアルタイムで覚えていますが、日本中が一時この話題で持ちきりでした。
現在、存命なら50歳を過ぎているのでしょうが、改めて故村越吉展ちゃんの冥福を祈るばかりです。

本堂を参拝してからは境内の右手に移ります。こちらにも案内にあったように歴史の遺物が沢山残っています。
こちらの木造の建物には「円通精舎」と書かれた扁額が掲げられています。
円通精舎
これは円通寺の寺号で榎本武揚の書によるものなのですが、自宅が円通寺に近いこともあって当時の住職とも親しかったことによるようです。
この扁額の下にある大砲があの彰義隊を壊滅に追い込んだアームストロング砲なのかもしれません。
円通精舎
妙なところに置かれているものですね。

この右手に大きな塚があります。
鷹見の松
その塚の後にある松が三代将軍・家光が鷹狩に来た際、放った鷹がこの松にとまった「鷹見の松」なのでしょうか。
そして塚の頂上にあるのが「七重の石塔」で、この寺の由緒“重興圓通寺記幵塔銘”が刻まれているのだそうです。
七重の石塔
石塔のすぐ下にある4基の板碑は区指定の文化財で、4基の内3基は鎌倉時代末期の紀年銘があり、区内に現存する板碑の中で最も古い時代に属するものだそうです。
4基の板碑
なかでも永仁4年(1296)10月日銘は、日慶寺の正応2年(1289)銘に次いで二番目に古いものなのです。
そしてその板碑の下にある沢山積まれた石が四十八塚(首塚)をあらわしているのでしょう。
四十八塚(首塚)
これがあの小塚原刑場として有名となった“小塚原”の地名の元となった塚なのです。

円通寺は平安時代初期の坂上田村麻呂に始まり、平安時代後期の源義家、鎌倉時代の板碑に江戸時代の松。幕末・明治維新の上野戦争から昭和の誘拐事件といった実に様々な時代の歴史を有している古刹といえるでしょう。

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