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明治から昭和の歴史を訊ねる

円通寺をあとにして、ここからは少し時代が下がった明治から昭和にかけての歴史を散策します。
日光街道を更に北上しますが、南千住警察署入口の交差点を左折して一旦日光街道とは分かれます。

荒川総合スポーツセンター

日光街道を左折するとその通りは「千住間道」と銘板が立っていました。
千住間道
この道は都市計画道路だそうで、良くは判りませんが、結構住民にとっては重要な道路なのだそうです。
そういう意味では比較的新しく整備されていることから沿道の開発も比較的新しいようで、一見したところ、失礼ながら南千住とは思えない景観です。
千住間道
そしてこの道をしばらく進み右側にある大きな建物が「荒川総合スポーツセンター」です。
荒川総合スポーツセンター
かなり立派な建物の前には彫刻などが置かれていて、やはりアカデミックな雰囲気が漂っています。

別にここでスポーツをしようという事ではなく、ある目的でここに立ち寄りました。 目指すものは1階の広いフロアーの片隅に置かれていました。
この飾棚は荒川区に関係するアスリート達の記念の数々が飾られているのです。
展示
その中でも特に注目するのが、この一画のサインボールです。
展示
サインボールは5個置かれており、左から元ヤクルト監督:土橋正幸、元ロッテオリオンズ:有藤通世、元巨人軍:山内一弘、元ヤクルトスワローズ:杉浦亨、元巨人軍:中井康之という元プロ野球選手です。
この中で重要なのが山内一弘と有藤通世で、ここに飾られるにふさわしい選手であることなのです。
山内一弘
そう、このスポーツセンターのある場所こそがかつての大毎オリオンズの本拠地である「東京スタジアム」のあった野球小僧には神秘な場所なのです。

ここは久々に語りますので、野球に興味の無い方はすっ飛ばして先をお読みください。
この大毎オリオンズは現在千葉ロッテマリーンズになっていますが、まずはこのあたりの歴史から始め無いといけませんね。
基本的にプロ野球が生れたのは少なくとも戦前なのですが、まあ、一般的には1934年「大日本東京野球倶楽部」(現在の巨人軍)が設立された頃としておきましょう。
この当時はこの巨人軍のほか大阪タイガース、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)など8球団1リーグとして開催されていたのです。 しかし、1949年に起ったプロ野球再編問題で、1950年からは現在の組織であるセントラルリーグ(セ・リーグ)とパシフィックリーグ(パ・リーグ)に分かれて開催されるようになったのです。
この理由は新球団・毎日オリオンズの加盟に端を発したのです。1949年、「日本もアメリカのように2リーグ制がふさわしい」という巨人軍コミッショナー(当時)の正力松太郎の発言により再編問題が起こったのです。 元々「ライバルとの競争によってプロ野球の発展がある」という考えのもとに正力氏が毎日新聞に加盟を勧めたのですが、読売新聞社自体はは猛反対したのです。当然といえば当然ですね。
その結果、日本野球連盟は毎日新聞を加盟させ巨人軍を牽制する賛成派と、巨人軍中心主義の反対派に別れ、最終的にそれぞれが新球団を加えて賛成派がパ・リーグ、反対派がセ・リーグを結成したのです。
こうして生れた毎日新聞の球団が「毎日オリオンズ」で、結成1年目からリーグ優勝し、日本シリーズでも勝ち初代プロ野球日本一となったのです。
その後の1957年、低迷していた大映ユニオンズと対等合併し、毎日大映オリオンズ(略称・大毎オリオンズ)に改称し、新会社「毎日大映球団」が設立され、大映(映画)社長の永田雅一がオーナーに就任したのです。
そして1962年、それまでの本拠地後楽園球場から、オーナーの永田雅一が私財を投じて南千住に建設した専用球場「東京スタジアム」を本拠地としたのです。
東京スタジアム 《写真:(C)『エコノミーホテルほていや』ブログ》
そして1964年にはチーム名を東京オリオンズに改称した後、ロッテオリオンズ、千葉ロッテマリーンズと現在にいたっているのです。
こういった歴史の中に「東京スタジアム」が存在していたわけなのです。

そこで次は「東京スタジアム」の歴史です。
かつて東京スタジアムがあったこの南千住は1879年に操業を開始した千住製絨所があったのです。この千住製絨所は明治新政府によって設立された官営の工場で、被服生地を製造していたのです。
しかし、終戦後民間の大和毛織に売却されたのですが、1950年代にはいり業績が悪化し経営難により1960年に閉鎖され、工場跡地の一部は名古屋鉄道(名鉄)が取得し、明治村の建設用地として使用することが計画されていたのです。
一方、当時のプロ野球は巨人軍、国鉄スワローズ、毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としていたため、スケジュールの過密化により、大毎としては自前の本拠地球場の必要性からひそかに新球場建設を計画しており、永田オーナー自ら都内各所を視察し、かねてから「下町に自前の球場を造りたい」という思いから、南千住の大和毛織工場跡地を建設地に決定したのです。
当時の大映は映画産業の斜陽化などで経営難に陥りつつあったころなのですが、用地を取得し1961年7月に着工し、わずか1年足らずの1669年5月31日に竣工し「東京スタジアム」と命名され6月2日には開場式が執り行われたのです。

この東京スタジアムはアメリカ・サンフランシスコの当時SFジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティック・パーク(現在は49ers(NFL)本拠地)で、特に2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるモダンな構造だったそうです。
東京スタジアム 《写真:(C)『エコノミーホテルほていや』ブログ》
その他の特徴としては、
●シートピッチが広く「ゆったり座れる」
●日本の球場初のゴンドラ席の設置
●スコアボードの大時計がデジタル表示
●エントランスはスロープ式で、現在のバリアフリーに通じるものといわれる
●屋内ブルペン、トレーナー室・医療室などが完備され、広くて使いやすいロッカールーム
等の素晴らしい球場であったようですが、一方ではフィールドが敷地の関係で左中間。・右中間のふくらみが無く狭い球場であったようです。
そして当時の南千住にはマンションなどの高層建築物が無く、低い平屋や二階建ての住宅が立ち並ぶ下町だったため、ナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から「光の球場」といわれていたようです。
東京スタジアム 《写真:(C)『エコノミーホテルほていや』ブログ》
更にこのスタジアムは多目的球場としても考えられていて、地下にはボウリング場があり、シーズンオフには内外野のスタンドの椅子席にスケートリンクを設置し巨大な屋外スケート場となっていたのです。
それがこちらの写真ですが、先のスポーツセンターに飾られていたスタジアムの写真もスケート場の写真でした。
東京スタジアム 《写真:(C)『エコノミーホテルほていや』ブログ》
更に計画では、地下鉄駅を設置し、映画館・レストラン・デパートも併設した総合レジャー施設といった構想もあったそうですが、実現には至らなかったようです。

このように様々な点で話題を提供した「東京スタジアム」でしたが、ロッテオリオンズに改称し、1971年に経営権をロッテに譲渡したことによりスタジアムの使用を巡る交渉は決裂し、1973年10月15日のヤクルトVS阪神戦を持って閉鎖となったのです。 開場から僅か11年目のことでした。
東京スタジアムが閉鎖された後、1973年に竹中工務店が土地・建物を取得したのですが、その後、1977年東京都が跡地を取得し、現在のように大半が荒川総合スポーツセンターとなったのです。
リアルタイムであったにも関わらず「東京スタジアム」には一度も行けませんでした。勿論、小学生だったこともあり一人で行くわけにも行かず、父に連れられ後楽園などには何度か行ったのですが、阪神ファンの父でしたから行くわけも無いので、今に至っては実に残念なことでした。
それでもそんな歴史の一端に触れて、かつての野球小僧としては実に感慨深いものがあります。
スポーツセンターを出てスポーツセンターの周りを歩きます。
こちらが当時の空撮と現在の空撮です。
空撮当時 空撮現在
40年程度の経過がありますが区画としては殆ど変わってはいないようです。

千住製絨所

スポーツセンター前の歩道に「井上省三像」という銅像があり、その先には石碑と『井上省三君碑』の案内板があります。
井上省三像 井上省三君碑 『井上省三君碑』
前述した「東京スタジアム」の建設される前にあった千住製絨所は明治新政府によって設立された官営の工場だったことは既知の通りですが、千住製絨所、東京スタジアムという魅力的な歴史を持った地に魅かれます。
この井上省三は、23歳の時に木戸孝允(桂小五郎)も教鞭をとった山口兵学校に入り西洋兵学を学んでいたのですが、そこで木戸孝允の目の止まり兵学留学のチャンスを得たのです。
そして兵学を学ぶためにベルリンに留学したのですが、近代の西洋文化に触れた結果、殖産興業の重要性に目覚め明治6年にドイツの羅紗製造所・カールウルブリヒト会社に入り、1日の内に14時間工場で働き、6時間を学習時間とし、睡眠時間は僅か2時間という毎日を過ごし製絨の技術を修得したのだそうです。
そして明治9年に帰国した省三は設立に奔走し、明治12年に千住製絨所の初代所長に就任したのは先の通りです。
開業式には伊藤博文、大隈重信、西郷従道、山縣有朋、黒田清隆、大山巌、松方正義、森有禮、前島密、青木周蔵等といった当時のそうそうたるメンバーが参列したことから見ても、いかに国家的なプロジェクトであったかがうかがえます。
しかしながら工場が軌道に乗った明治16年12月、工場の火災で製絨所は主要設備をほとんど消失し、その復興に向け多くの問題解決に取り組んだことが原因で病に倒れ、1886(明治19)年42歳という若さで亡くなったのです。まさに太く短くウール一筋にかけた生涯といえるでしょう。

銅像と記念碑の間にモダンなベンチがあったのですが、よくよく見ればこれもモニュメントだったのです。
日本羊毛工業発祥の地
要するに千住製絨所が日本で始めての羊毛製品を製造する工場だったことから、「日本羊毛工業発祥の地」とされたようです。更に魅力的な場所となりましたね。
スポーツセンター沿いを更に歩きます。
グランド グランド
現在も一部がグラウンドとなっており、かつての東京スタジアムを彷彿とさせ・・・、る程ではありませんが、まあ名残だけはあじわえるというところでしょう。

スポーツセンターから離れて東に向う道路から右折したところに途切れた煉瓦塀が不自然に建っています。
旧千住製絨所煉瓦塀
『旧千住製絨所煉瓦塀』の案内板によれば、これが千住製絨所の遺構である煉瓦塀なのだそうです。
『旧千住製絨所煉瓦塀』
井上省三亡き後の千住製絨所は1888(明治21)年、陸軍省の管轄となってからは工場を拡張し、陸軍用の布地、毛糸等を生産・管理していたそうです。因みに他の官庁や民間からの製造・研究、技術指導等の以来の際は陸軍大臣の許可をもらって対応するということから、国内の繊維・被服産業の発展に大いに貢献したのだそうです。
案内板に掲出されていた写真です。当時の繁栄を垣間見ることのできる写真です。
『旧千住製絨所煉瓦塀』
そしてその後は、前述したように一旦民間の大和毛織に売却され、更に東京スタジアムが建設され、現在のスポーツセンターという歴史をたどるわけです。
江戸時代の南千住の歴史が小塚原刑場や浄閑寺なら、明治~昭和の南千住の歴史の一端を飾るのがこの荒川総合スポーツセンターといえるでしょう。

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