荒川のふるさとと鎮守の地

煉瓦塀のある交差点から東方向に進みます。
この辺りからはやや南千住の下町らしさが戻ってくる感じです。

荒川ふるさと文化館

2~3分も歩くと交差点の角に「荒川ふるさと文化館」があります。
荒川ふるさと文化館
荒川総合スポーツセンターもそうですが、同じような造りの建物ながら結構どちらも立派なので少し驚きです。さすがに東京都です。
早速、文化館に入りますが、エントランス付近に『瑞光小学校跡』の案内板があります。
荒川ふるさと文化館 『瑞光小学校跡』
確か道すがらスポーツセンターの反対側に創立125周年と書かれた校舎がありましたが、あの小学校がここにあったというでしょう。
瑞光小学校のサイトによれば、「瑞光小」の名前の由来は明治20年の創立当時学校の敷地があった素盞雄神社にある“瑞光石”から取られたものだそうです。瑞光石のように輝く人「人瑞」たれという願いが込められていると伝えられているのです。
“瑞光石”とは一体どんな石なのでしょうか。
それにしても、さすがに教育の場である小学校らしい由来です。

ふるさと文化館に入館します。
ロビーの左手に常設展示室があります。100円の入室料で入ります。
常設展示室チケット
ここは撮影禁止ですので写真はありませんが、基本の構成は原始時代から始まる“あらかわ”の歴史・文化・民俗の資料を展示しています。特に興味深かったのは近世のゾーンで、やはり江戸時代のあらかわが一番歴史に富んでいた時代と言えるでしょう。
更にゾーンを抜けて一番奥には、昭和の頃の下町の住宅が再現されています。長屋風の建物で入口が土間になっている構造で、実に懐かしい想いを楽しみました。
恐らくセンサーがついているのでしょう、土間から外に出たときに「バイバイ」と声をかけられ、ちょっと微笑ましくなりました。
ちょっと100円の入室料にしては、かなり充実しているといえるでしょう。
文化館を出るときに気が付いたフィギアがありました。「芭蕉旅立ち」と書かれています。
芭蕉旅立ち
そう、ここ南千住は北千住とともに芭蕉の奥の細道の旅立ちの地といわれているのです。これもまた南千住らしい歴史なのですが。。。

そして先ほどの案内板にあった素盞雄神社に行く途中にあるのが『橋本左内の墓旧套堂』です。
橋本左内の墓旧套堂 橋本左内の墓旧套堂 『橋本左内の墓旧套堂』
回向院には墓だけが残されたわけですが、それでも墓地には套堂によく似た堂宇がありましたね。
そしてその家紋がこちらです
家紋
もう一つの案内板『橋本左内の墓旧套堂復元と福井県との交流を記念して』には福井県との関係、交流が描かれています。
『橋本左内の墓旧套堂復元と福井県との交流を記念して』
近代の福井県といえば観光とカニ、といったイメージですが、現在はなんと言っても原発で、ややネガティブに全国区となっています。
しかし、戦国時代における福井県(当時は越前・若狭)は信長を始めとする勝家、秀吉、利家、長秀、成政等の信長軍団や、浅井・朝倉連合軍、そして本願寺蓮如など、綺羅星の如くの戦国スターが駆け巡った地なのです。
少しでも福井県のことを知ることができる機会となるなら結構なことでしょう。

素盞雄神社

橋本左内の墓旧套堂目と鼻の先にあるのが「素盞雄神社」です。
素盞雄神社
結構立派な石造りの鳥居の横に由緒書きがあるのですが、よく読めないためにサイトから引用します。

御縁起
当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩がありました。
 黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建されました。
 次いでスサノオ大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日、アスカ大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日、それぞれ御神霊をお遷し致し、4月8日「御創建疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まりました。江戸時代享保3年(1718)、類焼による両社炎上のため、同12 年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎しました。
 荒川区南千住・三河島(現:荒川)・町屋・台東区三之輪の区内で最も広い氏子区域61ケ町の鎮守で、平成7年には御鎮座1200年祭が厳粛盛大に斎行されました。
(オフィシャルサイトより)

更にこの2祭神についての説明もあります。

御祭神
■素盞雄大神 天王祭 6月3日
 天照大御神の御弟神です。八俣大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣、後の三種の神器の一つ<草薙の剣>を取り出し、天照大御神に献上した勇敢な神様。また八俣大蛇から助けた櫛稲田姫との間に多くの御子神をもうけ、出雲国須賀という地で幸せな家庭を築いた神様として知られています。
 「スサ」には「荒・清浄」の意味があり、罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様で、別名を牛頭天王と言う為に通称を「お天王さま」といいます。
■飛鳥大神 飛鳥祭 9月15日
 大国主神(だいこく様)の御子神です。別名を事代主神・一言主神といい、善悪を一言で判断し得る明智を持たれた神様。後世には福の神としての性格が強まり、商工業繁栄・商売繁昌の「えびす様」として崇敬されています。
江戸名所図会には、「飛鳥社小塚原天王宮」とあります。
(オフィシャルサイトより)

その江戸名所図会の挿絵がこちらです。
江戸名所図会
左上奥にあるのが「千住大橋」で、右手にあるのが「日慶寺」で現存している寺院です。
ここで少し気になるのが、江戸名所図会に記載されている「・・・、小篠の茂りたる一堆の小塚あり(この塚によりて、この地を小塚原と号せり)。」という一文です。
先の由来にもあった“小高い塚上に奇岩”の小塚が地名の由来だと図会では言っているのですが、オフィシャルサイトではこの記載はありません。更に先に訪れた円通寺の由緒には、境内にある首塚が小塚原の由来だと言っています。
元々は素盞雄神社が由来であったのが、いつの頃か素盞雄神社から円通寺に譲ったのでしょうか、この辺りが歴史の醍醐味と言えそうです。

前置きが長くなりました、早速参拝に向います。
社殿の前には“茅の輪くぐり”が設えてあります。正月は良く見かけるのですが、この時期に見るのは初めてです。
素盞雄神社 茅の輪くぐり
そこで横の大きな看板を見ると今日6月30日は「大祓」にあたる日だったようです。
大祓 大祓 大祓
解体新書にもあった「罪・穢れ」の信仰が根強く残っているということで、井沢元彦の「逆説の日本史」もまんざらではないのかもしれませんね。
まずは社殿で参拝です。
素盞雄神社拝殿素盞雄神社本殿 素盞雄神社拝殿
かなり豪壮な社殿で、比較的新しい時代に再建されたものでしょう。
参拝を済ませて境内を散策します。

境内の向って左手には神楽殿があるので、まずはそちらから散策しますが、神楽殿の前には3つの「力石」があります。
力石
特に文化財ではないようですが、さすがに江戸時代のエンターテイメントは、当然ここにもありましたね。
その神楽殿ですが、なんと千羽鶴が「祈」の額の前に奉納されています。
神楽殿 祈りの折鶴
これは震災地に向けて送られている「祈りの折鶴」というそうで、隣のテントで参詣客が折って奉納された物です。
祈りの折鶴
現在までに宮城・岩手の神社に1万数千羽を届け、今は福島県の分を作成しているところのようです。
祈りの折鶴
改めて早い復興を願うばかりです。
その奥にあるのが境内社で、左から「福徳稲荷神社」「菅原神社」「稲荷神社」です。
境内社
2つの稲荷社で、斎神は宇迦之御魂神で同じなのですが、福徳稲荷神社は特にこの素盞雄神社の門前の方たちが奉納したものだそうです。
いわゆるご当地稲荷・・・!?

今度は境内の右側を散策します。
社殿の右手のこんもりしたところに鳥居があり、先の説明にあった小高い塚上の奇岩「瑞光石」が祀られており、『瑞光石』の案内板がおかれています。
瑞光石 『瑞光石』
案内板では「小塚原の地名の由来をこれにもとめる“説”もある」と曖昧にしているところが実に面白いところで、教育委員会らしいところです。
しかし、こちらの神社の設置した『《瑞光石》』の案内板には、はっきりと小塚原の由来の地と記載されていますので、けっして円通寺に譲ったわけでもないようです。
『《瑞光石》』 瑞光石
江戸名所図会の挿絵にも「瑞光石」の記載を見ることができます。
江戸名所図会
「瑞光小学校」の由来ともなった瑞光石ですから、若干こちらのほうが円通寺よりは分があるかもしれませんね。
その先には「庚申塔」と『庚申塔群三基(寛文十三年銘他』の案内板があります。
庚申塔 『庚申塔群三基(寛文十三年銘他』
この庚申塔群も江戸名所図会には「ちそう(地蔵)」として描かれています。
江戸名所図会
ただし現在とは位置が違うようです。

境内を北上すると、『天王社の大銀杏』の案内板とともに1本の大きなイチョウの木があり沢山の絵馬が奉納されています。
天王社の大銀杏 『天王社の大銀杏』
こちらもこのように江戸名所図会の挿絵にえがかれていて、当時のままの位置(大抵樹木はそう簡単に移せませんね)です。
江戸名所図会
イチョウも立派ですが、何となく魅かれる絵馬が艶めかしいのですが・・・(汗)。
絵馬

その先に池のある一画があります。
池には1本の小さな橋がかかっているのですが、なんとこの橋が「千住大橋」を模しているのだそうです。
千住大橋 千住大橋
ということは橋の下の池は隅田川、ということになりますね。
ここに『荒川区から荒川が消えた』という興味深い案内板があります。
『荒川区から荒川が消えた』
確かに荒川区に荒川が無いということは由々しき事態ともいえるでしょう。それはさて置き荒川区の紋章もまた凝ったものにしたものですね。若干の無理があるのも否めないですが。。。
更に『素盞雄神社と千住の大橋』についても解説があります。
『素盞雄神社と千住の大橋』
さすがに瑞光石のご利益というか、パワーには圧倒するものがありそうです。
そして千住大橋を渡った先に沢山の石碑とともに『素盞雄神社と文人たち』という案内板があります。
『素盞雄神社と文人たち』
大橋の正面にあるのが、その芭蕉の句碑で、芭蕉の姿とともに碑面にはこのように刻まれているようです。
芭蕉の句碑 芭蕉の句碑

「千寿といふ所より船をあがれば
前途三千里のおもひ胸にふさがりて
幻のちまたに離別の
なみだをそそぐ『行くはるや烏啼き魚の目は泪』」

「奥の細道」矢立初めとなった有名な一節なのだそうですが、要するに奥の細道の第一歩として読んだ句ということです。
これを噛み砕いてみます。
「元禄2年3月27日(陽暦5月16日) 
前途三千里 みちのくという、はるか鄙の果てへの旅路 お伴は 門人曾良明け方の空はおぼろにかすみ 夜が明けても空に残っている月遠くに富士山の姿もほんのりと見える 上野・谷中の桜を 今度はいつ見られることか弟子たちは 前夜から集まり みな船で隅田川をさかのぼり、千住であがりこれからの長い旅の想いで胸がいっぱいなるのでした。幻のようにはかないこの世 一同にわかれつげているあいだにも なみだが頬にあふれてなりません。
『行春や鳥啼魚の目は泪』
過ぎ去っていく春との別れを悲しんでいるのであろうか、鳥は悲しそうな声で鳴き、魚の目にはなみだがたまっているようだ。見送る人たちは、いつまでもいつまでも芭蕉を見送りました。」
という意味になるそうです。
なかなか感動的な光景なのですが、これを揶揄したのが高浜虚子です。
虚子は「ちょうど、釈迦様の涅槃の図に、いろんな動物が涙を流して悲しんでゐるのと同じやうに、何もかも別れを惜しんでゐる、といふ風に見ればよからう」とまさに云い得て妙です。“ミソも●ソも一緒”ということでしょうか。
更に面白いのが「みな船で隅田川をさかのぼり、千住であがりこれからの長い旅の・・・」という一節です。つまり現在荒川区の南千住では“矢立初め”はここ素盞雄神社の地といい、足立区の北千住では大橋公園辺りがその地であると、それぞれ句碑や記念碑が建てられているのです。この一節に、千住大橋の南なのか北なのかを明記しておけばはっきりしたものを、実に罪作りな芭蕉なり、ということでしょうかね。

芭蕉句碑の一つ置いた左にある碑が「森昌庵追慕の碑」です。
森昌庵追慕の碑 森昌庵追慕の碑
こちらの碑にも森昌庵の姿が描かれているのですが、これが長谷川雪旦画と思うと俄然光を放ちだしそうです。

まあ、打算的といえば打算的ですが。
まだまだ見所はありそうですが、一旦ここで昼食をとるために素盞雄神社を後にしました。
南千住らしい、下町に実にマッチした神社でした。

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