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日光街道沿いを上る

ここから最終目的地の千住大橋は目と鼻の先ですが、折角なのでもう少し歴史を楽しみたいところです。
日光街道
日光街道の交差点を右折して、一旦日光街道を離れます。

山王清兵衛の祠

日光街道から5~6分も歩くと交差点の角に小さな祠を見ることができます。
山王清兵衛の祠
これが「山王清兵衛の祠」と呼ばれるものだそうで、歯神を祀っているのだそうです。
この隣に『砂尾堤と砂尾長者』の案内板があります。
『砂尾堤と砂尾長者』
この地図から察するに、祠のある交差点から南北に走っている通りが「砂尾堤」の後と考えられ、北上すると日枝神社という道のことでしょう。
砂尾堤 砂尾堤 砂尾堤
《左;祠から北上する道、中:左右に走る通りが砂尾堤 右:南下する通り》
それでは早速、日枝神社に向います。
境内に入ることはできないようで、かなり荒れた状態になっています。
日枝神社 日枝神社
ここにも『山王清兵衛(日枝神社)』の案内板があります。
『山王清兵衛(日枝神社)』
かつては「山王清兵衛の祠」からここまでが参道だったのかもしれません。
それよりも、“虫歯の痛みに耐えかねて切腹”というのも実に無茶苦茶な話ですが、それにもまして“錨をくわえた女性”って一体どんな女性の絵なのでしょうか。 こちらのほうが俄然興味が湧いてきてしまいます。

誓願寺

日枝神社をお参りしてから、日光街道に戻り街道沿いの「誓願寺」に向います。
『誓願寺』の案内板です。
誓願寺 『誓願寺』
結構、古い歴史を持つ古刹のようです。
源信は『往生要集』をあらわして、後の浄土宗、浄土真宗、時宗らの根本思想となる浄土教の基礎を造った僧として有名ですが、その賢母の諫言もまた著名なようです。
そのストーリーは、源信が15歳で時の村上天皇より法華八講の講師の一人に選ばれ、下賜された褒美の品であった織物などを故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返してきたそうです。
そのときの要旨が江戸名所図会にも記載されています。

山へ登せたてまつりて後は、あけてもくれても、ゆかしさば心をくだきけれども、たふとき道人となしたてまつる、うれしやとこそおもひしに、大裡のまじはりをし、官位にすすみ、青甲・紫甲に衣のいろをかへ、君にむかひたてまつり、御経講読し、御布施のものとりたまひ候はどの、名聞利養のひじりとなりそこねたまふ口惜しさよ。ただ命を限りに、樹下石上のすまひ、草とり木食に身をやつしはて、木をこり落ち葉をひろひ、ひとへに後世たすからんとしたまへとこそ、こしらへたてしに、ふたたびさかえいで、王宮のまじはりをし、官位階の品さまざまの袈裟ころもにいでたちをかざり、名聞のために説法し、利養のための御布施、さらに出離の御はたらきにあらず、ただ輪廻のおん身となりたまふぞや。あひがたきうどんげの仏教にあひぬればと思ひいりて、後世たすかりたまふべきに、かなしくも一旦の名利にはだされたまふこと、おろかなる中の愚かなること、ことに口をしき次第あさましくこそ候へ。
これを面目とおもひたまふは、いやしきまよひなるべし。夢の世におなじまよひにほだされたる人々に、名をしられて何かばせん、永き世にさとりをきはめて、仏の御前にて名をあげさせたまへかし。仏法をしらざる賢人さへ、首陽山にとりこもりて、王命をばいなびまうせしとかや。いはんや、那鄭鄭紆の御身にて、捨身の行におもむきたまひし山ごもりのひじりの、何条さのみ勅定にかかづらひ、男女雑居のところへは出でさせたまふべきぞ。また、たまはり候御衣は、いかにしたる御はからひぞや。すでに如法如説のひじりさへ、布施にうたれては地獄に焦がさるるとこそ申すに、称讃浄土経講読の御布施の御衣、この尼とりて何とすべく候や。後世たすくるまでこそなくとも、かへりて三途に引き落としたまふべきこと、あさましきとも申すべき。やうなくと、耳にもふれじとおもへば、この法師にかへし候、云々
(江戸名所図会より)

と記載されているようで、誓願寺の説明よりもずっと3倍くらい長い解説ですから、当時としては非常にインパクトの強い教訓だったのでしょう。
これ以降源信は、名誉を好まず求道者の道をひたすら歩み、先の『往生要集』を著すことになるのです。

この地区の特徴なのでしょうか、間口の狭い山門が入口で、あまり寺院とは思えないような、実に近代的な造りです。
誓願寺
参道の左手に先の案内のあった庚申塔などがあります。
庚申塔
また樹木で被われていて気付きにくいのが「狸獣墓」です。
狸獣墓
これは昔、誓願寺の隣にあった魚屋で、売っている魚が無くなるという事件が相次ぎ、これが近所の古狸の仕業だと判明すると、古狸を捕獲して叩き殺したのだそうです。それ以来物が浮遊するなどの怪奇現象が起き、祈祷師によって見たところ殺した古狸の子供の仕業とわかったことから、この墓を建てて供養したのだそうです。 各地に伝わるおなじみのといったところでしょう。
そして突き当たりに本堂があるのですが、こちらも寺院の本堂には思えないような造りの建造物です。
本堂
現在ではあまり寺院らしくない誓願寺ですが、源信の開基というところに由緒と歴史を感じさせてくれます。
因みに当時の源信は天台宗でしたが、浄土教の祖とも言うべき僧ですから、後年浄土宗に改められるのも極々当然のことでしょうね。

熊野神社

誓願寺を出て一歩ずつ千住大橋に近づいているのですが、またまたそれを阻むかのような『千住の河岸』の案内板です。
『千住の河岸』
たしかに水運で栄えた街は多く、かつての千住もそのひとつだったということです。
この案内板のある路地を進むと「熊野神社」があるのですが、途中に河岸の名残をとどめるような材木商が一軒ありました。
材木商
大分イメージは違いますが、倉庫の奥には柱のような材木を見受けることができます。
そして50メートルも進むと左手に『熊野神社』の案内板とともに鎮座しています。
熊野神社 『熊野神社』
残念なことに熊野神社は施錠されていて、境内に入りことはできませんので門からの様子です。
熊野神社
現在千住大橋は鉄骨の橋ですから、次の建て替えはいつになることでしょうか。それまで社殿のほうが持てば良いのですが。
因みに川越夜船とは、夕方川越市新河岸を出て、次の朝に千住に到着し、昼頃に浅草・花川戸に着く行程で、船頭が舟歌を歌いながら漕いでいくのだそうです。
川越夜船 《写真:(C)山川出版社 埼玉県の歴史散歩》
これが当時の川越夜舟だそうですが、結構立派なものだったようですね。
恐らく賑やかであったであろう河岸も、現在ではその名残を探すことは難しいようです。

千住大橋

そしていよいよ最終の千住大橋に到着です。橋の袂には千住大橋の碑が建っています。
千住大橋の碑
写真では碑文が見えづらいので引用します。

千住大橋
千住大橋は“千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594年)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
当初は、ただ“大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから“千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
奥州・日光・水戸街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、33余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。
現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927年)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973年)新橋がかけられた。
昭和59年12月 東京都
(千住大橋記念碑碑文より)

記念碑の横には歌川広重作 名所江戸百景より「千住の大はし」のレリーフが飾られています。
実際の絵図がこちらです。
千住の大はし
また江戸名所図会の挿絵も掲載されています。
江戸名所図会
この架橋を行ったのが伊奈忠次で、熊野権現に祈願し完成させ熊野権現社は橋の余財で修理されたというのは知ることができました。
こうして出来上がった“大橋”は、当初幕府が江戸の防備上、隅田川にこの橋以外を認めなかったのですが、後の明暦の大火などがあり交通上、安全上のため両国橋等が造られたのです。
その後、この千住大橋は、、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回改架、改修が行われ、明和の架け替えの際にほぼ現在の位置に架け替えられたのだそうです。また、明治18年(1885年)の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われているのです。

早速、千住大橋を歩きます。
千住大橋 千住大橋
橋の袂には親柱が上流側(左側)だけ復元されています。
親柱
アーチ橋の一種であるタイドアーチ橋としては、日本最古の橋だそうです。
下流側(右側)に新橋が架けられているのですが、橋としての情緒は全くありません。
千住大橋 大橋と新橋
それに比べるとやはりアーチの美しさはレトロ感とともに、癒される光景といえるでしょう。
橋の中央付近ですが、残念ながら上流側は水道橋、そして下流側は新橋で眺めもあまり良くはありません。
水道橋 下流
やはり情緒より合理的を優先した結果でしょうが、これもまた時代の歴史として仕方ないことでしょう。
それでも日本橋よりはましかもしれません。
この千住大橋を渡りきると足立区となり北千住エリアとなるのですが、北千住の散策は次の機会とします。
南千住の歴史を作り、見続けてきた千住大橋はこれからも歴史の証人としていき続けるのでしょう。

コツ通り

千住大橋からスタート地点の南千住駅に戻ります。
日光街道を再び戻りますが、途中から三叉路を左に進み「コツ通り」商店街を進みます。
コツ通り コツ通り
コツ通りとは文字通り“骨”のことで、小塚原周辺がむかし遺体が散乱していて別名“骨ヶ原”と呼ばれたことに由来しているのですが、ある意味、あまり良い由来とは思えないのですが、地元の方はどう感じているのでしょうか。
途中にあった案内板には『千住宿』についての説明があります。
『千住宿』
記載のある本宿は大橋の北側にあった宿で、最初の宿は現在の足立区千住1~5丁目の「本宿」、隣接し追加された足立区掃部宿・河原町・橋戸町が「新宿」、そして対岸の荒川区小塚原町・中村町の「下宿」が加わり、幕末期の家屋数は2400軒近くあり、人口も約10,000人に達し、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿とともに江戸四宿といわれ、この4宿の中でも最大の宿場だったそうです。
現在の北千住駅からほぼ南千住駅までですから、確かに宿場の規模とすれば相当大きなものだったことは想像に難くありません。

ここでまたまたちょっと寄り道です。
コツ通りを左折して、現在ある南千住第2中学校に向います。
南千住第2中学校
そこには『東京電灯千住発電所』の案内板があります。
南千住第2中学校 『東京電灯千住発電所』

日本初の電力会社である「東京電灯」が明治19(1886)年に設立されます。当時、電力とか電気とははホンの一握りの人しか知らないのですからその設立も大変だったようです。
そして東京電灯は火力発電所を日本橋茅場町、麹町など都内5ヶ所に建造するのですが、日清戦争が始まり電力不足が目に見えてくると、明治28年集中発電所として浅草発電所を完成させたのです。
この浅草発電所の発電機は現在のIHI(当時の石川島造船所)が製作したもので、当時アメリカでも100kwの発電が精々だった時代に交流200kwが可能という優れたものだったのですが、故障が多いため、結局ドイツのアルゲマイネ製発電機を併用したのです。
因みにこのアルゲマイネ製発電機が50Hzで、同時期に関西の大阪電灯が採用したGE製の発電機が60Hzだったことが現在まで続く日本の電源周波数の違いなのです。
こうして一時をしのいだのですが、日露戦争が勃発すると再び電力不足が起り、東京電灯は更に巨大な発電所を設置するのです。これがこの千住火力発電所なのです。
こういうと、なるほどあの千住にあった「お化け煙突」で有名な発電所がここだったのかと思いがちですが、ここはあの発電所の前身だったのです。
当時の発電所の全景と当時の出力を誇ったタービンジェネレーターの写真です。
当時の発電所の全景 タービンジェネレーター
4本ではなく2本の煙突を持った火力発電所だったようです。
そして、この発電所は一旦大正6(1917)年に終止符をうち、関東大震災を経て足立区の“お化け煙突”と親しまれた火力発電所に引き継がれるのです。 勿論、この東京電灯が後の東京電力になることは言うまでも無いことでしょう。

再びコツ通りに戻って南千住駅を目指します。
南千住駅付近にこの日最後の案内板『日光道中』があります。
コツ通り 『日光道中』
これを読むと“コツ通り”の由来が間違っていたことがわかりました。やはり“骨”では気持ち悪いですからね。
そして終点の南千住駅に戻ってきました。
南千住駅
もともと興味深い街であろうとは予想していましたが、中世から近世、そして近代まで様々な顔を持った奥の深~い街でした。
近いうちに第2弾の北千住散策をしたいと気持ちも盛り上がってきました。

2012.07.08記
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コメント

  1. kame-naoki | -

    コツ通り

    随分昔になりますが、コツ通りの近くで遺跡の調査に携わったことがあります。

    無事に人骨は出土しなかったのですが、すごい名前だと思いました(笑)。

    ( 14:16 )

  2. 薄荷脳70 | -

    Re: kame-naokiさんありがとうございます

    kame-naokiさんコメントありがとうございます。
    遺跡の調査をされていたのですか、すごいご経験ですね。
    素人の私には実に興味深いです。でも結構大変らしいですね、労力とか。
    確かにストレートなネーミングで、一度聞いたら忘れないメリットはあると思いますが^^

    ( 03:42 )

  3. ばっきぃ | -

    北もぜひ♪

    南千住散策お疲れ様でした。
    一日一話ペースでじっくりまったり読ませて頂きました。

    自分の中で南千住というのは“ドヤ街”のイメージばかりだったのですが、その背景またそれ以外の歴史・名所も大変勉強になりました。
    …あ。あのたい焼き屋さんは以前お土産で頂いたことがあるのですが、美味しかったですよ♪

    北千住は自分の思い出の町でもあるので、もし散策される機会があれば訪問記もぜひ楽しみにしております!

    ( 22:26 )

  4. 薄荷脳70 | -

    ばっきぃさん、ありがとうございます。

    おはようございます。
    やはりあのたい焼は食べてみたいですね。
    北千住は私も思い出があるので、なるべく近々訪れてみたいと思っています。
    また、そのときはよろしくお願いします。

    ( 08:18 )

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