下妻街道

八潮市の「水と生活」の一端に触れた後は、先ほどの説明にもあった八潮市を南北に貫く古の道「下妻街道」の一部を辿ってみます。
丁度、八潮排水機場の前を南北に走る現在の県道102号線が、かつての古道といわれているようです。

大経寺

この「下妻街道」は中川の自然堤防上に築かれた古道で、1051年の前九年の役にあたって奥州へ向かった源頼義・義家らが通った道とされ、鎌倉時代には政治の中心常陸と常陸から陸奥各地とを結ぶ主要道路として重要視されていたのです。近世になって日光街道と水戸街道の中間に位置して、茨城県下妻方面への脇往還として利用されたことからこの名前が付いたのだそうですが、現在では映画「下妻物語」の舞台となった下妻市といった方が理解が早いかもしれませんね。
県道の脇には古い庚申塔や石仏があり、庚申塔には“江戸道”と刻まれているので、古道の名残を伝えているのかもしれません。
庚申塔

県道を遡り外環道をくぐった先の八條橋交差点の手前の左側が「大経寺」で、かなり広い寺域の奥に山門と案内板『大経寺』があります。
大経寺 大経寺
天正14(1586)年開山ということと、朱印地7石と言うことからも推察できるとおり八潮市でも古刹といえるのでしょう。
山門の右手にあるのが円空上人が彫った木造千手観音立像が安置されている「観音堂」で、『木造千手観音立像』の案内板とともに立っています。
大経寺観音堂 大経寺観音堂 大経寺観音堂
かすかに判読できる程度の案内板ですが、かいつまむと円空上人は江戸時代前期の修行僧で生涯に約12万体の造像を祈願したのだそうです。特にこの円空仏と言われるものは岐阜県、愛知県、埼玉県に多く、現在発見されているだけでも5,000体を超えているそうです。 その中でもこの大経寺の円空仏は像高約243センチメートルの千手観音像では最大のものだそうです。
更に県内のさいたま市、蓮田市などに分布する埼玉彫りの円空仏とは異なり、栃木県・茨城県・東北地方の円空仏に類似していることから、円空上人の行脚の足跡を知る手掛かりになると語っています。
観音堂の中ではその千手観音像は秘仏のようなので拝顔することはできません。また案内板の写真も大分汚れているので、ここはあえて他のサイトから写真を拝借しました。
千手観音像 《(C)史実や伝承等に基づいた楽しい日記》
この様に円空仏の特徴は微笑を持っていることも特徴の一つでもあるようです。
どのような周期かは判りませんが、極稀にご開帳されるそうですから、円空仏ファンには必見でしょう。
さてここでこの大経寺と家光と阿弥陀如来の三大話を一つ。

「阿弥陀様と朱印状」
八条の大経寺さんは、三代将軍の徳川家光さまから、七石の寺領をいただいた寺であったとか。
家光公は、鷹狩りがおすきで、たびたび古利根川で鷹狩りをしなさった。そのおり大経寺さんにお立ちよりになり、本尊阿弥陀さまを参ぱいしなさった。阿弥陀さまのごりっぱなお姿をみて、大経寺の第四世重岩上人にお聞きなされた。
将軍 「そちの寺は、いつ開かれたのか。」
和尚 「天正15年に暁翁上人がお開きになりました。」
将軍 「ご本尊は、どうなされたかな。」
和尚 「京より開山上人がお持ちになられたと、聞きおよんでいます。」
将軍 「わしは、伝通院から念仏堂の建立の寄進をたのまれておってなー。阿弥陀さまをご安置したいものだ。」
和尚 「・・・・・」
しばらくして、寺社奉行みずからが大経寺をおとずれ、阿弥陀さまを小石川伝通院におうつしするよう上意を伝えた。寺では、さきの将軍さまのことで、すでにかくごはできていたので、すぐに上進したそうな。
寺領七石は、阿弥陀さまのかわりに寄進されたのだとか。そんな話をきいていますよ。
(八潮市オフィシャルサイトより)

八潮の昔話「阿弥陀様と朱印状」として伝承されている話です。
時の権力者と言えども多少の礼儀は心得ているようですが、現在の本尊は2代目と言うことになるのでしょうかね。
観音堂の周りには「普門品(観世音菩薩)供養碑」や「地蔵尊」が祀られています。
普門品(観世音菩薩)供養碑 地蔵尊
さすがに古刹故のものかもしれません。 最後に本堂をお参りに境内に入ると実に綺麗に整備されていました。
境内 本堂
本堂の葵紋が朱印地だったことを知らしめており、江戸時代の様子を知ることのできる素敵な古刹でした。

八条八幡神社

大経寺から更に北上し、路地を左に進むと『和井田家住宅』の案内板があります。
和井田家住宅 和井田家住宅
こちらは重要文化財で、「太田家」とは違い民家としての建造物です。しかしながら現在はこのように立入禁止となっているようで、後で調べたところ、こちらも「太田家」同様第3土曜日だけ見学ができるのだそうです。
仕方がないので周りだけ眺めましたが、これが“構え堀”なのでしょうか。
和井田家住宅
とにかく屋敷林のように樹木で被われているので、中の様子はわかりませんが貴重な遺構として重要なのでしょう。 こちらも写真だけ拝借しました。
和井田家住宅 《(C)SAITAMAP》
第3土曜日に来ればとにかく「和井田家」と「太田家」の古民家は見られると言うことになりますね。

「和井田住宅」から再び下妻街道に戻って北上すると、道の傍らに「馬頭観音碑」があります。
馬頭観音碑
本来の「馬頭観音」は馬や家畜などの守護仏であったのですが、近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなったことに伴い馬が急死した路傍や馬捨場などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていったのだそうです。
ここにあるような「馬頭観世音」の文字だけが彫られたものの多くは供養として祀られたものなのだそうです。
いずれにしてもこの碑は、かつての街道の賑わい、人と馬などの行き交いのあった下妻街道であったことの名残といえるのでしょう。

そしてここから更に北上すると街道の右手に「八条八幡神社」が鎮座しており、参道口には『八潮市八条八幡神社社叢ふるさとの森』の案内板があります。
八条八幡神社 八条八幡神社
この神社が河川敷内であったことはちょっと驚きです。
それにしても宝徳元年は1449年ですから室町時代、8代将軍善政のころですから実に歴史のある神社といえるでしょう。 神社にしろ寺院にしろ古ければ古いほど自然が多く残されているのはどこも同じ現象で、こちらも当然のごとく社叢が素晴らしく、このように鎮守の森に相応しい景観となっています。
八条八幡神社
参道を進むと目の前に古そうな石造りの鳥居がありますが、「八潮市最古の鳥居 元禄2(1689)年建立」と書かれています。まさに年代を感じさせる鳥居で、八幡宮の扁額もかなり時代を感じられます。
八条八幡神社
鳥居を抜けた参道の右手に『奉賛の記』なる記念碑が建てられています。
由緒
ここで興味深いのが大化の改新における「条里制」の名残があるということです。
条里制とは日本における土地区画制度のことで、ある範囲の土地を約109mの間隔で正方形に区分するという特徴のものです。
この109mX109mの正方形を基本単位「坪」(現在の坪とは異なります)と呼ばれていたのです。そしてこの“坪”を6X6に並べた区画(つまり坪が36個集まった)を「里」と呼んだのです。
この「里」が更に集まって区画されるのですが、里の縦列を“条(じょう)”とよび、横列を“里(リ)”とよび、縦方向には一条、二条、三条と、そして横方向には一里、二里、三里というように明確な位置表示が出来るようになったのです。
これが条里制で、縦方向の8番目にあったことから、このあたりが“八条”と呼ばれたわけです。ただ残念なのは名前としての名残があるだけで、遺構があるわけではないのです。日本各地にこの遺構が残されているようですが、やはり開拓・発展の早い首都圏では川崎市中原区付近に残されている程度のようです。
大化の改新に「八条」が生まれ、その上に古の「下妻街道」が走り、時代が下って室町時代にこの「八幡社」が建立されたという、正に貴重な歴史そのものの地であることを知ることができるのです。 このような歴史の積み重なった地も埼玉県では珍しい部類かもしれませんね。
左手には手水舎があります。
手水舎 手水舎
一見変哲もない手水舎なのですが、この案内板のイラストが妙なコントラストを醸し出しているのが笑えます、「欧米かっ?」

更に参道を進むと左手に『弘安七年弥陀三尊種子板碑』の案内板があります。
弘安七年弥陀三尊種子板碑
ここに記載のある「八條殿社」とは、現在中川の河川沿いにある“八條殿社古墳”の上にあったのだそうです。そもそもが古墳であるので、遅くともこの辺りには約1,700年前の古墳時代の頃には人々の営みがあったと考えられているようです。
そしてまたこの「八條殿社」にも昔話が残されているのです。

「馬にまたがる八条様」
八条の入谷に、八条殿社といわれるお社あとがある。
今から750年まえごろ、八条様が京都から、この入谷に流されてきた。八条様は、左大臣にもなられたりっぱな公家であった。何かふしまつをしでかしたのだろう。こんなかたいなかではさびしくいつも馬にのっていなさったそうな。
八条様が狩衣直衣を着て、馬にまたがり走るもんだから、里の娘っこたち、それはーおおさわぎしたそうな。
八条様がおのりになる馬は、白馬であった。馬におのりになるおすがたはりりしかった。馬でとおのりをなさると、中川のふちで馬を洗ったそうな。
そしてさびしくおなくなりになった。里人は、八条様をまつるお社をたてて霊をおなぐさめした。そのお社を、八条殿社というんだそうな。
(八潮市オフィシャルサイトより)

一応、案内板の板碑の写真を掲載しておきますが、かなり案内板が汚れていて見にくくはなっています。
弘安七年弥陀三尊種子板碑
それにしても、さすがに掘れば掘るだけ興味深い事柄が出て来る古社です。

最後に社殿に参拝に上がります。
社殿 本殿
明治時代の社殿といえども重厚でありながらも、様々な彫刻で煌びやかでもあるようです。
それが顕著に現れているのが本殿の彫刻で、角度的に見にくいですがこれが大日本帝国憲法の発布式と、帝国議会の様子です。
本殿 本殿彫刻
このあたりの時代とテーマの浮き彫りと言うのはかなり珍しいのではないでしょうかね。私は聞いたことがありません。
古墳時代から飛鳥時代、そして奈良・平安、そして中世・近世、更に明治から現在まで、奥深い歴史に彩られた古社でした。
この下妻街道を更に北上するとやがて草加市となります。
下妻街道
それとともに今回の散策も終了ですが、歴史と水と文化に溢れた素晴らしい街であるとともに、「二丁目の獅子舞」には感動させられました。

2012.07.27記

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