備後村の歴史を辿る

本書の解説にもあったとおり、「やったり踊り」は大畑と備後の二地区の土地争いに端を発したとあります。
祭りの前にまずはこの二地区の概要を掴んでおくために、手始めとして備後地区の中心地である東武線「一ノ割駅」周辺に向います。
一ノ割駅は武里地区の一番北にあり、その一駅南が武里駅というロケーションです。したがって大畑と備後は武里地区の南北に立地する争いだったのです。

一ノ割香取神社

向ったのはそのまま駅名のついた「一ノ割香取神社」です。一ノ割駅からも歩いて5、6分のところにある神社ですが、参道入口は随分と狭い神社です。
一ノ割香取神社
参道は右手に延びており、すぐ目の前には真新しい石造りの一の鳥居があり、先の参道の右手には『記念碑』が建立されています。
一ノ割香取神社 一ノ割香取神社 縁起
新編武蔵風土記稿には以下の通りに記載されています。

市野割村 香取社
村の鎮守にて円福寺あづかれり、村内にわづかの堤あり、当所にては其名を唱へざれど、粕壁宿の辺にては江曾堤とよべり、此社古へ其堤の上にありしを、前にいへる井上将監及び大熊弾正などいへるもの、力を合せ当所に引移せりと云、文禄元年円福寺の住僧祖岌が書せし縁起あり、其略に当社元新方領の惣鎮守にて、本地十一面観音は行基の作なり、昔享徳三年末太郎といへるもの、奇異の霊護を蒙り、鰐口を寄進せり、又平方村林西寺中興呑龍和尚立願せしに、霊験ありしことなど、こまごまに書つゞれど、させる証とすべきこともあらざれば、其要を摘てこゝに録す

かつては「市野割」と書かれていたようですね。
井上将監とは岩槻城主太田氏房の家臣で、この香取神社が元々井上将監の館址だったようです。
ここに記載のある“新方領”とは、古利根川と元荒川・古隅田川に囲まれた地域だったようで、現在の粕壁、豊春、武里、豊野地区あたりを言うようです。
古くからの町、春日部には多くの村落があり、その村々には守り神として多くの神社が建立されたのです。神社の数としては江戸時代中期の新編武蔵風土記稿によれば、旧春日部市域内(合併前の庄和町を除く)で112社あったそうですが、現在では52社になっているそうです。
地区別では豊春地区13社、武里地区12社、粕壁地区11社、幸松地区7社、内牧地区6社、豊野地区3社で、これに合併後の庄和地区の33社を加えると市内全域では85社が現存しているのだそうです。
神社別では、香取神社25社、稲荷神社11社、八幡神社7社、雷電神社5社、神明社4社などとなっているのですが、千葉県の一の宮である香取神社が何故春日部に多いのでしょうか。
それは、かつて古代から中世にかけて元荒川以東かつ古隅田川以南の地域は下総国葛飾郡に属していてことから、現在の春日部市の大半は中世には下総国だったことから、当時下総国の一の宮である香取神宮を勧請して多くの末社が建立されたのです。その結果現在の春日部市に香取神社が多く残るという結果となったのです。
この頃の埼玉県(武蔵国)の一の宮は言わずと知れた氷川神社ですが、この氷川神社は元荒川以西の荒川沿いに分布し、元荒川以南では久伊豆神社が分布し、元荒川以東江戸川周辺まで香取神社が分布しており、それぞれの分布圏はほぼこの境界を侵すことなく分かれているのだそうです。再度、新編武蔵風土記稿に戻って3社の数を洗い出してみると、氷川神社が240社、久伊豆神社が52社、そして香取神社が99社あったようです。このように少なくとも埼玉県にある香取神社の多くは、江戸時代には遅くとも建立されていたという由緒ある神社なのです。

参道を進んだ二の鳥居の先の左手に境内社があります。
一ノ割香取神社
朱の木製の鳥居を持った社が「諏訪神社」で、白い石造りの鳥居を持つ社が「天神社」なのです。
諏訪神社 天神社
紅白って言うのも、それはそれで目出度いとか。。。
その左手にあるのが「富士塚」のようです。
富士塚 富士塚
この富士塚は先の井上将監の館の櫓台を後に改造したものと言われているのです。
麓にある様々な碑が建塚なのでしょう。
孝心塔
特に一番左の庚申塔は“庚申”の字を“孝心”の文字に当てはめている珍しい石塔なのだそうです。
正面が一ノ割香取神社の社殿です。
境内 社殿
再建されただけあって、綺麗でいながら荘厳な雰囲気を残した趣のある拝殿です。
参拝を済ませて、次は隣にある「円福寺」に向います。

円福寺

香取神社のすぐ隣で、富士塚からもこのように本堂がすぐ見える距離ではありますが、実際の正式な山門はこちらです。
円福寺 円福寺山門
参道を進むと中門があり、その左手に古い石塔や石仏が祀られています。
円福寺中門
中央の石仏は不動明王で、下部にも二童子が彫られています。
石仏 不動明王
元治丑年二月吉日の紀年銘があるので、1865年でまさに幕末の頃のものです。
反対側には六地蔵が建立されています。
六地蔵
そして中門の隣に文化財である『円福寺厨子入り木彫当麻曼荼羅図』の案内板が掲げられています。
『円福寺厨子入り木彫当麻曼荼羅図』
見ることはできませんが、やはり元禄年間のものとなれば貴重なものでしょう。

中門を抜けると広い境内となります。
正面に本堂があり、左手には整備された植木が彩を添えています。
境内
まずは参拝します。
本堂
本堂の横に『本堂庫裏落慶記念碑』があり、これに当寺の縁起が記されています。
本堂 縁起
縁起には“正慶”以前の創立で、“元弘3年の板碑”とありますが、元弘3年=正慶2年のことで、西暦で言えば1333年です。そう1333年はまさに南北朝の頃で、元弘は南朝で正慶は北朝の元号です。そしてこの翌年の1334年が建武元年となり、まさに建武の中興の真っ最中という激動の時期だったのです。
ということから、少なくとも室町幕府成立時からは存在していたわけで、670年以上の歴史を誇る古刹となるのです。
本堂には寺宝「木彫当麻曼荼羅図」とともに呑竜上人の名が掲げられています。
本堂
呑竜上人とは戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗の僧で武蔵国埼玉郡の生まれで、先の井上将監の次男で、まさにこの地が生誕地なのです。
呑竜上人を一躍著名にしたのは、1616(元和2)年孝心のために国禁を犯した子どもを匿い、幕府から謹慎されたのですが、5年後の1621(元和7)年に赦免されたことから、子育て呑竜の異名で呼ばれるようになり、現在、安産・子育て祈願の寺として有名なのだそうです。

境内の右手には「曼荼羅堂」があり、ここにある文化財の一覧があります。
曼荼羅堂 曼荼羅堂
これには“埼玉県史蹟天然記念地 春日部市文化財 呑竜上人御誕生寺 浄土宗円福寺”という長い肩書きがあります。 「木彫当麻曼荼羅図」以外にも多くの文化財を保有しているようです。
また、その反対側に「教誉常念上人」碑があり、その功績を見ると浄土宗や円福寺のみならず、ここの一ノ割の発展にも寄与していることが判ります。
「教誉常念上人」碑 「教誉常念上人」碑
一ノ割における開発や発展は、一ノ割香取神社と円福寺無くてはどうやら語ることはできないようです。

備後香取神社

一ノ割香取神社の前は「一の割呑龍通り商店街」となっていて、商店街を通り駅前を抜けて駅の東側に向います。
一の割呑龍通り商店街 一の割呑龍通り商店街
商店街の角に庚申塔があり『備後の丸彫庚申塔』という案内板があります。
備後の丸彫庚申塔 備後の丸彫庚申塔 備後の丸彫庚申塔
都内でも江東区の常光寺にある天和3(1683)年像や練馬区の享保12(1727)年像などが有名だそうですが、いずれにしてもそれほど数は無いようです。そういった意味でこの庚申塔は非常に貴重なものと言えそうです。
道を挟んだ反対側にあるのが「備後香取神社」です。
備後香取神社
鳥居の先の参道脇に『由緒』が掲出されています。
備後香取神社 備後香取神社
今でもいるのかこんな落書きをする連中が、と思えるほどあきれた落書きなのですが、何故かホワイトのスプレーで落書きしているところが良心的・・・!? 、な、訳ないですな。
かいつまんで見ると、創建は文明年間(1469~89)と言われていて、この周辺の鎮守だったそうです。新編武蔵風土記稿に「香取社 村の鎮守 真福寺持」と記載されていて、江戸時代は隣接する真福寺が別当寺で、その後、明治47年に稲荷社を合祀して現在に至っているのです。
先ほどの歴史を知ればさにあらずという感じです。

そのような歴史を持つ神社なのですが、拝殿はシンプルな造りです。
備後香取神社 拝殿
しかも常に運動会をしているわけではないであろうに、万国旗が翻っている境内というのも初めて見る光景です。
備後香取神社
それに対して本殿は何となく重厚感漂う造りです。元々は拝殿もこのような荘厳な雰囲気だったのかもしれません。
備後香取神社 社殿 備後香取神社 本殿
その分万国旗とともに親しみ易い神社になったのかもしれませんね(って、ありえないでしょう)。
社殿の左手には、ここにも「富士塚」があります。
備後香取神社 富士塚 備後香取神社 富士塚
石段を上がったところには木祠があり、これが「浅間神社」と言うことでしょうか。更にその右手奥には「浅間大神」碑が建立されています。
備後香取神社 富士塚
ここ備後の香取神社でも富士講が盛んだったと言う現れでしょう。
この富士塚から見える隣の寺院が、かつての別当寺である「真福寺」ですが、見学はできないようなので上から参拝してみました。
真福寺

備後須賀稲荷神社

備後地区では最後の神社「備後須賀稲荷神社」に向います。
ちょうどこの神社のある辺りが、東武伊勢崎線一の割駅と武里駅の中間ぐらいでしょう。
早速参道入口には社号標とともに3つの石碑が建立されています。
備後須賀稲荷神社
左2つは庚申塔で、右側は馬頭観音ですが、これは元あったところが工事によって墓標が紛失したため、復元してここに建立されたものだそうです。
参道には「正一位稲荷大明神」の扁額の付いた一の鳥居があり、その先は大きな古木に囲まれた社叢となっています。
備後須賀稲荷神社 備後須賀稲荷神社
更に二の鳥居を過ぎると、左手に『正一位稲荷神社略縁起』の碑があります。
備後須賀稲荷神社
写真では見にくいので概略を記しますが、実に面白い縁起です。

古のこの周辺は東京湾まで続く低湿地地帯でしたが、その中でこの地域は台地になっており須賀島と呼ばれていました。
あるときこの須賀島から怪しい光が発せられていて、役人が調べたところ台地の古木の中から観音像を発見し、役人はこの観音像をこの地を納めていた地頭である春日部大和守実平の館に持ち込み安置したのです。
ある時旅の僧がこの館に立ち寄った際、この観音像を見てこれはかつて弘法大師が唐に渡ったときに文殊菩薩から法門契約の証として伝授され、帰国の際に備後の国(現在の広島県)に安置されていた“契約本尊”という大変貴重な霊像であると語ったのです。
何故備後の国にあった霊像がここにあるのかと言うと、後になって備後の国で戦乱が起ったため多くの人々が東国を目指して移り始めたのです。それとともにこの霊像も船中に安置して非難したのですが、途中嵐にあって殆どの船が沈没するなか、この霊像を安置した船だけが無事で岸村(現在の東京都北区王子)にたどり着いたので人々が祀ろうとしたところ、一陣の風とともにどこかに飛んでいってしまったのだそうで、その飛んだ先がこの台地の古木の中だったのです。
旅の僧が旅立つ最後の晩に観音菩薩が僧の夢枕に立ち、この霊像は関東守護の稲荷大明神で、この須賀島に社を建立し奥院に観世音菩薩を安置せよと告げられたのです。
館の主である春日部大和守実平は早速社を須賀島に建立したのでした。この霊像の由来からこの地域を備後村と呼び、社殿のあるところを須賀島と呼ぶようになったのです。まさにこの社が「備後」発祥の地となったわけです。
その後、この備後須賀稲荷神社は王子稲荷神社・佐野稲荷神社とともに関東三社稲荷と言われるほどの隆盛を極めたそうです。

早速、その由緒ある社殿を参拝しますが、実に新しく綺麗な社殿なのですが、横に『掲示板』があります。
備後須賀稲荷神社 備後須賀稲荷神社
備後発祥の由緒ある神社の社殿が焼失するとは、確かに氏子ではなくても残念な思いです。しかもまだ2年前のことのようです。

【神社不審火5か所で 春日部など】
春日部市内で25日夜、2か所の神社の本殿などが全焼した火事で、同市や周辺で起きた神社の不審火が計5か所に上ることが26日、捜査関係者の話で分かった。
春日部署などが同日、2か所の現場検証を行ったところ、火の気のない室内や床下から出火していることが判明。同署は放火の可能性が高いとみて捜査している。
捜査関係者らによると、同市境近くの越谷市恩間新田で20日深夜、稲荷神社約18平方メートルが全焼。
翌日深夜に、春日部市大沼の谷原香取神社で本殿と拝殿の計約55平方メートルが全焼し、25日夜には、同市粕壁東の八坂神社の本殿約15平方メートル、同市備後西の備後須賀稲荷神社の拝殿約100平方メートルが相次いで全焼した。
八坂神社の火事の約20分前、隣接する杉戸町の稲荷神社でも床を焦がす火事が起きていた。
春日部市によると、備後須賀稲荷神社は、建暦元年(1211年)の創建とされ、関東三社稲荷の一つとされる。
一連の火災を受け、市は26日、7地区の自治会連合会長を市役所に集め、石川良三市長が「行政だけでは限界がある。自治会の力も借りて火災予防に努めていきたい」と協力を求めた。
市消防本部は、市内の神社の管理者ら約60人に注意喚起の文書を配布し、出入り口の施錠や周囲に燃えやすいものを置かないなどの防火対策を求めた。
(2010年10月27日 読売新聞より)

1ヶ所であれば煙草の投げ捨てなども考えられますが、5ヶ所となるとさすがに放火であると考えずにはおけないでしょう。実に悲しいことですが氏子の方々の努力で見事な社殿が再建されたようです。
本殿は辛うじて全焼は免れたようで、一部屋根だけを新築して済んだようです。
備後須賀稲荷神社 本殿
いずれにしても由緒ある神社は健在なのですからまた、新たな一歩を歩み始めるということですね。
社殿の右手には「須賀天神社」が鎮座しており、左手にはここにも「富士塚」が建立されています。
須賀天神社 富士塚 富士塚
とにかくこのエリアの富士信仰については篤いものを感じます。
ここまでが「備後」地区ですが、やはり古い歴史と信仰心の篤さを感じる町でした。
この後は、もう一方の「大畑」地区に向います。

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コメント

  1. 四季歩 | ipmCGEIo

    珍しいですね

    「孝心」塔というのは、初めて聞きました。
    庚申塔に、なにかを重ね併せたのでしょうか。
    私の近くには入間川が流れていますが、
    江戸時代、この川の氾濫によって、村の境界が変わり、訴訟が絶えなかったようです。
    その時の裁定の基準となる、三点測量の基準点が、
    「証文塚」として残っているのが数点あります。

    ( 21:56 [Edit] )

  2. 薄荷脳70 | -

    四季歩さん、ありがとうございます。

    確かに私も「孝心塔」は始めて知りましたが、「証文塚」というのもあるのですか。
    当然ながらまだまだ知らないことが沢山ありますね。
    まあ、これだから止められない言うこともあるのですが^^

    ( 03:03 )

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