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八幡歴史街道

法華経寺の後は、京成線の駅で言えば京成中山駅から2駅戻った京成八幡駅周辺に移動します。
ちょうど国道14号線・千葉街道沿いの市川市役所のあるところです。

葛飾八幡宮

駅から来ると国道14号線にある市川市役所の手前の左折する道路に石造りの鳥居があり、既にここからが参道となります。
葛飾八幡宮 葛飾八幡宮
江戸名所図会の挿絵の下部の左右に走る太い通りが、現在の14号線に当たるようです。
葛飾八幡宮 葛飾八幡宮
図会にも「舟橋街道」と記載されていますので鳥居の位置も当時と同じということになります。
宇多天皇の勅願で、将門の献幣、頼朝の改築、道灌の修復、家康の朱印というまさに由緒が着物を着ているくらい綺羅星のスターが登場する神社です。
参道を進んで気になるモノが参道の両側に並んでいます。
葛飾八幡宮 参道
装飾がされていますので、単なる石柱ではないようですが一体何なのでしょうかね。
京成線の踏切の先に二の鳥居を見ることができますが、その前に踏み切りの手前に1基の「改耕碑」なる碑があります。
改耕碑 改耕碑
先人の偉大な努力を表しているのでしょうが、確かにこの辺りが低湿地~水田だったことを思い浮かべるのは難しいことかもしれませんね。

随身門

踏み切りを渡り二の鳥居をくぐって抜けると朱の立派な「随身門」が現れます。
二の鳥居 随身門

随神門
和様、木造単層切妻造で、正面柱三間・奥行柱二間の「八脚門」と呼ばれる構造形式をもち、柱・梁や軒を支える組物に特色があることから、市の有形文化財に指定されています。
かつて屋根は萱葺でしたが、現在は銅板に葺替えられ、軸部の塗替も幾度か、なされた痕跡があります。
この門は、明治維新まで当神社の別当寺であった、上野東叡山寛永寺の末寺、天台宗八幡山法漸寺の山門でしたが、明治維新のいわゆる神仏分離によって、随神門と改称し、両袖に安置されていた仁王像も、そのときに行徳の徳願寺に遷され、現在の随神が奉安されました。
(現地案内板より)

名所図会にも当時の仁王門が挿絵に描かれており、「二王門には、表の左右に金剛・密迩の像、裏には多聞・大黒の二天を置きたり。」と記載されています。
随身門
現在ではこの様に左右両大臣像が祀られているのです。
随身門 随身門

浮谷竹次郎

随身門を抜けた参道の右手にある建物は「市川市市民会館」で、入口前に建立されている銅像には「浮谷竹次郎先生」と刻まれています。
市川市市民会館 浮谷竹次郎先生
この浮谷竹次郎とは初代市川市長を務めた方なのですが、調べてみたら実はあの伝説のドライバー「浮谷東次郎」の叔父なのだそうです。
浮谷東次郎 《浮谷東次郎:(C)英語の真髄を掴む! 》
東次郎の父、浮谷洸次郎が兄と言うことになるのでしょうが、当時の“ポルシェ・クラブ・ジャパン会長”が洸次郎だったのです。
いわゆる元々市川市における地元の名士で相当裕福な浮谷家だったということなのです。まあ、やはり財力が無ければ当時の議員、会長、そしてレーサーなどになれるわけがありませんからね。
余談ながら竹次郎はそのままとして、“洸次郎”も“東次郎”も長男なのに次郎とは如何に。。。
更に調べていて面白いことが判明しました。
浮谷竹次郎は初代市川市長ですから当然、現在市川市では名誉市民となっていますが、そのほかに東山魁夷、永井荷風などがいます。そしてその中に「式場隆三郎」という人も名誉市民になっているのです。
プロフィールによると、「明治31年生まれ。医学博士。式場病院を創設し精神科医として活躍する一方、国立美術館の建設促進運動を行うなど、文化・芸術の分野でも幅広く活躍され、各界に多大な貢献をされた。 画家の山下清氏を世に出したことでも知られる。享年67歳」となっています。
この式場隆三郎の甥がやはり伝説のドライバー「式場荘吉」なのです。
式場壮吉といえば、第2回グランプリでの生沢徹とのバトルである“スカイライン伝説”が有名です。圧倒的なパワーを持った当時のポルシェに乗った式場に対して、スカイラインに乗った生沢がポルシェを抜いたというエピソードなのです。
ポルシェ904 《ポルシェ904:(C)GAZOO.com》
この時、式場がポリシェに搭乗したのも、後に生沢がポルシャに乗ることが出来たのも浮谷洸次郎の口聞きに寄るものだという事です。 このように日本のモータースポーツ黎明期の中の2人のスターが市川市出身とは実に驚くべきことでした。
因みに現在の式場壮吉の奥さんはあの歌手の「欧陽菲菲」です。

参考:【浮谷東次郎 web site】http://www8.plala.or.jp/tojiro/tojiro.html

参道に戻ります。
市民会館の参道を挟んだ反対側には、和の佇まいが良い雰囲気を漂わせている建物がありますが、こちらは「市川市中央公民館」だそうです。
「市川市中央公民館
新潟県柏崎市の旧幕時代からの庄屋であった小熊家邸を移築したものだそうで、明治10年には明治天皇が北陸巡幸の際泊まり、徳大寺公爵や山県有朋なども訪れた由緒ある建物なのだそうです。

川上翁遺徳碑

参道を進むと右側に一つの重要な碑が立っています。「川上翁遺徳碑」です。
川上翁遺徳碑 川上翁遺徳碑
川上善六は寛保2(1742)年1月, 八幡村大芝原(現・ 八幡2丁目)に生まれ、幼少の頃から農業に励んだのですが、生活はかなり苦しかったようです。
その生活が苦しかった理由の一つとしては、先の改耕碑にもあったように、この地が低湿地の砂地であったことが挙げられます。つまり作物の出来が悪いために収入を得ることが出来ないということで、その悪地に対して善六はこの地質に相応しい農産物の栽培を試行錯誤しながら工夫していたようです。
転機が訪れたのは説明にある明和7年のことで、この年の8月15日からの葛飾八幡宮の祭礼の際に、境内に出店していた古本屋から中国の漢詩を集めた詩集で、その中の李白の「梨花白雪香」という言葉が善六に「梨」の啓示を授けたのです。時に善六28歳のときだそうです。
これ以降、善六は梨栽培に没頭したのですが当初成果は上がらなかったようです。そんな折、尾張・美濃の地方が梨の栽培で盛んであることを知り、寛政年中(1789~1801)に尾張・美濃地方を視察・研究の為に訪れたのです。この当時が47歳頃です。
視察の結果、尾張・美濃地方の土壌が八幡と同じ砂地であり梨の栽培にうってつけと確信を抱いた善六は、尾張藩の許可を得て梨の接ぎ穂を購入して帰路についたのです。当時、当然のように交通事情は不便で、梨の接ぎ穂を枯らさずに持ち帰るために、接ぎ穂をダイコンに挿し、道中の村々で新しいダイコンを買い求めては差し替え、差し替えして水分を切らさないように八幡まで持ち帰ったのだそうです。
こうして持ち帰った梨の接ぎ穂を法漸寺の境内で試験的に栽培し、数年後見事に梨を生育させたのです。そしてこの法漸寺の境内2,000坪を借りて梨園を開いたのです。

その当時の「法漸寺」と「梨園」の模様が江戸名所図会の挿絵に描かれているのです。
江戸名所図会 江戸名所図会 梨園
「梨園」には『梨園・真間より八幡へ行く道の間にあり二月の花盛りは雪を欺くに似たり。李太白の詩に「梨花白雪香ばし」と賦したるも諾なりかし。』と記載されていて、後世の善六の李白の詩集はこの辺りから創作されたものかもしれません。
そして善六の評価を更に上げたのが、この梨の栽培を独り占めしなかったことにあるのです。
善六はこの梨の栽培のノウハウを公開したことにより、この八幡の地を中心として梨栽培が広まり、当時の「八幡梨」は江戸市場を賑わし、江戸時代末期においては将軍家にも献上されるようになり、江戸周辺では特産地であることから高値取引により栽培農家の暮らしも楽になっていったのです。
そして実直な善六は律儀に尾張藩主に対しても毎年梨を献上し続け、享和元年(1801)には苗字帯刀も許されたそうです。晩年は漢学を学び教育者としての側面を見せながら文政12(1829)年、87歳で亡くなったのですが、善六の功績は市川市北部に広まり、更に松戸、鎌ヶ谷、船橋と葛飾地区一体に広まったのです。
その後、川崎市で「長十郎」、松戸市で「二十世紀」などの品種改良が進み、「八幡梨」は姿を消すのですが、梨栽培のルーツとしての市川市八幡は残り続けるのです。

旧暦の8月15日であるから現在の9月15日が例大祭ということになるのですが、余談ながら当時の例祭「放生会」についての概要です。

放生会
八月十五日に修行す。この日神輿渡らせらる。また同日、津宮といふことあり。
夕七時頃当社の社人ら集まり、華表の前にはばしらのごとく長き柱に白布を巻きたるを建て、上の方にてその白布を結び合はせて足をかくる代とす。念願ある人身軽になり、件の極の上へ登り四方を拝し、社の方を拝し終はりて下る。この行事は相州日向薬師にもありて、かしこにては推登といへり。その趣、相似たり。またその津宮柱の下に楽屋をまうけ、神輿帰社におよぶとき、獅子・猿・大鳥の形を粧ひて、この楽屋より出でて、笛・太鼓に合はせて舞ふことあり。同十四日より十八日までの間、生妻の市あり。ゆゑに土俗、生妻祭と唱ふ。マチは祭りの縮語なり。
(江戸名所図会より)

現在、この例祭時6日間に渡って「農具市(通称:ボロ市」が行われているそうですが、これは当時の生姜の市の名残なのか知れませんね。
こちらが神門で、右側にはこちらにも社号標が建てられていますが、社号の上に“元”の字が加えられています。
社号標 神門
参道口の社号標は比較的新しいもので、こちらは古くからあったものでしょう。
正面には立派な社殿が鎮座しています。ここから神域を参拝します。
社殿

駒どめの石

ここは頼朝が再起をかけた一戦のときに立ち寄った処です。
駒つなぎの石 駒つなぎの石 駒つなぎの石
駒どめの・・・、というのは結構各地にある物です。比較的多くあるのは「駒どめの松」かもしれません。石よりは木の方が馬を止めやすいのですが、若干“止め”の意味が違うようで、この石に馬を繋いだのではなく、石の上に馬が足を乗せたというような意味だそうです。
それはともかく、この頼朝の再起をかけた戦いは、【きょなん水仙の里】で詳細に調べました。この時の国府台では新たに上総介広常の約17,000の軍勢が味方に付いたことから、一気に加勢が付きはじめ、鎌倉に入るときには50,000に膨れ上がるきっかけを作った重要な地なのです。
名所図会では時に記述や記載が無いので、それ以降に伝承されたものかもしれません。

神楽殿

社殿の左手に綺麗な神楽殿があります。
神楽殿 神楽殿
神楽殿の奥に「神楽殿大絵馬」が掲出されています。
神楽殿
一般的には新羅出兵後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も日本の支配下となったことから“三韓征伐”と呼ばれています。
詳細は省きますが、「古事記」や「日本書記」に記載されているのでどこまでが史実なのか解釈が難しいのですが、戦前・戦中までは皇国史観の影響で史実と教えられていたわけですが、戦後では唯物史観により天皇制を批判する理論として用いられたこともあり、ストーリーの内容とともに、その解釈についても物議を醸し出した歴史学的に重要な事項なのです。
ここでは幕末に奉納された絵馬ですから、少なからず王政復古の気風から奉納されたものかもしれません。

千本公孫樹

社殿の右手には大きな木があります。天然記念物の「千本公孫樹」です。
千本公孫樹 千本公孫樹 千本公孫樹
江戸名所図会の挿絵にも当然ながら同じ位置で描かれています。
千本公孫樹
千葉県最大のイチョウだそうですが、雄株のため銀杏は取れず、ただただ紅葉を楽しむだけのようです。
見ての通り、幾つモノ木が寄り集まっていたため、ヘビが沢山いるように見えたのかもしれません。伝聞ではこの千本公孫樹のヘビを見たものは長生きするとかで、実際に見た女性は93歳まで長生きしたという話もあるようです。

鐘楼と古鐘

境内にはもう一つ珍しいものを見ることが出来ます。「鐘楼」です。
鐘楼堂
神社に鐘楼とは・・・、ということになりますが、前述されたように八幡宮の別当である法漸寺の鐘楼だったものですが、法漸寺が廃寺となって鐘楼だけ残ったということになるわけです。
更にここには古い梵鐘がのこされており、文化財となっているそうです。
その梵鐘は、寛政5(1793)年、葛飾八幡宮社殿の西側にあったケヤキの枯れ木が大風で倒れ、その根本から掘り出された梵鐘です。
梵鐘 《(C)市川市》
これについては江戸名所図会にも記載があるので掲載して見ます。

古鐘一口
(寛政年間枯れ木の根を穿つとてこれを得たり。その丈三尺七寸あまり、竜頭の側に「応永二十一年午三月二十二日」と彫り付けてあり)。按ずるに、応永は、鐘の銘にしるすところの元亨元年よりは、およそ九十有余年後の年号なり。もしくは応永の頃、乱世を恐れて土中へかくし埋めけるとき、その年号月日を刻するにや。
奉冶鋳鋼鐘
大日本国 東州下総 第一鎮守
葛飾八幡 是大菩薩 伝聞寛平
宇多天皇 勅願社壇 建久以来
右大将軍 崇敬殊勝 天長地久
前横巨海 後連遠村 魚虫性動
鳥鐘暁声 人獣眠覚 金啓夜響
永除煩悩 能証菩提
元亨元年辛酉十二月十七日
願主右衛門尉丸子真言  別当法印智円
(江戸名所図会より)

正式にこの梵鐘が鋳造されたのが元亨元年の1321年ですから、鎌倉幕府滅亡、いわゆる建武の新政の少し前のことです。梵鐘に“前横巨海後連遠村”とあるので、当時八幡宮の前はすぐ海だったことがわかるのです。
そして記載にあるとおり竜頭にタガネで引っかいたように書かれた「応永二十一年午三月二十二日」の日付ですが、図会では埋めた時期ではと推測していますが、現代でも諸説あって明らかではないようです。
当時のちょっとした気まぐれが現代のミステリーになっているところが歴史の醍醐味の一つでもあるといえそうです。

八幡不知の森

葛飾八幡宮から一旦国道14号線に戻った道路の反対側に鬱蒼とした竹林があります。
八幡不知の森
ここが「不知八幡森(通称・八幡の藪知らず)」という場所だそうです。
因みにこちらの絵が案内板では見難くなった「不知藪八幡之実怪」で、右側の鉄扇をもった老人が水戸黄門だそうです。
八幡不知の森 不知藪八幡之実怪
川上翁遺徳碑の際に「放生会」についての江戸名所図会の記述を記載しましたが、何となくニュアンスが違うようなきがします。
また、江戸名所図会のこの森の説明には八幡宮鎮座の地であるからという説を主としているようです。
八幡不知の森
しかしながら面白い説も記載されています。

・・・またある人いふ、この森の回帯はことごとく八幡の地にして、森の地ばかりは行徳の持ち分なりと。このゆゑに八幡村のうちに入り会ふといへども、他の村の地なるゆゑに、八幡の八幡しらずとは字せしと。さもあらんか

このあたり一体は八幡荘ではあったのですが、この森だけが行徳荘の領域だったために、八幡の人もここだけは知らなかった、といったような意味です。
中央に不知森神社の鳥居と小祠があり、右手には安政の「不知八幡森」の碑があります。
不知森神社 八幡不知の森
いずれにしても江戸時代の樹海ということでしょうか。
八幡不知の森 八幡不知の森
それにしても八幡地区の中心で、しかも市役所が目の前という市川市の中心でもある地に、開発されずによくこの藪が残された物です。
現在の八幡
歴史的、文化的に価値の高い貴重な場所であると、地元ではずっと認識されていたのでしょう。

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