真間歴史街道

八幡地区の散策を終えて最後に訪れるのが、やはり京成線を遡った市川真間駅・国府台駅周辺です。
駅名でもわかるとおり、このあたりは下総国の国府、いわゆる現在の県庁のような地域であることから、歴史的にも見所の多いエリアなのですが、時間の都合もあり今回は「弘法寺」という古刹を中心に散策します。

真間の継橋

弘法寺の参道を進むと朱の欄干があります。
真間の継橋
「つぎはし」と刻まれた石碑とともに案内板があります。
真間の継橋
この真間の継橋は、弘法寺の山門から国道14号線に至る「大門通り」にかけられた橋で、このように現在では赤く塗ったコンクリート造りの欄干が取り付けられているので、橋というよりはモニュメントと考えても良さそうです。
当時は上総国府と下総国府を結ぶメインストリートながら入り江によって道も分断されており、それをつなぐ橋として「継橋」があったようです。
江戸名所図会では「二つの橋の中なる小橋をさしていへり」とあり、いくつかの橋があったとも考えられるようです。
挿絵ではこのような状況であったようです。
真間の継橋
橋の先は入り江となっているようですから、所謂、すぐ近くが海であったと考えてもよさそうです。
そう言っても特に珍しい橋でも無いのですが、この継橋がクローズアップされたのは、ひとえに万葉集に詠まれた橋だったからなのです。

その歌がこちらです。
『足の音せず行かん駒もが葛飾の真間の継ぎ橋やまず通はん』
案内板では、“足音せずに行く駒が欲しい、葛飾の真間の継橋をいつも手児奈のもとに通いたいものだ”と現代訳されていますが、万葉集に詳しければすぐ理解できるのでしょうが、全く何も知らない人(私です)には、この訳自体の訳が欲しいと思うほどです。
この歌については先送りするとして、それ以外にもこのあたりを詠まれた歌が江戸名所図会に記されています。
真間の浦:『葛飾の真間の浦廻を漕ぐ舟の舟人騒ぐ波立つらしも』
真間の入り江:『葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけん手児名し思はゆ』
といったように、橋のみならずこのあたり一体が風光明媚だったということかもしれません。それゆえ、万葉集に多く残されていたといえるかもしれません。先の継橋の挿絵にその入江の様子も描かれていました。
その光景を絵にしたのが歌川広重の名所江戸百景での「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」と題する一枚なのです。
真間の紅葉手古那の社つぎ橋
この意味するところは“真間の紅葉の名所である弘法寺から「手児奈の杜」と「継橋」を望む”ということで、これがかつて万葉集で詠まれた伝説の地を凝縮させたような絵なのです。

そして解説では、この伝説の地を人々の心から失わせないように憂い行動したのが鈴木長頼で、その伝説の推定地に碑を立てたものが、「真間の三碑」として現在でも残っているのです。
その一つがこの継橋の袂にある碑です。
真間の三碑
これからこの万葉の地を巡りますが、現代でもこの伝説の地を知っていただくために街ぐるみでこのような“万葉歌パネル”を掲出し手いるようです。
万葉パネル
また、すぐ目の前には「話飲茶屋 つぎはし」という喫茶店もあり、万葉の地を後世に伝える意味も含めて興味深い地ともいえそうです。
話飲茶屋 つぎはし

手児奈霊堂

継橋の先の右手には「手児奈霊堂」の参道口があります。
手児奈霊堂
ここにも案内板とともに先の「真間の三碑」の二つ目である“真間万葉顕彰碑(真間娘子墓・真間井)”があります。
真間の三碑
案内板によれば、かつてこの地に“手児奈”という美女がおり、多くの男性から争って求婚されるのですが、「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」と悩み、海に行くとちょうど夕日が輝いていて、「あの夕日のように海に入っていきましょう」と海に身投げをし、翌日、浜に打ち上げられた手児奈の亡がらを里人は手厚く葬ったという伝説がこの地にあったそうです。
この話をたまたま聞いた行基が、奈良時代の天平9(737)年に「求法寺」を建立し手児奈を手厚く弔ったのです。そしてこの地にあった手児奈の「奥津城処」(墓所)と伝えられるところを文亀元(1501)年、弘法寺の日与上人が手児奈の霊を祀る霊堂として世に広め、「子授け」「安産」「良縁」といった信仰を集めるようになったのです。
このような悲しい伝承は全国に多くあるようですが、身近なところでも埼玉県蓮田市の【黒浜沼】でおとずれた「寅子石」なども同じような伝説でした。こういった伝説などから“美人薄命”という言葉がが生まれたのでしょうか。

早速境内を参拝します。
参道の左手に歌碑があります。
万葉歌碑
『われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名が奥津城処』
これは長文の歌の一部だそうで、伝承による手児奈の墓所は年月によりその墓の所在は良く判らなくなってしまっているけれど、手児奈の伝承だけは決して忘れないでしょう。そしてとにかくもこの地に来たのだから、多くの人たちに手児奈の墓所のことを話します、というような意味のようです。
つまり、この歌を詠った山部赤人たち万葉歌人がこの下総国府を訪れたときには、既に手児奈は伝説の人として語り継がれていたということなのです。
時系列的にも万葉集成立の20年前には先の求法寺が建立されているのですから、この伝説を中心として万葉の歌人にとっては格好の題材のあった地だったと考えられるのです。
この伝説を知れば先の「継橋」での歌もやっと理解できるわけです。

正面にあるのが霊堂ですが、その手前に面白いものを見つけました。「さだまさし」奉納の“縁結び 桂の木”だそうです。
手児奈霊堂 縁結び 桂の木
まあ、この類の因果関係には目が無いであろう(と、思われえる)“さだまさし”らしい奉納です。
それにしても市川市に住んでいたとはファンである家内も知らなかったようですが、これを見て狂喜乱舞したのは言うまでもありません。
霊堂の右手には蓮池があり風情を醸し出しています。
蓮池
ここが真間の入江の名残とも言われているところです。
名所図会の挿絵でも入江の目の前にあるのがわかります。
手児奈霊堂
その前には見事な松も植えられています。
松
更にその先には「真間稲荷神社」があり、少なくとも江戸時代以前の建立ですから地元の人たちに親しまれてきた稲荷社といるのでしょう。
真間稲荷神社 真間稲荷神社
手児奈伝説と万葉の人々の息づかいが聞こえてきそうな手児奈霊堂でした。

亀井院

手児奈霊堂の斜め前にあるのが「亀井院」で、やはり案内板と一緒に「真間の三碑」の三つ目の“真間万葉顕彰碑(真間井)”があります。
亀井院 真間の三碑
ここでの歌は、『葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけん手児名し恩ほゆ』で、葛飾の真間の井戸を見ると、いつもここに立って水汲んでいたという手児奈が偲ばれます、と詠った歌です。
手児奈が継母に仕え真間の井戸の水を汲んでは孝養を尽くしたという手児奈伝説を思っての歌のようです。
その井戸が本堂の裏手にあります。
真間井
但し、これは新たに作られたもので、元々は清水が湧き出ていたと考えられているようです。

後先になってしまいましたが、その本堂がこちらです。
亀井院
もともとは1638年、弘法寺の日立上人が貫主の隠居寺として建てたもので、古くは清水が湧き出ていたことから「瓶井院」「瓶井坊」と呼ばれていて弘法寺の子院の一つでした。後に弘法寺の大旦那である鈴木長常を葬った際に「鈴木院」と改称したのです。
その時の挿絵が江戸名所図会に記されています。
鈴木院
しかし、江戸時代、鈴木長常の息子・長頼が前述した切腹により鈴木家が没落し、井戸に霊亀が出現するという伝説から「亀井院」と改称され現在に至るのです。
このようにここ亀井院もまた伝説と万葉に彩られた名跡なのです。
こうしてみてきた「継橋」「手児奈霊堂」「真間の井」は現代の名勝だけではなく、江戸時代でも名所旧跡として注目されていたのです。

真間の手児名旧蹟 
同所継ぎ橋より東の方、百歩ばかりにあり。手児名が慕の跡なりといふ。後世祠を営みてこれを奉じ、手児名明神と号す。婦人安産を祷り、小児疱瘡を患ふる類、立願してその奇特を得るといへり。祭日は九月九日なり(伝へいふ、文亀元年辛酉九月九日、この神、弘法寺の中興第七世日与上人に霊告あり。よつてここに崇め奉るといへり。『春台文集』「継ぎ橋の記」に、手児名のことを載せたりといへども、その説里諺によるのみにして証とするに足らず)。
『清輔奥義抄』に云く、「これは昔、下総国勝鹿真間野の井に水汲む下女なり。あさましき麻衣を着て、はだしにて水を汲む、その容貌妙にして貴女には千倍せり。望月のごとく、花の咲めるがごとくにて、立てるを見て、人々相競ふこと、夏の虫の火に入るがごとく、湊入りの船のごとくなり。ここに女思ひあつかひて、一生いくばくならぬよしを存じて、その身を湊に投ず。(中略)またかつしかのままのてこなともよめり。真間の入り江、真間の継ぎ橋、真間の浦、真間の井、真間の野などよめる、みなこのところなり」云々。

このように江戸名所図会にも記載されているのですから、伝説とともに古の万葉時代、そして風光明媚な処として紹介していたようです。
江戸時代でも万葉集などには関心が高かったことが窺えるところです。

真間 弘法寺

亀井院から再び大門通りに戻って、先ほどの挿絵にあった弘法寺を訪れます。
先ほどの挿絵にもあったように、今までの江戸名所図会での挿絵は「弘法手」全景の挿絵です。
弘法寺
現在と同じように手児奈の名所とともにかなり大きい寺院であることが判ります。
大門通り進むと弘法寺の石段が見えてみます。
弘法寺
結構段数のある石段ですが、ここに面白い石があり、下から27段目の一つの石だけが常に濡れているのだそうで、通称「なみだ石」と呼ばれているようです。
涙石
この由来は、亀井院の由来とも重なるのですが、江戸時代、作事奉行の鈴木修理長頼が日光東照宮の造営に使用する石材を伊豆から船で運ぶ途中、市川の根元付近で船が動かなくなったのです。 長頼は「父の菩提寺である近くの弘法寺に仏縁あり」と、積み込んでいた石を勝手に弘法寺の石段に使用したのだそうです。これにより長頼は幕府から責任を追求され石段で切腹し、その時の無念の血と涙が染み込んでいるという言伝えがあるのだそうです。
伝承としては実に興味深いのですが、実際のところは何かの具合で、ここに湧水が滲み出てきていると考えたほうが現実的だと思うのですが、やはり歴史ロマンとしては「なみだ石」となるのでしょう。

仁王門・鐘楼堂

石段を上がりきると正面にそのまま歴史を感じさせられそうな、重厚な「仁王門」が鎮座しています。
仁王門
それにしても実に見事な阿吽像です。
仁王像 仁王像
現在残存している建造物の中で最も古く、明治にあった大火の被害にあわなかった建造物だそうです。
更にこの仁王門に掲出されている「真間山」の扁額は、空海の記したものであるとも言われているものです。
「真間山」の扁額
また、仁王門の右手にある「鐘楼堂」も古い建造物で、こちらも明治の大火で残ったものだそうです。
鐘楼堂

縁起によれば、手児奈霊堂の創立縁起である奈良時代の天平9(737)年行基の求法寺建立後、それから100年ほど経た平安時代の弘仁13(822)年に弘法大師が来られた際に、求法寺を七堂伽藍に再建し「求法寺」を「弘法寺」と改称したのです。しかしながらその約60年後には真言宗から天台宗に改宗しているのですが、このあたりの理由は良く分かりません。
その後、鎌倉時代の建治元(1275)年に当時の住持・了性法印尊信と中山法華経寺・富木常忍(日常上人)との問答対決により了性法印尊信が敗れたことにより天台宗から日蓮宗に改宗し常忍の子で日頂を初代の貫主としたのだそうです。
いわゆる乗っ取られたようなものですが、この初代貫主の日頂上人も父である日常上人から勘当された身ですから、ある意味厄介払いの意味合いもあったのかもしれません。そしてこの日頂上人がこれを悲しんで泣いていたのが法華経寺で見た「泣き銀杏」ということになるのです。
こうして真言宗、天台宗、日蓮宗と改宗した弘法寺も、室町時代から江戸時代にかけては発展期となり、家康からは朱印地30石を与えられるようになったのです。
その後、水戸光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈り、紅葉の名所として知られるようになったのでそうですが、この時に「八幡の藪知らず」に立ち寄ったのでしょうかね。
順調に発展した弘法寺ですが、明治の火災のため「仁王門」「鐘楼堂」を残して諸堂を焼失し、その時焼失した諸堂は明治23(1890)年に再建されたのだそうです。明治とは言いながらも100年以上経過しているのですから、これらも貴重な建造物といえなくもないのです。
これは江戸名所図会にも挿絵として掲出されています。
江戸名所図会
当時から広い境内をもった名刹であることが窺えますが、弘法寺の石段も仁王門も鐘楼堂も凡そ当時のままのようです。

釈迦堂と祖師堂

仁王門を抜けて境内に入ると実に壮観な光景を目の当たりにします。
境内
正面が本堂と思いきや、さにあらず「祖師堂」だそうです。
祖師堂
祖師堂というくらいですから宗祖の日蓮聖人は勿論ですが、開基日頂聖人と第二祖富木日常聖人も祀っているそうです。この堂宇は新しく平成22年に建設された総ヒノキつくりで、「行基葺き」という行基が考案したとされる屋根瓦を使用しているのだそうです。
江戸名所図会では釈迦堂と並んでほぼ現在の位置にありますが、当然焼失したため明治期に再建され、更に平成に再び再建されたということになりますね。
釈迦堂と祖師堂
因みにこの「行基葺き」とは「本瓦葺」のフラットな造りに対して、変化をもたせた瓦屋根なのです。
行基葺き 《元興寺:左3列が「本瓦葺」で右3列が「行基葺き」》
それでは本堂はと見ると、一番左手にあるコンクリート造りの建造物で、ここでは「本殿」と言っているようです。
本殿
現在、かつて釈迦堂にあったこ釈尊像は、この本殿に祀られているのです。
祖師堂と本殿を繋ぐ中央にある大きな建物が「客殿」で、平成9年に作られたそうです。
客殿
したがって江戸名所図会の釈迦堂と祖師堂が離れ、その間に客殿が作られたということになるわけです。
若干古刹の趣が薄れてしまいますが、荘厳さはより強調されているのではないでしょうかね。

伏姫桜

祖師堂の斜め前にあるのが「伏姫桜」という枝垂桜です。
伏姫桜
いつ誰が命名したのかは不明だそうですが、樹齢400年以上経過している老木だそうです。
江戸時代には釈迦堂の前に楓の樹という老木があったようですが、特に伏姫桜についての記述はないので、それ程目立った存在ではなかったのかもしれません。

赤門

ここから境内を左手方向に進むと赤い門があります。
赤門
正式には「朱雀門」というそうですが、旧弘法寺の本堂の正面に位置しています。弘法寺の中で明治の大火のを受けずに現存する「仁王門」「鐘楼堂」よりも古く、推定500年くらいではないかといわれている朱雀門です。
江戸名所図会の挿絵にもそれらしき門が描かれています。
赤門
但し現在、朱雀門には「人間学校」なる札が掲げられていて、旧本堂及び庫裡が写経会や俳句教室といった生涯学習の道場になっているようです。
人間学校 道場
そしてかつて本堂のあった場所の周辺には、「大黒堂」や「龍神堂」が建立されていました。
大黒堂 龍神堂
丁度、この弘法寺の裏手が千葉商科大学となっていて、こんな貼紙が掲出されていました。
人間学校
やはり人間学校で修行する必要があるのかも知れませんね。(笑)

このように万葉の時代以前からの歴史と由緒、そして伝説を持った実に興味深い古刹でした。
これからも弘法寺は手児奈伝説と万葉の人々の思いを込めて、歴史を作り続けて行くことでしょう。

こうして「大町梨街道」から中山・八幡・真間と繋がった「歴史街道」を散策してきましたが、実に楽しい散策でした。
食べどころ、見どころ満載といった感じですが、梨も歴史もまだまだ知らないところが一杯のようです。
千葉県だからということもあったのですが、ここまで濃い歴史に彩られていた街とは思いもよりませんでした。調べてみれば歴史以外にも文学や風俗などにも見るべきものは沢山あるようです。
来年もまた梨を仕入れに来たときに散策をしてみたいものです。

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コメント

  1. kame-naoki | -

    弘法寺

    こんばんわ。

    私も以前、境内にある古墳を見に行きました。仁王門がとても立派で驚きました。

    ( 16:59 )

  2. kame-naokiさん、ありがとうございます。

    古墳もあったのですね。
    それは知りませんでしたが、さすがに歴史のある寺院だからでしょうね。

    ( 05:52 )

  3. pansy | -

    こんばんわ。

    万葉集は全く分かりませんが、真間の三碑には興味があります。現代人と違い、当時の方は表現を含め全てに奥ゆかしいのですね。
    弘法寺は江戸名所図会と比べても変わっていないようですから、往時、広重が紅葉の名所として弘法寺からの情景を描いたように、もしかしたら11月末頃には境内からの同じようなスポットがありそうですね。
    それと、行基葺きは初めて見ましたが、小さい植木鉢を重ねた(こんな表現は失礼ですが)様な感じです。
    これは実際に見てみたいですね。
    それにしても・・・薄荷脳70さんのレポートを読み終わると、もうすっかり自分で行った気分になる…すごい魔力です。

    ( 20:09 )

  4. pansyさん、ありがとうございます。

    うれしいお褒めのお言葉をいただき、うっかり有頂天になりそうですw
    おっしゃるとおり秋の紅葉は一見の価値があるのかも知れませんね。
    千葉で江戸風情というのも面白い取り合わせかもしれません^^

    ( 03:42 )

  5. kshun10 | -

    歌川広重の名所江戸百景、いいですよねぇ。仕事でも接する機会があります。「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」はよく知らなかったですが、いい絵ですね。
    千葉県にこんな風情あるところがあるとは、知らなかったです。

    ( 12:14 )

  6. 薄荷脳70 | -

    kshun10さん、ありがとうございます。

    当たり前ながら、いたるところに、素晴らしい場所は一杯あるのですね。
    少しずつでもそれらを知ることが、血となり肉となるwww
    kshun10さん、ご自身のブログでもそのあたりのところ楽しませていただいていますから^^
    それにしても名所江戸百景に触れられるお仕事とは、素敵なお仕事ですね。

    ( 07:26 )

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