やぶさめ祭 #1

午後からはいよいよ「やぶさめ祭り」です。
資料館の方から事前に余り遅くなるとかなり遠くの駐車場になってしまうといわれていたので、PM12:30少し前には到着しました。幸いにも歩いて5分くらいの距離の神社の横手の図書館の臨時駐車場に停めることができました。「夕的」はPM2:00からなので、時間は十分あり、まずは福祉会館での「やぶさめ交流展」に向います。

やぶさめ交流展:1

「毛呂山町福祉会館」も、かなり立派な建造物で、その交流展は一階で開催されています。
福祉会館

もろ丸くん やぶさめ交流展 早速、交流展に向うとやはり居ましたゆるキャラは「もろ丸くん」というそうですが、「もろ丸くん」を見送って交流展に入ります。

やぶさめ交流展 やぶさめ交流展は先の説明にあったとおり、各地のやぶさめ行事の概要や衣装などの道具の展示などがブース展開で行われています。

サミット総合案内解説書 最初に「サミット総合案内解説書」をいただき、今回のやぶさめサミットについての概要をうかがいました。

今回のサミットのメインはシンポジウムで、参加9団体からの事例報告が主となっているようです。まずはこのシンポジウムの開催趣旨を確認しておきます。

シンポジウム開催趣旨概要
現在、全国各地に今日まで伝えられている流鏑馬は、神社の例大祭をはじめ、いわゆる祭礼の中の奉納行事として行われているものが圧倒的に多いようです。各地の流鏑馬の持つ伝承・由来をたどると源氏棟梁の東征にまつわるもののほか、領主であるその地方の武士、豪族との関わりをもつものなどさまざまです。
それぞれの流鏑馬が民族行事として、古文書等の有形の歴史資料とともに受け継げられ、また、中途で途絶えた流鏑馬でも貴重な歴史遺産として記録され、語り継がれてきました。
人と馬の文化である流鏑馬は、現代にあっては継承が極めて困難な状況におかれていると換言することもできるでしょう。
シンポジウムのテーマ(やぶさめをまもる)にあるとおり、流鏑馬文化を以下に継承していくかを考え、共通認識を持つかが大きな目的となりますが、本会を開催するにあたり、各地で行われている流鏑馬を、大きく2つの系統に分けています。
一つは、小笠原流、武田流といったいわゆる流派によるもので、確固たる理念のもと継承がなされている流鏑馬、これらをここでは「流派流鏑馬」と呼びます。
もう一つは、流派に影響を間接的に受けているにしろ、流派流鏑馬とは異なり、その地域の人たちが自ら射手を務め、馬に関わる流鏑馬、これらを流派流鏑馬に対して、「民俗流鏑馬」と呼ぶことにします。
そして本会では、地域住民が直接携わる民俗流鏑馬に絞って取り上げていきます。地域文化としての流鏑馬の持つ危うさを主題として考えていきたいためです。
民族流鏑馬が抱える今日的課題として、・馬が身近にいない時代にあって、馬の調達の問題、・子ども流鏑馬が直面する少子化の問題、・地域コミュニティに希薄化と運営の問題、・古式を維持する上で生じる社会との問題、・観光化と文化財の共生、等が挙げられます。
一方で、・途絶えた流鏑馬の復活事例、・馬の調達克服例、など興味深い報告もあります。
発表事例は、実際に携わる人たちの言葉であり、生きた情報です。上記の課題と取り組みをさらに掘り下げ、光明を見出そうとチャレンジすることに本会の大きな意義があると考えます。
毛呂山町 毛呂山町教育委員会 やぶさめサミット実行委員会』(「サミット総合案内解説書」から一部抜粋・引用)

流鏑馬に限らず全国的にメジャーな祭礼は別として、多かれ少なかれその運営・維持には関係者の多大な努力があることは十分理解できます。ヒト・モノ・カネにおいてどのように調達するかがポイントでしょうが、突き詰めればやはり財源をどのように確保するかが一番の悩みのタネでしょう。
祭礼の場合、多くは寄附などで賄われているようですが、嘗て訪れた本庄市での「本庄祭り」の関係者の方は、不況による企業からの寄附・献金が非常に減っているため、祭りの運営も徐々に規模を縮小せざるを得ない、と言われていました。
また、一方では地域の人々の無関心化も進んでいるようで、このような祭りを取り巻く環境は悲しいかな厳しい状況なのが一般的なのでしょうね。何もできない第三者である我々には、今後の発展を祈るのみです。

このように流鏑馬を始めとして各種の祭礼行事には困難が付きまとってはいるのですが、ともかくも現実にはこの様に祭りとして賑わっているのですから、気持ちも切り替えて、これからは流鏑馬を楽しむ時間としましょう。
各ブースを廻ってみます。各ブースには係りの方が熱心に説明をしていらっしゃいます。

◆茨城県土浦市「日枝神社の流鏑馬」(茨城県指定無形民俗文化財) 

『茨城県土浦市の日枝神社では、毎年4月第1日曜日に流鏑馬を行っています。
当社の流鏑馬は物語を儀式化したものといわれます。昔、日枝神社にすみついた大猿が村人から人身御供を出させるため、これを退治しようと代官小神野従羅天が弓の名手市川将監に依頼し、大猿がすんでいるコウカの木(ネムノキ)めがけて矢を射るというものです。小神野従羅天と市川将監の役はそれぞれ末裔に当たる当主がつとめます。人身御供の稚児は、東城寺のある東城寺地区から小学生の男児が選ばれます。人身御供は「壱物」と呼ばれ、華やかな衣装をまとい、顔には化粧を施し、頂部に山鳥の羽を刺した花笠を被り、大勢のサキバライたちを従え登場します。まず、小神野従羅天が馬場を一度走り抜け、次に壱物が馬場を4往復します。次に鎧姿の市川将監が馬場に設けられた的を7回騎射し、流鏑馬を行います。大猿の見立ててコウカの木で作られた的のうち、当り的は希望者に分けられています。』(「サミット総合案内解説書」より)

茨城県土浦市「日枝神社の流鏑馬」ブース 中央に展示されている緋色の着物がその壱物の稚児の着る着物のようです。

茨城県土浦市「日枝神社の流鏑馬」 豪壮な流鏑馬と言うよりは、華麗で演出的な流鏑馬なのでしょう。
写真で見る限り、かなりゆっくりした徒歩程度の歩みで流鏑馬が行われているようです。
《写真:(C)「サミット総合案内解説書」より》

それにしても、小神野従羅天と市川将監の役はそれぞれの末裔が勤めるといったところが実に興味深い流鏑馬です。

◆静岡市袋井市「梅山八幡神社の流鏑馬」

『静岡県袋井市の梅山八幡神社では、毎年、10月第2日曜日に流鏑馬を行っています。古くは21ヵ村で10頭の馬を出し、3ヶ所の神社で流鏑馬を行いましたが、昭和19年、戦争により休止しました。その後、平成2年に梅山八幡神社のみ復活し、現在に至っています。当地の流鏑馬は、10歳前後の男児が行うことが特徴です。流鏑馬を行う馬を的馬といい、的馬に従う馬を従陸掃といいますが、今日では両馬の乗り子とも的に矢を射ることにしています。その後、的馬と従陸掃は馬場に立てられた的に矢を放つ流鏑馬が行われます。梅山八幡神社の流鏑馬は、元々の祭礼には無かった町内巡行や射手の人数を増やすなど地域のイベントとしての色彩を強め、復活しました。』(「サミット総合案内解説書」より)

静岡市袋井市「梅山八幡神社の流鏑馬」ブース 展示されている衣装の黒色の着物は的場の射手が着るもので、黄色の着物は従陸掃が着る着物です。
これは黒が衣装として格上であることを表しているのだそうですが、現代では色付きの方が人気があるそうです。これも時代なのでしょう。

静岡市袋井市「梅山八幡神社の流鏑馬」ブース また、隣にある王冠の様なものは的場と従陸掃が付ける冠だそうですが、これにも格があるようですね。

静岡市袋井市「梅山八幡神社の流鏑馬」 実際の様子は確かにのんびりとした雰囲気で行われている様が、イベント的であることを物語っているようです。
《写真:(C)「サミット総合案内解説書」より》

この「梅山八幡神社の流鏑馬」は、今後の流鏑馬の方向性の一つである現在に合った流鏑馬の在り方なのかもしれません。

◆長野県大町市「若一王子神社の流鏑馬」(長野県指定無形民俗文化財)

『長野県大町市の若一王子神社では、毎年7月第4日曜日に流鏑馬を行っています。当社の流鏑馬は、ボボと呼ばれる6歳から9歳くらいの男児が射手を務めます。ボボは化粧を施し、神の依りましとなり、汚れた地面に足を着けずに神の子として1日を過ごします。伝承によれば、中世に当地を治めていた仁科氏によって流鏑馬がもたらされたといわれています。
現在は地内の10町から10騎の馬が出されており、祭礼当日は、10町最北端の三日町から流鏑馬の隊列(射隊)が出発し、続いて他の9町があいさつを交わしてから順に列の後についていくため、長い行列が市街地を巡行します。神社では馬場に設けられた3つの的場で騎射を行います。最初の3回は矢を放たず、次の3回は矢を射て的に当て、最後の3回は的を矢につけます。流鏑馬が無事終了すると、ボボは絣に着物に着替えて射隊とともに帰路につきます。』(「サミット総合案内解説書」より)

長野県大町市「若一王子神社の流鏑馬」ブース 展示されているのはボボの着る狩衣のようで、稚児用ですから華やかでかわいらしい衣装です。

長野県大町市「若一王子神社の流鏑馬」ブース また、隣には頭に被る三蓋笠といわれるもので、笠の頂部には鳥があしらわれています。
なかなか凝った造りの笠ですね。

長野県大町市「若一王子神社の流鏑馬」 華やかながらも凛々しさのある稚児流鏑馬です。
《写真:(C)「サミット総合案内解説書」より》

◆千葉県鴨川市「吉保八幡神社の流鏑馬」(千葉県指定無形民俗文化財)

『千葉県鴨川市の吉保八幡神社では、毎年9月第4日曜日に流鏑馬を行っています。当社の流鏑馬は、文永年間(1267から1275)に始まったとされています。流鏑馬を行う射手は「禰宜」と呼ばれ、現在でも約1週間のお篭もりをし、毎朝境内の井戸で水垢離をとり、身を清めて流鏑馬に臨みます。
的板は長い竹に取り付け、馬場から約15mと遠く離れた田んぼの中に3本立てます。的板には一番(早稲)、二番(中稲)、三番(晩稲)と書かれ、矢の命中によって稲の作柄の豊凶を占います。的を支えた竹は人々が細かく割って持ち帰り、農作物の虫除けや魔除けとしています。これは当社のある長狭郷一帯が、稲作地帯であるためでしょう。
また、鴨川市南部の嶺岡山系は平安時代から「牧」が置かれていたといわれ、当地が古くから馬の産地だったことは流鏑馬と深い関係があるのかもしれません。』(「サミット総合案内解説書」より)

こちらの流鏑馬はあくまでも神事としての意味合いが強いようで、華麗な衣装や荘厳なる造形もなく、儀式としての重みを強調しています。
お篭りの1週間も単に水垢離だけしているのではなく、矢作りも行っているそうです。
千葉県鴨川市「吉保八幡神社の流鏑馬」ブース したがって展示されている衣装も白一色の狩衣姿に陣笠のみという、謂わば武士を髣髴とさせるシンプルないでたちなのです。

千葉県鴨川市「吉保八幡神社の流鏑馬」 実際に的を射ている写真がこちらですが、係りの方によると今年は1本も的に当たらなかったそうです。
《写真:(C)「サミット総合案内解説書」より》

矢の命中により豊凶を占う神事ですが、3本とも当たらない場合は大凶作とでもなるのでしょうか。係りの方の話では、占いはあくまで占いで、その占った結果をどのように解釈するかは、その占いの結果を知った人それぞれの考え方です、と。
基本的には3本当たらなかった占いの結果は凶作ですが、地域住民は凶作になるかもしれないから一所懸命働こう、とか今年は注意しなければならない、といったポジティブシンキングで占い結果を判断すると、係りの方が熱く語っておられました。なかなかユニークな流鏑馬ですね。
因みに私の親戚がかつて鴨川市に住んでいたので、子供の頃は毎年夏に、そして現在では墓地があるので墓参りにたまに訪れます。それでも吉保八幡神社は知らないので、係りの方に鴨川市のどのあたりなのかお聞きしたところ、係りの方は毛呂山の方だそうで、よく分からないとのこと。それでも熱く語っていただいたのは、何よりも流鏑馬への思いが込められているのだろうと返って感じ入りました。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks