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「目黒の・・・」由来 #2

目黒区民センターを抜けて再び目黒通りにで、そこからは目黒通りを西に向います。
当初はポツポツと雨も落ちてきた曇天だったのですが、この辺りからなぜかピーカンの様子に代わり、どっと汗の出る気温になってしまいました。
まあ、雨の中よりは良いですが、まだまだ残暑が厳しいというのも辛いものです。

目黒の鎮守

目黒通りを進むと山手通りと交差します。
大鳥神社交差点
この交差点が“大鳥神社”交差点で、交差点の角にあるのが「大鳥神社」です。
立派な社号標と鳥居が鎮座しています。
大鳥神社 大鳥神社鳥居
この神社は日本武尊の東征にゆかりがあるといわれた地に、大同元(806)年に創建された目黒区内最古の神社で、室町時代の地図である「長禄江戸図」に古江戸9社の1つであり目黒村の総鎮守だったと記載されているそうです。
この“日本武尊の東征のゆかり”とは、そもそも景行天皇(71~130年)の時代に国常立尊を祀った社があり、景行天皇の息子である日本武尊が東夷平定の際、ここに立ち寄って平定祈願と部下の“目の病”の回復を願ったところ、見事平定と回復がなされたことから、持っていた「十握剣」を奉納したというゆかりのある地だったのです。この剣が「天武雲剣」で、この神社の社宝となっているとのことです。
そして日本武尊が亡くなると、その霊がこの地に白鳥として現れたことから「鳥明神」として祀り、大同元(806)年に社殿が造営されたのです。
したがってこの大鳥神社の社紋が“鳳”を用いているのもこのためなのだそうで、長禄江戸図では「鳥神社」として描かれていたようです。
賽銭箱についている紋が、確かに“鳳”であることが見て取れます。
鳳の紋
そして江戸時代当時の模様が江戸名所図会の挿絵にもあります。
江戸名所図会「大鳥明神社」
このように江戸時代においてはは「大鳥大明神社」として描かれていたのです。

江戸時代当時、農作業のときに唄われる“麦打唄”には、「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅」と唄われたとあります。
当時の目黒三社といわれたもので、大鳥は大鳥神社、不動は目黒不動、金毘羅は高幢寺金毘羅権現社のことだったようですが、高幢寺は現在廃寺となっているそうです。
この様に庶民に親しまれたのは、由緒があるだけではなく、江戸時代のエンターテイメントとしての親しみもあったからのようなのです。
その一つが毎年11月に開かれる酉の市で、東京ではかなり歴史のあるものの一つと言われ、都内有数の賑わいを見せるのだそうです。
この酉の市のいわれは、日本書紀に「27年10月己酉に日本武尊を遣して熊襲を撃つ」との記載から、日本武尊の出発日が酉の日だったことから起こったと伝えられているものです。
そして元々は付近の農民が野菜や実用品を売るために開かれていたらしい市が、天保6(1835)年11月、初の酉の日に下目黒の造り酒屋、大国屋與兵衛が浅草から熊手を取り寄せたことから、酉の市として始まったのだそうです。
毎年この酉の市の日には供物として神前に八つ頭と熊手が奉納されます。これは“八つ頭”が日本武尊が東征の時、八族の各頭目を平定した功業を具象化したもので、熊手は、日本武尊が焼討ちの難に遭ったとき先が三方に分かれた金属製の熊手を持ってその火を防ぎ、九死に一生を得たことをしのぶものであるからなのです。
それがいつしか八つ頭は人の頭の上に立つように出世でき、熊手は家の中に宝をかき込むという縁起物となり、かつての神事から農民の市、そして庶民に親しまれるエンターテイメントの酉の市に変化してきたのです。
更に毎年9月の例大祭も賑やかで、目黒通りに大小30余基の神輿が勢揃いするそうです。そして社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されるのですが、当然この剣は「十握剣」に基づいた舞なのです。

このように酉の市や例大祭など、江戸時代から現代においてはすっかり庶民の行事として定着した感があり、江戸時代の麦打唄に“一に大鳥”と唄われたように庶民に人気のある神社として親しまれているのです。
因みにこの大鳥神社は、“さんま”ともちょっぴりの縁があり、「目黒のさんままつり」よりずっと先の35年前、地元の商店街が大鳥神社で生さんまを無料配布していたのだそうです。

まずは参拝に上がり、境内に入ると左に手水舎、右に神楽殿があります。
手水舎 神楽殿
この神楽殿で「太々神楽・剣の舞」が奉納されるのですね。
小振りながらも堂々とした社殿です。
社殿
これは昭和37年に建立されたものだそうですから、比較的新しい社殿といえるでしょう。まあ、それでも50年は経過しています。
横に吊り下げられた「江戸消防・・・」と書かれた提灯は、日本武尊が焼津で火難を防いだことに由来する防火の守護であるからです。
江戸消防提灯
社殿の左手には古い庚申塔が祀られています。
右「延宝3(1675)年、文字庚申供養塔」 右「元禄元(1688)年、笠付青面金剛」 左「宝永元(1704)年、駒形青面金剛庚申塔」、右「元禄元(1688)年、笠付き青面金剛」
左から「延宝3(1675)年、文字庚申供養塔」、「元禄元(1688)年、笠付青面金剛」「宝永元(1704)年、駒形青面金剛庚申塔」「元禄元(1688)年、笠付き青面金剛」だそうで、いずれにしても神社の歴史とともに古いもので、庶民の健康への願いは今も昔も変わらないという現れなのです。
この石碑群の先には末社「目黒稲荷神社」が建立されています。
目黒稲荷神社 目黒稲荷神社

境内の左手には「くし塚」なる碑があります。
くし塚
いわゆる髪をとかす“くし(櫛)”には不思議な力があるそうです。
古事記によると、イザナギは亡くなった妻イザナミに会いたい一心で黄泉の国(死者の国)に会いに行き、決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗して蛆にたかられたイザナミの姿だったのです。その姿に畏れたイザナギは逃げ出すのですが、「見たな~~っ」っと追ってくるイザナミ等に対して、真っ暗な黄泉の国から逃げるため挿していた「竹のくし」に火をつけて、松明代わりに道を明るく照らして生還されたのだそうです。
また、日本武尊が東国へ渡る際に現在の浦賀水道での嵐を沈めるため、妃が海に身を投げ、七日後、身代わりとなった妃の「くし」が浜に流れ着いたので、お墓を作り「くし」を収めたという神話もあるのです。
このように古来から「くし」は人生の歩み道を照らし、身代わりとなる力を持っているのだそうなので、この「くし塚」を参拝すると開運、無病息災、家内安全のご利益が得られるのだそうです。
更に大鳥神社のご利益は目の病、成人病、糖尿病、ボケ防止に効くそうなので、まさに私のためにあるようなものです。実に霊験新たかな神社なのです。
因みにこのイザナギの件の一般的な解釈は、追ってくるイザナミに対して、髪飾りから生れた葡萄、櫛からうまれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げて難を振り切ったということのようです。
まあ、若干都合の良い創作は元が神話だだけに良しとしておきましょうね。

更に境内の右手には大きな老木があります。「オオアカガシ」だそうで、東京都の天然記念物だそうです。
オオアカガシ
またその前には「寛文6(1666)年、彫りの入った庚申塔」が一基おかれています。なぜこれだけポツンと離れているのでしょうかね。
「寛文6(1666)年、彫りの入った庚申塔」
そしてその右手には「切支丹灯籠」なる灯籠があります。
切支丹灯籠
かつて目黒の千代が崎の地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷に祀られ、ひそかに信仰されていたものだそうです。
石の下部に刻まれた像には足の表現が無い、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、当然切支丹への迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものだそうです。
全国にはマリア地蔵といったようなものもあり、何とかして信仰を続けたいいう一心からこういったものを考え付いたのでしょう。
このように歴史ある神社でありながら、庶民の江戸文化も合わせて味わえる目黒の鎮守に相応しい大鳥神社でした。

目黒の別当

大鳥神社のすぐ横にあるのが「大聖院」です。
大聖院
天台宗の寺院で、弘治3(1557)年に開創されたと伝えられる寺院で、当初は目黒不動龍泉寺の末寺だったそうですが、その後、元和年中(1615~23) に生運和尚が中興し、 旧目黒村総鎮守の大鳥神社の別当寺となり、その後、荒廃と再建が繰り返され現在に至っているのです。
本尊は京都永観堂の写しといわれる回顧(みがえり)の阿弥陀如来です。
安行の植木】で訪れた埼玉県川口市にある密蔵院にもこの永観堂の写しである回顧の阿弥陀如来があり、あの見返り美人のように結構妖艶な阿弥陀如来でしたが、こちらはどうなのでしょうか。
回顧阿弥陀如来像 《回顧阿弥陀如来像:(C)大聖院》
見事な美しさで、妖艶というよりは繊細な美しさです。
大鳥神社ほどの歴史はありませんが、古刹として位置付けられる寺院です。

境内のすぐ右手には先ほど大鳥神社にもあった切支丹燈籠がこちらにもあります。 3基の燈籠が並んでいます。
切支丹燈籠
先ほど大鳥神社にあった鳥居と同じ、旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷(後の大村伯爵邸)にあったものを、大正15年10月に大聖院に移したものなのです。
中央の1基には変形T字クルスとキリスト像と思われる形状が刻まれているのです。
大聖院が大鳥神社の別当寺ですから、こちらにも切支丹燈籠があるのも理解できますが、どうでも良い話ですが、大鳥神社の説明では「切支丹灯籠」で大聖院では「切支丹燈籠」となっています。調べてみれば極簡単なことで、“燈”は“灯”の旧字体というだけのことでした。
それにしてもわざわざ切支丹燈籠を分けておいてあるというのは、本来は何か意味があってのものでしょうが、その意味するところは判りません。
それでも当時の神社と別当寺の関係を知るには良い文化財です。

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