「目黒の・・・」由来 #6

こうしてスタートの目黒駅に戻ってきたのですが、兎にも角にも昼食をということで、ここはやはり食べそびれた“サンマ”を食べなければおさまりません。
目黒駅
ということで目黒駅周辺のお店を探したのですが、やはり日曜日は休みの店舗が多いようで、全くサンマの気配はありません。
あきらめかけていたところ、「さんまの唐揚げ」なる文字が目に止まり、何の当ても無く入った店がここ【上海料理 陳民】という中華のお店でした。
陳民
実に変わった、それでいて大変おいしい“サンマ”を食べることができ、心も身体も充電して、目黒の・・・、散策の最後の地に向いました。

目黒のビール

ここからはJR山手線で一駅移動して恵比寿駅で下車します。
そうこの駅名を聞けばお分かりになると思いますが、やはり目黒の最後はビールということで、目黒のビール=エビスビールの由来の地に向います。
現在は恵比寿ガーデンプレイスとなっていて、恵比寿駅からは「恵比寿スカイウォーク」でアクセスできるのです。
スカイウォークにはエビスビールの広告がずらりと(当然)並んでいますが、今回の目的はズバリこの広告の通りです。
恵比寿スカイウォーク 恵比寿スカイウォーク広告
このようなコピーが掲載されています。

東京・恵比寿。
この「恵比寿」という地名は、実はエビスビールからつけられました。1887年、日本麦酒醸造会社が設立され、この地に、工場を設立。3年後、エビスビールを発売。
このビールの名にちなんで、1901年、工場の貨物駅が「恵比寿駅(現在のJR山手線)」と名づけられ、後に周辺の地名も「恵比寿」となったというわけです。

まさに目黒のビールに相応しい由来です。まあ、これで終わりにしても良いくらいですが、折角ですからガーデンプレイスに向います。
この恵比寿ガーデンプレイスは文字通り、サッポロビール工場跡地の再開発事業として、1994年に開業した複合施設なのです。

スカイウォークを渡ると既にガーデンプレイスの敷地で、佇まいの素敵な建物が並んでします。
恵比寿ガーデンプレイス
正面の通路が「坂道のプロムナード」で、その先には「センター広場」があります。
坂道のプロムナード
今日は、そのセンター広場では“恵比寿 麦酒祭”が行われています。
センター広場
ここで飲んでしまいたい衝動にかられますが、一人で飲むのはさすがにここでは寂しいのでグッと我慢です。
そして広場の左側の恵比寿三越館を抜けて西に向うと目指す「エビスビール記念館」があります。
エビスビール記念館
エビスビール生誕120年の節目の2010年にオープンした施設で、文字通り「エビスビール」という単独ブランドの珍しい記念館で、エビスビールの歴史と文化を楽しめる施設なのです。

エントランスには、大きなエビス缶が置かれていて、中に入ったロビーにはCMで使用した和傘で撮影ができるコーナーとなっているようです。
CMの京傘
そしてその隣にエビス缶を沢山集めて作ったエビス缶のモニュメントがあります。
エビス缶モニュメント
これは後から知ったことですが、この沢山のエビス缶の中にこのようなエビス缶があります。
ラッキーエビス
これはラッキーエビスというもので、瓶では数百本に1本の割合で出現するようですが、缶については先の生誕120年企画の一環として限定販売されたそうです。したがって缶の場合は何万缶に1缶という割合になるそうです。
いずれにしても縁起物としてレア商品ですから、見つけた方は保存しておくと商売繁盛になるかも知れませんね。
ロビーを抜けて下り階段の踊り場には大きな恵比寿があり、その下がメインの記念館スペースとなっています。
踊り場
中央にあるのはビール工場のシンボルともいう仕込釜です。
仕込釜

この記念館のスペースは、大きく分けてギャラリーゾーン、コミュニケーションゾーン、テイスティングゾーン、ショップゾーンに分かれています。
会場図 《館内図:(C)エビスビール記念館》
基本的には入場無料ですが、休日は20分ごと、平日は30分ごとに「エビスツアー」なるミニツアーが実施されているのです。
これは参加料500円を支払って申し込むシステムで、折角なので申し込んだところ、結構人気のようで次のツアーは満杯で、その次のツアーとなりました。
しばし時間つぶしをしてから、集合場所である「ツアーラウンジ」に入ります。
ツアーラウンジ
ここはツアーの人しか入れませんが、「だから何?」というスペースで、恐らく空港のVIPラウンジをイメージしているのでしょう。
ツアーの時間となると“ブランドコミュニケーター”という、まあ、いわゆるコンパニオンの綺麗なお姉さん(これってセクハラ?)が現れ、この方がこの中を案内してくれるのです。

ギャラリーゾーン

まず最初はギャラリーゾーンです。
ギャラリー
ギャラリーの最初はエビスビールの歴史です。
現在、この記念館のある恵比寿ガーデンプレイスはの地番は渋谷区恵比寿4-61-1となっていますが、この画面では「東京のはずれ、荏原郡三田村」というプロローグとなっています。
エビスビールの歴史 三田
当時の東京府荏原郡三田村は、現在の目黒区三田ですからまさに「目黒のビール」といえるのです。
そして明治23(1890)年に最初のエビスビールが生れたのです、と、この綺麗な・・・、ブランドコミュニケーターが説明してくれたのです。
エビスビールの歴史 明治23(1890)年
そもそもは明治20(1887)年、日本麦酒醸造会社が設立され、1890年に目黒の醸造所が竣工したという歴史です。
そして、その最初のビール瓶が展示されています。
最初のエビスビール 最初のエビスビール
ラベルなどの古さもまた味のあるところですが、当時のビール瓶の蓋はワインと同じコルク栓だったようです。
当初は「大黒天」から命名しようとしたそうなのですが、横浜に既に「大黒ビール」が存在していたため「えびす(恵比寿)」を採用したのだそうです。もしかすると、現在の恵比寿駅は大黒駅になっていたかもしれないわけです。
そしてその後、発売されたビール瓶がパネルとともに展示されています。
エビスの歴史
やはり最初のお手本はドイツビールだったことは言うまでも無いようです。

ここで余談ながら日本にけるビールの歴史を紐解いてみます。
日本における最初のビールは江戸時代にさかのぼり、当時長崎出島のオランダ人が持ち込んだビールを蘭学者たちが飲んだのが最初のようです。しかしながらこれはビールを飲むというよりは、外国文化に触れる一環としてのことなので、「ことのほかあしきもの」という評価があったようですので、日本にない味わいだったのでしょう。
それでは日本の最初のビール会社といえば、ノルウェー生れのアメリカ帰化人ウィリアム・コープランドが横浜で製造したものが最初でした。
コープランドはドイツ人技師について5年間醸造を学び、日本に来日して横浜の「天沼」という清水に眼を付け、「スプリング・ヴァレー・ブリュワリー」という醸造所を建設し、ビールつくりを始めたのが明治3(1870)年のことです。横浜に居留する外国人から人気が広まり、日本人の間でも「天沼のビアザケ」として親しまれたそうです。

こうなると時の明治政府も日本人の手でという思いに駆られ、欧米の視察後、数箇所に官営の醸造所を計画したのですが、そのうちの北海道のサッポロ醸造所だけ“札幌冷製麦酒”というブランドのビール販売にこぎつけたのですが、十分な成果も無く明治22年に「札幌麦酒株式会社」として民間に払い下げられたのです。
一方“天沼のビアザケ”で人気を誇った「スプリング・ヴァレー・ブリュワリー」も明治18年「ジャパン・ブリュワリー」に引き継がれ、明治21年より“キリンビール”というブランドで販売され始めたのです。
大阪でも明治22年「大阪麦酒株式会社」が設立され、“アサヒビール”のブランドで販売されたのです。
こうしてみるともうお分かりのように、この時点で現在のビール四大ブランドの内、「サッポロ・キリン・アサヒ」の三社の前身であるブランドが確立されていたことがわかります。
そしてこういった背景の中で、明治20年「日本麦酒醸造」が設立されたという歴史となるのです。

この後、三井物産重役の馬越恭平が社長に就任してから、社名を「日本麦酒株式会社」とし、東京地方における絶対的な強い販売力を確立したのだそうです。現在ではサッポロビールを代表する経営者といえるようで、エントランス前には銅像がありましたね。
馬越恭平
そして明治32(1899)年8月4日には、東京府京橋区(現在の銀座8丁目)に「恵比寿ビアホール」を開き、初めて“ビアホール”の名称が使われたことから、後世、この8月4日を「ビアホールの日」としたそうです。
恵比寿ビアホール
もっともビアホールの最初は大阪麦酒によって明治30(1897)年に「氷室生ビール」と「アサヒ軒」が開かれたのが純粋に最初だったそうです。
ここにはその当時、ビアホールで出されたおつまみが展示されていますが、最初のおつまみは「大根スライス」だったそうです。
大根スライス
しかしながらこれは不人気で、新たに考え出された「海老とフキの佃煮」が人気を得、更に、後世ビールの永遠のおつまみ「枝豆」の原点ともいえる「塩茹でエンドウ豆」も加えられたのです。
海老とフキの佃煮 塩茹でエンドウ豆
そして恵比寿ビアホール開店2年後の明治34(1901)年には駅名・地名のもととなった貨物(恵比寿ビール)積卸専用駅「恵比寿停車場」が開設されたのです。
駅名となった恵比寿

このように順調に発展していた日本麦酒でしたが、明治33(1900)年、札幌麦酒が東京に進出して来ると、そのシュアも徐々に奪われ、これを重大事と考えた馬越恭平は、政治的戦略で「大阪・日本・札幌」の大手三社を合併させるよう時の農商務相に働きかけ、明治39(1906)年、大ビール会社、「大日本麦酒株式会社」が合併により誕生したのです。
これと並行して、工場を目黒工場と称し、貨物専用だった“恵比寿停車場”が旅客の取扱を開始したのもこの時だったのです。
こうした大日本麦酒時代に、現在にいたる画期的な技術が施されたのです。
それまでビール瓶の栓として使われていたコルク栓から、現在の“王冠”が使われるようになったのです。
それがここに展示されているエビスビールで、明治45年頃のものだそうです。
王冠となったビール瓶
そもそも世界で最初の王冠栓は19世紀の末、イギリスで作られたことから“クラウン(王冠)”と名付けられたのです。日本で最初に採用されたのは明治33年のことですが、技術が未熟だったためビンと王冠の隙間から炭酸ガスが抜けた気抜けビールになってしまったそうです。また、ビン自体の不ぞろいの原因もあったようです。
そして技術の革新により王冠栓となったのですが、突然ながら、一体この王冠の“ヒダ”(ギザギザ?)は幾つあるでしょうか。 このヒダは正式にはスカートというそうですが、このスカートの数は21個なのだと、綺麗な・・・、否、ブランドコミュニケーターが教えてくれました。
これはビンの口が円形であり、曲線を支えるには“3点支点”が一番良いことから、3の倍数である21個になったのだそうです。したがって大瓶は24個あるそうです。
ビール飲みながらのウンチクにはもってこいかもしれません。

こうした歴史のエビスビールでしたが、昭和18(1943)年、戦中にビールが配給制となったことからビールの全ブランドが廃止され、当然、エビスビールもここで無くなったのです。
その消え行く前の最後の輝きのような看板やポスターなども展示されていました
最後の輝き
そして終戦を迎えると、財閥解体のあおりを受けて過度経済力集中排除法の適用により「大日本麦酒株式会社」は分割されたのです。 当時の「大日本麦酒株式会社」の強大さはそのブランドを羅列するとわかります。
ビールブランドとしては、アサヒ・サッポロ・エビス・ユニオン・カブト・東京・シーズン・ビタミン・ミュンヘン・青島・アサヒスタウト・アサヒ黒・サッポロ黒というブランドを所有していました。
更に清涼飲料ではリボンシトロン、三ツ矢シャンペンサイダーなどがあり、かなりの独占状態だったことがわかります。
こうして「大日本麦酒株式会社」は「朝日麦酒」と「日本麦酒」に分割され、その後、東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年、「日本麦酒株式会社」は「サッポロビール株式会社」に社名変更したのです。
そして戦前になくなった「エビス」ブランドが昭和46(1971)年に“特製エビスビール”として28年ぶりに復活発売されたのです。
復活したエビスビール
しかし、これと同時に目黒工場は恵比寿工場と改称され、“目黒”の冠がなくなったのです。

ブランド名が駅名や地名となり、現在ではJR恵比寿駅の発車メロディが、エビスビールのCMで使用された映画「第3の男」のテーマとなっています。
まあ、これについてはJRが勝手に決めたというより“ネーミングライツ”的にサッポロビールが予算化しているのでしょう、きっと。
余談ながらこの発車メロディを調べていたら、我が上尾市にあるJR高崎線の上尾駅と北上尾駅の発車メロディは上尾市歌だそうです。初めて知りましたが、確かに相応しいメロディとは言えますが、何となく「地味~~」ですね。
ギャラリーを見終わったあとは、コミュニケーションゾーンに移ります。
コミュニケーションゾーン
ここは完全にツアー客だけが入れるエリアです。

コミュニケーションゾーン

ここでは2杯のエビスビールが試飲できます。
通常のエビスビールに、ちょっと苦みばしった(というより、何のビールだか忘れた!)色の濃いエビスビールです。
正面のサーバーで、これまた綺麗なお姉さん・・・、がサーブしてくれています。
ビールサーブ
そして1杯目のエビスビールには、かつてあの「恵比寿ビアホール」で出されていたおつまみ、“塩茹でエンドウ豆”を復活させた「塩エンドウ豆」がおつまみで付いてきますす。
エビスビール 塩エンドウ豆
まずは1杯目で喉を潤します。
一杯目を飲んでいるときには、既に2杯目のちょっと色の濃いビールが出されます。
2杯目のエビス
まあ、こういった場所ですから、何となく余計美味しい感じがするのは万人の感じでしょう。

一息つくと、美味しいビールの注ぎ方ををレクチャーしてくれました。
美味しいビールの注ぎ方は3ステップで、1回目は高いところから思いっきり泡立てます。
ビールの注ぎ方1
泡が落ち着いたところで、2回目を注ぎ、少し残しておきます。
ビールの注ぎ方2 ビールの注ぎ方3
泡が落ち着くまで、ちょっとしたウンチクが披露されました。
飲み干したグラスの泡の残り、つまり泡の年輪のようなもので、実はその泡の輪の数でそのビールを何口で飲んだかが判るのだそうです。
この方の泡の年輪ははっきりとしていて、7口位で飲まれたようです。
泡の輪
これも飲んだときに使えるネタになりますね。
そして3回目をゆっくり注ぐと、このようにクリーミーな泡になるのです。
クリーミービール
まあ、面倒だとといってしまえばそれまでですが、これもウンチクにはいいでしょう。
しかしながら失敗すると寒い雰囲気になりそうなので練習はしておいたほうがよいでしょうね。

最後は、この取って置きの泡のたった注いだビールと、ノベルティのプレゼントをかけた“じゃんけん大会”です。
ジャンケン大会
ということでグラスのプレゼントと、もう一杯の2名の方がそれぞれを受け取りました。
以上が今回のツアー内容で、約40分のツアーが終了しました。
2度、3度参加する意味は無いと思いますが、もし来られたら1度ツアーに参加しても良いかもしれません。
後は更にテイスティングコーナーで有料ですが飲むのも良いですし、お土産を買うのも良いでしょう。
テイスティングラウンジ ショップ
さすがに「目黒のビール」の由来に間違いは無かったようです。

今回の散策はこれにて終了ですが、「目黒の・・・、由来」散策は今までと比べても意外なほど面白く、興味深いことが多かったです。 当たり前ながら、東京はやはり江戸時代の町だったのだな、と改めて思わされる散策でした。
最後になりましたが、肝心の“目黒”自体の由来を確認するのを忘れましたので、目黒区サイトの説明を引用します。

目黒区の目黒という地名は、一体、何に由来しているのだろうか。興味を抱いた先人、今人たちはさまざまな説を展開しているが、残念ながらその真偽は明らかではない。その説とは。
◆馬畔(めぐろ)説 
めぐろの「め」は駿馬の「め」、すなわち馬という意味。「くろ」は畔(あぜ)、すなわち畔道を意味する。従って「めぐろ」は、馬と畔道を意味する馬畔という音から生まれたという説である。
駒場、駒沢、上馬、下馬などの地名が目黒周辺にも残っているように、昔、関東地方には馬の牧場が多かった。牧場を管理している人は、畔道を通って馬を見回り、その畔道の中を自分の縄張りとしていたのである。「目黒区史」(昭和36年発行)では、この説を妥当ではないかとしている。
◆地形説 
「め」はくぼ地とか谷を、「くろ」は嶺を意味する。従って、めぐろは地形を表す「め」と「くろ」という音が結合して、地名となったという説である。つまり、目黒川と谷を囲む丘陵地帯から起こったという説。
◆馬の毛色説
黒色の馬のことを驪「くろ」と書き、また「め」は「愛(め)でる」のようにかわいいとか優れていることを意味する。昔、当地に馬の牧場があり、優れた黒馬がたくさんいたため、愛驪(めぐろ)が地名となり、目黒に転化したという説。
◆目黒不動説
目黒、目白、目赤、目黄、目青の五色の不動尊が実在し、当地に目黒不動尊があるところから、目黒という地名が生まれたという説。 このほかに、大鳥神社や、豊かな地味にちなんだ説などもある。
鎌倉幕府の公的記録をつづった「吾妻鏡」では、建久元年(1190年)11月の条に、武蔵武士目黒彌五郎が頼朝上洛の際の後陣随兵として二十七番目に記されており、歴史上では鎌倉時代までさかのぼれる「目黒」。残念ながらその由来は定かではなく、いにしえへのロマンをかきたてる。さて、あなたはどのように。
(目黒区オフィシャルサイトより)

今回は目黒区の東部の更に一部で、これだけの見所があるのですから、恐らくメジャーな見所をすべて廻るのも難しいかもしれませんね。
それでも魅力溢れる目黒の街をかなり堪能できた気がします。

2012.09.29記

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