文明開化の波の中で

最初に鉄道開通前史として鉄道開通までの経緯を知っておく必要があります。これを知らなければその後の主題を理解できませんので。。。
日本の鉄道の歴史の始まりは1853(嘉永6)年です。
嘉永6年は奇しくも『黒船』来航の年であり、黒船とともに鉄道もやってきたということになります。

鉄道の夜明け

1853年から遡ること1825(文政8)年、イギリスのストックストーン~ダーリントン~ウィットンバーグ間及びその支線44.3Kmで、世界初の蒸気機関車による鉄道が開通しました。
この蒸気機関は世界三大発明に及びませんが、それでも世界で産業革命を起した一つの要因ともなったもので、日本にとってもこの後発展の重要な技術なのです。
そして日本へその蒸気機関車が来たのは、1853(嘉永6)年1月18日、ロシア使節のプチャーチンが長崎へ蒸気機関車の模型を持参したのが始まりでした。
模型と言っても、現代で想像するようなHOゲージやNゲージではなく、その機能・性能をそのまま縮小したライブスチーム車輌で、実際に人や物を運搬することが可能なものだったのです。
これが日本がはじめて蒸気機関車に触れた初めてということになるのでしょう。

翌年の1854(嘉永7)年1月16日には、アメリカ使節のペリーが浦賀沖に2度目の来航をし、その折米大統領からの贈与品として蒸気機関車模型が贈られたのです。
鉄道博物館には、このペリーの贈った蒸気機関車模型の“模型”が展示されています。
ペリー献上の蒸気機関車模型図 ペリー献上の蒸気機関車模型の模型
これは電信機、時計、天秤などとともに献上されたもので、欧米文化の優位性を認識させ、交渉を有利に運ぶ目的のために持ち込まれたのですが、結果としては黒船自体だけで充分な効果があったわけです。
この米国製SLは、江戸城で数度の運転が実施され、5月23日には江戸川太郎左衛門が城内で蒸気機関車を運転し、これが日本人初の蒸気機関車運転士となったのです。
ペリー献上の蒸気機関車模型運転の図 《写真:Noboの遊楽帳》
この絵がその状況を描いたものですが、キャプションには「FIRST“TOY”TRAIN IN JAPAN」とありますので、まさに模型というレベルだったわけです。
因みにこの写真はドミニカ共和国で1992年に発行された切手だそうですが、何故ドミニカでなのか、非常に興味深い切手です。
更に日本では先のプチャーチンの蒸気機関車模型を見て自らの手で造ってみようとした藩がありました。九州肥前佐賀藩で、1855(安政2)年8月に造られた全長27cmのアルコール燃料で動く模型の機関車です。
佐賀藩蒸気機関車模型
これは日本でも有数の近代技術研究所といえる“佐賀藩精錬方”が藩主の鍋島直正から製作の許可を得て、「からくり儀右衛門」の名で知られる田中久重(後の芝浦製作所、現在の東芝を開設)に開発を委ね製作させたのもので、これが国産初の蒸気機関車となるのです。
その試運転の模様が残されています。
佐賀藩蒸気機関車模型運転の図
これもまた奇妙な構図が興味深いところです。
このように明治維新前に国内外での蒸気機関車の出現は、政治的な開国と同じ産業における開国を迫るものと言えるのです。

このような気運の中で、1867(慶応3)年になると、諸外国の使節団や領事館から鉄道建設の申請が相次ぐようになるのです。これはちょうど日本が台湾などの各国に新幹線システムを売り込むのと同じことで、これに関する日本側の動きも急です。
時系列に記載してみます。

1867(慶応3)年
●1月:アメリカのC.L.ウェスウッドが、幕府外国奉行所(外務省)に、江戸~横浜間鉄道建設方を申請
●1月:外国奉行・栗本安芸守鯤や大目付・川勝近江守広道らが、江戸~京都~大阪間に鉄道建設の必要を進言
●12月:幕府が、アメリカ公使の書記官・A.L.C.ポートマンへ江戸~横浜間の鉄道建設の免許及び規則書を、老中外国事務総裁・小笠原壱岐守長行の名で交付
1868(慶応4)年
●2月:佐賀藩・大木民平が、太政官副総裁・三条実美に鉄道建設について建議
●11月:長州藩・井上勝がロンドン大学で鉄道建設技術を習得して帰国
1869(明治2)年
●2月:アメリカ領事・W.M.ロビネットが大阪外国官判事・五代共厚に鉄道建設を申請し却下される
※これは1867年ポートマンへ交付した鉄道建設免許を根拠に申請されたのですが、この免許はアメリカ側に鉄道経営権がある「外国管轄方式」であったため、何としても却下したい明治政府は「この書面の幕府側の署名は、京都の新政府発足後のものなので外交的権限は無い」というこじ付けのような理由で却下しているのです。
●5月:東京~横浜間に乗合馬車が開業
●9月:大蔵大臣・大隈重信が英国人ホレーシオ・ネルソン・レーとの間に鉄道建設資金借入交渉を進める
●10月:横浜商人・中屋譲冶らが、横浜~東京間鉄道建設について、神奈川県裁判所に建議書提出
●11月:大納言・岩倉具視、外務卿・沢宣嘉、大蔵大臣・大隈重信、大蔵少補・伊藤博文ら政府首脳部は、イギリス公使ハリー・スミス・パークスと右大臣・三条実美邸で会談し、借款契約及び鉄道建設に関する意見を交換
※この時の内容は、先のアメリカの「外国管轄方式」とは違い「自国管轄方式」によるもので、イギリスは技術や資金を援助し鉄道経営権は日本にあるとしたものです。このような日本にとって有利な条件を出した当時のイギリスは、日本を植民地化するより貿易相手としての方針からにものであると言われています。
因みに鉄道建設に必要な資金は現在の額で880億円。当時の政府の歳入の3分の1という莫大なものであったようです。
この有利な条件によって日本の鉄道の歴史の大きな一歩を踏み出すことになるのですが、この会談の主役“パークス”のプロフィールを確認しておきます。

ハリー・スミス・パークス

ハリー・スミス・パークス ハリー・パークス(1828~85)は1865年から1883年までの18年間、日本に駐留した駐日公使で、本国に任命され、日本に在住するイギリス人にも熱烈な賛同を得てこの職に就いたようです。
パークスは恫喝による圧力外交がアジアでは最も有効なやり方であると信じていたため、イギリスの優先的地位を充分に利用した上で日本に接したのです。日本側は、彼の助力に感謝の念を抱きはしたのですが、一方では彼の高圧的な態度を苦々しく思い反感も持っていたようです。
作家・司馬遼太郎氏はパークスについて「明治という国家」の中でこう言っています。

パークスは賢い男でした。しかし真に聡明であると言うのは、片々たる文明の差で相手を見ないということです。単純な尺度で相手を差別しないということです。パークスならパークスが背負っている英国の国威、英国の文明という尺度で相手の国をみます。そういう男は浮世のことで賢くあっても、結局はつまらない男です。
(「司馬遼太郎/明治という国家・上/NHKブックス」より)

そういう性格的側面を持ちつつも、叩き上げの外交官パークスは勘がいい男だったのです。
それは当時の日本で幕府と薩長との対立に際して薩長側に援助したことにあるのです。つまり当然国を代表する幕府に対して援助するのが常套であると考えられるのに、その反対の薩長側を援助したということなのです。事実、結果として幕府側に援助したフランスは、後の外交競争にイギリスに敗れたわけですから、確かに勘が良いと言えるのでしょう。
このパークスの最良の選択によって、維新後も彼は日本政府に優遇されたのです。しかしこの先見性も彼のもとにいたアーネスト・サトウ(1843~1929)、薩摩の寺島宗則(1832~93)の優れた手腕の助けがあってのことともいわれているようです。

このようにパークスが行った事蹟は、まさにイギリスの日本における地位の向上でした。
現在イギリス大使館のある場所は、パークスが江戸でもっともいい土地に建てたイギリス領事館の後の姿であり、活発な活動によって日本における鉄道、灯台、日本造幣寮の大きな建設権を得たりもしたのです。
英国大使館
この大使館の地番は、“千代田区一番町一”ですから、これだけでも都内の一等地にあったことが理解できるでしょう。
そして維新後の日本では、イギリスから多くの各分野の専門家を招き、「お雇い外国人」として新政府が高給で雇うまでになりました。 日本としてはイギリス一国に偏るそういった姿勢を防ごうとしたのですが、結局イギリスが幕末日本の貿易シェアの75%を、明治日本では50%を支配することとなり、更に新しい日本海軍・商船団へのイギリスの援助も今後継続的なものとなっていくのです。
こうして日英双方にメリットのある交易関係を作ったハリー・パークスですが、1883(明治16)年、彼の離任によって外交における一時代の終わりを告げることとなったのです。

このイギリスからの援助を得て日本の鉄道建設へ一気に進むこととなりました。
そして1869(明治2)年11月、基本方針として東西両京を結ぶ東京~京都間鉄道を幹線とし、東京~横浜間と京都~神戸間、琵琶湖~敦賀港間をそれぞれ支線として建設する旨を廟議決定され、いよいよ日本の鉄道建設が始まることになったのです。
こういった意味で、日本の鉄道に関してイギリスとパークスの功績は大変大きいものだったといえるでしょう。

鉄道開通前夜

エドモンド・モレル 廟議決定後の動きは早く、翌年の明治3年3月にはパークスの推薦によるイギリス人技師エドモンド・モレルが横浜に到着し、東京・横浜間の測量、そして用地買収と鉄道建設が急ピッチで始まったのです。
しかし京浜間の東海道の宿村では鉄道建設への期待がある一方、測量技師達とのトラブルなども増え不安も高まっていたそうです。
特に鉄道用地取得にあたっては、政府省庁から土地を政府に差し出すよう地権者に命じるなど強制的な形がとられ、鉄道用地取得にあたっての買い上げ代金も御下げ金と呼び、一方的な査定で行われたのです。地権者にとっては、祖先伝来の土地を納得できない対価で手放さねばならないわけですから、当然のことながら用地買収へのプロセスは決して容易なものではなかったようです。

このような難しい用地買収を解決させたのが海中築堤工事です。
イギリスの技術者エドモンド・モレルの協力を得て、50mの沖合に高さ4mの石垣を組み、その上に線路を敷いたのです。実に全長29kmのうち10kmが海の上を走るという世界で例もない鉄道が生まれたのです。
写真は高輪付近で、八ツ山・御殿山を切り取った土砂で埋め立てたもので、右側が堤防です。
海中築堤工事 《(C)日本国有鉄道百年写真史》
更に「明治東京全図」では明治9年の高輪付近の地図で海上に線路を造ったことがはっきりと判ります。
海中築堤工事
そして錦絵でも数多く描かれているのは、よほど当時は名所として注目されたからでしょう。
高縄の図 高縄の図 高縄の図
余談ながらこれを調べていると、この錦絵が書かれたあたりは当時の高縄で、現在は芝浦に当たるのですが、何と私の母校である高校の敷地であったことが判りました。元々最初のNHKのあった場所の碑はあったのですが、この海中線路であったとはちょっと驚きでした。
この日本最初の鉄道建設に尽力した技師長エドモンド・モレルは、在職1年6ヶ月で鉄道の開通を見ることなく明治4年9月23日に29歳で結核により病死し、横浜の外国人墓地に眠っているのです。
モレル墓所 《(C)品川区》
モレルの墓所は1962年い鉄道記念物に指定され、現在のJR桜木町駅近くにはモレルを記念した“モレルの碑”が鉄道発祥記念碑とともに設置されているのです。
モレル碑 《(C)Enjoy! YOKOHAMA -横浜ブログ-》
余談ながらエドモンド・モレルの名は、JR東日本グループの飯田橋にある「ホテルメトロポリタン エドモント」の由来なのです。
こうして、日本最初の鉄道建設は、1870(明治3)年3月に鉄道建設の技師長エドモンド・モレルの指導で測量に着手してから、幾多の困難を乗り越え、1871(明治4)年8月には、横浜から品川(東海寺裏)までの試運転を始めるまでになったのです。

こうして一応の完成を見た日本初の鉄道建設ですが、この建設の指揮を執っていたのが旧長州藩士の鉄道頭・井上勝でした。
井上勝 井上は、1862(文久2)年に伊藤博文・井上馨らと渡英してロンドン大学で鉄道学・鉱山学を修め、帰国後は鉱山・鉄道関係の職を歴任したのち初代鉄道頭に就任、わが国、鉄道の創設者といわれているのです。
余談ながらこのイギリス留学に行ったのは他に遠藤謹助・山尾庸三を加えて5人だったそうですが、その留学費用が現在の貨幣価値に換算すると約5億円だったそうです。そしてこの5人の留学前後を扱った映画が2006年に『長州ファイブ』というタイトルで公開されたのです。
その当時の写真で、左上:遠藤謹輔、右上:伊藤春輔(博文)、中央:野村弥吉(井上勝)、左下:志道聞多(井上馨)、右下:山尾庸三の“長州ファイブ”です。
長州ファイブ 《(C)萩博物館》
この後、井上は国内の鉄道網の整備に努め、「鉄道の父」と呼ばれましたが、1910(明治43)年、英国訪問中に病によりロンドンで死去しました。
現在、墓所は東海道線と東海道新幹線に挟まれた東海寺大山墓地にあります。
井上勝墓所
更に東京駅丸の内駅前には銅像があったのですが、復原工事のため一旦台座は三重県、像は千葉県に避難しているようなので、現在、その銅像の実物は見られませんが、鉄道博物館にその銅像のひな型が展示されています。
井上勝銅像ひな型
やはり相応しい場所は東京駅でしょうから、いずれこの銅像も故郷・東京駅に戻ることでしょう。

このようにして完成した日本初の鉄道は、同年11月に条約改正予備協議や欧米の文物・制度の視察などのため、岩倉具視や久米邦武らの岩倉遣米欧使節団一行が欧米に出発する際、その一部は品川から試運転中の蒸気車で旅立つこととなったと言われています。このときは、品川駅はまだ完成していなかったためホームもなく、乗客は地上から直接客車に乗ったと記録されており、乗車した場所は東海寺裏付近と推定されているのです。
そして準備は着々と進み、いよいよ開業を迎えることになるのです。

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コメント

  1. りん子 | -

    おはようございます。実に興味深い記事でございました。
    東京駅・・・今月。東京に参りますので、しっかり見てきます。
    8月に行ったときは工事中でしたから・・・(^o^)
    ありがとうございます。

    ( 09:51 )

  2. 薄荷脳70 | -

    りん子さん、ありがとうございます

    確かにすごく立派になって素晴らしい駅舎になりました。さすがに東京の玄関口といえるのでしょう。
    東京、楽しんでください^^

    ( 05:26 )

  3. 鉄道史

    勉強させていただきました。
    模型の機関車とはいえ、動く鉄の塊を見た当時の日本人は驚いたでしょうね。
    千代田区一番町一の件も、英国の功績というか影響を物語ります。
    海上を走る機関車。昔も今も海を埋め立てて・・・は変わらないですね。

    飯田橋のエドモンドには立ち寄ったことがあります。モレルさんの名前なのですね~。
    そもそも東京ステーションホテルと同じでJR東日本の子会社「日本ホテル株式会社」が経営していることを知りませんでした。

    それにしても、前サイト名「HIPな解毒剤」って、なかなかの御名前です~。

    ( 12:49 )

  4. vさん | -

    改定版!!

    ありがとうございます。

    大変興味深く拝見しております。じっくり時間を掛けて愉しませて頂きます。

    ( 17:15 )

  5. 薄荷脳70 | -

    山ぼうしさん、ありがとうございます。

    調べていくと結構色々な由来が出てくるものですね、。
    その辺りが歴史の面白さなんですね^^
    「HIPな解毒剤」は完全に策士、策に溺れましたね(汗)w

    ( 23:03 )

  6. 薄荷脳70 | -

    vさん、ありがとうございます。

    改訂版といえども今までに記載した部分はそれほど変わらないので、あまり期待されても辛いかも(汗)
    それ以降が、何とか読むに耐えるように頑張ります^^

    ( 23:05 )

  7. 薄荷脳70 | -

    Noboさん、ありがとうございます。

    Noboさん、コメントありがとうございます。
    本来なら許可をいただいたうえで、掲載するのが筋なのですが、商用サイトでないという事から、了解を得ずに掲載させているのをスタンスとしています。
    そのような勝手なスタンスながら、了承並びにコメントまでいただけるとは、感謝に耐えません。
    余にも珍しく貴重な切手なので、どうしても多くの方に知って頂きたく掲載させて頂きました。
    今後とも、宜しくお願い致します。
    本当に有難うございました。

    ( 19:09 )

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