小さな救世主

これまで見てきたように東京圏は官営と私鉄である日本鉄道によって、現在の路線の基礎となる東海道線、東北・高崎線、山手線、常磐線等が整備され、これに伴って文化や産業もまた発展していったのです。
しかしながら、その東京の中心となるべきところが逆に陸の孤島とも言えるような状況となってきたのです。 これを救ったのが“小さな鉄道”だったのです。

馬車鉄道の開通

1872(明治5)年の日本初の鉄道開通以来、路線は拡大・急発展していくのですが、終着駅・新橋は33年間も変らなかったというのは冒頭の通りで、新橋で汽車を降りた人は新橋駅にたむろする人力車を頼むか馬車に乗るか、はたまた徒歩かの選択を強いられたのです。
当時、この馬車には2種類あって個人で乗るのが“辻馬車”で、大勢で乗るのが“乗合馬車”だったのです。現在のタクシーとバスの起源といったところです。
交通浮世絵
これだけの選択肢があるのだから交通網としては充分でしょう、という推測もなされるのですが、当時の状況を見るとそうでもないようです。
この中で比較的早く、しかも安い料金なのが“乗合馬車”で、確かに重宝がられていたことは間違いないようです。しかしながら明治初期の東京では車輪では通行できないような道路も残っており、窮屈な座席の中で、ものすごい震動のなか、投げ出される危険を必死にこらえなければならないといった状況で、いわゆる安かろう、悪かろうであったのです。こうした状況から明治の東京中心部にとっては、より効率的な交通機関が求められていたのです。

その救世主が馬車鉄道で、鉄道博物館にその模型が展示されています。
馬車鉄道模型
ことの始まりは欧米です。
欧米視察後には、概ねその必要性を痛感して帰国する人がいるもので、第三十三国立銀行の種田誠一と言う人もそのひとりであり、馬車鉄道の必要性を感じ、視察後、他3名の発起人を含めて1880(明治13)年に「東京馬車鉄道株式会社」を設立させたのです。
因みにこの会社は日本初の馬車鉄道であるとともに、日本初の私鉄(日本鉄道の設立が1881年)でもあるのです。

開業に当たって一番苦心したのが本社地の選定でした。
なんと言っても予定とする馬180頭と馬車30両を収納する車庫兼厩舎が必要なのですから、過密都市東京では容易なことではありません。民有地は無理と判断し、前述の秋葉原の火除地や上野駅周辺(まだ作られていなかった頃)の借用を願い出たのですが許可されず、結局汐留の鉄道局構内を借用することで許可が下りたのです。
当時の鉄道局です。
鉄道局(銅版画)
当時の銅版画ですが、手前にある丸い窓の付いた建物が鉄道局新橋工場で、この建物は現在犬山の明治村に保存されているのです。
鉄道局新橋工場 《(C)阪和線の沿線から》

東京馬車鉄道は、当初から多くの需要を見込んだ都市交通としての意識が高かったそうで、それは路線の申請にも現れていました。
出願したルートは下記の3路線です。
1.新橋停車場-新橋-日本橋-昌平橋-(御成り通り)-上野公園-浅草広小路
2.新橋停車場-新橋-日本橋-昌平橋-(大伝馬町通り)-浅草橋-浅草広小路
3.新橋停車場-新橋-京橋-(日本橋東仲通り)-江戸橋-(馬喰町通り)-浅草広小路
1.の新橋停車場-昌平橋までは複線で、昌平橋から浅草田原町まで単線の三箇所に待機線を設置しました。
そして2.の本町三丁目から浅草須賀町までは単線、御蔵前から浅草広小路が複線で、3.はすべて単線と言う具合に、臨機応変に、しかも後の時代を見据えた複線計画だったことが伺えるのです。

軌道敷設工事はこの計画のように道路の環境に応じて官営鉄道より1フィート広い4フィート6インチ(1372mm)の線路幅で、凹型のレールが使用されたのです。
一般的な凸レールとは反対で、これは人力車や荷車、馬車等の通行の妨害になりづらいメリットがある反面、溝に塵芥などが詰まりやすく脱輪しやすい欠点を持っているのです。このためあえて線路清掃人を雇っていたそうです。
1882(明治15)年6月、新橋-日本橋間でまずは営業が開始されました。停留所は基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、途中の停留所は存在せず利用者が降りたいところを車掌に告げれば下車でき、乗車の際も手を上げれば乗れたのです。
そして同年10月には新橋-日本橋-上野-浅草-日本橋-新橋というP字形の環状線も竣工し、12月3日に盛大な開業式が執り行われたのです。
東京馬車鉄道路線 《出典:幻の東京赤煉瓦駅》
開業当初の営業運転にあたった馬車は31両あり、一等車が29両で二等車が2両ありました。二等車の2両のうち1両が「夏用車」という、今で言うところのオープンカー形式の馬車で、当時は結構好評だったようです。
当初は1、2両をテスト的に輸入し、これを模倣して国産化する予定だったようですが、国産での製作ができず夏用車はすべて輸入したそうです。また馬は宇都宮や関東地区近隣から購入し、開業時47頭だったものが開業年の末には226頭に増えたそうですから、馬車鉄道の発展が見て取れるのです。
新橋から全区間の所要時間は2時間程度で、新橋から浅草橋経由浅草広小路までは46分、新橋から万世橋経由浅草広小路まで42分、浅草広小路から上野広小路まで16分でした。
こちらが日本橋・上野を走る当時の馬車鉄道です。
日本橋・上野の馬車鉄道 日本橋・上野の馬車鉄道 《出典:国立国会図書館》
料金は3区分制で、一区あたり一等車3銭、二等車2銭でした。一等車3銭は現在の価値で凡そ1500円くらいだそうですから、現在のタクシー運賃相当と考えられることから、まだまだ庶民が手軽に利用できるというものではなかったようです。

馬車鉄道のある風景

馬車鉄道の光景を著していた人に樋口一葉がいます。
一葉の『につ記2』に「万世橋より鉄道馬車、それより車にて行く」という一節があります。これは明治25年2月16日、大風の吹くとても寒い日に芝に住んでいる兄を見舞うため神田万世橋から馬車鉄道に乗った情景で、万世橋から馬車鉄道で新橋まで行き、新橋からは“車”=人力車で芝まで行ったのです。
当時の万世橋付近の光景では、左が目鏡橋鉄道馬車停車場で、右が目鏡橋乗合馬車停車場で、すでに交通の要所であったことが窺えます。
目鏡橋鉄道馬車停車場 目鏡橋乗合馬車停車場 《出典:国立国会図書館》
更に一葉の『別れ霜』では"「万世橋に来し頃には馬車鉄道の喇叭の声はやく絶て京屋が時計の十時を報ずる響き空に高し」"とあります。
京屋の時計とは現在の秋葉原近くの、当時「外神田の大時計」と呼ばれた京屋時計店の時計塔のことです。
明治の錦絵「東京名所 御成道時計台」に描かれた時計台と実際の時計台の写真です。
外神田の大時計 外神田の大時計
錦絵には馬車鉄道も描かれており、ランドマークとしての時計台とともに東京の情景として無くてはなら無いものになっていたのかもしれません。
しかしながら、この京屋時計店本店は、大正2年ごろ銅山事業に失敗し川崎銀行に売却され、その後取り壊されたそうです。

また、明治35年9月発行の『文芸界』第七号の“夜の東京”というコラムでは、「上野行の馬車は新橋より万世橋までは可成込合ふが、万世橋ではゲッソリと人が減る。万世橋は流石は中央停車場だけあって、家へ帰るに此処まで馬車の便を籍る人は多いが、上野までゆく人は少ないのである」と書かれています。ここでいうこの当時の万世橋は“目鏡橋”と呼ばれた橋のあった場所で、当時の錦絵に描かれており、非常に賑わっているのが見て取れます。
神田昌平橋模様換掛替眼鏡橋要路光景之真図 
明治でもこの頃になると、万世橋周辺は銀座や日本橋と並ぶ東京でも指折りの繁華街であったことが窺え、東京の繁華街、そして交通の要所として、万世橋は既に東京の中心として知れ渡っていたのです。
現在の万世橋周辺は戦後以降、秋葉原として電気街、パソコン、オタク文化、そしてAKBと常に日本の文化の一端を担っている街なのです。
現在の万世橋 現在の万世橋交差点
これからも常に文化史の一端を担っていくことでしょう。

親しまれた馬車鉄道

馬車鉄道は、従来の都市交通(人力車、乗合馬車)などと比べ、乗り心地もよく、それに伴って人気もあがり輸送力も増大していきました。
営業も好調で、1897(明治30)年に開業した品川馬車鉄道を明治32年には吸収合併する勢いを見せ、最盛期の1902(明治35)年には、路線延長は約34km、保有車両300両、馬2,000頭、1分間に1台の超過密ダイヤで運行し、年間運賃収入は140万円となり、株主には毎季三割五分の配当を行う我が国でも数少ない超優良企業となったのです。
しかしながら運行の激化により道路の損壊や馬車鉄道沿線の糞尿問題が社会問題化し始めたのです。
鉄道を引く馬は当然ながら生き物ですから草を食べ水を飲んで糞尿をします。しかも東京のメインストリートを歩きながら遠慮せずにブリブリと撒き散らすわけですから、溜らないのは周囲の商店街で、東京の、しかも新橋~上野・浅草周辺の狭いエリアに馬が2,000頭もいれば想像を絶する光景であるのは一目瞭然で、当時は“馬糞と格闘する東京中心部”と言われたそうです。
銀座を走る馬車鉄道 《出典:国立国会図書館》
このように銀座通りを走っていたのですから、それはそれはトンでもな臭いだったのでしょう。
苦情の多さから馬車鉄道の禁止願いが出されたこともありました。更に道路を破損させたり、人力車や歩行者と接触事故を起こすなど、非常に難のある交通機関だったのですが、しばらくは何とか共存の模索をしながら利用し続けたのです。

当時、同じ問題を抱えていたヨーロッパではこの馬車鉄道を路面電車に置き換えるところが増えており、日本でも京都電気鉄道を始めとして名古屋や川崎などで路面電車の運行が開始されていたのです。
その日本初となる京都電気鉄道の路面電車が、鉄道博物館にその模型が展示されています。
京都電気鉄道路面電車
やはり馬がいないと野暮ったさがなくなり、実にシャープに見えますね。
東京馬車鉄道もこれに倣って路面電車への移行を決定し、1903(明治36)年に東京電車鉄道と改称し品川-新橋間で東京発の電車営業を始め、同年中に路面電車への切り替えを完了され、馬車鉄道は名実ともに無くなったのです。
銀座を走る路面電車 《出典:国立国会図書館》
新橋から銀座通りを望んだところには路面電車の姿がみて取れます。
その後、東京電車鉄道は東京鉄道を経て、東京市電気局に統合され、さらには東京都交通局にかわり都電となって親しまれたのです。
現在、唯一の路線である都電荒川線の軌間が他の鉄道に比べて1,372mmと特殊なのは、馬車鉄道時代から引き継いできたことが理由なのです。

喜多川浅次著『下町物語』に、明治生まれの下町育ちが、この東京馬車鉄道を回想した一節があります。

大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴を振立てゝ、みじめな瘠馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りましたが、今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手気侭に停めてくれました。馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈に脱線する、其都度跡の車台から駆者や車掌を招集して、はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールヘをさめるのでありましたが、狡滑な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の主府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関であったかと思ふと、全く情ないやうな心もいたします』

明治と言う時代は江戸時代までの歩くという都市生活の基本から、人力車・馬車・鉄道馬車を経て、電車による本格的な都市交通時代へと転換していく過渡期と言えます。
明治44年の千代田区・中央区空撮 明治44年の千代田区・中央区空撮 《出典:国立国会図書館》
写真は、飛行機から見た明治44年の頃の東京で、その過渡期の中で、東京馬車鉄道は明治36年まで約21年の長きに渡って都心に機能していたのですから、幼稚な物とはいいながら、その幼稚さが過密都市東京を支えていた愛すべき鉄道、これもまた極めて興味深い鉄道史なのです。

(つづく)

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コメント

  1. ばっきぃ | -

    “馬車鉄道”なんて聞くと、今ではロマンティックな感じもして当時が羨ましいとすら感じてしまいますが、
    やはり現実には糞尿問題なども深刻だったんですね…。
    なるほど。勉強になります!

    今でも観光地とかでたまに馬車を見かけるけど、アレって結構高いんですよねー。
    そこら辺は今も昔もさほど変わらないかぁ…。

    ( 16:27 )

  2. ばっきぃさん、ありがとうございます。

    馬車の響はきれいなんですけどね^^
    昨今の観光地では馬車や人力車など返ってノスタルジーを誘うものが多くなってきましたね。
    やはり温故知新なんでしょうか。

    ( 17:53 )

  3. kshun10 | -

    いざ、東京駅...の前に

    復活した東京駅、早く見てみたいのですが、絶対混んでるだろうな〜と思ってまだ保留してます。
    見に行く前に薄荷脳70のまるで資料館のような記事の情報に、予備知識と楽しみが増しますね。
    「日本橋・上野を走る当時の馬車鉄道」写真・「新橋から銀座通りを望んだところの路面電車」写真はロマンを感じますね。

    ( 10:17 )

  4. 薄荷脳70 | z3DJMOlI

    kshun10さん、ありがとうございます。

    仕事柄、東京駅はよく利用していますが、平日でもまだ人出は多いですね。もうしばらく賑やか過ぎる東京駅でしょうね。
    是非、東京駅という明治のロマンをじっくり眺めて、ご堪能ください^^

    ( 21:22 [Edit] )

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