大いなる野望

これまで各民営鉄道の動きを追い、都心を囲むように鉄道網が張り巡られ始め、更にその中心では馬車鉄道が小さな力で支えていたことが理解できました。
ここまでの発展を整理すると、1904(明治37)年末頃の鉄道の状況は以下の通りです。
路線図
このように東に総武鉄道、西に甲武鉄道、南に官営鉄道、そして北に日本鉄道といった具合に、徐々に都心の鉄道網が張り巡らされてきたのです。
しかしながら、この構造も万全なものではな、一刻も早く更に本格的な都心路線網の必要性が叫ばれていたのです。

都心串刺し構想

東急電鉄総帥・五島慶太が随筆集『七十年の人生』の中でこう語っています。

東京郊外の交通機関で都心に乗り入れている電車と言うものは一本も無い。これでは都会のこの混雑、雑踏するところの交通をさばいていくことは出来ない。何と言っても都心に乗り入れ、都心を貫いて串刺しにしなければならないと思う。 ・・・東京都の交通機関は山手線に全部阻止されて都心に入ることが出来ない

現在では地下鉄による相互乗り入れで都心に乗り入れているのですが、それをはじめたのもまた五島慶太なのです。
この件だけでも非常に興味深いのですが、ここではあまりにも横道にそれすぎてしまうので、ご興味のある方はWikiの【東京高速鉄道】を読まれると良いでしょう。

これは昭和初期から戦前にかけて山手線が万里の長城にたとえられた所以なのです。
これと同じような状況だったのが、今まで見てきた明治の民営による時代の路線だったのですが、この時、五島と同じ都心乗り入れを画策したのが西からやってきた「甲武鉄道」だったのです。
これまで見てきたようにこの当時、半官半民の日本鉄道でさえ、当時の都心中心部(銀座・日本橋・浅草界隈)をさけて渋谷、新宿という田園地帯にやむなく路線を敷設した時代に、日本鉄道の傘下である弱小私鉄の甲武鉄道が都心部乗り入れを画策していたのが、新宿~八王子間開通以前だったということから、如何に甲武鉄道が大いなる野望を携えていたかが窺えるのです。
実際に申請されていたのは1889(明治22)年8月、新宿-八王子全通の2ヶ月前に、新宿-神田区三崎町(現在の千代区神田三崎町)間の免許を出願していたのです。

初期の基本ルートは立川方面から新宿、四谷そして三崎町へ向うルートで、これを基本にした実際のコース計画は、立川方面から直進してきた線路が東中野からゆるく半円を描いて南下して新宿駅に滑り込み、そのまま南下しないで(現在の中央線はそのまま南下する逆S字コース)逆の北向きに向きを変え、V字を描いて現在の花園神社の北を迂回して富久町、坂町から市ヶ谷の本村町に向かうコースでした。
これが甲武鉄道市街地初期案です。
初期案 《出展:幻の東京赤煉瓦駅》
現実にV字コースでは新宿で折り返さなければならないため効率が悪いのですが、当時は都心部の中心が新橋・品川方面であるため、そちらへの乗り入れ、連絡を視野に入れたためと考えられるのです。

軍部と甲武鉄道

そもそも都心串刺し構想のことの起こりは陸軍でした。
当時、神田区三崎町には東京砲兵工廠という所謂、兵器工場があり、当時、陸軍の大山巌が新宿~東京砲兵工廠までの線路を日本鉄道に依頼したのですが、日本鉄道がこれを断わりました。
この情報を掴んだ甲武鉄道は都心串刺し構想にとっては渡りに船とばかりに新宿~東京砲兵工廠路線を構想し、終着駅を東京砲兵工廠のある三崎町としたのが甲武鉄道・新宿~三崎町間市街線計画具体化の始まりだったのです。

これにもとずいて先の計画が練られ申請も許可され具体化すべく動き出すのですが、突然大きな問題がふりかかって来たのです。
そもそもの終着予定地である神田区三崎町は軍部の錬兵場があったことからここを終着駅としたのですが、何を血迷ったか突如陸軍は1890(明治23)年の三崎町練兵場を三菱財閥岩崎家に払い下げてしまったのです。
三崎町練兵場
軍部としても決して血迷ったわけではなく、宮城(皇居)近辺の兵衛の撤去などの理由により、新兵営の建設費用170万円の必要性から丸の内軍用地の払い下げを決定したのです。
丸の内軍用地
丸の内の軍用地の払い下げが、何故三崎町の錬兵場の払い下げとリンクしなければならないのかと不思議なのですが、これが三菱財閥の策略だったのです。
払い下げを決定した陸軍省は建築会社創立の企てを持つ資本家に払い下げを打診したのですが、価格が折り合わなかったのです。三菱財閥は、この丸の内軍用地払い下げの動きを察知すると、三崎町錬兵場と抱き合わせで丸の内にビジネス街、三崎町に商業住宅街の構築を目指し、この両者の払い下げを画策したのです。
つまり、しばらく静観し他に購入できるものが居ないと判断する陸軍省を「窮地」に陥らせた時点で売買交渉をすれば、廉価で購入できるであろうと考えていたのでした。
しかし、そうこうしているうちに東京市が払い下げを打診してきたのです。慌てた三菱財閥は急遽交渉し、三崎町練兵場3万坪と丸の内という二つの軍用地を僅か128万円(坪9円)で、しかも8回払いという極めて有利な条件で取得したのです。

ご存知の通り、この後丸の内は「三菱ヶ原」といわれるように、丸の内一体をビジネス街として開発したのですが、一方の三崎町とは一体どんな町だったのか、余談ながら調べて見ました。
約四百年前、江戸幕府が開かれるころまで、この界隈は三崎村と呼ばれていました。 当時、現在の大手町から日比谷や新橋周辺は、日比谷入江という遠浅の海で、三崎村はこの日比谷入江に突き出た土地の端にあったため「ミサキ」の名が付けられたようです。
やがて、家康をはじめとする歴代の将軍が城下町としての開発に力をそそぎ、入江や湿地帯は埋め立てられ、大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶ町に変わり江戸時代を通じて小川町と呼ばれたのです。

1859(安政6)年ごろには、伊予今治藩松平家の屋敷とその周辺に幕府の講武所が設けられ武芸の訓練が行われました。 講武所・講式場とは、幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関で、諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授したのです。
はじめは江戸の築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足し、のちに神田小川町に移転するのですが、これは相次ぐ外国船の来航や、列強の近代的軍装に刺激された幕府の幕政改革・軍制改革に伴い、ペリーの第二回次来航があった1854(嘉永7)年5月に、男谷信友(精一郎)の提案により阿部正弘が現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作ったのが始まりで、正式には、1856(安政3)年に講武場として築地に発足されたものです。
まもなく築地は軍艦操練所となり、同年4月に軍備増強の一環として幕府が創設した講武所を改組します。そして1861(万延2)年に現・日本大学法学部図書館のある水道橋内三崎町三丁目の地に講武所を建設し武芸の講習所としたのですが、1866(慶応2)年11月には廃止され陸軍に吸収されて砲術訓練所(陸軍練兵場)となったのです。

1870(明治3)年3月、兵部省に兵器の製造を行う造兵司が新設されると、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元・後楽園遊園地)に建設し、1871(明治4)年に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始されました。後に板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下におき、1879(明治12)年「東京砲兵工廠」となったのです。
東京砲兵工廠
こうしてここ三崎町に東京砲兵工廠と陸軍錬兵場が創設された経緯ですが、1872(明治5)年に東京の多くの町が新町名へ変更した際に、この界隈が三崎町と改称されたのです。

この後、三崎町陸軍錬兵場が丸の内錬兵場とともに払い下げられると、三崎町は市街地ととして開発され、そのシンボルが「三崎三座」と呼ばれる芝居小屋となったのです。
この「三崎三座」とは“三崎座”“川上座”“東京座”で、明治、大正を通じた人気の芝居小屋で、これに伴ってこの周辺も三崎町ニュータウンとして活況を呈したのです。
しかしながら1923(大正12)年9月1日の関東大震災により三崎三座とともに三崎町も東京砲兵工廠も甚大な被害を受け、三崎町は翌大正13年三菱財閥は土地売却を決定し、東京砲兵工廠も1935年小倉工廠へ移転したのです。
その後東京砲兵工廠跡地は「小石川植物園」「東京ドーム」「ドームホテル」などになったのです。現在、小石川植物園には砲兵工廠の遺構がいくつか保存されており、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑も設置されているのです。
東京砲兵工廠碑

このように突如として終着駅予定であった三崎町の陸軍錬兵場がなくなったため、甲武鉄道は、結果として終着地点の定まらぬ迷子のような路線となってしまったのです。
更に追い討ちをかけたのが1892(明治25)年6月21日に制定された「鉄道施設法」です。
これは正式に甲武鉄道が日本鉄道の下請けではなく立派な中央線(八王子~新宿間)の経営者として認められたことを意味し大層結構な話なのですが、裏を返せば「終着駅が決まらないから、この線路は止めよう」などと軽々しく計画を中止できない重い重い責任を負わされたのも同然のものだったのです。

見附駅という発想

迷子の迷子の甲武鉄道といいながらも、四ッ谷~三崎町についての路線も具体的に考えなければなりませんでした。
最初の計画を思い出してみると、新宿からV字型で花園神社の北を迂回して富久町、坂町から市ヶ谷の本村町へ向うコースとなっていました。
しかしながらこの市ヶ谷から当時の想定していた三崎町までのルートは、既に東京過密都市の一画で、更に交通の拡大と共に公害・災害が問題視されていた時代でした。その様な状況の中で列車(当然、蒸気機関車)を走らせるのですからなおさら課題は山積みです。勿論、欧米のように高架鉄道や地下鉄などはまだ、技術や予算的に弱小私鉄では途方も無い話です。
そこで考え出されたのが『見附』駅という発想で、これは簡単に言ってしまえば自然を活かした立体交差という考えなのです。

そもそも“見附”とは一体何でしょうか。
文字通りに考えれば「見つける」ことで、そこから転じて「見張る」という意味が派生し、不審な者が進入しない様に見張る場所、すなわち監視所を“見附”と呼ぶようになったのです。
現在の皇居であるかつての江戸城は、15世紀の室町時代に太田道灌が江戸湾付近に建てた平城のため攻められ易い弱点を持っていました。したがって江戸に幕府が開かれた頃は、徳川政権の基盤も不安定だったので、江戸城は敵襲に備えて大改修され、渦巻状(「の」の字)に堀をめぐらせて“難攻不落の城”に変えられ、江戸城の内濠、外濠が造られたのです。
そして江戸城の各出入り口には立派な城門が配置され、“堀に面した城門”には「枡形」と呼ばれる長方形の小さな広場が設けられ、そこを通らないと城内に入れなくして、枡形に入る不審者を監視する仕組みになっており、この「枡形のある、堀に面した城門」を“見附”と呼んだのです。
枡形門
その枡形門の仕組みです。
見附
◆第1門は小さく狭い。入った中は矩形の空間。
◆第2門(渡櫓門)は第1門を入った右か左に建ててある。この門は大きく頑強な造り。門の上に櫓がついたもので、櫓は矢倉ともいうとおり、ここから侵入した敵を弓や鉄砲で一網打尽にした。
◆濠に架かる橋はやや小さな木橋で、有事の際にはこれを切り落として敵の侵入を防ぐ。
これが枡形門の基本形なのです。

この“見附”は江戸城には36ヶ所あるとされ、俗に「江戸城三十六見附」と呼ばれているのですが、実は本当に36かどうかは不明で、大江戸八百八町と同じで、単に“沢山”という意味だという説もあるようです。
見附
まあ、そういいながらも現在も36あるので、一応羅列しておきましょう。
隅田川に近い外堀から渦巻状に、
1浅草橋門 2筋違門橋 3小石川門 4牛込見附 5市谷見附 6四谷見附 7喰違門 8赤坂見附 9虎ノ門 10幸橋門 11山下橋門 12数寄屋橋門 13鍛冶橋門 14呉服橋門 15常盤橋門 16神田橋門 17一ツ橋門 18雉子橋門 19竹橋門 20清水門 21田安門 22半蔵門 23外桜田門 24日比谷門 25馬場先門 26和田倉門 27大手門 28平川門 29北桔梗門 30西の丸大手門 31西の丸玄関門(二重橋) 32坂下門 33内桜田門=桔梗門 34下乗門 35中之御門 36中雀門

現在では“見附”の名前を残すのは「牛込」「市谷」「四谷」「赤坂」の4箇所だけなのです。
さてこの枡形門のある場所の特徴は、濠の皇居側は崖となっていて、その崖上が台地となっており、反対側はそのまま低地となっています。そしてこの崖上の見附門(枡形門)と低地を結んでいるのが土橋なのです。
当時の見附門の写真が残されています。左から四谷門、市谷門、牛込門です。
四ッ谷門 市ヶ谷門 牛込門
《出展:国立国会図書館》
そこで、この土橋の脇腹に鉄道小トンネルを穿つか小橋を架ければ立体交差はいとも簡単に可能になるわけから、「四谷」「市谷」「牛込」の各見附を活用しようと発想したのです。
これが見附を使った駅の構造を、現在の飯田橋駅の前身ともいうべき牛込駅のあった“牛込見附”で見ることにしましょう。
牛込見附 《出展:幻の東京赤煉瓦駅》
この牛込橋がかつての土橋です。
牛込橋
現在はこの橋の左手に飯田橋駅の駅舎があります。
そして牛込橋の先に枡形門の残存する石垣が橋の両側に残されています。
牛込見附 石垣跡
したがってこの橋の間に第1門があったということです。
そして牛込見附は右側に第2門があったので、この交差点の右側が第2門ということになります。
第2門
そしてこの枡形門の崖下に線路を通しているのが見て取れます。
見附駅構想線路
因みに四ッ谷見附も同様で、当時あった土橋とその先の第1門のあった枡形の左側の石垣だけが残されているのです。
四ッ谷門 土橋 石垣跡

こうした江戸時代の遺産である枡形門を活用した敷設が見附駅構想で、公用地を利用することから反対運動も買収もなく、更に高額な費用もかけずに立体交差が可能であるという優れた計画だったのです。
但し、そのためにはこの公用地である外堀沿いを借用しなければならないのですが、幸か不幸か甲武鉄道は半官半民の日本鉄道の傘下から独立した私鉄として認められたことから、弱小私鉄にこの地を貸し出すかどうかがポイントとなったのです。
そして、これが可能となると八王子~新宿までは台地上を走り、新宿~三崎町までは車影を濠端に映しながら低地をまい進する、都心串刺し構想が実現できる筈だったのですが、現実は終着駅のない状況と構想だけの路線で、甲武鉄道は二進も三進も行かない状況に追い込まれてしまったのです。

(つづく)

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コメント

  1. pansy | -

    こんなにあったんですね!

    こんばんわ。
    江戸城36見付けもあったとは驚きです。
    知らなかった見付が10か所位あり、荷薄脳70さんのレポートを頭に刻み、時期を見て見付巡りをするのも楽しいかもしれません。
    江戸時代の見付跡も、時代を超えてうまく利用されたんですね。

    ( 20:45 )

  2. 薄荷脳70 | -

    pansyさん、ありがとうございます。

    江戸城の見附の名残のあるところも随分少ないようですね。
    いつの時代も賢い人がいるものです。特に幕末から明治にかけてはパワーがみなぎっていたように感じますね^^

    ( 21:38 )

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