大いなる野望 #2

もともと陸軍の言い出した話に乗った形で進められ、気が付けば二階に上がって梯子を下ろされたようなものです。その割には何とかしろと責任だけは重い・・・、いつの時代でもチャレンジャーには常に高いハードルが付いているのです。
こうした切羽詰った状況で結局、甲武鉄道が頼るのはやはり軍部しかなかったのです。

青山錬兵場

二進も三進もいかない甲武鉄道は陸軍参謀次長・川上操六に相談を持ちかけたのです。 その川上の回答は現状計画のV字ルートを変更し、逆S字ルートにすることでした。
甲武鉄道延長略図 《出典:甲武鉄道延長略図(東京市史稿)》
このことが何を意味しているかといえば、陸軍としては前出の三崎練兵場の代替地としての青山練兵場(現在の国立競技場周辺)を中核にという構想があり、そこに路線を引きたい意向があったからなのです。

この青山錬兵場の地は青山常盤介忠成の屋敷があった場所だったそうです。
青山家は花山院師賢という人の子孫が上野国吾妻郡(現在の群馬県)青山郷に住んで青山氏と称したのに始まり、青山忠成は幼少の頃、三河国(愛知県)に来て徳川家康の小姓を努め、後には秀忠の養育係として仕えたのです。
1590(天正18)年小田原役の時には江戸に先発して家康の江戸入府の準備に力を尽くし、入府後、ただちに家康は家臣団の知行割(家臣団の配置)を実施したのです。
そして忠成が青山の地を賜ったのはこの前後のことで、邸地支給については次のような逸話が残されています。

ある日、忠成が家康の鷹狩りに随行していたところ、家康は赤坂の上から西の方を見渡し、忠成に向かって「馬に乗って一回りして参れ。その範囲の土地を屋敷地として与えよう」といったのです。
そこで忠成は馬が弊死するまで駆け巡り、広大な土地を賜った・・・、というのです。(新宿一帯を賜った内藤清成にも同様の話が伝えられているようです)。
『寛政重修諸家譜』には「忠成すなはち馬をはせて巡視し、木に紙を結びて境界の標とす。赤坂の麓より渋谷の西川にいたるこの地はもと原宿という。これよりのち青山宿と呼ぶ」と記されています。そして地名が青山となり、青山通りをはさんで北に本家、南に分家が向き合う形が1869(明治2)年の版籍奉還まで続いたのです。
明治になって屋敷跡の大半は青山墓地となったのですが、残りの草地の一部に明治19年、日比谷練兵場に代わる新練兵場として近衛・第一両師団に所属する部隊の教連場となる青山練兵場が作られたのです。
因みに、練兵場とは文字通り軍隊を訓練する場所で、あの三菱に払い下げられた丸の内軍用地の一部である日比谷練兵場は後に日比谷公園、駒場練兵場は現在の東大教養学部、代々木練兵場は現在の代々木公園となるのです。

当時の記述にこの青山錬兵場の位置が「赤坂区の西北隅に在りて、東は青山御所に沿ひ、西は四谷霞岳町と豊多摩郡原宿村に連なり、南は青山北町に接し、北は甲武鉄道線路」と記載されています。
青山錬兵場 《(C)goo古地図》
地図を見れば確かに青山家の北の本家が錬兵場に、南の分家が青山墓地となったことが判ります。
そして翌年の明治20年には明治天皇がはじめて近衛兵除隊式を閲兵したことから、以後毎年1月8日の陸軍の観兵式と11月3日の天長節の観兵式が行なわれるようになったのです。
陸軍の観兵式 《出典:国立国会図書館》
それ以降、明治22年の大日本帝国憲法発布観兵式や、日清、日露戦争の観兵式もここで行われ、多くの兵隊たちが戦地へ旅立った場所だったのですが、この地が日本大博覧会会場に定められ、明治42年陸軍は代々木へ移っていったのです。

そして明治45年、明治天皇崩御により青山錬兵場跡地は大きく変貌するのです。
これは明治天皇を祀る明治神宮の外苑として造成されることになったことから、“神宮外苑”として10余年をかけて造られた明治天皇記念施設となったのです。現在のの神宮外苑です。
神宮外苑 《(C)google地図》
当時の主な施設は聖徳記念絵画館、憲法記念館(現明治記念館)、陸上競技場(現国立競技場)、神宮球場、水泳場、相撲場などで、1926(大正15)年10月に明治神宮に奉献されたのでした。
現在の信濃町駅前の様子で、左の写真が神宮外苑で、右の写真が慶応義塾大学病院です。
神宮外苑方面 信濃町駅 慶應病院
この間を現在の中央線が走っており、この慶應病院も元々は青山軍用地の一部だったのです。

このような歴史を後に残すことになる青山錬兵場に鉄道を通すことで、軍部の利便性が図れると考えたわけです。
甲武鉄道としても当初のV字は新橋を見据えたもので、1890(明治23)年には東京中央駅計画は可決されていたため、効率の悪いV字より逆S字の将来性を考えても損の無い話だったのです。
お互いにとってメリットのある話と思えたのですが、実際問題として甲武鉄道としては「人家の無いところでは利益は産めない」との判断からこの提案を突っぱねたのです。
本来なら川上も「それではもう結構」とばかりに白紙に戻すこともできたのですが、軍での立場もあり、更に終着駅三崎町の約束反故の後ろめたさもあったことから、巧みに“アメとムチ”で迫ってきたのです。
その内容は3つの条件でした。

1.まずは公用地と軍用地を通す『見附』駅構想については了解し、その公用地使用の便宜を図る。
2.その代わり逆S字ルートを承認せよ。
3.そうなれば「砲兵本廠付属生徒舎」(現在のホテルエドモンド一帯)の軍用地を終着駅代替地として提供する。

このような条件であれば、人家の問題は無視しても、過密都市での路線と終着駅の確保という一石二鳥の串刺し構想の具現化が可能になると考えた甲武鉄道もこの条件を受け入れ、新宿から南回りの逆S字ルートである青山錬兵場経由終着駅三崎町というルート案が計画され、1892(明治25)年3月「路線一部変更願」が提出されたのでした。
こうして迷子の甲武鉄道は「これにて一件落着」ということとなったわけです。

御所隧道

「これにて一件落着」とは真に目出度い話ですが、上記の3点の条件のほかに甲武鉄道と軍部との結び付きを表すエピソードがありました。
それは当時、牛込-市ヶ谷間に“四番町隧道”(トンネル)、市ヶ谷-四ッ谷間に“三番町隧道”、“四ツ谷隧道”、四ッ谷-信濃町間に“御所隧道”という4ヶ所のトンネルがあり、このトンネルにまつわるエピソードなのです。
この路線変更については、新宿で稼業する車夫・飲食店・物品販売業者・宿屋から、また街の往来上の危険・景観等の点から反対運動があったため、当時の赤坂御所(現在の迎賓館)にトンネルを作れば反対運動に対する効果や買収費の軽減も図れるのですが、不敬にあたるということで疑問視されたのですが、やはり軍部の力で押し切ったいわくのあるトンネルで、これが御所隧道となったのです。

当時、この4つのトンネルはどれも長さは短いのですが、それぞれ特徴あるデザインを施していました。 特に四ツ谷隧道の兜の装飾は有名で、新宿側に兜の正面、東京側に兜の裏面が飾られていたのだそうです。
四番町隧道 新宿側 四番町隧道 東京側
これは一つには都心部進入への凱旋門的発想、もう一つには軍部の後ろ盾を誇示した象徴などと言われているそうで、 当時の図面にも表されています。
四番町隧道 新宿側 四番町隧道 東京側 《出典:甲武鉄道市街線紀要》
この兜は、現在、鉄道博物館に展示されています。
兜正面 兜裏面
写真では判りにくいですが、やはり結構大きく迫力のあるものです。
この兜は当時の東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授の山田鬼斎が木型を製作し、岡崎雪声教授によって鋳造されたものです。兜は青銅で、正面の兜には「甲」の文字6つをデザインした甲武鉄道の社紋が浮き出ているのが見て取れます。
このように軍部と甲武鉄道の力を誇示するかのような4つにトンネルでしたが、その後の線路の増設により御所隧道を除き、1928(昭和3)年までに撤去されたのです。
それにしても現在の新宿駅側が兜の正面で東京駅側が裏面というのも、甲武鉄道が西からの延伸して来たことを如実に物語るものです。

基本的に御所隧道以外は、見附駅の構造上、土橋との立体交差がポイントでしたので、トンネルというよりは橋に近いものだったのです。
こちらが市ヶ谷-四ッ谷間の“三番町隧道”で、そのトンネルの短さが判ります。
三番町隧道
“三番町隧道”“四番町隧道”ともに図面が残されています。
三番町隧道 四番町隧道 《出典:甲武鉄道市街線紀要》
そしてその御所隧道は、“旧御所トンネル”として現在でも残っているのです。
旧御所トンネル 旧御所トンネル
煉瓦造りが明治のロマンの名残といえそうですが、トンネルの右手には煉瓦壁面が残されていますが、これは一部が残ったものなのでしょうか。
旧御所トンネル
当時の図面では、あえてそのようなつくりになっていたようなので現在でも、そのままの形状で残されているわけです。
旧御所トンネル 《出典:甲武鉄道市街線紀要》
そして旧御所トンネルを上から見るとこうなります。
旧御所トンネル 旧御所トンネル
そしてこのトンネルの先が迎賓館(当時の赤坂御所)となっています。
旧御所トンネル 迎賓館
現在、線路増設後は中央線、総武線がそれぞれ複線で4本の線があるのですが、この旧御所トンネルは総武線の新宿方面行きの路線に使用され、他の3路線は新御所トンネルとして新しく作られたものです。
新御所トンネル
このトンネルは迎賓館の下を通るのを避け、微妙にずらして学習院下を通していることが判ります。
御所トンネルマップ 《地図:(C)MapFan》
現在では迎賓館の下には首都高速の赤坂トンネルがあるのですから自然な光景ですが、御所時代としては遠慮がちになったのでしょうね。
因みに現在のように中央線、総武線の複々線になっている以前は、この甲武鉄道が複線化していたのですが、現在はこの旧御所トンネルは単線ですので、当時の機関車がいかに幅の狭い客車だったかが窺えます。

この旧御所トンネルは現在東京駅から最も近いトンネルなのだそうですが、明治の時代に都心に汽車が走り、しかもトンネルを抜けるということは大変珍しかったようです。
宮島資夫著「大東京繁昌記」に御所トンネルについての記載があります。

『汽車は全く珍しかった。鉄道馬車もガタ馬車もない土地の子供には、非常な驚きと喜びだった。殊に、離宮下を貫く長いトンネルは、どうして掘られたのか子供には判らなかった。
開通当時は汽車のほうも呑気だった。時間も間違う代わりに五厘出しても一銭出しても信濃町までの切符をくれた。お客は大半子供だった。
汽車がトンネルにはいると「ワーッ」という叫びを揚げる。真っ暗な場所にくると、闇の中で息をひそめる。出口の光がほのかにさし込むと歓声は再び揚がる。
信濃町で降りて、てくてく歩いて帰るのである。何しろ戻りの汽車は、それから一時間も待たなければならなかったからである』

なんとも長閑な時間が流れていた明治の東京だったようです。

(つづく)

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コメント

  1. りん子 | -

    いつもながら、すごいですね~!!
    これだけの深い内容ですと、書くのに何時間もかかるのではありませんか?
    (わたくしも、あのくらいのモノでも三時間くらいはかかってしまっているので・・・)
    素晴らしいデス~。
    いつも感動しています。
    これからも楽しみにしています。
    いつもありがとうございます。

    ( 12:58 )

  2. 薄荷脳70 | -

    りん子さん、ありがとうございます

    コメントありがとうございます。
    やはり時間はかかりますね。長く書いているので、整合性を取るのが一番面倒ですかね^^
    チョコチョコ書いているので、その分アップが遅いですけど。。。
    昔から書くこと自体は好きでしたから続けられているのかもしれませんね。
    今後もよろしくお願いします。

    ( 07:46 )

  3. 四季歩 | ipmCGEIo

    すごいです

    甲武鉄道、やはり今の中央線ですからね。
    すごい話ばかりですね。
    場所が場所だけに、やはり軍部の力ということになりますか。

    兜のトンネルの話、すごいです。
    しかも凱旋門とかぶっているんですから。

    ぜひぜひ復元を!!

    無理かな(笑)

    ( 20:15 [Edit] )

  4. 薄荷脳70 | -

    四季歩さん、ありがとうございます。

    当時は「とにかく」でなりふりかまわずというところもあったのでしょう。
    ある意味、いつの時代も、どのような国でも武力を握ったものが一番ということですね。
    兜の復原も、東京駅が復原されたのですから・・・、無理でしょうねw

    ( 21:30 )

  5. マヤリモ | -

    こんばんは。

    ホントに良く調べ上げてますね~。

    鉄道という側面から、これほど多方面の歴史を掘り下げるコトが出来るのですね。

    奥が深いな~。 そして、そこにグイグイ入り込む 薄荷脳70 さんに感服。

    ( 22:31 )

  6. 薄荷脳70 | z3DJMOlI

    マヤリモ さん、ありがとうございます。

    こうゆうのも鉄道オタクの一種かな、と思っていますw
    好きなことだから出来るということですね^^
    これからもよろしくお願いします。

    ( 05:30 [Edit] )

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