やぶさめ祭り #3

出雲伊波比神社は福祉会館のすぐ隣、というか出雲伊波比神社の隣に福祉会館があるといったほうが適切(どうでも良いことには違いない)でしょうか・・・
やはり祭礼とあって多くの参拝客で賑わっていて、それに比例するかのように参道には屋台が軒を連ねている、定番の祭礼の風景です。

出雲伊波比神社

境内の入口には大きな社号標が立っていて、それなりの格式を感じさせられます。
出雲伊波比神社・社号標 参道の露天 社号標からつづく参道の両脇にはびっしりと屋台がつながっています。
いつの時も子供たちのパラダイスです。

出雲伊波比神社裏山 目は欲しいと訴えているのですが、そこはじっと我慢して参道を進むと、小高い丘が目の前に現れ、その丘を登ると神域となります。

出雲伊波比神社 一の鳥居 一の鳥居でしょう、年代モノの狛犬とともに鎮座しています。

左側には鳥居のある参道と並行している道があります。
ここが流鏑馬の行なわれる馬場です。
出雲伊波比神社 流鏑馬馬場 もうすでに朝的は終っているので、夕的までの静寂といったところと思いきや、すでに右側には結構多くの観客が詰ています。

出雲伊波比神社 流鏑馬馬場の的 左側には的が建てられていていますが、随分大きな、というより多くの的なのですね。

こちらは後ほどということで参道に戻ります。
出雲伊波比神社 祭礼幟 一の鳥居を抜けると通行の邪魔になるくらい参道の両側に屋台が立ち並び、その先には祭礼であることの大きな幟が立てられています。
この雰囲気が一番高揚感を感じるのです、私的に。

更に参道を進むと二の鳥居です。
出雲伊波比神社 二の鳥居 出雲伊波比神社 神楽殿 二の鳥居の手前右手に神楽殿がありますが、こじんまりとした年代モノでしょうか、それとも・・・。

今日は祭礼ですので神楽が奉納されるようで、無形文化財 里神楽・齋藤一夫社中と書かれていましたが、神楽はまだなようなので先に参拝に向かいます。
出雲伊波比神社 拝殿 荘厳な雰囲気の漂う拝殿です。

少し時間が早かったのか思ったほど参拝客は多くなく直ぐ参拝が出来ました。

出雲伊波比神社 埼玉県入間郡毛呂山町岩井2915鎮座
祭神
大名牟遅神・天穂日命・品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命 他
出雲を中心として国土経営、農事、産業、文化を興され、全ての災いを取り除かれた大名牟遅神、天孫のために出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに奔走され大名牟遅神が杵築宮(出雲大社)に入られたのち、そのみたまを齋い祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で、家内安全、病気平癒、開運招福、商売繁盛の神としてあがめらる。
創祀
古く出雲臣が齋祀する社であった。景行天皇53年(123年)に倭建命が東征凱旋の際侍臣武日命(大伴武日)に命じて社殿創設、神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ、現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名
出雲伊波比の神名初見は宝亀3年(772年)の太政官符においてで当社はそれによってその論拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝7年(755年)には官幣に預かる「預幣社」となり、延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社とよばれるゆえんがそこにある。
本殿建築
流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年(1528年))9月15日毛呂三河守藤原朝臣顕繁再建によるもので埼玉県下最古の神社建築である。大永8年・宝暦12年(1762年)の棟札二面とともに国指定重要文化財。昭和32、33年、文化省は解体修理をおこなった。
例祭
11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。920年の歴史をもつ。
昭和61年8月 宮司 紫藤啓治 撰文並書』(現地案内板説明文より)

由緒ある延喜式内社で、1200年以上の歴史を持っている神社です。神話時代はともかくとして、記録として残っている以上は嘘、偽りのないところでしょう。
出雲伊波比神社 国宝本殿、石柱 横に国寶出雲伊波比神社本殿と刻まれた石碑がありますが、これは1950年以前の文化財保護法施行以前の旧制度下の1938年に指定されたことにより国寶となったものです。

当時は国宝=重要文化財でしたが、1950年以降は重要文化財の中の製作が特に優れたもの、歴史上特に意義の深いものなど学術的に価値の特に高いものが国宝に指定ていて別の扱いではありますが、法的には国宝も重要文化財の一種ということになります。
早速、その本殿に廻ります。

出雲伊波比神社 本殿 一般的には拝殿と幣殿で繋がっているものが多いのですが、こちらは拝殿とは距離があり、瑞垣で囲われているところが何気に荘厳です。

出雲伊波比神社 本殿 造りは流造一間社という所謂ポピュラーな建築様式です。

本殿自体はそれほど大きくありませんが、やはり埼玉県最古の・・・、といわれると何気にありがたみが増えるような気がするのは、打算的な性格ゆえでしょうか。

八幡社 本殿の隣にある末社が八幡社です。

この八幡社は単なる末社ではなく、非常に重要な意味を持つ末社なのです。というのは、先のやぶさめ交流展での出雲伊波比神社の流鏑馬の説明では「----奥州征伐に赴いた源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願をし、凱旋の康平6年(1063)に、再び当社に立ち寄り御礼に流鏑馬を奉納したのが始まりといわれています。----」と記載されており、これは源頼義・義家父子が奥州征伐の際、石清水八幡宮の神霊を受け八幡宮を創建し、凱旋の際に、この創建した八幡宮に流鏑馬を奉納したという意味なのです。したがって流鏑馬の奉納は、この八幡宮に始まったことという意味になるのです。
その後、中世においてこの旧毛呂郷は毛呂氏の領土となったため、出雲伊波比神社も毛呂氏の氏神である飛来大明神を祀ったことから、当時出雲伊波比神社は飛来明神とよばれ、この飛来明神と八幡宮の2社が並立して存在していたそうです。
現在、出雲伊波比神社の流鏑馬は、毎年11月3日と3月の第2日曜日の2回行なわれていますが、江戸時代には旧暦9月29日に飛来大明神の流鏑馬、春の流鏑馬は旧暦8月15日の八幡宮の祭礼として行われていたそうで、その名残が現在も続いているということもあり、史実として実に興味深いこところです。
本殿と八幡社 そういわれると、何となく飛来明神と八幡社がそれぞれの流鏑馬を誇るかのように、社殿が並んでいるところが実に面白いです。

出雲伊波比神社の参拝を終え馬場に向かいます。
出雲伊波比神社 流鏑馬馬場 馬場にはすでに多くのアマチュアカメラマン達が場所取りなのでしょうか、陣取っています。

私たちもしばし馬場で待つことにしましたが、夕的はPM2:30からのことと、神楽殿で神楽が始まったとのアナウンスがあったことから、時間もまだあるので神楽殿に再び戻ってみました。
先の齋藤一夫社中の里神楽で、ちょうど三筒男神という演目が演じられるところです。
出雲伊波比神社 神楽殿での里神楽 これは伊弉諾尊が川で身を清めたときに、後の住吉三神と呼ばれた上筒王、中筒王、底筒王の三神が生まれた内容で、一日の神楽の成功を祈願し、参詣の方たちの幸せを願う神楽だそうです。

先に内容を知っていても、よく理解できないところが神楽たる所以と、訳のわからない御託を述べましたが、まあ、お目出度いということで結構なことでしょう。
しばらく神楽を見て、今度こそ流鏑馬を見るために馬場に戻りました。

出雲伊波比神社の流鏑馬

流鏑馬の馬場脇にある本部で今日のスケジュール表が配布されていました。 本日のスケジュールです。

AM
9:00;朝的行事(約30分程度)馬場
10:00;式典 神社
10:40;的がえの式 拝殿
11:00;野陣 馬場の西側
PM
1:00;夕的出発準備 的宿
1:30;追出しの酒盛 三頭の馬の集合写真 的宿
1:40;出陣(榎堂をまわり、もち投げが行なわれます) 的宿から神社へ
2:00;つめきりの儀式 参道下
2:15;あげ馬(馬が馬場へあがります) 馬場
2:30;夕的行事(約2時間30分程度)
願的・一の馬のみ
矢的(騎射を行なう)各祭馬3回ずつ
センス、ノロシ、ミカン、ムチ・1回のみ、モチ、ムチ・暗くなるまで続きます 馬場
乗り子と矢取り、神殿拝礼 拝殿
5:00;手締め 境内

先ほど出陣のアナウンスがあったので、1:40を過ぎていることですが、まだ夕的には時間がありますので、これまでのスケジュール内容を資料から追って見ます。

『10月31日に稽古じまいとなり、その日は神社に篭り、深夜ミタラセ池に参拝して精進します。
ノッコミ
11月1日、3人の乗り子は衣装を着て陣笠をかぶり、夕刻に3頭の祭馬が揃って毛呂本郷の的宿(本陣)へ乗り込みます。この日から乗り子と矢取りが的宿に籠り、口取りも祭馬宿に籠もります。的宿では神職家を接待し、花笠につける房切りを行ないます。
重殿行き・神職家饗応・町回り
11月2日、乗り子と矢取り、口取りは衣装を着て、行列をなして前久保地区にある重殿淵へと出発します。重殿淵は、神社下のミタラセ池に落ちた柄杓が流れ着いた場所といわれ、ここで馬の口すすぎをして清めます。その後、前久保地区により焼米の接待を受け、ミタラセ池でも馬の口すすぎを行い、神社へと向かいます。神社では神職家による一行への接待が行なわれ、夜も更けた頃、町回りをしながら的宿へと戻ります。その日の深夜、乗り子による追出の餅つきが行なわれます。
本祭 「朝的、野陣」
11月3日の祭礼当日は、早朝、毛呂氏の末裔といわれる大谷木一族が本殿の鍵を開けるところから始まります。
騎射を行なう乗り子は、午前9時頃神社に到着し、朝的を行います。
朝的では騎射を1回、鞭を2回、計3回走ります。その後、馬場南端に陣幕が張られ、野陣という儀式で乗り子と矢取りは神官から接待を受けます。
本祭 夕的
朝的、野陣を終え、乗り子と口取りは、的宿に戻り、夕的の出陣を待ちます。出陣を前にした的宿では、乗り子と矢取りが正装し、追出の酒盛りを行ないます。これは一定の順序で盃を回し、湯漬けの飯(煮立ての飯に湯と塩をかけたもの)を1本の箸で食べる儀式です。
午後1時30分頃、いよいよ出陣となり、的宿を一の馬から順に出発し、榎堂と呼ばれる大榎を回って、神社に向かいます。出陣の際に、沿道の家々から深夜に乗り子がついた追出の餅が撒かれます。当社の流鏑馬は一の馬は白で源氏を、二の馬は紫で藤原氏、三の馬は赤で平氏を表します。また、一の馬から三の馬の順で序列が決められており、一の馬の指示が絶対とされています。
祭馬には各地区の人々がブチ棒という軍勢を表す祭具を手に随行します。』(「サミット総合案内解説書」より)

ここまでが出陣までの手順のようですが、毛呂氏の末裔の大谷木一族や、毛呂氏が最初に居を構えた所といわれている榎堂など、やはり毛呂氏とのかかわりが実に興味深いところです。
ここでちょっと判りにくいのが、1から3の馬それぞれが源氏、藤原氏、平氏になっていて、それが序列になっているということです。
もしこれが、四姓の「源平藤橘」なら平氏が二の馬でなければならないし、橘氏がないというのもおかしなことにことになります。するとここでいう藤原氏は平安貴族の藤原氏ではなく、奥州藤原氏と考えるのが最もらしく感じます。
3氏とも武家であり、争いに勝った源氏が一の馬であるのは当然で、あとは比較論的に源氏に対する悪と考えると、悪は平氏となるであろうことから、二の馬が藤原氏、三の馬が平氏という順番になるのでしょう。何となく奥深いものを感じます。

こうして参道下に到着した三頭の祭馬は、カツノキと呼ばれる木で作った爪切りにより馬の爪を切るしぐさの「つめきりの儀式」が 行われて、いよいよ馬が馬場に上がる「あげ馬」となるのです。

馬場に入ると、まず乗り子の正装姿のまま馬場を歩きながら1往復する馬みせが行われます。
流鏑馬 矢取り 先頭には白・紫・赤の矢取りが馬みせを先導します。

矢取りの後に従って、棒の束を抱えた人たちがもっているものが「ブチ棒」でしょう。
ブチ棒 実に華やかな棒で、かつては祭りが終わると各自家に持ち帰り養蚕のお守りにしたといわれています。現在もお守りにしているのでしょう、きっと。

そして、一の馬がゆっくりと歩を進めます。
一の馬 乗り子の姿は、陣笠、陣羽織に袴、白足袋に草履を履き、乗り子の頭には花笠を被り、背中に矢を避けるために背負う母衣、腰には太刀を差しています。

この母衣は、信長の黒母衣衆・赤母衣衆のように伝令役の印と思っていましたが、実際は背後からの矢を防ぐ武具だったのですね。
二の馬 三の馬 そして、その後を紫色の二の馬、赤色の三の馬が歩んでいきます。

前述、源氏・藤原氏・平氏の由来から3頭と説明をしましたが、実際はこの流鏑馬行事の基本的組織が3つの祭礼区で行われ、この3つの祭礼区からそれぞれ1頭ずつ馬を出すことから3頭となったことが根本的な理由のようです。
現在の祭礼区は毛呂本郷、小田谷・長瀬地区、前久保・岩井地区にわかれていて、一から三の馬は輪番制で、一の馬を務めた祭礼区は翌年は三の馬というような仕組みで、3年に一度一の馬を担当するということです。
因みにこの祭礼区はさらに祭馬区に分けられています。毛呂本郷は5地区、小田谷・長瀬地区は4地区、前久保・岩井地区は5地区の各々で構成されており、各祭礼区から馬を出しているのは、各祭礼区内の祭馬区1地区ということになり、祭馬区を受けもつ機会は各祭礼区の中で一定周期で巡ってくるというシステムです。
そして、この祭馬区は、行事の準備のための祭馬宿、馬小屋を祭馬区内に設置し(ただし毛呂本郷は常に同じ場所)、乗り子の依頼、口取りと呼ばれる若衆の依頼、祭礼費用の工面、祭礼用具の購入・製作・祭具の管理など様々な準備にもあたるそうです。
そして先にあった的宿は、3祭礼区(3祭馬区)を統括する場といってもよく、現在は毛呂本郷の祭馬宿が的宿となっているそうです。

馬場の清め 馬みせが終了すると、神主が馬場を清めます。

お清めが終ると、一の的で願的が執り行われます。
一の馬による願的

的は馬場の入口から一の的、二の的、三の的と3つあり、私がいるところは二と三の的の中央くらいですので、一の的での願的は殆ど判りませんが、かろうじて写真では何とか撮れたようです。
この願的は先端の重くなった矢を1回だけ的に射る儀式で、凱旋の御礼を表すものだそうです。

願的が済むと乗り子は花笠と母衣を取り、陣笠を被って「ジンミチ」を行ないます。
ジンミチ これは一から三の馬がそれぞれ馬場を一往復するのです。陣笠、あるいは出陣から「ジンミチ」となったのでしょうか、意味はよく判りません。

ジンミチ それでも復路は3頭一緒に戻ってきたのは、実に絵になる光景です。

ジンミチ」が終了していよいよ流鏑馬のメインである矢的が行なわれます。
騎射は一の馬から順に三の馬まで、一の的から三の的の3回、合計9回矢を放ちます。
矢的 一の馬の騎射です。

結論から言うと、全く写真撮影に失敗しました。まあ、なんというかこんなに早く走るとは思っても見なかったので、シャッタチャンスがあいません。
一の馬で失敗したので、二の馬では心持早くシャッターを・・・、でもやはり上手くいきません。
矢的 矢的 矢的 これなれば三の馬は連写で・・・、結局失敗でした。

あとあと考えてみればシャッタースピードが遅かったのですね。何にも考えずにAUTOで撮影していましたから、無謀この上ない・・・。
走る口取りたち 写真はともかくとして、一の馬が3回騎射すると、馬場を抜けて社殿の周りを3回廻って戻るといういかにも、神事らしい所作が行なわれるのですが、そのために口取りは馬の後を追って馬場を目一杯力走します。

その光景に思わず笑って・・・、否、頭の下がる思いです。
こうして三の馬までの矢的が終ると、流鏑馬のメインイベントは終了です。
この後は、センスやノロシ、ミカンなどを使用した馬上芸が繰り広げられます。これは矢的から数えて最後の馬上芸であるムチまで、必ず奇数の数だけ馬場を走るという決まりになっているそうで、最近では各3頭がそれぞれ11から13回ほど走っているそうです。
ということで、最後まで見たいのも山々ですが、晴天とはいえ馬場周辺は木立に日光が遮られ、気温も低くなって来たことから、今回はこれで引き上げることにしました。

馬上芸に向う祭馬 神社の境内では、次のセンスの馬上芸を行なう3頭が控えています。

同級生の女性から声援が贈られると、ちょっとはにかんだ様な笑顔がまだ中学生であることを思い出させる位、なかなか立派な騎乗だったのではないでしょうか。

やぶさめシンポジウムでも判ったように流鏑馬をめぐる環境は決して良好ではないようです。それでも伝統を守るという地元の方々の厚い思いと努力に敬意を表する次第です。
毛呂山町の歴史民俗資料館では、このサミットに先駆けて流鏑馬に関する全国調査を行なっています。
全国で実施されている流鏑馬は116地区。射手は日光東照宮や鶴岡八幡宮など伝統と格式のある寺社は小笠原流や武田流が多く、地方の神社等は圧倒的に地元が主役のようです。中でも子供というのが21地区あったそうで、流鏑馬の伝統文化保存・継承への思い入れと分析しているようです。
埼玉県では、この出雲伊波比神社以外では、交流展でのときがわ町萩日吉神社の流鏑馬と所沢市の糀谷八幡神社の流鏑馬の三地区しか残っていないそうです。
流鏑馬に限らず残すべき伝統は是非残していただきたいものです。
次は来年1月の萩日吉神社の流鏑馬です。非常に期待が高まります。

2010.11.18記

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