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所沢航空記念公園 #2

「日本の航空技術100年展」の展示・解説を見終わっていよいよ今回の目玉である“零戦”見学となります。
パンフレット
多分「だから何・・・?」と思われる方も多いでしょうが、男のロマン、子供の憧れ(戦無派世代にとって)である実機の零戦に逢えるのです。

航空発祥記念館-2

零戦は館の一番奥に展示されていて、パーテーションで目隠しされている状態となっており、常設展以外のチケットを購入しないと見られないという上手いシステムになっているのです。

零戦来日

最初に目の当たりにする光景がこちらです。。
来日した零戦
「夢にまで見た・・・」とは言いませんが、特に戦無派の我々にとっては歴史の証人としての存在感は重厚です。
この零戦は1944年サイパン島で米軍によって捕らえられた零式五二型機で、1957年からアメリカのプレーンズ・オブ・フェーム航空博物館(POF)が所有しているものです。
POFが所有していた当時、尾翼は何度も塗装が塗り重ねられていたのですが、塗装を慎重にはがしていくと「61-120」という機番が現れたのです。
調査により、この「61-120」は1943年5月に中島飛行機小泉製作所(群馬県)で製造された機体で、同年6月第261航空隊に配属された後、硫黄島を経てサイパン島に移動したことが判明したのです。
1944年6月、アメリカ海兵隊によりサイパンのアスリート飛行場が占領され、この「61-120」をはじめ零戦13機が捕獲され、その中には現在スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている零戦61-131号機も含まれていたのです。
1944年7月、これら13機はアメリカ本土に輸送され、この61-120号機はアメリカの各基地で飛行テストされたのですが、当時、それだけ零戦の性能・技術が優れていたという表れなのです。因みにテストパイロットの中にはリンドバーグもいたそうです。
1944年、テスト飛行中の61-120号機 《テスト飛行中の61-120号機》
1944年11月、テスト飛行が一通り終了し、4ヶ月ですべての秘密が暴かれた零戦は“余剰品”となったのです。 本来スクラップになるところでしたが、1957年POFが入手しオーバーホールや復元などが行われたのです。
そして1977年11月、エンジンを試運転し翌年の1978年には33年ぶりの“再”初飛行に成功し、以降、今回の来日以前に二度の里帰り飛行を実施したのです。
POFスタッフによるエンジンの初試運転 1978年の飛行 《POFスタッフによるエンジンの初試運転と1978年の飛行》
そして今回は3度目の来日という事で、2012年11月26日に所沢航空発祥記念館に到着したのです。
1944年飛行中の61-120号機と、現在の61-120号機 《1944年飛行中の61-120号機と、現在の61-120号機》
日の丸の中に薄らと☆が見えるのはご愛嬌でしょう。
そして2012年11月27、28日に組立見学会が開催され、12月1、2日にはエンジン始動見学会が行われたのですが、大変な盛況で瞬く間に締め切りとなったようです。
エンジン始動見学会の模様です。

組立見学会の模様もアップされています。

こうして来日した零戦がこちらなのです。
零戦 零戦 零戦
近づいて見ると結構ペラペラな印象を受けるのですが、これが超軽量化を図ったジュラルミン機体なのでしょう。
プロペラは木製のようですが、そもそも原型も木製だったのでしょうか。
後からは尾翼の「61-120」の機番を見ることができます。
「61-120」
主翼と胴体の日の丸が誇らしげですが、その横の☆が現在の置かれている状況を表しています。
星、3っつです!
まさに「星、三っつです~!」
できることならキャノピーを開けておいていただければ、コクピットの中がよく判るのですが。。。
キャノピー
この機会にとばかりに四方八方から撮影をしてしまいました。
零戦 零戦

現在、国内には10数機の零戦が展示・保存されています。
都内では靖国神社・遊就館にある五二型や、国立科学博物館には二一型が展示されています。
以前【桜さくらサクラ・2009】で靖国神社を訪れたときに展示されてあった零戦を見てきました。
しかしながらこれらのすべては引き上げられ復元されたものなので、やはり動態保存されているのはこれだけなのです。
実に貴重な零戦を眺められたことは、子供のころからの憧れを満たされたようなプチ感動のひと時でした。
なお“零戦”の展示会は今年3月31日までで、3月30、31日の2日間に第2回エンジン始動見学会があり、4月1、2日に解体見学会があるので、混雑は必至ですが行かれたい方は事前に準備をされていたほうが良いようです。

東京コントロール

“零戦”の興奮も冷めやらぬなか、2階に上がった辺りは様々な体験コーナーとなっていて、フライトシミュレーターなどが設置されているのですが、体重80kg以上はNGなのでここは我慢しておきましょう。
シミュレーター シミュレーター
その先には「航空管制」の役割について、実際に使われていた管制装置で紹介されているコーナーです。
管制室
航空管制は地味な世界なのですが、個人的には以前、「ぼくは航空管制官」という管制シミュレーションゲームをやっていましたのでレアな展示に興奮気味です。

日本上空を飛ぶ全ての航空機は、パイロットが勝手に飛んでいるわけではなく、航空管制官が各航空機に指示を出して飛行させているのです。航空管制官というと、空港にある管制塔をイメージする方が多いと思うのですが、空港管制は空港に離発着する航空機を管理しているだけで、実際の管制業務には大別すると、1.飛行場管制業務、2.進入管制業務、3.ターミナル・レーダー管制業務、4.着陸誘導管制業務、5.航空路管制業務の5つの業務があり、ここにある管制装置は航空路管制業務で使用された装置なのです。
そしてこの航空路管制は空港と空港の間を管制するもので、現在、札幌、東京、福岡、那覇の4ヶ所とそれ以外の領空を担当する航空交通管理センターの1ヶ所の計5ヶ所があり、そのうち最も多くの航空機を扱うのが東京航空交通管制部で、通称東京コントロールと呼ばれており、この東京コントロールが、この所沢航空公園のすぐ隣にあるのです。
飛行情報区及び管制部管轄空域 《飛行情報区及び管制部管轄空域 (C)国土交通省》
最初に公園に着いた時の写真にかすかに東京航空交通管制部の通信塔を見ることができました。
東京航空交通管制部・通信塔
更に東京コントロールは東北地方南部から中国地方東部を管轄し、東京コントロール内のセクターには、上越、東北、常州、関東北、関東東、上総、関東南A、湘南、関東南B、房総、関東南C、関東西、武蔵、紀伊、近畿西、山陽、播磨、三河、東海、若狭、北陸、東海特別管制区の担当エリアがあり細分化して管制されているのです。
管制業務の流れ 管制業務の流れ 《管制業務の流れ (C)国土交通省》
このように飛行機は、出発から到着までをすべて綱渡りのように管制されながら飛行しており、この管制が無ければ飛行機は飛ぶことができないのです。

そして、この管制を間違えることによって起る事故の一つが有名な“ニアミス”事故なのです。
最近では2001年の日本航空機駿河湾上空ニアミス事故がありますが、これは東京航空交通管制部の訓練中の航空管制官の間違った指示のために一連のニアミスが発生したと認定されているのです。
ニアミス
管制を一つ間違えば大惨事となるのですから、いかに飛行機にとっては管制が重要かがお分かりいただけるでしょう。
その重要な管制が、ここにある実際の計器で行われていたのですから、興奮するのも当たり前・・・、って私だけですかね(汗)
そしてその交信の模様を再現したのが、こちらのブースです。
交信ブース
普段何気なく搭乗している航空機ですが、多くの人たちによって運行されていることを認識させてくれました。
かなりレアな話題となってしまったのですが、こんなところにも男のロマンを感じてしまうのです。

所沢メモリアルギャラリー

最後のコーナーが所沢飛行場にまつわる歴史に関しての展示です。
所沢メモリアルギャラリー 所沢メモリアルギャラリー
コーナーごとに分けると以下の歴史を知ることができます。
1.航空時代の幕開け、2.日本最初の飛行場、3.所沢飛行場の歩み、4.戦後の所沢飛行場、5.埼玉・所沢の航空人、6.所沢の空を舞った飛行機たち、7.所沢と日本航空史、8.航空設計者の功績
展示物 展示物 展示物 展示物
かなり膨大ですので、ここは掻い摘んで所沢飛行場とゆかりの人物・飛行機をクローズアップしてみます。

会式一号機の中でも触れましたが、日本における航空に関する最初の公的研究機関は、陸軍・帝国大学・中央気象台のメンバーによる「臨時軍用気球研究会」でした。
1909(明治42)年の勅令により創設されたのですが、この研究会の最初の事業が飛行場用地を選定することでした。
候補地としては所沢をはじめ、大田原(栃木県)、宇都宮付近、小田原、下志津原(千葉県佐倉市)などが選考の対象となったのですが、当時、気球隊が駐屯していた東京府中野町から鉄道の便がよかったことと、地形や気候が気球に適していたことの理由によって所沢が選定されたのです。
気球隊 《気球隊》
この当時の所沢は人口5,000~6,000人の織物の集散地であり、農業、製茶などのほか、川越芋として知られた甘藷の生産地でもあった中に、1911年(明治44年)4月1日、臨時軍用気球研究会所沢試験場が開設され、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路と格納庫、気象観測所を備えた日本最初の飛行場が現れたのです。
所沢飛行場
その広さは768.87㎡であったのですが現在の東京ドーム約17個分ですから、現在の空港に比べればかなり小さい部類でしょう。また滑走路で比べれば現在日本で一番短い滑走路のある商業空港は、薩摩硫黄島飛行場、大利根飛行場、阿見飛行場の600mですから、当時と現在の飛行機の性能を比較すると意外と当時は長かったのですね。まあ、もっとも先を見据えた、或いは土地が余っていたからということもあるでしょうが。

一方、臨時軍用気球研究会の委員であった日野熊蔵(当時31歳、陸軍歩兵大尉)と、徳川好敏(27歳、同気球隊付工兵大尉)は、操縦技術習得のためにフランスに派遣されたのでした。その際に軍の依頼により二人は自らが機体を選定することになったのです。
徳川大尉は、フランスのアンリ・ファルマン飛行学校で操縦を学びここで免許状(事実上の国際免許)を取得したのです。
この時の免許状が現存しており、免許状に貼られた写真がこちらなのです。
徳川大尉
そしてここで操縦技術を習得した「アンリ・ファルマン式複葉複座機」を分解・梱包して日本に送り、その後、アントワネット飛行学校に移り、ここで操縦技術を習得した「ブレリオ式単葉機」を発注したのです。
アンリ・ファルマン式複葉複座機 ブレリオ式単葉機 《ファルマン号とブレリオ号》
同じように日野大尉もアンリ・ファルマン飛行学校に入学します。
日野大尉
しかしながら、その後、エンジン買い付けの失敗などがあり、7月に単身ドイツに渡りヨハネスタール飛行場で操縦技術を学び、ドイツの「ハンス・グラーデ式単葉単座機」「ライト式複葉機」を発注したのです。
ハンス・グラーデ式単葉単座機 ライト式複葉機 《ハンス・グラーデ号とライト号》

こうして機体、操縦士、そして飛行場と最低限のものを揃えたなかで、“アンリ・ファルマン”機と“ハンス・グラーデ”機が1910(明治43)年、所沢飛行場開設よりも一足早く日本に到着したため、臨時軍用気球研究会は東京・代々木練兵場で試験飛行を実施したのです。
以降は、記念館に掲出しているパネルからの引用です。

1910(明治43)年12月14日、日野大尉が操縦する“ハンス・グラーデ”機が日本最初の飛行に成功した。しかし地上滑走試験中の出来事であったため、非公式飛行となっている。翌日15日、徳川大尉操縦の“アンリ・ファルマン”機と日野大尉操縦の“ハンス・グラーデ”機は、地上を滑走中に機体を破損した。
“アンリ・ファルマン”機は修理に時間を要し、15日と16日は飛行できなかった。“ハンス・グラーデ”機は1日で修理を終え、16日に再び飛行に成功したが、これも非公式飛行であった。17日と18日は強風のため中止となり、本飛行は19日に延期された。
19日、両機はともに飛行に成功した。これが日本最初の公式飛行である。
(現地パネル)

様々な努力と苦労を重ねてきたであろう両大尉が揃って日本初飛行の栄誉に預かったのは大変名誉なことといえるでしょう。しかしながら何となく釈然としない気持ちがしませんでしょうか。
何故、日野大尉の初飛行が2度までも公式記録にならなかったのでしょうか。これを紐解くと実に滑稽なエピソードが浮かび上がってくるのです。

これはその準備の状況から紐解かなければならないようです。
2機の飛行機はそれぞれ1週間前に中野の陸軍気球隊から汽車で代々木練兵場に移送され、会場に設置されたテント式格納庫に運び込まれていました。
テント式格納庫
“アンリ・ファルマン”機の徳川大尉のグループは、到着した13日中に機体の組み立てと整備を終え、13日と14日の両日にわたって2度の地上走行試験を行うなど、本番の飛行に備えて準備万端整っていました。また一方の“ハンス・グラーデ”機の日野大尉グループの方も13日中に全ての準備が整い、14日の地上走行試験、15日の本番飛行に備えていたのです。
そして迎えた12月14日の地上走行試験において大勢の観衆の注目する中、日野大尉が乗り込んだグラーデ式単葉機は勢いよく滑走し始め、予め目論んでいたかどうかは不明ながら、日野大尉はそのままスピードを増して離陸してしまったのです。
地上走行試験中のハンス・グラーデ機 《地上走行試験中のハンス・グラーデ機》
最も高度は僅か1メートル程度だったのですが、約30メートル飛んで着地したのです。高度は低いながら紛れも無く日本最初のフライトであったことは間違い無いのです。
この時観衆は大喜びで「それ飛んだ、もっと上がれ、もっと上がれ!」と囃し立てたことから、これに気をよくした日野大尉は、2度目の滑走試験ではさらに勢いをつけて離陸、あっという間に10メートルほどの高さまで上がって約60メートルを飛行して見せたのです。
これに唖然としたのが主催者の臨時軍用気球研究会で、この日は地上走行試験だけと言う規則を破ったものであり、検定員が立ち会っていなかったことから正式な飛行と認められず、厳重な注意とともに「地上滑走中に余勢で誤って離陸したもの」と記録されたのです。
このようにして第1回目の飛行は無効となってしまったのです。

そして前述したように15日の本番では2人揃って機体を破損させてしまったのですが、1日で修理した日野大尉グループは、16日午後4時20分頃に風も弱まってきたことから再び滑走を開始したのです。
そのままスムースに離陸すると、高度約5メートルまで上がり、約50メートルを飛行して着陸したのです。更にその30分後にもう一度飛行し、約3メートルの高度で約100メートルを飛行したのでした。
徳川大尉のファルマン機が修理に手間取っている間に日野大尉は飛行を繰り返し見事に日本初の飛行の栄誉を受けたと思いきや、検定官たちは何故かこの飛行を単なる“ジャンプ”として扱い、正式な飛行とは認めなかったのです。
高度3メートル、長さ100メートルのジャンプと言うのも前代未聞ですが、何故、当局は嫌がらせとしか思えない行為に走ったのでしょうか。
一つには、徳川御三卿のひとつで清水徳川家のプリンスである徳川大尉を差し置いて、熊本の藩士の出身にすぎない日野大尉が先に飛行したということは、できるだけ認めたくなかったと考えられ、もう一つは日頃からあまり規律を守らない直進的な日野大尉に対して検定官たちも陸軍首脳部もいい感情を持っていなかったというのが理由のようです。事実、後に日野大尉は所沢から九州に左遷されていることからも伺えることなのです。
そしてその後、徳川大尉が初飛行を成功させるのです。
アンリ・ファルマン機の初飛行 《アンリ・ファルマン機の初飛行》
こうして代々木練兵場での徳川、日野両大尉による日本最初の公開飛行は、明治43年12月19日2人によって同時に成功裏に達成された、と歴史に刻まれることとなったのです。

この刻まれた歴史は現在の代々木公園に残っているそうなので、1月14日の爆弾低気圧での大雪の残る代々木公園に出かけてみました。
代々木公園 代々木公園
「日本初飛行の地」と記載された案内板があり、その後には左右に大きく翼を広げた鳥の型にデザインされた石碑「日本航空発始之地記念碑」があります。
日本初飛行の地 日本航空発始之地記念碑
まさしく飛行機が今飛び立とうとしている姿を現しているようです。
日本航空発始之地記念碑
更にその前方には徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉の胸像が建っています。
両大尉の胸像 徳川大尉 日野大尉
幾つかの行き掛かりがあったとはいえ、両名とも大変な功績を残したことは、現在でも間違いないところで、それは胸像の石碑に刻まれた碑文からも伺えるのです。
碑文
また、大きな記念碑の後ろにひっそりと小さな石柱と水準点のようなものが設置されており、石柱には「日本初飛行離陸の地」と刻まれています。
日本初飛行離陸の地 日本初飛行離陸の地
日本の大空、まさしく未来に向けて飛び立ったというスタート地点なのです。
飛び立った未来
最後はやはり両大尉のツーショット写真で終わることにしましょう。
両大尉
これで一件落着ですが、名誉のために天才肌の日野大尉の偉業を添えておきます。
新宿区にある「国産飛行機発祥の地」です。
国産飛行機発祥の地 国産飛行機発祥の地
試験飛行では失敗だったといわれているのですが、それでも日野大尉の功績は変わることも無く、偉大なる“ヒコーキ野郎”だったことを教えてくれているのです。

大分脇道にそれてしまいましたが、こうして初飛行も終わり所沢飛行場が完成すると、飛行場には先の「アンリ・ファルマン式複葉複座機」と「ハンス・グラーデ式単葉単座機」、そして後から日本に到着した「ブレリオ式単葉機」と「ライト式複葉機」の計4機が揃ったのでした。
そして1911(明治44)年4月5日、徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機“アンリ・ファルマン”機が高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を行い、これが正真正銘の日本の飛行場での初飛行となったのです。
こうしたことから代々木公園は「初飛行の地」で、所沢飛行場跡地は「航空発祥の地」という名称になったのです。
以来、終戦まで試作航空機や飛行船、航空兵の操縦訓練に使用されたのですが、戦後アメリカ軍に接収され、現在は約7割が返還され公園を始めとして公共施設用地として利用されているのですが、現在も一部は米第5空軍374空輸航空団所属、所沢通信基地や大和田通信所として稼動しているのです。

(つづく)

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コメント

  1. マヤリモ | -

    すごい!

    私も昨年、航空記念公園に行ったんですが、別の用事のついでだったので、流すように見てしまいました!

    薄荷脳70さんの、この記事を見て、またもう一度、行ってみたいと思います!

    あと、ひとつ、お願いがあるのですが、私の所沢のブログを見られたブロガーさんが来週、航空記念公園に行かれるそうなんですが、せっかくなら、薄荷脳70さんの記事を見られた方が楽しんで頂けると思うので、「新訂 旅と歴史」紹介させてもらっても宜しいでしょうか?



    ( 18:45 )

  2. 薄荷脳70 | z3DJMOlI

    マヤリモ さん、ありがとうございます。

    いつも見ていただいてありがとうございます。
    また、このような嬉しいお申し出に改めて感謝いたします。
    私の拙いブログでよろしれけば、是非ご紹介ください。
    次の章で航空公園は一応終了し、街中に移る予定です。
    今後ともよろしくお願いいたします。

    ( 18:56 [Edit] )

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