所沢航空記念公園 #3

「航空発祥記念館」をでてからは公園内を散策します。
この公園内にも各所に飛行機にまつわるものが多くあるようです。

C-46中型輸送機と航空発祥の碑

記念館の前には、来るときから見えていた機体の展示をまずは見学です。
ここに展示されている機体は「C-46中型輸送機(天馬)」という飛行機です
C-46中型輸送機 C-46中型輸送機
この輸送機はアメリカのカーチス・ライト社が1940年3月から総数3,180機を製造したもので、当初は軍用輸送機として使用されましたが、戦後は数多くが民間旅客機として使用されました。
日本では昭和30年航空自衛隊の輸送機として配備され、昭和34年には総数47機を保有していました。特にこの輸送機は「空のデゴイチ」と呼ばれ、航空自衛隊では主に災害時の緊急物資輸送などに活躍したのです。
ここに展示されているものは、航空自衛隊入間基地で使用されていたものを、昭和55年に分解、運搬し設置されたものです。
ずんぐりむっくりした機体と輝かしいオレンジ色が可愛らしさを感じさせます。この辺りがデゴイチと呼ばれる由縁なのでしょうか。

機体の側にあるのが「航空発祥の地」碑です。
「航空発祥の地」碑 「航空発祥の地」碑
案内板の説明には所沢市が航空発祥の地となった由来や歴史が記載されていますが、内容は前章と同じなので割愛しますが、一部分だけ興味深い記載がありました。

(前略)・・・所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。・・・(以下省略)
(現地案内板より)

前章では日野大尉の記述がありませんでしたが、ここにはきちんと記載されていましたので、ホッと一安心です。。
いづれにしても初飛行の地は代々木公園に譲りましたが、航空発祥の地はしっかり航空公園が獲得したということです。

沈床茶園

碑の前の放送塔に向うと、放送塔の前が一段窪んだ部分があります。ちょうど最初に公園に入った場所の反対側に当たります。
沈床茶園
ここは「沈床茶園」という花壇なのですが、実はもともとこの部分が滑走路だったところなのです。
案内板に寄ればこのように滑走路を中心として格納庫、観測所などがあり、左側の写真が現在の公園とファルマン機と当時の建造物を合成した写真に写っているのがそれらの建造物です。
沈床茶園
実に興味深い合成写真ですね。
茶園の中にはモニュメントが建っています。
アンリ・ファルマン機 アンリ・ファルマン機
まさしくあの1911年4月5日、徳川大尉の搭乗したアンリ・ファルマン機がここで初飛行した様子をモニュメントにしたものです。
モニュメントのタイトルは「あっ、飛行機がとんだ!」で、実に素敵なネーミングです。
そしてこのファルマン機と相対するように、恐らくスペースシャトルであろうトピアリーが設置されています。
スペースシャトルトピアリー
花壇とともに季節の良いときには美しいトピアリーを見られるのでしょうが、今日はイメージで我慢しておきましょう。
滑走路跡にファルマン機とスペースシャトルという新旧の取り合わせもまた実に面白い取り合わせです。

航空整備兵の像

ここからは放送塔の先を滑走路跡沿いに散策します。
放送塔 放送塔
放送塔といいながら、ラジオなどの電波を流しているのではなく、イベント時の案内や迷子のお知らせなどを流しているのです。
1989年時の空撮写真がありますが、これを見れば公園の中心にこの放送塔があり、この公園のシンボルであり、道標でもあることがわかります。
空撮写真
公園のどこにいても凡その中心がわかる仕組みなのでしょう。なお、この当時はまだ航空発祥記念館やYS-11はまだ見られませんね。
放送塔の先の園路を進むと左手に「航空整備兵の像」があります。
航空整備兵の像 航空整備兵の像
この像は昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏が第2回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年、この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
戦後アメリカ軍から基地を返還された際に修復され、この場所に設置されたのです。
建立された時は、翼を抱き、空を見上げる像の姿が、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていたようです。

木村・徳田両中尉像

更に園路を東に進むと時計塔があります。
中央時計台モニュメント
これは「中央時計台モニュメント」というそうで、鳥がたくさん休んでいますが、当然これもモニュメントの一部です。
かなり広い公園を歩き、ふと見た光景がこのショットです。
公園風景 公園風景
必然か偶然なのか、何故ビルの頂上は尖っているのでしょうか。基本はピラミッド、ですかね。。。
園路の茶色になっている部分はジョギングのできるコースとなっているようです。
園路 園路とジョギングコース
足を痛めないような舗装がされていて多くの方が走っています。
更に進むと噴水があります。
小噴水 小噴水
池には氷が張っていて寒々しいですが、これもまた季節の味わいというものでしょう。
噴水の先に犬の鳴き声が聞こえるので行ってみると、そこは「ドッグラン」エリアで無料で解放されているようです。
ドッグラン
現在はこういった施設がないと犬も駆け回ることができなくなりましたら。。。

ここから進路を南にとって進むと右手に大きな碑があるのが見て取れます。
木村・徳田両中尉像
この碑は「木村・徳田両中尉碑」というものです。
木村・徳田両中尉像
これは日本で最初の航空犠牲者である両中尉を悼んで建立された碑なのです。
所沢飛行場が開設された2年後の1913(大正2)年3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は、青山錬兵場に着陸し、貴・衆両院議員の鑑覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途についたのです。
ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機とともに墜落して殉職し、日本で最初の航空犠牲者となったのです。
当時のこの事故のショックと反響は非常に大きかったようで、当時の「やまと新聞社」が義捐金を募り墜落地点に記念塔を建て、追悼の銅像として残したのです。
死亡事故に記念塔とは・・・、と現代感覚では違和感も感じるのですが、与謝野晶子ほか多くの文士たちが追悼の詩文を発表したくらい、当時としてはあまりの大きな出来事だったからかもしれません。
その後、墜落地であるこの像の場所が不便な所であり、訪れる人も少なかったことから昭和4年に当時の所沢駅前に移され、その後、西武園ゆうえんち、航空自衛隊入間基地を経て、昭和55年、両中尉が生前飛び立ったこの地に生垣や花壇、アーチなどと共に設置されたのです。
木村・徳田両中尉像
やっと故郷に戻ってきたといったところでしょうか。
因みに現在の塔の高さは関東大震災時の損傷により、銅像の頭上から紋章までの一部が短縮されているのだそうです。

フォール大佐像

「木村・徳田両中尉記念塔」の反対側には、特に名も無き“池”があります。
近づくと急に鴨が集まってきました。人影を察知するとエサでももらえると思っているのでしょうか、そうは問屋は卸しませんね。
名も無き池
最も鴨も簡単には葱をしょってはきませんから、ここは引き分けということで。。。
この名も無き池からは「むさしの川」という人工の川が流れているのですが、現在水は流されていないので、川の中で子供たちが思う存分遊んでいます。
むさしの川
ここからは園路を西に進みます。
子供の遊具や梅園などがあり、季節の花を愛でることでもこの公園は有名なようで、毎月1回「航空公園発見ツアー」というものがあり、ボランティアガイドの案内で公園を巡るようです。
児童公園 梅園
春夏秋冬、季節を感じるには手っ取り早いツアーでしょう。
そして少し先に行くと右手にシンボルである放送塔が真正面に見ることができます。丁度放送塔を南から見る位置になります。
放送塔
このまま更に西に進むと右手に野外ステージが現れ、左手が野球場となります。
野外ステージ

そしてこの先の右手にある胸像が「フォール大佐像」です。
フォール大佐像 フォール大佐像
碑文には以下のように記載されています。

フォール・フランス陸軍砲兵大佐は、大正8年1月63名のフランス航空教育団長として来日、約19ヶ月に渡り、航空技術の指導教育をし、我が国航空界の発展に寄与しました。
(記念碑文より)

日本の開国によって欧米列強は日本との関係を強化しようと試み、特に軍事は極めて重要な役割を果します。
フランスも同様で、1865(慶応元)年~1876(明治9)年までは横須賀製鉄所の建設、1867(慶応3)年~1868(慶応4年・明治元)年まではフランス第一次軍事顧問団、1872年~1880年までは第二次軍事顧問団、1884年から1889年までは第三次軍事顧問団をそれぞれ派遣し、1886年~1890年には技師エミ ール・ベルタンによる日本帝国海軍の近代化、そして1899年には在東京フランス公使館付国防武官が正式に設置され日本との関係を厚くしてきたのです。
また、毎年多くの日本人士官をフランスに留学させ、日本海軍には戦艦を、陸軍には各種武器を定期的に供給もしていたのです。 そのような背景のなか、日本に航空機を売り込もうとする流れは当然の帰結で、フランスは日本にたいして航空教育軍事使節団を派遣する旨の提案を行ってきたのです。
これに対し日本からの返答が1918年8月26日付覚書に記されています。
「日本の駐在武官が我々の提案を受け入れると知らせてきた(中略)。使節団の指揮はフォール中佐が執り(中略)同将校が航空補佐官および日本の駐在武官とともに部下の人選を行う(中略)。補佐官におかれては人選リストが決まり次第、これを陸軍参謀長に提出されたし(中略)。また、日本政府は上記軍人以外に航空機製造技師または専門家も使節団に加えてほしいとの意向を表明している。」
こうしてフランスの航空教育軍事使節団派遣が決定し、使節団はフランス政府が自費で派遣するにあたリ、使節団の人選からはイタリア人、イギリス人、アメリカ人を除外しすること、そして見返りに日本がフランスに軍用飛行機を多数発注することの条件を日本から取り付けたのです。
そしてフォール中佐(日本滞在中に大佐に昇進)が同年8月25日付けで「フランス遣日航空教育軍事使節団団長」に正式に任命されたのです。

フォール大佐 このジャック・フォールは1869年生まれで、1887年から陸軍に入隊し、以来、砲兵としてのキャリアを積み、1894年には第9砲兵連隊長に昇進しています。
個人的に航空技術に熱中し、1912年軍事航空局に入り、1914年飛行中隊長となり、1914年8月シャロン・シュル・マルヌ陸軍参謀本部にて第一次世界大戦の開戦を迎えるのです。
その後、1915年航空補佐官房に入り、1917年第207砲兵連隊にて中佐に昇進、同年9月からは第4軍第60師団野戦砲兵部隊の指揮を執るというキャリアで、先の「フランス遣日航空教育軍事使節団団長」となったのです。
これらのプロフィールを見る限り航空技術のエキスパートでは無く、航空技術知識も持ち合わせた優秀な管理者といったイメージです。

そして1919(大正8)年1月にフォール大佐率いる使節団41名が来日し、日本が発注した新型のサルムソン2A2偵察機、ニューポール24戦闘機、スパッド13戦闘機、ブレゲー14B2爆撃機をもって、操縦、射撃、爆撃、偵察観測、気球、機体製作、発動機製作、航空機検査の8部門を、各務原、浜名湖、三方原、下志津、所沢、熱田、東京の各地の陸軍航空部隊にて教授し、所沢では気球・機体製作が教授されたのでした。
気球班
因みにフランスの旧50フラン紙幣の表面には“サン・テグジュペリの肖像”が描かれ、裏面には“ブレゲー14”が描かれています。
旧50フラン紙幣の表面 旧50フラン紙幣の裏面
これは「星の王子様」、「南方郵便機」、「夜間飛行」等は、サン・テグジュペリがブレゲー14を操縦していた頃の経験に基づき執筆されていたことを記念した紙幣なのです。
また、同年1月20日にはフォール大佐以下41名が所沢航空隊を訪問しており、花火が上がるほどの熱烈歓迎だったそうです。
こうして当初3ヶ月の派遣予定だったものが、大佐の働きかけにより延長され、1年7ヶ月の長きに渡って航空教育に当ったのだそうです。
これにより日本の航空界は飛躍的な発展を遂げていくのです。

フランス帰国後のフォール大佐は数々の叙勲を受け、准将に昇進して1924(大正13)年8月24日に死去しました。
この際、外国の軍隊への功労によりスペイン、イギリス、ロシア、イタリア、ベルギー、セルビアより叙勲され、日本は勲三等瑞宝章と勲三等旭日章を授けたのです。
そして日本に軍事航空技術と航空産業の基礎を築いた使節団の功績は大変大きなものであったことから、これを記念して所沢陸軍飛行学校は昭和3年、フォール大佐の胸像を校内に建立したのです。
しかし皮肉なことに太平洋戦争で、この胸像は供出され台座だけとなってしまったのですが、昭和57年に原型をもとに復元されたのです。
フォール大佐像
日本の航空界にとっても所沢にとってもはずすことの出来ない恩人といえるのでしょう。

大正天皇駐輦碑

「フォール大佐像」を離れて園路沿いに進むと右手にちょっと風情のありそうな門があります。
彩翔亭
「彩翔亭」という茶室です。
日本庭園があり、その中に呈茶席もあり癒される空間のようです。しかも“翔”の字が入っているのもこの公園らしくて好感が持てます。ちょっと寄り道して散策してみます。
門を潜り抜けて正面にある建物が茶室で、誰でも抹茶をいただく事が(勿論有料です)できるのです。
彩翔亭
その右手が日本庭園になっていて、このような苔むした雰囲気も侘び寂びの世界です。
日本庭園 日本庭園
庭園の奥には築山や竹林、そして美しい池などが落ち着いた風情を醸し出しています。
日本庭園 日本庭園 日本庭園
時間をかけて休憩でもすれば、更に庭園を満喫できるのでしょうが、本日はここまでとして先に進みます。

「彩翔亭」と園路を挟んだ向かい側に「大正天皇駐輦碑」があります。
大正天皇駐輦碑 大正天皇駐輦碑
これは大正元(1912)年11月15~19日の4日間、川越方面でで陸軍特別大演習が実施された際に、大正天皇が総監のために来場したのを記念して建てられた記念碑です。
期間中、大正天皇は川越に本営が設置されたことから、埼玉県立川越中学校に宿泊していたのですが、17日にはここ所沢飛行場に来場し気象観測所屋上から演習を見られたそうです。
埼玉県立川越中学校 気象観測所屋上から演習
在位が短かったことから大正天皇の記念碑といったものはかなり少ないので、そういった意味でも貴重な記念碑かもしれません。

こうして所沢航空記念公園に存在する所沢飛行場の名残を見て回りましたが、ここまで様々なものがあるとは思いませんでした。
やはり航空発祥の地に相応しい歴史を有していることを感じました。まあ、航空ファンなら一度は訪れるべき聖地といっても良いのかもしれません。
再び最初に着いた沈床茶園に戻り、公園の散策は終了です。
沈床茶園
この後は、航空記念公園をでて街中を散策し、航空の歴史と主目的である「所沢の焼き団子」を賞味します。

(つづく)

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コメント

  1. pansy | -

    楽しい公園ですね!

    こんばんわ。
    公園は見どころ多くて散策にはとてもいいですね。
    モニュメント「あっ 飛行機が飛んだ!」・・このタイトル見ただけで行きたくなりました。
    月1の発見ツアー参加も面白そうですね。

    ( 23:09 )

  2. 薄荷脳70 | -

    pansyさん、ありがとうございます。

    ここは散策も、見学も、スポーツも、ペットもと多目的に楽しめますね。
    ツアーも中々楽しいようです。
    機会があれば訪れてみてくださいね^^

    ( 09:53 )

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