溜池山王彷徨

今回の散策は「溜池山王」周辺です。
鉄道路線図で言えば、銀座線と南北線が乗り入れている文字通りの「溜池山王駅」です。この溜池山王駅の住所が東京都千代田区永田町二丁目11-1ですから、遠くの方でも“永田町”と聞けば凡その位置はお判りになるかもしれません。
今回はこの「溜池山王駅」周辺を散策します。

溜池

この「溜池山王駅」の誕生は新しく、1997(平成9)年ということで銀座線では最も新しい駅なのです。
溜池山王駅
もともと仮称駅名は「溜池駅」だったのですが、この駅が港区と千代田区の境界に建設されたことから駅名決定が難航し、両区の地名を合成して決定したものなのです。
そのうちの“溜池”とは、江戸時代にこの地に造られた大規模な“ため池”(貯水用の池)に由来し、後に赤坂溜池町という住居表示があったのですが、現在は交差店名としか残されていないのです。したがって溜池は港区の代表として付けられた駅名なのです。
一方の山王は、千代田区側にある日枝神社が山王権現を祀る社として、古くから山王様と呼ばれていたことから、千代田区の代表として選ばれた名称なのです。
ここが唯一名称の残る「溜池交差点」です。
溜池交差点 溜池交差点
首都高速の走っている東西側が六本木通りで、その交差する南北の通りが外堀通りです。
外堀通りという位ですから、江戸時代には外濠があったわけで、家康入府前後と諸説あるものの、天下普請による江戸城の建築・整備のため、防備と水脈という意味で外濠川が開削され、その一部として元々湧水の湧く沼沢地であったことから外濠に取り込まれたのがこの溜池だったのです。

溜池交差点の安全地帯には「溜池発祥の碑」が立っています。
溜池発祥の地碑
碑文によれば江戸時代のはじめに江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ、水道の発祥地とも言われているようです。2代将軍秀忠時代には、鯉・鮒などを放流し、蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する名所となったそうです。
これについては江戸名所図会にも「往古欽命によりて、江州琵琶湖の鮒および山城淀の鯉等を、活きながらこの池に移し放たしめられたりとて、形すこしく他に異なり。また蓮を多く植ゑられしゆゑに、夏月花の盛りには奇観たり。」と記載されています。
また、図会によればこの溜池を造ったのが浅野左京太夫幸長で、この功績に対する感謝の印として榎を植えたことから、現在の赤坂一丁目にあるアメリカ大使館の前の坂を「榎坂」と呼ぶようになったのだそうです。また、溜池の北方向には辻番所で“葵”を栽培していたことから、虎ノ門2丁目の坂は「葵坂」となったのです。

溜池の変遷がこちらです。
江戸時代地図 明治時代の地図 現在の地図 《「ぶらり東京~23区巡り~」より》
江戸・明治、そして現在の地図です。確かに外堀通りに沿った外濠川の一部として大きな溜池を見てとることが出来ます。
「江戸名所図会」や広重の「名所江戸百景」にも溜池が描かれていることからも、ここが当時の名所であったことがわかります。
江戸名所図会の溜池 名所江戸百景の溜池
更に碑文に寄れば江戸時代後期には日枝神社から赤坂4丁目にかけて「日吉橋」が掛けられ、この橋は通行料金を取ったことから「銭取橋」とも呼ばれたそうです。
そして明治中期までは日吉橋のほか、古吉橋、溜池橋、葵橋が掛けられていたのです。
溜池橋 《溜池橋(国立国会図書館蔵)》
こうした歴史を持った溜池も明治初期から始まった埋め立てにより、明治44年には埋め立てられてしまったのですが、途中の明治22年に赤坂溜池町が創立され、大正10年には町会として溜池町会が発足したのです。したがってこの時点で溜池は無く、地名だけが残ったと言うことになるのです。
そしてその当時、現在の交差点にある小松ビルは「演伎座」という芝居館で人気を博したのだそうです。
KOMATSUビル
当時の新聞記事です。
「赤坂演伎座 目下興行中なる(松旭斎)天一の奇術は日々の大入にて、内外の顕官を始め諸芸人等の総見物も続々あり、三月十日迄新奇芸を差加へ開演する由」(東京日日新聞 明治31(1898)・2・27)
なかなか知りえない歴史ですが、この後小松ビルとなったときにも、確かビルの屋上にブルトーザーが置かれていました様な記憶があるのですが。。。

首相官邸

溜池の交差点から旧外濠川の外堀通りを北上します。
外堀通り
2、3分も歩くと交差点となり、右側の交差点にはバリケードと警官が配備されています。
外堀通り
この交差点を右折すると直ぐ右手が首相官邸です。
官邸方面
以前は滝が流れていたのですが、現在は停められているようですが威圧するような建物ではないところが好感持てます。
首相官邸 首相官邸 首相官邸
現在の官邸の敷地は、江戸時代では敷地内の南側が越後村上藩内藤家中屋敷で、敷地内北側は丹後峰山藩京極家上屋敷だったところです。
明治維新後は一時、一橋徳川家が使用し、明治3年には鍋島家の所有となったのです。
しかし関東大震災の被害により、この地は復興局に売却され、大正15(1926)年に総理大臣官邸の新設が決定し、昭和4(1929)年、当初は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれ官邸が完成したのです。
その当時の写真です。
旧首相官邸
こちらが旧官邸なのですが、この当時この旧官邸と渡り廊下で連結していた公邸があったのです。官邸は首相が執務を執り行うところで、公邸は首相の住居となるのもです。
この当時の公邸は「日本間」と呼ばれ、田中義一首相が最初に入居したのを皮切りに、以降6名の歴代首相が寝起きしたのです。
その後、5.15や2.26事件などの舞台となり、犬養毅などの死者もだし、使い物にならないほど荒されれたことから、復旧はあきらめ事務所として使用し、代わりの公邸として「日本家」と呼ばれる仮公邸が作られたのです。
日本家
しかし、ここも首相が住むことなく戦災で焼失したのです。
戦後は長く吉田首相が外相も兼務したことから外相公邸が事実上の首相公邸となり、しばし公邸は必要がなくなったのです。
しかし、事務所として使われていた旧公邸も1963年から改修を行い佐藤栄作が2.26事件以来、久しぶりに移り住んだのです。
こうした背景のある公邸故に、時折軍服姿の幽霊が出ると騒がれ、森喜朗首相や羽田孜首相の綏子夫人などは霊が見えると話していたそうです。
当時の森首相からこの話を聞いた小泉首相は「幽霊なんか・・・」と笑い飛ばしたそうですが、後にお祓いをしたのだそうですから、内心は・・・、と言うことです。
こうした幽霊騒ぎがあったからか(そんなわけは無いのですが)、小泉首相時代に新官邸の建設→旧公邸の取り壊し→旧官邸の移動→新公邸への改装が行われ、現在の官邸、公邸となったのです。
結構面白そうな歴史を持っていることをはじめて知りました。

ザ・キャピトルホテル東急

首相官邸の斜め前にある建物が「東急キャピトルタワー」で、この高層ビルのメインテナントが「ザ・キャピトルホテル東急」です。
東急キャピトルタワー ザ・キャピトルホテル東急
東急ホテルズのフラッグシップを担い、首都を意味する“キャピタル”では無く、国会議事堂に近いことからあえて議事堂を意味する“キャピトル”と名がつけられたのです。
このホテルは2010年10月22日にオープンしたのですが、それ以前の歴史はかなり興味深いものがあります。
そもそもは再開発事業「永田町二丁目計画」により現在のビルとホテルが生まれたのですが、それ以前は「キャピトル東急ホテル」として存在していたのです。その歴史を見てみます。
そもそもこのホテルは1963(昭和38)年6月、「東京ヒルトンホテル」として開業しました。
東京ヒルトンホテル
これは当時アジア地区に拠点を求めていたヒルトンホテルズ・インターナショナルと国際的ホテルのノウハウを求めた東京急行電鉄の思惑が一致したことから、両者の合弁会社東京ヒルトンホテル株式会社が設立され、日本初の外資系ホテルとして開業したのです。
当然、翌年の東京オリンピックを意識したもので、地上10階建て、客室数約450室をもつ規模でした。
しかし何よりもこのホテルを有名にしたのは1966(昭和41)年6月に来日した“ザ・ビートルズ”が宿泊したことからでしょう。
ビートルズ喧騒曲とも言える一連の出来事は、当時小学生ながら何となく記憶が残っています。
そして残っていると言えば、現在のホテルの1Fには、当時ビートルズが記者会見した真珠の間のステージの壁面が再現されているのです。
東京ヒルトンホテルでのビートルズ記者会見 再現された壁面 再現された壁面
宴会が無ければどなたでも見ることは可能なそうですから、懐かしく思える方は訪れてはいかがでしょうか。
このような東京ヒルトンホテルでしたが、ヒルトン側と東急側では経営を巡って対立もあったようで、当初の契約期間であった20年を迎えた段階で、東急側は契約を更新せずヒルトンと決別し、1984(昭和59)年元日から「キャピトル東急ホテル」と改称して、東急ホテルズのフラッグシップとして運営されることとなったのです。
キャピトル東急ホテル
こうしたことからこのキャピトル東急ホテルは三大テノールや、ショーン・コネリー、マイケルジャクソンら外国人アーティストの宿泊が相次ぎ、エリック・クラプトンなどは来日時の定宿としていたのです。
また、文字通り“キャピトル”に近いことから政治家の利用も多く、当時地下3階にあった「村儀理容室」は小泉首相や安倍晋三首相(第1次)らの首相経験者が利用していたことでも知られているのです。

こうした歴史を持つホテルですが、更に時代を遡るとまだまだ興味深い歴史があるのです。
ザ・キャピトルホテル東急がある土地は、先の古地図でもわかるように元々日枝神社の境内に属した小高い丘にあり、夜には星がよく見えたことから星ヶ岡と呼ばれていた土地なのです。
しかし、明治維新により氏子が減少した日枝神社は社域を維持できなくなり、境内の一部を東京府に寄付したのです。当初東京府はこの地に麹町公園を設置する予定でしたが、明治期の財界人らの岩倉具視への提議により、1881年(明治14)年、この地に「星岡茶寮」を設立し、上流階級の社交場として活用されたのです。
大正時代に経営不振に陥ったため、関東大震災後には当時美食家で知られた北大路魯山人に貸し出され、1925(大正14)年3月に彼が主宰する美食倶楽部の会員制料亭となったのです。この辺りをモデルにしたのが漫画「美味しんぼ」ですね。
星岡茶寮 星岡茶寮
しかしこの「星岡茶寮」も戦災の空襲で焼失し、更に戦後の混乱から魯山人の手から離れた茶寮は転々とした後、東急グループの五島慶太の所有地となり、1956(昭和31)年に中国料理店「星ヶ岡茶寮」として開業されたのです。
その後、この「星ヶ岡茶寮」を廃して東京ヒルトンホテル→キャピトル東急ホテル→ザ・キャピトルホテル東急と言う変遷の中で、ホテル内に中華料理「星ヶ岡」があり続けているのも、こうした歴史を背負っているからなのです。
星ヶ岡
ここもまた歴史的には由緒ある地であることが伺えるのです。

黒澤

ザ・キャピトルホテル東急の道を挟んだ対面が衆議院第一議員会館で、この奥に第二議員会館、参議院議員会館が連なっています。
衆議院第一議員会館 衆議院第一議員会館
昨年建設されたばかりの真新しいビルなのです。
で、その隣に和風の佇まいを持った店舗があり、店頭には「黒澤」とかかれた灯明がおいてあります。
黒澤
この“黒澤”とはあの昭和の大監督、黒澤明を冠した店舗なのです。
コンセプトは「映画の感動を食で再現」ということで、世界の黒沢が客人をもてなした料理の数々を提供しているのです。
黒澤
運営しているのは(株)食文化総研「レストラン黒澤グループ」と言う会社です。

「レストラン黒澤グループ」で最初にオープン(平成10年12月)したのが永田町黒澤です。グループ最大規模の店舗で中核を担っています。
グループ一号店のため、黒澤明監督のイメージが最も強く出ている店舗で、映画の感動を食で再現し、まるで黒澤映画に迷い込んだような臨場感を楽しんでいただけると思います。
メニューは、実際に黒澤家の宴に上ったものを揃えています。黒澤監督が大のお肉好きだったことから、鹿児島直送の黒豚、黒牛、薩摩の若軍鶏など最高の食材を使用したコース料理を、黒澤流の調味料でお召し上がりいただけます。
蕎麦も永田町店の自慢です。「翁達磨」の蕎麦打ち名人高橋邦弘氏の指導のもとで腕を磨いた職人が、石臼で自家製粉した粉を丹念に手打ちした蕎麦を提供しております。高橋名人は現在も「レストラン黒澤グループ」の蕎麦・饂飩部門の顧問として定期的な指導をしています。
永田町黒澤の特徴一つとして「赤ひげ」を彷彿させる外観があります。 柱の塗りや照明にいたるまで隙のないこだわりの内装で、黒澤組の美術スタッフが 映画さながらに演出しています。店内に一歩足を踏み入れると黒澤映画に出演しているかのような雰囲気でお食事をお楽しみいただけます。
黒澤監督ゆかりの品や美術品に値する黒澤監督自筆の絵コンテなども展示し、また、器は黒澤オリジナルの有田焼を使用するなど小道具にもこだわりました。黒澤明監督を幕う世界の映画人や名士の集う永田町黒澤に、是非お越しください。
(オフィシャルサイトより)

このようにあくまで黒澤明をイメージした店舗ですが、店舗の企画・監修には黒澤明の長男であるオッサン世代には懐かしい“クロパン”こと黒澤久雄と黒澤プロダクションがあたっているので、あながちイメージだけと言うことでもなさそうです。
現在は、この永田町のほかに、「饂飩 くろさわ」「鉄板焼 Kurosawa」「欅 くろさわ」の4店舗を運営しているそうです。
店舗自体は新しいですが、黒澤明の歴史の一端に触れられる店舗といえるのでしょう。

日枝神社

「黒澤」を通り過ぎた先の交差点を左に曲がった先に「日枝神社」の大きな社号標が目に入ります。
日枝神社社号標
社号標には小さな“元”の字が付けられて「元 官幣大社日枝神社」と刻まれています。勿論、現在社格はなくなっているので“元”が付けられているのですが、戦前までの近代社格制度においては、天皇・皇族等の朝廷に縁のある神社であることを示し、つまり神社の中では最高位の神社であることを誇っているというわけです。

山王鳥居

社号標を左手に曲がると突き当りには先に訪れた「ザ・キャピトルホテル東急」のエントランスが見えます。
ザ・キャピトルホテル東急エントランス
近代的なホテルなのですが、こちら側は日枝神社を意識した和風のつくりとなっています。
その途中の右手にあるのが、石造りの立派な鳥居で「山王鳥居」と呼ばれるものです。
山王鳥居
特徴的なのは一般的な明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていることで、山王信仰の象徴であるために山王鳥居と呼ばれているのです。
山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた時、唐の天台山の守護神である「山王元弼真君」にちなみ、既に比叡山の守護神として鎮座しいた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰のことなのです。
したがって、この鳥居は山王信仰の本社である滋賀県の日吉大社のオリジナルの鳥居の形で、この日吉大社の鳥居を真似たものがこの日枝神社の鳥居だと日吉大社は言っているのです。ま、確かにこの形の鳥居は余り見た記憶がありませんから、珍しいということなんでしょうが、本家はこちらだよ、と日吉大社は言いたいのでしょうかね。

鳥居を抜けた先が大層な石段で、この参道が表参道である「男坂」で、左手にある坂道の参道が「女坂」です。
男坂 女坂
ここは「男坂」で一気に上がりたいところですが、あえてゆるやかな「女坂」を行きます。
女坂を上がったところに柵に囲われた夫婦岩のような石があります。
さざれ石
特に珍しいものでは無いのですが、国歌“君が代”に歌われた「さざれ石」です。
学名は石灰質角礫岩と言い、石灰石が雨水に溶け、その石灰分を含んだ水が時に粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集めて大きくなる、まるで雪だるまのような石で、ここにある石は、国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中から発掘されたもので、春日村のさざれ石は天然記念物に指定されていて、その周辺は「さざれ石公園」となっているそうです。
国歌「君が代」では、細かい石・小石が岩石(巌)となり、更にその上に苔が生えるまでの過程が、大変長い年月を表す比喩として使われているのですが、国歌になる前の江戸時代には、「岩ほと成りて」の“岩”が男性器で“ほと”が女性器を表し、“成りて”が性交を指すと変形されたこともあったようです。
政治的・思想的に賛否両論ある「君が代」ですが、純粋に歴史として見るとまだまだ興味深い内容を含んでいるようです。
さざれ石の横にある建物が「宝物殿」です。
宝物殿
ここには日枝神社の所有する国宝や重要文化財が展示されています。
火曜・金曜日以外は無料で見学できますので、是非見ておかれると良いでしょう。
一見の価値は充分にありました。

社殿

宝物殿を通り過ぎて、男坂を上がったところにあるのが「神門」です。
神門神門扁額
神門には「日枝神社」と「皇城之鎮」という2枚の扁額があり、明治天皇の第7皇女である北白川房子が書かれたものだそうです。
そして門には「随神像」が安置されています。
随神像 随神像
更にその裏側には「神猿像」が安置されています。
神猿像 神猿像
どれもこれも新しいので煌びやかさはあるのですが、どうしても重厚感に欠けます。
そして正面に鎮座しているのが社殿です。
境内
そして社殿を囲うように藤棚や神塀に囲まれています。
境内 境内
その社殿の前に先ほど神門にもあった「神猿像」が建立されています。
神猿像 神猿像
この猿は日枝神社の神使で、いわゆる狛犬の猿バージョンということですね。但し、狛犬が一般的に“阿吽”なのに対して、こちらの神猿像は夫婦であるが故に、「夫婦円満」「殖産繁栄」の神として参拝者に親しまれ、撫でていく“撫で猿”ともなっているようです。
まあ、ここは気持ちよく一つ撫でておきましょう。

そして社殿に参拝です。
拝殿 本殿
この日枝神社は、鎌倉時代初期、秩父重継が江戸氏を名乗り、武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として山王宮を祀ったのが始まりだそうです。
このことは江戸名所図会では、当時の『江戸名所記』に、武蔵国入間郡仙波(現在の川越市仙波)の星野山無量寺を再興したときに、仏法王法護持と万民の反映のため、日吉山王21社の中の各7社づつの上中下社から1社づつを選んで三ヶ所の霊神を川越に勧請したと記載されています。
江戸名所図会の日吉山王神社 江戸名所記の日吉山王神社 《左:江戸名所図会の挿絵 右:江戸名所記の挿絵》

記述には、本社祭神大宮は「比叡の二宮小比叡大明神を勧請す」とあるので、上七社の日吉大社の大山咋神を祭神として勧請し、二宮は下七社の「気比の宮」、三宮は中七社の「客人の宮」とあるので、それぞれ二宮は末社・気比社の仲哀天皇、三宮は摂社・産屋神社の鴨別雷神を祀ったようです。これが現在の川越日枝神社であり、実に由緒ある社であることがを認識させられるのです。
そして時代が下って文明10(1478)年、室町時代に太田道灌が江戸の地の鎮守として、この川越の山王社(日枝神社)を勧請したのです。実際に【喜多院】散策で川越の日枝神社を訪れましたが、それはそれで立派なのですが、比べてしまうとまるで勧請したのが反対だった様に思われる規模の違いです。
その後天正18(1590)年、徳川家康が江戸に移封され、江戸城を居城としたことから道灌の勧請した山王社は「城内鎮守の社」として崇敬され始め、二代秀忠のときに場所を江戸城外に移し社殿を新築し遷祀されたのです。このとき遷祀された場所が、現在の隼町の国立劇場付近だったそうで、この地を元山王と呼ぶのだそうです。
こうして広大な神域の山王社は一般庶民にも参拝できる参道を開いたのですが、明暦3(1657)年の大火で社殿炎上したため、萬治2(1659)年、時の将軍家綱は江戸城の南西の方角、すなわち裏鬼門にあたる溜池の松平忠房の土地を没収して社地とし、鬼門封じの社として社殿を造営したのです。これが現在の日枝神社となるのです。
明治時代となり、明治元年に准勅祭社、明治15年に官幣中社、そして大正4年に官幣大社となり現在に至っており、家綱時代の萬治2年の社殿は、江戸時代初期の権現造の代表的建築として国宝となっていたのですが、戦禍により焼失したため、昭和33年に再興されたのが現在の社殿なのです。
社殿の右隣には「夢殿」があり、ここは祈願所として平成12年に新築された一番新しい社です。
夢殿

山王稲荷神社

境内の東側にあるのが「山王稲荷神社」です。
山王稲荷神社
この山王稲荷神社は、日枝神社が麹町隼町から移される前、この地が福知山藩松平忠房の邸宅であった頃、邸宅内の鎮守として祭られていたと考えられている神社です。
そして萬治2(1659)年、この地に日枝神社が造営されたとき、新たにこの稲荷社も末社として造営されたのです。
その後、大戦の戦禍のより日枝神社焼失の際には唯一戦災を免れて残った社なのです。そして日枝神社再建までの仮本殿として用いられ、現在では千代田区の指定文化財となっているのです。
そして何故か本殿が2つあります。
山王稲荷神社本殿と八坂神社と猿田彦神社本殿
一つは左側の稲荷神社本殿なのですが、もう一つ右側にあるのが八坂神社と猿田彦神社両社を合祀した本殿なのです。
そしてその前に鎮座している一対の狛犬もまた千代田区指定の民俗文化財なのです。
狛犬 狛犬
文政3(1820)年に神田神社境内にあった南伝馬町天王社に奉納されたもので、明治18(1885)年の火災で天王社が焼失し、明治34(1901)年灯篭などとともに天王社に由来するものがこの日枝神社に移転されたのです。
特にこの狛犬は、平河天満宮、築土神社とともに江戸時代の銘文を持つ貴重なものだそうです。
そしてその先には稲荷参道があり、名だたる企業が奉納しているところによれば、如何に首都東京の信仰の厚さが伺えるというものです。
稲荷社参道 稲荷社参道 稲荷社参道
ちょっと華やいだ雰囲気もまた良い風情です。

山王祭

山王稲荷神社の左右には山車庫と神輿庫があります。
右側の大きな方が山車庫で、神幸祭での山車や用具が収納されています。
山車庫
現在、江戸の三大祭といえば「神田祭」「山王祭」「三社祭」といわれていて、このうち神田祭と山王祭は江戸時代から特別な祭りとされていました。それは“天下祭り”と呼ばれ、幕府が公認していたことから御用祭りとも言われ、神輿や山車、屋台などの行列は江戸市中だけでなく江戸城内に入ることも許され、城内では将軍や大奥の女性たちが神輿行列を見物し楽しんだのだそうです。こうした将軍上覧の祭りなので天下祭りと呼ばれたわけです。
その模様が数々の錦絵に描かれています
山王祭錦絵 山王祭錦絵
神田祭は神田明神の祭りで、山王祭は山王権現(日枝神社)の祭りです。神田明神が江戸城の表鬼門にあたり、日枝神社が裏鬼門ですから、この二社が江戸の守り神とされたのです。この二大守り神の祭りですから、その規模は相当なものなのです。
その名残を留めているのが、左手にある氏子の神輿庫です。
神輿庫
いわゆる氏子各町会の神輿が納められているのですが、その町会を見れば一目瞭然でしょう。
日本橋 八重洲 銀座
日本橋、京橋、八重洲に銀座といった地名を見て取ることができるのです。
更に神幸祭の順路を見れば一目瞭然です。
神幸祭順路
日枝神社-麹町-四谷-市ヶ谷-九段-国立劇場(元山王)-霞ヶ関-皇居(坂下門)-丸の内-日本橋(摂社日枝神社)-京橋-銀座-新橋-内幸町-首相官邸前-日枝神社という順路ですから、皇居の半分のエリアであることが判ります。
一部重複するものの、神田、日本橋、秋葉原、大手町、築地といった残り半分が神田明神となるのです。
この山王祭と神田祭は1年おきに交互に行われ、今年平成25年は5月に神田祭が行われるのです。
このように祭りとしても大変な歴史を誇っているのです。

最後は山王橋を渡って外堀通りに戻りますが、この辺りがかつての溜池だったところです。
山王橋 山王鳥居 溜池跡
再び外堀通り沿いを南下すると、首相官邸への交差点となり、今回の散策も終了となります。
外堀通り 外堀通り
港区の溜池と千代田区の山王をあわせた溜池山王駅周辺散策もこれにて終了です。

2013.02.16記
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コメント

  1. bg | 3ZQ.D9ic

    毎回勉強になります。
    自分も歴男なので興味深いです。
    いつも日枝神社の下のところを仕事でいったりしますが
    よったことがありませんでした
    次は行ってみようと思います

    ( 22:28 [Edit] )

  2. 薄荷脳70 | -

    bgさん、ありがとうございます。

    存在感が大きすぎて、意外と行かないものですね。
    キャピトルホテルがクライアントなので、少なくとも毎月4~5回、5年間は訪れているのですが、日枝神社はこれで2回目で、今回やっと日枝神社のことを知ったのです(汗)
    都心にあって空気が違うような、すっかり仕事中だということを忘れさせてくれるリラックスできる場所です^^

    ( 06:15 )

  3. 上尾の〇山 | LkZag.iM

    行って見たいですね!!

    おはようございます!!
     いつも、とても詳しいので感心しております。
    私は最初に「上尾ぐるっと名所図会」を見てから、「広報上尾」の「上尾歴史散歩」を書いている人と勝手に思っておりました。そのくらい何時も内容が濃いですね。
     溜池山王も行って見たいです。 ありがとうございます。

    ( 08:05 [Edit] )

  4. 薄荷脳70 | -

    上尾の〇山さん、ありがとうございます。

    ありがたいお褒めのお言葉で感謝いたします。広報あげおとは何ら関係はなく、ただ引用して、そのままを散策しているだけです(汗)
    単に私が10数年上尾市に居住していながら、殆ど上尾市のことを何も知らないと言うことから始まったものですから、見るもの聞くものが新鮮でw
    是非これからもよろしくお願いします。

    ( 05:08 )

  5. 溜池と聞いてすっとんできました!

    こんにちは。
    いやはや。溜池山王ですか…趣味柄(笑)これは大変興味深く読ませて頂きました。
    て言うかやはりあの地にはかつて溜池が存在していたのですね。

    うーん。ここも今度足を運んでみようかなぁ。
    …いや、実は溜池交差点の看板が撮りたくなったものでw

    ( 23:17 )

  6. 薄荷脳70 | -

    ばっきぃさん、ありがとうございます。

    ここで興味を引いていただけるとはw
    今で言うところの遊水地ですから、ダムカードもあったら面白いのですけど。
    溜池の看板で是非トップページを飾ってください^^

    ( 05:53 )

  7. 四季歩 | ipmCGEIo

    興味深々

    溜池には縁が無くて、以前娘がこの辺に勤めていたころ、
    料理をおごってもらった際に行ったことがあるだけです。

    日枝神社は近いうちに行こうとは思っています。
    昨年の山王祭の御幸祭り行列は最初から最後まで
    全部写真撮りましたが、肝心の日枝神社に行ってないんですよね(笑)

    これで、だいぶわかりました。
    あとは自分の目で探索です。

    ( 19:47 [Edit] )

  8. 薄荷脳70 | -

    四季歩さん、ありがとうございます。

    山王祭の写真以前見させていただきました。
    当時、会社が氏子の麹町にありながら、山王祭見たことがなかったです(汗)
    私は今度は実際に山王祭を見たいと思います^^

    ( 06:35 )

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