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蒲田は東京23区の一番南にある大田区のほぼ中央にあるエリアです。
大田区MAP
最近ではNHK連続テレビ小説「梅ちゃん先生」の舞台といえば全国的にも判り易いと思いますが、それ以前は映画「蒲田行進曲」で蒲田の名が全国的に知れ渡ったといえるでしょう。
個人的には埼玉県からはかなり離れているので、普段関わることは皆無といって良いエリアですが、かつて学生時代の友人がこの地に勤務していたことから2~3度蒲田駅周辺を訪れたくらいです。
今回は、この蒲田の歴史を現代から江戸時代まで遡る時間旅行と洒落込んで見ます。
JR蒲田駅から京急・梅屋敷駅まで、直線距離で僅か1.2kmしかない距離にギュッと詰まった歴史の街を彷徨います。

現代から昭和・大正時代へ

近代的な駅ビルのあるJR蒲田駅は、20年ほど前とは随分変ったような気がします。最も以前訪れたときは夜も更けた頃の飲み屋街ですから、眩いくらいの駅前ロータリーを知っているはずもありません。
JR蒲田駅 JR蒲田駅ロータリー
色とりどりのモニュメントと言うのも珍しいかもしれません。
蒲田駅を下りて1分もかからない右手に大田区役所があります。
大田区役所
現在では、役所が多少駅から離れているために、利便性を考えて行政サービスのために駅や駅前ビルなどに役所の出張所を設ける市町村が多いのですが、駅前が区役所そのものと言うのも、全国の市町村役場を思い浮かべると極めて珍しいのではないでしょうかね。 確かある意味では利便性に優れているのですが、穿った見方をすれば、駅前の一等地にわざわざ区役所を設置しなくても良いのではないかと思えないことも。。。 まあ、ここはコンビニエンスと言うことにしておきましょう。

アロマスクエア

駅前ロータリーから東の方向に大きなビルが立っています。
ニッセイアロマスクエア
「ニッセイアロマスクエア」というビルで、大田区と日本生命が共同で開発し1998年に竣工したものです。
そしてこの名称の“アロマ”がタイムトリップのスタートなのです。
アロマスクエア
このアロマを読み解く鍵が、ビルの北東側の植え込みの中にあるこの記念碑なのです。
アロマスクエア植え込み 「高砂香料創業の地」碑
この記念碑は「高砂香料創業の地」碑で、1920(大正9)年2月9日に創業したことを記念したものです。
記念碑によれば「創業者甲斐荘橘香は1910(明治43)年、香料研究のため渡欧。南仏・グラースと スイス・ジュネーブで合成香料の研究に従事し、帰国後、甲斐荘は技術者十数名と日本最初の合成香料製造会社・高砂香料を興しました。」と記載されています。
そして更にこの高砂香料を調べてみれば、現在の正式社名は「高砂香料工業株式会社」で、日本最大の香料メーカーであるばかりでなく、2008年の世界マーケットにおけるシェアは6.7%で世界第5位の香料メーカーなのです。
この様に世界的な企業なのですが、この会社それだけではない興味深い沿革を持っているのです。
上記の通り創業は1920年この蒲田の地で生まれたのですが、1937年には本社を台北に移転し蒲田は支店となっているのです。
記念碑にある創業時の写真で見ると、本社と工場を兼ね揃えた施設だったようです。
創業時の写真
しかし戦後、台北本社と台北工場が中国国民政府の管理下となったため、1951(昭和26)年、本社を中央区八丁堀に移転し、1980(昭和55)年には港区高輪に移ったのです。そして1998(平成10)年、このニッセイアロマスクエアの完成と同時に本社が戻ってきたのです。1937年以来、実に約60年ぶりの本社の里帰りと言うことになるのです。

業務内容についても興味深い内容があります。
社名からイメージできるように、当然香りに関する製品を製造していることは直ぐわかるでしょう。
その業務には、フレーバー、フレグランス、アロマケミカル、ファインケミカルの4つの事業があるのだそうですが、このなかで注目するのが「ファインケミカル」事業なのです。
この事業のきっかけとなったものが「l-メントール不斉合成法」と呼ばれるものなのです。
メントールとは、我々も良く知っているあの「スースー」する物質でハッカやミントと呼ばれており、正式には日本語では薄荷脳・ハッカ油と呼んでいるものです(私のHNもここから由来しています)。
薄荷脳 ハッカ油
このメントール、かつては北海道の北見などでハッカの葉からとる天然メントールが主だったのですが、この「l-メントール不斉合成法」により天然ではない合成(人工)のメントールができたことから、天然メントール以上に医薬品などにより活用されるようになったのです。
ハッカの花と葉
つまりこの不斉合成法によるl-メントールを世界ではじめて工業化したのがこの高砂香料工業なのです。
そしてこの不斉合成法を研究したのが、当時、名古屋大学教授だった野依良治工学博士で、この「キラル触媒による不斉反応の研究」により2001年のノーベル化学賞に輝いたのです。
野依良治
そして現在では、独立行政法人理化学研究所理事長、名古屋大学特任教授、名城大学客員教授など多くの肩書きを持つ中で、高砂香料工業株式会社社外取締役としても名を連ねているのです。
このように現在の世界的企業である高砂香料工業の創業の地であるとともに、その跡地でもあったことから「アロマスクエア」と名付けられたです。
歴史的にも実に興味深い世界に誇れる企業なのです。

大田区民ホール「アプリコ」

ニッセイアロマスクエアに隣接している建物が大田区民ホール「アプリコ」です。
アプリコ
区民の方が文化・芸術に親しむ場としてつくられたもので、音楽・演劇などのホールと展示室、スタジオ等のある地上5階、地下1階の建物です。
基本的にアロマスクエアと言うと「ニッセイアロマスクエア」だけをさすのですが、このアプリコを含めた場合には「アロマスクエア街区」と呼んでいるそうですが、意外と地域住民の方は知らなかった、ということはままあるものですよね。
そして敷地の南西側の公園の中に妙な橋が設えられており、そばに「蒲田撮影所と松竹橋」の碑が設置されています。
アプリコ公園 松竹橋レプリカ
碑文によれば、ここにはかつて松竹キネマ蒲田撮影所があり、1920(大正9)年から神奈川県大船に移る1936(昭和11)年までの17年間にいくつもの名作を生み出した、松竹映画発祥の記念の地でもあるのだそうです。
そしてこの松竹橋は、当時、撮影所の正面前を流れていた逆川に架かっていた“松竹橋”を模したもので、1986(昭和61)年に公開された映画「キネマの大地」のロケに使われた橋なのです。

今度はこの松竹の歴史を追ってみます。
相撲の興行師であった大谷栄吉の双生児の子である兄・白井松次郎(白井家の養子となる)と弟・大谷竹次郎兄弟は幼い頃から家業を手伝い劇場や興行に親しんでいました。
白井松次郎と大谷竹次郎
兄弟は劇場の売店経営から劇場経営に進出し、1895(明治28)年、竹次郎が京都新京極阪井座の興行主なったことから、松竹ではこの年を創業年としています。
その後1902(明治35)年には京都新京極に明治座(後の京都松竹座)を旗揚げしてから興行界では有力な存在となりました。そして、この兄弟の勇躍に同年大阪朝日新聞が松次郎・竹次郎の名に因んで「松竹の新年」という記事を掲載したことから、逆にこの記事の“松竹”を取って2人は大阪市南区に「松竹合名会社」を設立したのです。
この後、大阪の人気役者初代中村鴈治郎との提携を強めた松次郎により関西での基盤を強固なものとし、1910(明治43)年には東京の新富座を買収して東京に進出し、以降、松次郎が関西の、竹次郎が東京の社長となるのです。
関西では多くの劇場を手中に収め上方の興行界を完全に席巻するとともに、東京でも多くの劇場の経営権を握り、1914(大正3)年には歌舞伎座を直営としたのです。
因みに現在の歌舞伎座の土地の所有と興行は松竹㈱で、建物は㈱歌舞伎座の所有ですが、㈱歌舞伎座の社長は松竹㈱の会長でもある大谷信義なので、実質歌舞伎座の全ては松竹が所有しているのです。そして名前からも推測できるでしょうが、まさしくこの信義は大谷竹次郎の孫なのです。

話を元に戻して、関西・関東の興行主として席巻した兄弟は1920(大正9)年、映画界に進出し「松竹キネマ合名会社」を設立したのです。日本では日活に続く2番目のメジャープロダクションの誕生でした。
そして撮影所は、戦国大名龍造寺隆信の末裔で、作家の夢野久作の父であり当時政界の黒幕などと呼ばれた杉山茂丸の紹介で、蒲田に約9000坪(約29,752㎡)の土地を手に入れたのです。
この敷地は第一次世界大戦当時は“中村化学研究所”という化学薬品の製造所だったことから、古びた煉瓦造りの建物や石炭ガラが一面に捨ててあった原っぱだったのです。
そして同年6月、建物はそのまま事務所に使用し、石炭ガラを踏み固めた場所にテントを張ってステージを作りセット撮影をする蒲田撮影所が開設されたのです。
開設当時の蒲田撮影所

その当時の模様がアプリコの地下1階にジオラマとして展示されています。
アプリコB1 蒲田撮影所ジオラマ
現在の地図に置き換えるとこの位置にあったようです。
当時の撮影所の場所
正門の前には先ほど見た松竹橋が架かっていることが見て取れます。
松竹橋とスタジオ 当時の松竹橋とスタジオ
当時の写真と比べると非常に面白いですね。
裏手からは俳優の部屋が見えますが、男優大部屋、女優大部屋、幹部俳優部屋、大幹部俳優部屋とランク付けされているところが微笑ましいです。
裏門からの撮影所 撮影所配置図
こうしてスタートした蒲田撮影所で撮影された松竹の第1作は短編映画「島の女」という映画で、同年11月に松竹直営の“歌舞伎座”で公開されたのだそうです。

さてここで高砂香料との関連を確認しておきます。
高砂香料の創業は1920年2月で、松竹キネマ合名会社の設立が同年2月、そして蒲田撮影所の開設が同年6月という奇しくもの年月なのです。
恐らくこれは先の杉山茂丸に関連したことではないかと推測できるのですが、そうなると現在のアロマスクエア街区のように高砂香料と蒲田撮影所は隣り合わせにあったのではないかと考えられるのです。
先の当時の位置図でも、先の高砂香料の創業の費があった位置が赤丸辺りですから間違いないのではないかと思います。
撮影所と高砂香料
事実これを裏付ける女優の証言もあったようです。
当時、後年の大スターである山田五十鈴、杉村春子、田中絹代、高峰秀子などが恐れるほどの日本を代表する大女優であった栗島すみ子が当時を回想して、「折角、気の乗ってきたラブシーンのとき、高砂香料から鼻をツーンと突くような臭いが流れてきて、気分がおじゃんになったこともあり ました」と語っているのが、まさに両社が同時にこの地に誘致されたと言っても過言ではない証言となるでしょう。
因みにこの栗島すみ子は踊りの宗家でもあり、撮影所では弟子が13人も付いて歩いていたそうですから、その大女優振りが想像つくところです。こういった女優が先の大幹部俳優部屋を占めていたのでしょうね。
栗島すみ子 大幹部俳優部屋
こうして映画作品を量産していた蒲田撮影所では、やがてトーキーの研究に取り組み、1931(昭和6)年、国産初の本格的トーキーと銘打って「マダムと女房」が帝国劇場で公開されたのです。

こうして順調に発展していった松竹と蒲田撮影所でしたが、撮影がトーキー化に伴って、町工場の騒音の多い蒲田では撮影に支障をきたすようになり、1936(昭和11)年、神奈川県鎌倉郡大船(現在の鎌倉市大船)の松竹大船撮影所に全機能を移転し、蒲田撮影所は閉鎖され、跡地は高砂香料工業に売却されたのです。
こうして17年の歴史に幕を閉じたのですが、その間に製作された映画は1,200本を超えたそうです。
そして短い期間でしたが、映画界以外にも蒲田の街の発展には大きく寄与したようです。
当時の蒲田駅は一面の田園にポツンと建っている寂しい駅だったのですが、まずはこの蒲田駅周辺が急速に発展し、東口大通りは蒲田銀座と呼ばれ、特に震災後から昭和初期にかけては流行の先端を行く大正マーケット、中央マーケットや高島屋十銭ストアが建設され、洋菓子とコーヒーを売る二階建てコンクリートのモダンな店「明治製菓」、名曲鑑賞の喫茶店「田園」など、お洒落でモダンなレストランやカフェも増加し、多くの映画関係者が出入りしたのです。
そして先の栗島すみ子や田中絹代などの大スターが育ったことから、スターや映画に憧れる人達の憧れの街となり“キネマの都”、“虹の都”とも呼ばれ、更に蒲田周辺には田中絹代をはじめ多くの映画関係者が住んでいたことからモボ・モガの憧れの町となったのです。

この当時の蒲田撮影所を題材にした劇作品がつかこうへいの「蒲田行進曲」で、これを原作に映画化されました。
この映画で使用された、♪虹の都 光の都 キネマの天地~♪の曲は、元々、プラハ生まれの作曲家ルドルフ・フリムルの1925年のオペレッタ「放浪の王者」の中の“放浪者の歌(Song of the Vagabonds)”で、その旋律に堀内敬三が歌詞を付けて1929年映画「親父とその子」の主題歌として発表されたもので、その後、この曲は松竹キネマ蒲田撮影所の所歌となったのです。
蒲田行進曲
この映画は、「新選組」の撮影真っ最中の京都の東映太秦撮影所を舞台に、土方歳三役の俳優・倉岡銀四郎(銀ちゃん)を中心に繰り広げられる作品で、映画化に当たっては、角川春樹事務所が当然東映の岡田社長に企画提案したのですが、提案を拒否されたことから、しかたなく松竹と共同製作されたものなのです。
蒲田行進曲
本来、松竹の蒲田行進曲であったものが、内容的には東映映画での内容となり、しかも異例なことに撮影は松竹の撮影所ではなく東映の京都撮影所で撮影され、更に監督も東映出身の深作欣二という、ある意味では松竹にとっては屈辱的な映画だったのです。
この屈辱的な映画制作を松竹が甘んじて受けたのは、当時、日本映画界を席巻していた角川映画と提携を果たせることからだったのです。
そして1982(昭和57)年、角川映画として松竹系で公開され、大ヒットと共に、第6回日本アカデミー賞をはじめ映画界の各賞を受賞したのです。
この後、松竹映画の名監督である野村芳太郎は、自分たち松竹映画を象徴する「蒲田行進曲」というタイトルの映画を東映出身の深作欣二に撮られたことに憤り、4年後の1986年に自らプロデューサーとして映画「キネマの天地」を企画したのです。
キネマの天地 キネマの天地
この時の映画の松竹橋が冒頭の公園にあったレプリカなのですが、実はその後に本物が発見され、このアプリコの1階に展示されているのです。
現存する松竹橋の親柱 現存する松竹橋の親柱
戦中戦後の混乱期を経て現存しないものと思われた親柱が、鎌倉在住の方から寄贈の申し出があり、蒲田東口区街づくり協議会が橋渡しし、70数年ぶりに里帰りを果たしたのです。
風雪を経た割には綺麗な状態です。
このように蒲田にとっても、また日本の文化、産業史にとっても大正・昭和の重要な歴史をもった「アロマスクエア街区」なのでした。

(つづく)

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コメント

  1. マヤリモ | -

    わ~!

    蒲田だぁ~!

    蒲田っ子の私としては、蒲田を取り上げて頂けるなんて、大変光栄であります!

    冒頭の区役所ですが、実は、バブル期に建てられたもので、当初は、商業施設となるはずだったんですが、バブルがはじけ、しばらく無人ビルだったんです。

    その後、大田区がビルを買い取って区役所にするんですが、多額の税金を投入するコトで住民からかなりの反対が出ていたのを覚えています。

    商業ビルのままだったら、蒲田ももう少し違う発展をしていたのかなぁ。

    なんて思います。

    ( 21:11 )

  2. 薄荷脳70 | -

    マヤリモさん、ありがとうございます。

    なるほど、区役所にもそれなりの理由があったのですね。
    地元でないと判らないことが沢山あるから、散策するのが面白いのです。
    続きもまた読んでいただけたら幸いです^^

    ( 06:35 )

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