三峯神社 #1

二瀬ダムから30、40分程度でしょうか山道を進むと「三峯神社」に到着です。
三峯山 途中の山間の紅葉もそうですが、山々の織り成す情景がまるで絵を切り取ったような美しい風景を見ることができます。
この写真では若干無理はありますが・・・。

かつては三峯信仰としてこの山道を登ってきたのでしょう、実にご苦労なことです。

三峰お犬茶屋 山麓亭

三峯山を登り終えると広い駐車場があります。
意外なことに三峯神社の駐車場ではなく、秩父市営の駐車場なのだそうです。聞いたところ、
ここからが雲取山への登山道の一つになっていることから駐車する車も多いので市営として成り立っているのでしょう。
秩父市営駐車場 料金¥500を支払って駐車します。

そういえば「雲取山荘」も100選に選ばれていますのでいずれ登らなければならないのですが、恐らく99.9%パスするでしょう。チャレンジなどという言葉は私の辞書にはありませんから。したがって写真取れるところを今から探しておきましょうか(と、ごまかそうとしている)。

駐車場の前は一面の紅葉です。
駐車場の紅葉 手前の駐車場が無粋ですが、何とか編集でごまかして・・・。

三峯神社入口 とにかくも三峯神社に向います。

かなり遅くなったのですが、ここで昼食をとることにしました。「三峰お犬茶屋 山麓亭」というお店です。
神社に向う途中に、食事処とお土産屋をかねた昔からよくあるお店があります。いわゆる団体さん向け休憩所といったところでしょう。
三峰お犬茶屋 山麓亭 左側にアイキャッチとなるイノシシの剥製が、意味があるのかないのか判りませんが置かれています。
このあたりで捕獲したとでも言う意味でしょうか。

また、中央の店先にはヤマメとジャガイモが串刺しで焼かれています。
炉辺焼き それぞれ「まぼろしの魚 やまめ炭火焼」と「名物 いもでんがく」とかかれており、さらにいもでんがくには更なる注釈があります。

『じゃがいもではありません。
奥地の砂利畑でごく少量採れる貴重なものです。 奥秩父特産 中津川いもでんがく』
と、POPには書かれています。
何となく特別なイモのようですが一体どのようなイモなのでしょうか、山麓亭のオフィシャルサイトにこうあります。

中津川いもには一つの物語りがあります。
日露戦争というから明治37年か38年の頃、大滝村から出征した兵士が、不幸にして露国(ロシア)の捕虜になってしまいました。幸いにしてそう長い収容生活ではありませんでしたが、その収容所で食べさせられたジャガイモがとてもおいしかったらしく、彼は何度かそのイモを食べているうちに、「そうだこのイモを故郷に持って帰ってつくろう」と思いつきました。ロシアも寒いが、大滝村も寒い。冬の寒さのちがいはあれ夏・秋の寒さはそんなに変わらない。もしかするとうまくいくかも知れない。いよいよ帰国の日が来ました。彼は背のう(軍人が背負うザック)の中にイモを10個ばかりしのばせ大滝村に帰って来ました。大滝村中津川の山の斜面のジャリ畑にジャガイモと同じように植えたが、思った通りうまくいきました。
普通のイモよりずーと小振りで、煮ても蒸かしてもくずれず串で差しても割れないという特徴があってすぐ耕地にひろまりました。終戦のころまでこのイモを露国イモと呼んでいたのは、こんな話しに由来しているのですがある作物が原産地を遠く離れて他の土地に根づき、その土地の特産物になっていく経過をよく語ってくれている話しではないでしょうか。
(三峰お犬茶屋 山麓亭オフィシャルサイトより)

これとは別に武田信玄の落人が持って来たとの説もあるそうですが、ここで興味深い実験結果があります。
この「中津川いも」の葉緑体DNAと核DNAを分析したところ、普通のバレイショ(ジャガイモ)と同じ葉緑体DNA(T型)を持つことが判明し、このことからこの「中津川いも」は明治以降に導入されたものであろうと推定されているのです。要するに信玄の頃にはまだ「中津川いも」はなかったということになるのです。
この「中津川いも」の栽培適地は、標高400から500メートル以上の準高冷地が望ましいといわれていて、標高の低い地域で栽培すると大きなイモになってしまうそうです。
地上部は茎が細く花は薄い紫で、いもの皮色は淡いピンクで目が赤く、皮は薄く形は細長、いもが小さのです。収量は少なく「男爵イモ」のせいぜい半分程度だそうですが保存性は「男爵イモ」よりも良いようです。
粘りがあり身がしまっているので、型崩れ割れが少ないのですが味がないそうです。したがって調味料などを使用して調理されます。 収穫したイモの殆どは地元で消費されているようで、農協の直売所などでも販売されているのですが、殆どは三峯神社の参拝客向けに販売されているので、希少なイモなのにずっと絶滅ぜずに存在できたようです。
したがって、この「中津川いも」を一般の観光客が食すには、ここに来なければならないということでしょう。

昼食をかねて山麓亭内で「中津川いも」のいもでんがくをいただきます。
いもでんがく 1串4つのイモがついていますが、1つが小さいといいながらもかなりボリュームがあります。
見た目はお世辞にも涎がでそうな、とはいえませんが何となく香りがおいしそうです。

田楽なので甘目かと思っていましたが、意外と辛目です。
この田楽に使われている味噌はえごま風味の味噌だれで、えごま・山椒・ゆず粉をブレンドした特性味噌だれなのだそうで、 スパイシーな香りがするのは山椒のようです。
道の駅でのみそポテトはデザート感覚ですが、こちらはサイドメニュー感覚です。どちらも秩父の誇るB級グルメということです。わざわざとは思いませんが、秩父に行ったなら一度試してみる価値はあるかもしれません。
その後、天ぷらそばをサクッといただいて昼食を終らせました。

三峯神社参道

昼食を済ませて違った意味のパワーを充填して「三峯神社」に向かいます。
三つ鳥居 参道入口には、今や全国的に有名な「三つ鳥居」の一の鳥居があり、白い地色に金の模様が神々しさを醸し出しています。

この1つの明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせたものが「三つ鳥居」と呼ばれるのですが、由緒などは不明のようです。しかもこの「三つ鳥居」は全国でもここと奈良県桜井市にある大神神社の2例しかなく非常に珍しい鳥居なのです。
しかも、大神神社は「三つ鳥居」の後ろの三輪山がそのままご神体(したがって本殿がない)のため、一般の人には見られない鳥居なのだそうです。
大神神社の三つ鳥居 オフィシャルサイトでは模型が見られます。
《写真:(C)大神神社オフィシャルサイト》

参考:【大神神社】http://www.oomiwa.or.jp/

そしてこの三輪山があることから別名「三輪鳥居」とも呼ばれるそうです。こちらの「三輪鳥居」も由緒は不明のようで、神社の記録には「古来、一社の神秘なり」と記されているだけだそうです。
この「三つ鳥居」とよく似た名称の鳥居に「三柱鳥居」というのがあるそうです。
三柱鳥居 これは鳥居を3基組み合わせたもので、ちょうど三角柱の形をした鳥居という、実に奇妙な鳥居なのです。
《写真:ウィキペディアより》

鳥居の横に神社の由緒書きがあります。

三峯神社御由緒
当社は今から1900年余の昔、日本武尊が東国の平安を祈り、伊弉諾尊・伊弉册尊、二神をお祀りしたのが始まりです。
尊の道案内をした山犬(狼)が、お使いの神です。三峯の名は神社の東南にそびえる雲取、白岩、妙法の三山が美しく連なることから、三峯宮と称されたことに因ります。
奈良時代、修験道の開祖役小角が登山修行したと伝え、天平8年国々に疫病が流行した折、聖武天皇は当社に葛城連好久を使わして祈願され、大明神の神号を奉られました。
平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈り、依頼僧侶の奉仕するところとなりました。
鎌倉時代、畠山重忠が祈願成就の御礼として十里四方の土地を寄進しました。また戦国時代には月観道満が諸国を勧進して天文2年に社殿を再建し、中興の祖と仰がれています。
江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年現在の本殿が造営されました。
享保年間には日光法印が社頭の復興に尽くし、御眷属信仰を広めて繁栄の基礎を固めました。寛政4年に随身門(仁王門)、同12年には拝殿が建立され、幕末まで聖護院天台派修権、関東の総本山として重きをなし、幕府から10万石の格式を持って遇されました。
明治維新の神仏分離により社僧を罷め仏寺を閉じ神社のみとなりました。明治6年郷社、同16年県社に列せられ、戦後官制廃止により宗教法人三峯神社として現在に至っています。
(現地案内板由緒より)

秩父地方には日本武尊の言い伝えが数々残されています。以前【長瀞と岩畳】で訪れた宝登山神社にも日本武尊社があり、さらに日本武尊みそぎの泉なる泉までありました。
その他にも、
●武甲山:「武甲山」の名称は、日本武尊が東征の際、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説に由来
●猪狩山と猪鼻:「ヤマトタケル」の猪退治と猪狩山で退治され切り落とされた猪の鼻が落ちたところ
●小鹿野神社:「ヤマトタケル」一行を案内した小鹿の塚と地名伝説
●両神山と両神神社:「ヤマトタケル」が山をめがけ歩いた八日間「八日見山」とイザナギ尊イザナミ尊を山頂に祀る
●吉田町椋神社:「ヤマトタケル」一行を案内した猿田彦尊を祭神として祀る
●皆野町出牛:突如現われた牛が「ヤマトタケル」を対岸に案内する
●二本木峠:「ヤマトタケル」が食事に使った箸を差しておいたところ、その後二本の杉になった
●日本水:「ヤマトタケル」が釜伏山からの下り道、喉の渇きを癒すため、水を求め剣を岩に刺したところ清水が岩から湧き出す
以上のような伝承があるのです。

その中でもこの三峯神社は日本武尊の創建とまで言われているのですから、まさに秩父の日本武尊伝承の総本山ともうべき神域なのです。
そして説明にもあるように日光法印によって大口真神の護符を配布したことから、火難・盗賊除けの御眷属信仰が広まり、数多くの講(三峯講)が組織され三峯詣となったわけです。そこから信仰の道として秩父往還が賑わったのは言わずもがなです。
一方、その御眷属である山犬(オオカミ)が、この三峯神社のお使いだったことから守護獣がオオカミ(ニホンオオカミ)なったそうです。
狛オオカミ 狛オオカミ 先ほどの鳥居の前にも狛犬ならぬ狛オオカミが鎮座しています。
かなりシェイプアップされた狛オオカミで、実に凄みがあります。

鳥居の左手には「秩父宮記念 三峰山博物館」があります。
秩父宮記念 三峰山博物館 この「三峯山博物館」では常設展示として、三峯講や御眷属に関する三峰山詣、三峰山の宝物関連を展示した三峯山の宝物、さらに博物館と縁のある秩父宮家の下賜品を展示した秩父宮家と三峯山など、三峯山と三峯神社がよく理解できる博物館のようですが、何故かこれ以上無いタイミングで本日臨時閉館という、さすがにポジティブシンキングでもさすがに埋め合わせられない残念さが漂います。

気を取り直して参道を進みます。
参道の奉納碑と紅葉 紅葉に彩られ参道の左側にズラッと並んでいる石碑が、三峯講などから奉納された記念碑の数々です。講として奉納していますのから結構何百万円単位の奉納もあり、現在でも三峯神社の崇敬さを目の当たりにします。

その記念碑と紅葉を眺めながら参道を更に奥へ進みます。

随身門

参道を進むと、参道の交差点に差し掛かります。なかなか参道の交差点というのも珍しいのですが、その交差点角に交番があるのもまた一興です。
更にその交番は昭和初期なのかそれ以前なのか良く分かりませんがレトロ交番です。
交番 現在も使用されているのかどうかは判りませんが、正月や有名な節分などの混雑時に警官が詰めているのかもしれませんね。
いずれにしても良い味を出しているものです。

さてこの交差点では、結構多くの参拝客が集まっています。
何故ここに人が大勢集まっているかというと、単にどちらに行けば判らない迷った人たちなのです。
参道を歩いてきて、交差点の正面は「日本武尊」の銅像のある小高い丘ですから真直ぐは無いとしても、その手前を左カーブしている参道があります。その先はどうなっているかわかりません(このカーブした参道を含めれば五差路となります)。
参道 そして左側には灯籠が並んだ太い参道があり、その先に仁王門がある下り坂の参道です

更に右側には鳥居があり階段で上がる参道になっています。
そこで右なのか左なのか、はたまた直進左カーブの参道なのかを迷うようです。
事実、私たちも迷ったのですが、帰られる方が左の仁王門の方ですと教えていただいたので一件落着です。
左折する参道は、確かに幅も広く両側に灯籠が並んでいてその先には大きな仁王門があるのですから何も悩むことはないだろうと思いがちですが、これは人間の心理を衝いた実に興味深い現象なのです(勝手にそう解釈している)。
これは左折した参道がどんなに立派に作られていても、下り坂だからだということが理由です。
このような山間の寺社では社殿や本堂は山の頂近くにあるという一般的常識にとらわれていて、その結果、社殿や本堂へは必ず登らなければならないという思い込みがあるからなのではないでしょうか。登る=行く、下る=帰る、というイメージなのです。
したがって左から上がってきた参道を右の階段を登って社殿に向かうというイメージになってしまう訳です。勿論、参道が2つあってもおかしくない訳ですからね。
しかしながら、右への道は確かに鳥居もあり、階段を登るようにはなっているけれど、その先が何となく社殿らしくなく、また登りも直ぐ終ってしまっているために、こちらもどうもしっくりこない、ということからこの交差点で皆さん迷っているのです。まあ、一度行ってみるとその奇妙さが理解できると思います。

その左側の参道を下ると、なんとも立派な仁王門です。正式には「随身門」というそうです。
随身門 名刹・古刹といわれるような、かつて大きな社寺ではこのような極彩色の色使いが当たり前だったようです。古くから残っている社寺は現在殆ど色は落ちてしまっていますが、復元すればそれはそれは見事な彩色だったものが少なくないようです。

この「随身門」は元禄4年に建立されたものです。昔は仁王門にだったそうですが、明治初年仁王像は勝願寺へ移されました。この勝願寺へは【第12回コスモスフェスティバル】で鴻巣を訪れた際に、確かに仁王像がありました。
そして現在の「随身門」は寛政4年に再建されたものを、昭和40年に改修されたもので、当初は拝殿正面付近に建立されていたとう記録が伝えられているそうです。
そして更に平成16年に再改修されて現在の「随身門」となったのです。
復元前の随身門 その当時の随身門の写真が三峯神社のオフィシャルサイトに掲載されていましたので参考に。
《写真:(C)三峯神社オフィシャルサイトより)》

このように見る影も無かった「随身門」がこれだけの美しさで甦ったのです。個人的に若干のキッチュ感は拭えませんが。
「随身門」のなかの堂々たる扁額は伊勢長島藩第5代藩主の増山正賢(号は雪斎)の筆跡なのだそうです。
この増山正賢は政治面では無能な藩主だったようですが、文化面では多数の書画を画き、当時においては一流の文人大名といわれた人だったようです。
随身門扁額 どのような経緯でこうなったのかは判りませんが、貴重な扁額といえるのでしょう。

参道 「随身門」を抜けると参道は更なる下りとなり、しばし進むと上りに変わりやっと社殿に近づいてきた実感を持ちます。

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