川口グリーンセンターを後にして、県道34号線を南下し県道105号線との交差点を左折して北上すると、この辺りはかつての日光御成道の鳩ヶ谷宿となります。
古の歴史を辿る前に、もう少し最近の歴史、特に川口市との合併に関して知っておきましょう。

鳩ヶ谷宿

前述したように旧鳩ヶ谷市は、2011(平成23)年10月に川口市に編入合併し消滅した人口約6万人の市でした。廃止時点の面積は日本の市の中で川口市との隣接市である蕨市に次ぐ2番目に小さい町だったのです。
このようなミニタウンの出発点は江戸時代の宿場町でした。
この宿場町が正式な町として成立したのが、1889(明治22)年4月の町村制施行で北足立郡鳩ヶ谷町となったのが最初ですが、1940(昭和15)年には当時の皇紀2600年記念行事の国策により半強制的に川口市に編入されたのです。
こうした歴史の元で、終戦後の1950(昭和25)年、旧鳩ヶ谷町域の住民は民意による住民投票の上で川口市から分離し、鳩ヶ谷町を再建したのです。そして1967(昭和42)年には市制施行により鳩ヶ谷市になったのです。
そういった歴史を持つ鳩ヶ谷市は、44年後に再び川口市に編入されると言う歴史が繰り返された因縁の町だったのです。
鳩ヶ谷町成立から約60年間のうち、長らく公共交通機関はバスしかなかったため陸の孤島と呼ばれ、市内を南北に縦貫する日光御成街道は路線バス以外平日・土曜の午前7時から9時まで通行禁止となったのです。
これはバス専用レーンで、片側1車線道路での規制は全国でも非常に珍しいとニュースにも取り上げられたのですが、2001(平成13)年に埼玉高速鉄道が開業し、市内に鳩ヶ谷駅、南鳩ヶ谷駅が開業し、経済発展、人口増加が著しくなったのですが、皮肉なことに再び川口市に編入となった奇異な市なのです。

日光御成道

このように長らく陸の孤島であった鳩ヶ谷ですが、その歴史を江戸時代まで遡ると実は交通の要所だったと言う、ここでも奇妙な様相を呈しているのです。
交通の要所とは、鳩ヶ谷の中心を縦断する道がかつての日光御成道であったということなのです。
「日光御成道」とは、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約48km)の街道で、もともとは鎌倉時代の奥州へ通じる幹線道路「鎌倉街道中道」だったのです。

徳川家康がその遺言により日光東照宮に祀られて以来、歴代将軍の日光社参が幕府の大切な行事となり、そのための特別な道が「日光御成道」です。
この道が将軍の通り道に選ばれたのは、将軍が江戸を出て最初に宿泊する岩槻城への最短の道であること、人通りが少なく警備がしやすかったこと、社参には諸大名など大勢の者が同行したため、日光御成道のほか日光道中、中山道に分かれて通行し、通行路や宿泊場所が集中しないようにすること、などがあったようです。
要するに中山道を本郷追分で分岐して、幸手宿で日光街道と合流するという日光へのいわばショートカットの脇街道と言うことになります。
日光社参の供奉行列 《日光社参の供奉行列(部分)(C)幸手市指定文化財「金子家文書」》
そしてここ鳩ヶ谷は、本郷追分を基点として、岩淵宿、川口宿に続く日光御成道三番目の宿場なのです。ちなみにこの後は大門宿、岩槻宿、幸手宿と6つの宿場があったのです。
今回の散策の後半は、この旧鳩ヶ谷宿の散策です。

吹上橋・一里塚

県道105号線がかつての日光御成道沿いの道ですが、県道34号線との交差点には「ここより北→ 日光御成道 鳩ヶ谷宿」と刻まれた石碑が設置されています。
「ここより北→ 日光御成道 鳩ヶ谷宿」碑 「ここより北→ 日光御成道 鳩ヶ谷宿」碑
平成22年に設置されたものなので非常に新しい石碑です。碑文にはマンションなどの開発により、徐々にその姿が失われて行く昨今、歴史の一端にでも触れられるようにとの意味が込められていると説明がありました。

交差点を左折して県道を北上すると小さな橋である「吹上橋」に到着します。
吹上橋
この吹上橋の手前の案内板によれば吹上橋の南側がかつての鳩ヶ谷宿の下町にあたり、北側が中町でかつての鳩ヶ谷宿の中心となった場所なのだそうです。
案内板の絵図によれば、現在地のすぐ左側にある木の橋が吹上橋となるわけです。
吹上橋
現在の吹上橋はにはこのように可愛い親柱が立っており、当時の面影は全くありませんが、その名残が下を流れる見沼代用水です。
吹上橋 吹上橋
案内板の写真にこの代用水で泳ぐ写真を見ることができますが、現在では全く考えられないことです。
見沼代用水 明治の代用水
吹上橋を渡った両側に「一里塚跡」があります。
一里塚跡 一里塚跡
かつては道の両側に塚があったのだそうですが、現在は全く痕跡はありません。
案内板の絵図に寄れば、江戸から数えてこの鳩ヶ谷の一里塚は5番目であることが判ります。
一里塚跡
因みに現存しているのは絵図でも記載されている2番目の「西ヶ原」と、8番「膝子」、10番「相野原」、11番「上野田」、12番「下高野」の5ヶ所だけなのです。そういった意味では特に都心の【西ヶ原一里塚】はいかに貴重であるかが伺えるのです。

御成坂公園

吹上橋を北上すると左手の路地との間に「宮道」の案内板があります。
宮道
いわゆる鳩ヶ谷の総鎮守である氷川神社に通じている参道なのですが、明治の頃の御成道の写真が掲載されています。
明治の頃の御成道 現在の御成道
現在と見比べると道路の広さはかわりましたが、坂の感じは変わりませんね。
更にここから先の吹上橋方面を撮影した写真がありますが、こちらもその湾曲した道だけが名残のようです。
明治の頃の吹上橋 現在の吹上橋
ここは宮道を行きたいところですが氷川神社への参拝は後程ということで、ここはいったんこのまま北上します。
街道の右側には「千手院」跡の案内板があります。
「千手院」跡
当時の位置はこのように一里塚のすぐ近くの街道沿いにあったのですね。
「千手院」跡
開山は戦国時代の1560(永禄3)年だそうで、1970(昭和45)年までこの地にあったのです。
大正時代の写真が残されています。
かつての千手院
現在も鳩ヶ谷地区にあり、戦国時代の1556(弘治2)年の鰐口は市の文化財だそうです。
1556(弘治2)年の鰐口

「千手院」跡の案内板の反対側には「御成坂公園」があります。
御成坂公園 御成坂公園
ここは日光御成道のポケットパークで、日光社参の将軍行列を描いた壁画と火の見櫓をモチーフとした「からくり時計」が設置されています。
からくり時計
日曜日は1時間ごとにからくり人形が動き出すそうなので、正午まで15分ほど休憩をとります。
上段に鐘ツキの小僧さんが見えますが、一体どんなパフォーマンスがみられるのでしょうか。
そして正午とともにからくり人形が動き出します。
からくり時計
まず鐘の音とともに上段の鐘ツキの小僧さんが迫り出すとともに、楽しげな音楽と「下に~下に~」の掛け声とともに中段右の「奴さん」が繰り出し、中段左の「侍と腰元」がでてきて、最後には下段の「籠かき」が出てくると言う、上下に配置された将軍行列を模したもののようです。
からくり時計-1 からくり時計-2 からくり時計-3 からくり時計-4
可愛らしい将軍行列を見られたのはラッキーといったところでしょうか。
からくり時計 からくり時計
一休みも終えて次に向います。

三八市

千手院跡・御成坂公園から更に北上すると街道沿いには古い建物を見ることができます。
かつては眼科医院だった洋館や蔵造の酒屋「十一屋北西商店」という昭和初期建築の建物が残されており、古の鳩ヶ谷宿の風情を感じることができます。
洋館 十一屋北西商店
十一屋北西商店の先の交差点の右側の建物沿いに「本陣・問屋跡」の案内板があります。
本陣・問屋跡
当時の位置がこちらです。
本陣・問屋跡
本陣とは、宿場町で将軍や大名などの特別な人が休憩・宿泊する施設で、役所の役割も果たしていました。ここ鳩ヶ谷の本陣は代々船戸家が勤め名主と問屋も兼ねていたのです。
この本陣には、1590(天正18)年に秀吉が関東を制圧したときに鳩ヶ谷に出した文書も残っているのです。
秀吉文書
この江戸時代末まで14代続いた本陣も明治とともにその役割も終わり、昭和7年頃に真光寺に移築され、現在も本堂として使用されているのです。
建物の模型と見取り図が案内板に掲出されていました。
本陣建物と間取り
ちょっと寄り道ながら真光寺を訪ねましたが、かなり立派な建物で今の時代でも決して見劣りしない建物です。
真光寺 本陣建物 本陣建物
なお、真光寺の裏手には「本陣」と刻まれた石柱が立っていましたが、かつて建てられていたものを移したのでしょうか。
本陣碑

その先の右手の路地が「草加道」です。
草加道 草加道
日光街道の草加宿へ行く幹線道路で、別名・成田道、地元では通称、出戸道と呼ばれていたそうです。
草加道の先には1本の標柱が立てられており「市場杭跡」と刻まれています。
市場杭跡
これは「三八市」の市場杭といわれ、開催日ごとの出店の範囲を示しているもので4本の杭でその範囲を囲っていたようです。
よくよく見ると道の反対側にも「氷川神社入口」の案内板を付けた市場杭跡が立っています。
市場杭跡
この2本が西南と東南の2本で、いわゆる市の南端を示しているのです。
市場杭跡 南側市場杭跡

その先の交差点の角にあるのが「川口市立郷土資料館」です。
川口市立郷土資料館
入場料は100円で、正式には“川口市立文化財センター分館 郷土資料館”と言うそうです。
チケット 川口市立文化財センター分館 郷土資料館
展示室は2Fと3Fが常設展示室となっていて、2階は「通史・民俗展示室」となっていますが写真はここまでです。
通史・民俗展示室
文字通り鳩ヶ谷の歴史・文化を知る資料が多く残されています。先の本陣の模型などもあり規模は小さいながら興味深いものが展示されていました。
3階は鳩ヶ谷縁の偉人の展示です。
偉人室
一人は「小谷三志」で、1765(明和2)年鳩ヶ谷宿の麹屋を営む商店の長男として生まれ、江戸時代後期に成立した“不二道”の指導者だった人です。
小谷三志
“不二道”とは富士山信仰と実践道徳を統合させた宗教組織で、小谷三志は事実上の創設者であり、社会教育者として評価されているそうです。因みに女人禁制であった富士登山で、初めて女性を登らせたのが小谷三志だったそうです。
もう一人は「大熊氏広」で、近代彫刻の先駆者と呼ばれた人です。
大熊氏広
多くの偉人たちの彫像を作成されたのですが、特に著名なのが靖国神社に奉納された日本で初めての本格的な西洋式銅像である“大村益次郎像”の作者なのです。
大村益次郎像
その他、福沢諭吉などがあるようです。

郷土資料館を見学した後は、再び街道を散策します。
左側には整体院となっている古い建物があり、かつては国定忠治も宿泊したことがある“大阪屋旅館”だったそうです。
旧大阪屋旅館 旧大阪屋旅館
右側には「高札場」跡の案内板です。
「高札場」跡
いわゆる江戸時代の掲示板で、鳩ヶ谷宿の高札場はここにあったそうです。
「高札場」跡
現在、明治維新直後の高札が2枚残されているようです。

高札場跡の先には1本の標柱が立てられていて、こちらにも「市場杭跡」が立っています。
市場杭跡
こちらは東北の1本ということになります。
歩道には妙な椅子が置かれているのもご愛嬌でしょうかね。
休憩椅子
更にこの杭の道の反対側、斜め左に案内板を兼ねた市場杭跡があります。
市場杭跡
こちらが西北の1本で、この2本が市場の北の端と言う事です。
案内板によれば、江戸時代中頃から毎月3と8のつく日の月に6回の市がたったそうです。
昭和の市の名残
市の日には近在から雑穀、青物、茶などの出店が並び、明治時代以降も500軒以上も並ぶ盛況で、この4本がその範囲を示していたのは前述の通りです。
昭和20年代からは徐々に市も姿を消し、往時を偲ぶのは三八市の神を祀る「市神社」が鎮座しているだけのようです。
かつての市神社
その「市神社」が、また道路の反対側に鎮座しています。
市神社 市神社
往時の写真のように道の端まででてはいませんが、小さいながらも江戸時代の名残を留めています。

こうして鳩ヶ谷宿の中心とも言える“三八市”を散策してきましたが、別の絵図で見比べてみます。
鳩ヶ谷宿全図 鳩ヶ谷宿全図《(C)国立公文書館》
これは「日光道中絵図」といもので、1843(天保14)年4月徳川12代将軍家慶の日光社参の行程を示した道中図です。4月13日に江戸城を出発し、13日岩槻、14日古河、15日宇都宮に宿泊し、岩淵から鳩ヶ谷を経て岩槻までは日光御成街道を、幸手から宇都宮を経て日光までは日光街道をたどっているのです。
絵図には、関所・一里塚・郡境・国境のほか、村名ごとに領主の記載があるほか、街道を往来する人々の姿や沿道の風景が細かな筆で描かれています。
三八市周辺図 三八市周辺図《(C)国立公文書館》
このように現在は大分様子も変わってしまっていますが、僅かながら宿の佇まいを感じることができる鳩ヶ谷宿跡なのです。
この先には郷土資料館で知った「小谷三志の旧宅跡」があります。
小谷三志の旧宅跡 小谷三志の旧宅跡 小谷三志の旧宅跡
現在は資料館の駐車場として使用されているようですが、周りのモダンな住宅と比べると隔世の感がありますね。
最後にこの先には、趣のある佇まいの建造物に出会うことができます。
古民家 古民家 古民家
恐らく、この辺りが鳩ヶ谷宿の終わり辺りなのでしょう。

鳩ヶ谷氷川神社

最後に鳩ヶ谷宿の、そして現在でも鳩ヶ谷の総鎮守である氷川神社をお参りします。
案内板での地図ではこのような位置関係になっていますので、先の宮道から参拝します。
宮道
早速、参道を進むと僅かながら朱の鳥居の一部が見えてきました。
宮道 一の鳥居
これが一の鳥居ですが、かつては御成道沿いに一の鳥居があったのではないかとも想像できますが。。。
一の鳥居を抜けて更に参道を進むと、石造りの鳥居が見え始めます。
宮道 二の鳥居
こちらが二の鳥居となり、堂々とした社号標が立っています。
社号標
そして二の鳥居の先の石段の上に三の鳥居があり、ここからが境内となっています。
三の鳥居
三の鳥居を抜けた先には神門があり、その先に社殿が鎮座しています。
神門 神門と拝殿
鳩ヶ谷氷川神社の創立は1394(応永元)年で、室町時代まで遡るのです。祭神は須佐之男命で厄除けの神であるとともに夫婦円満の神でもあり、縁結びの神様としても信仰を集めているようです。
拝殿 本殿
1600(慶長5)年7月には、家康が奥州出陣の途中に境内で休憩したと言う故事があることから、御成道開通前より鎌倉街道の要所だったと言えるのでしょう。
何よりも鳩ヶ谷の総鎮守と言えるのは境内社が多くあることでしょう。
天満宮 境内社 境内社
そのうちの1社に「須賀神社」があり、そこには“須賀神社神輿”が奉納されています。
須賀神社 須賀神社
この神輿は江戸時代後期のもので、当時の鳩ヶ谷宿の有志が宿の本陣の船戸家に承諾を得ずに購入したため怒りを買い宿内に運び込むことができなくなり、一時、里の法性寺に預けられたのですが、1852(嘉永5)年に三田辰五郎と言う人が本陣に詫びを入れ許されたことから、宿内に運び込むことができたという伝承のある神輿なのです。
更に総鎮守たる由縁が市内の16社を兼務していることにあるようです。
このように鳩ヶ谷の氷川神社は総鎮守として、境内にあるご神木やご神水とともに親しまれているようです。
御神木 御神水

帰りがけに神門沿いに古そうな石碑を見つけました。
鳩ヶ谷八景碑
石碑には「鳩ヶ谷八景之其一 氷川神社夜雨・・・」と記載されています。
「鳩ヶ谷八景之其一 氷川神社夜雨・・・」
鳩ヶ谷にも八景があったとは知りませんでした。まさに鳩ヶ谷の歴史を身近に感じるのものです。
こうして今回の川口グリーンセンターと合併した旧鳩ヶ谷市の鳩ヶ谷宿を堪能しましたが、折角知った鳩ヶ谷八景なので、ここはスマホとタブレットの情報力で八景を巡ることにして見ました。

鳩ヶ谷八景

ネットで調べてみると“鳩ヶ谷八景”は1928(昭和3)年に選定されたものだそうで、以来85年が経過していながらいまだに石碑は残されているようです。
地元でも知っている方も少なくなりつつあるようですが、このような粋な風情を楽しむ心持が嬉しいもので、残っているうちに見ておきたいものです。

法性寺の暮雪

玉龍山法性寺は、江戸城を築いた太田道灌により1476(文明8)年に寺領等を寄付され開基し、寺領10石の朱印は1591(天正19)年に受け、鳩ヶ谷では法性寺が唯一のものなのだそうです。
法性寺 法性寺
境内や石段から眺めた雪景色はすばらしかったという意味でしょう。
法性寺の暮雪

地蔵院晩鐘

箱崎山錫杖寺地蔵院と称し、聖武天皇の時代より1,100年の歴史をもつ古刹です。本尊地蔵菩薩は行基(平安期)と伝えられているそうです。
箱崎山錫杖寺地蔵院 箱崎山錫杖寺地蔵院 箱崎山錫杖寺地蔵院
川口市指定天然記念物「タブノキ」 《川口市指定天然記念物「タブノキ」》
文字通り鐘楼の傍らにひっそりと碑がたっています。
地蔵院晩鐘 地蔵院晩鐘

浅間社夕照

鳩ヶ谷浅間神社は1556(弘治2)年に勧請された古社で、祭神は木花咲耶姫です。江戸時代末まで山の上に建つ唯一の神社で3,200坪の広大な境内を持つ社でしたが、明治政府の小社統合令によって明治40年に鳩ヶ谷氷川神社へ合社になり一時は廃社となりました。しかし、昭和53年旧別当寺千手院により再興されて、同院に祀られていた伝来の御本尊が安置され現在に至っているのです。
鳩ヶ谷浅間神社 鳩ヶ谷浅間神社
選定された頃とは変貌した風景でしょうが、夕日の美しさは同じなのかもしれません。
浅間社夕照

五反田落雁

実正寺の開山は不詳ながら、中興第1世の僧は宥賢で、1556(弘治2)年入寂と伝わっていることから、古刹といえる寺院です。
実正寺 実正寺
この辺りは見渡す限りの平坦な水田だったことから、選定当時は白鷺が雁の代わりに舞い降りたと考えられたのかもしれません。
五反田落雁 五反田落雁

松原晴嵐

碑のある鳩ヶ谷変電所前の通りは川口宿と鳩ヶ谷宿の間で、松や杉の並木が続いていたそうですが、1965(昭和40)年の国道122号線の拡張により切り倒されたのです。
鳩ヶ谷変電所前 鳩ヶ谷変電所前 かつての鳩ヶ谷変電所前
その並木の素晴らしさに選定されたものでしょう。
松原晴嵐

芝川帰帆

江戸時代には芝川を利用して人や荷物の運搬が、江戸への往復に利用され賑わっていたようです。船が帆をあげて帰る姿を美しいと感じた当時の人たちが選定したのです。
旧芝川 旧芝川
現在の芝川は新芝川となり、こちらの芝川は旧芝川で遊水路として違った角度で美しい姿を見せているのです。
碑は土手の上の個人宅の庭にあるのです。
芝川帰帆 芝川帰帆

境橋の秋月

境橋は先の旧芝川の上流である新芝川にかかる橋で、かつては土手も無かったことから大雨が降ると決まって浸水したのだそうです。
新芝川 新芝川 境橋の秋月
下流を眺めるとのんびりした風情で、かつてはススキが原に中秋の名月が綺麗に見えたのでしょう。
ここだけは八景碑が既に存在していないようです。

川口グリーンセンターから鳩ヶ谷宿、そして鳩ヶ谷八景と川口市中央部散策を堪能しました。
かつては陸の孤島であったエリアでしたが、鉄道も開通して益々発展して行くことでしょうが、歴史や文化も共存していけると良いですね。

2013.05.15記

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コメント

  1. 国定鋳造 | -

    国定忠治が泊まったとされる旅館は、
    その隣のコインパーキングになっているところです。

    ( 15:40 )

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